【試し読み】君に地獄は似合わない

 こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
 冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。

000

 幽霊や妖怪といった類の存在を信じている人はこの世の中に一体どれぐらい居るだろう。
 少なくとも俺はこれっぽっちも信じていない。
 そもそもこの世には科学で解明できないものは存在していないはずだし……なにより、そんなものが存在するのなら、きっと俺のもとに両親が会いに来てくれるはずだから。

「いってきます」

 静まり返った玄関。
 この家の住人はあと二人、どちらもリビングにいるはずなのだけど、大荷物を持ってこの家を出ていこうとする俺に振り返りもしない。
 一人暮らしをしないといけないほど遠い大学に入学させたのもどうせ体の良い厄介払いをしたかっただけなんだろう。
 まさか厄介払いのためだけに大学費用を一括でぽんと出してくれるなんて思わなかったけど……まあ、こちらとしても世間話すら行き交うことのないあの冷たい家を飛び出せるのなら願ったり叶ったりだ。

「んーっ」

 家の敷地を出た瞬間、ずっと喉のあたりで詰まっていた息が楽になった。
 大きく伸びをして門出にもってこいの真っ青な空を見上げる。
 やっと大人の手を借りなくても生きていける年齢になれた。
 これから俺は大人の仲間入り……とまではいかなくても、自分で自分に責任を持つことができるのだ。

「やべ、早く行こ」

 がらがらと、大きなキャリーケースを引きながら駅までの道のりを急ぐ。
 ちなみに言っておくと俺を見送りもしてくれなかったあの二人は両親ではない。
 殆ど接したこともなかった遠い親戚だ。
 実の両親は……放火によって家が全焼し、それに巻き込まれて亡くなった。
 俺のせいで。
 男としてこの世に生を受けておきながら小さな体、細い手足、大きな目、小さな顔……まあ端的に言ってしまえば、俺は可愛い。
 自分で言うのもなんだけど。
 可愛い系男子みたいな感じじゃなくって、本当に女の子に間違われることが多いぐらい。
 そんな見た目だったもんだから俺は小学生の頃、厄介な変態に目をつけられ……家に火を放たれた。
 両親は逃げ遅れて寝室で焼死。
 夜中、トイレに起きていた俺だけが助かった。
 当時小学生だった俺に両親を助けることなんてできるはずもなく、ただ燃え落ちていく家を見ていることしかできなかったのを覚えている。
 だから俺は……幽霊なんてものを信じていないのだ。
 だってきっとこの世に幽霊なんてものが存在したのなら、両親が枕元に現れてこう言うだろうから。
 ”お前のせいだ”と。
 幼い頃は他人のような人たちの家を転々としながら両親が枕元に現れ恨み言を聞かされるのに怯えたりしていたものだけど、晴れてこの春から大学生になった現在までそんなことは一度も起こっていない。
 少なくとも今後、死んだ両親が会いに来たりしない限りは幽霊や妖怪といった類のものを信じることはないだろう。
 今一度、自信を持って宣言できる。
 この世に幽霊なんてものは存在しない。
 ……はずだ。



001

芦屋あしやさんは幽霊って信じてます?」

 二人分のキーボードを叩く音だけが響く室内でなんとなく零したその問いに返事は返ってこなかった。
 問いかけた相手の性格上、何かしらのアクションが返ってくるだろうという予想を裏切られた俺は顔を上げる。
 一方、問いかけられた彼はと言うと丸眼鏡の奥にある瞳をレンズよりもまん丸くしてこちらを凝視していた。
 まさか適当に零した疑問にそんな顔をされるとは思っていなかった俺は彼の瞳を見つめ返す。

「……突然どうしました?」
「あ、いや。今日、大学で肝試し行くだの騒いでるやつらがいたのを思い出して。そんで気になったんですよ」

 特に深い意味があったわけでも、深く考えたわけでもない。
 ただ何となく、彼は果たしてそんな非科学的なものを信じているのかと気になっただけだ。

「きみは信じているんですか?」

 答えではなく質問が返ってきたことに一瞬ぽかんとしてしまったけれど俺は直ぐに、まさか、と首を振った。

「いるわけないでしょ、そんなん」

 自分から聞いておきながらあんまりな答えだとは思ったけれど、信じてないもんは信じてないので仕方ない。

「芦屋さんは信じてるんですか?」

 もう一度同じ問いをしてみる。
 ここまできたら彼の答えを聞くまで終われない。
 普段の言動を見るにきっと現実主義者なのだろうと勝手に踏んでいたが、意外にも少しだけ考え込む様子を見せた彼に釣られ仕事の手が止まる。
 どこかワクワクとした気持ちで返答を待っていると、数秒の沈黙の後、少しだけ微笑んだ。

「んー……どうでしょう。信じる人がいるのなら、存在するんじゃないですかねえ」

 当たり障りのない返事につい拍子抜けしてしまう。
 だけどそれ以上なにか言ってくれる様子はなさそうだったので、俺は諦めて支給されているノートパソコンに向き直った。

「そういえば、きみと一緒に仕事をするようになってそろそろ半年経ちますね」
「ああ、そういやそうっすね」

 その言葉に半年前、彼と出会ったときのことを思い出す。
 大学に通い始めてから少し経った頃、信号無視のトラックに轢かれそうになっていたところを助けられたのが始まりだったっけ。

「まさかそのままバイトにスカウトされるなんて思ってなかったですけど。てか今まで一人で回してたのに何で急にバイト雇う気になったんですか? それも社会人経験のない大学生を」

 そう尋ねると彼はにこりと笑う。

「うーん、なんでと聞かれると直感としか言えませんねぇ。まあでも実際、半年経った今ではすっかり事務処理も板についてきていますし、その直感は当たっていたんですから結果オーライということで」
「まあ、俺としても普通のバイトするより全然時給いいんで助かってますけど」

 両親は居ない上に親戚連中とは縁切り済みな俺がバイトを掛け持ちすることなく普通に生活できているのは、彼が大学生が受け取るには多すぎるぐらいの給料を出してくれているからだ。
 つくづく彼と出会えてよかったと思う。

「ああ、そうだ。ともりくん」
「はい?」
「明日の予定ですけれど午後に変更になりました。折角ですし、一緒にお昼でもどうですか?」
「マジっすか?! 俺寿司がいいです!」
「にゃはは。素直で結構。じゃあそういうことで」

 いえーいお寿司お寿司~♪
 一人暮らしの大学生の身では寿司なんて食べ物は滅多に食べられない高級品だ。
 そんなご褒美が待っているだなんて俄然仕事のモチベーションが上がるというもの。
 俺は脳裏で回転寿司のレーンを想像しながら、キーボードを叩く。

「あ、芦屋さん。こっちの資料に写真入ってなかったんですけどそっちにあります?」
「ありますよ。どうぞ」
「あざっす」

 芦屋さんも褒めてくれたし俺ももう一人前だなんてちょっとだけいい気になったのだけれど、手渡された写真を何の気なしに見て調子に乗ったことを後悔した。
 これに関してはまだまだ慣れることができそうにない。
 今、俺の手元にあるのは所謂”不貞の証拠”。
 それも思いっきり情事中の。

「嫌そうな顔ですねえ、灯くん」
「そりゃそうっすよ……何が楽しくてこんな写真眺めなきゃいけないんですか」

 写っているのは数ヶ月前、うちに相談に来てくれたとある女性の旦那。
 残念ながらその旦那に組み敷かれているのは奥さんではない。

「ふふふ。依頼主様がとっても良い方だったのもあって尚更心が痛みますねえ。私、涙がちょちょぎれてしまいそうです」
「……これっぽっちもちょちょぎれそうには見えませんけど」

 よよよ、とわざとらしく泣いたふりをする彼に小さく溜息を零し、俺はノートパソコンの前に座り直した。

「っていうか、実際にいるんすね。何股もかけるような人って。ドラマとかマンガの中だけかと思ってましたよ」
「にゃはは。既婚者相手に五股するようなアホと戦うのは初めてですけど。こりゃ腕がなりますねぇ。カラッカラに乾くまで搾り取ってやるつもりなので書類は不備なくお願いしますよ。……といっても灯きゅんは優秀なので心配ないでしょうが」
「誰が灯きゅんですか。変な呼び方しないでください」
「あらら。つれませんねえ」

 なんとなく察しが付いてるかれもしれないけれど、この場所は弁護士事務所。
 先程からにこにこと楽しそうに笑っている丸眼鏡をかけた彼がここの主人である、芦屋あしや時雨しぐれさんだ。
 そして俺はここで事務作業のバイトをしている大学生、月白灯。
 バイトに大学にと大忙しの、まあ至って普通の大学生。

「ところで灯くん、大学の課題は大丈夫なんですか?」
「まだ期限に余裕あるんで大丈夫です」
「無理はいけませんよ。学生の本分は勉強ですからね」
「気をつけます」

 やっと書類作成をしながら芦屋さんと雑談できるくらいの余裕が出てきたのはつい最近のこと。
 実はこっそり将来は弁護士になろうかなあなんて思ってたりする。

「そういえば来週使う資料作って保存してあるんで、確認しといてください」
「お、さすが灯きゅん。仕事が速いですねえ。えらいえらい」
「その呼び方ハマったんすか?」

 実際に弁護士事務所で働くまで、弁護士と言ったら某なんちゃら裁判のような格好いい姿を思い描いていた。
 殺人事件やら凶悪犯やらを相手取り、弱気を助け悪を挫くヒーローのような存在だと。
 だが実際のところ舞い込んでくる案件は離婚調停だったり慰謝料請求だったりご近所トラブルだったり……言ってしまっては悪いが地味なものが殆どを占めている。
 ああ、これが現実ってやつか、なんて最初は思ったものだ。

「芦屋さんすいません、ここってどう書くのが良いですかね」
「うーん……今回のケースだとそうですねえ」

 そんな中でも一番多い案件は婚姻関係のトラブル。
 妻もしくは夫が不倫した、とか、婚約者に婚約破棄された、とか、配偶者からハラスメントを受けている、とか。
 ちなみに先程の写真は、奥さんがうっかり旦那の部屋で見つけてしまったものらしい。
 ……きっととても衝撃だっただろう。

「灯くん、コーヒー飲みますか?」
「え、俺が淹れますよ」
「こっち一区切りついたので。ミルクでしたよね?」
「……変なもの淹れないでくださいね?」
「にゃはは。保証はできかねます」
「マジかあ」

 まあこんな感じで不倫の証拠を思いっきり残してる人たちって探偵を使うまでもなくまんまと不倫がバレて、恥ずかしい証拠を暴露されがちなんだけどね。
 特に芦屋さんみたいな性格の悪い弁護士を敵に回すと、家族全員が見ている話し合いの場で写真をわざわざ拡大してプロジェクターに映されたり、大量に印刷した証拠写真を転んだふりして法定にばら撒かれたりされるのだ。

「灯くんがもし不倫の被害者になってしまったら呼んでくださいね☆ 社割として特別に依頼料三十パーセントオフにしときますから」

 バイトを始めてから数ヶ月ぐらいの頃にこう言われたけど、絶対にこの人の世話にだけはなるまいと固く心に誓ったきり、その誓いは今のところ破られていない。
 奥さんどころか彼女もいないから破りようもないんだけど。
 まあそんな感じで、バイト先は少し特殊だが良い経験を積みつつ、毎日これといった大きなトラブルもなく日々を平凡に過ごしていたのだけれど……。
 そんな平凡が崩されたのは、それから数日後のことだった。


◆ ◇ ◆ ◇


「本日の講義はここまで。課題は再来週までに提出するように」

 教授が雑に黒板を消して講義室を去っていく。
 その様子を横目に見ながら俺はさっさと私物を鞄にしまい込み、席を立った。
 まだ昼前だが、今日はもう受けなければいけない講義もないのでさっさとバイトに行くことにした俺は足早に正門へと向かう。
 すれ違う学生から向けられる、奇異なものを見るような視線にはもう慣れた。
 それが果たして俺の性別がわからなくて向けられるものなのか、指先まで隠れるオーバーサイズのトレーナーを常に着ていることに向けられているのかはわからないけれど。
 学内は広いうえに学部が大量にあるので、半年真面目に通い続けていても全く顔を見たことがない学生も当たり前に居る。
 で、そういうやつとすれ違ったときって大体……。

「ねえ、君どこの学部? ちょっとこの後ご飯とかどう?」

 まあ。
 うん。
 こうやって結構な確率でナンパされるんすよ。
 いや自慢じゃないんだ、マジで困ってんの本当に。

「……他当たれよ」

 俺の行く手を遮った初対面の男の脇を通り抜けてさっさと玄関へ向かう。
 いや、向かおうとしたんだけど。

「まあまあそう言わずに。行こうよ、ね?」

 腕を掴まれてそれは叶わなかった。
 そいつは何やら穏やかそうに微笑んではいるけれど、その目には明らかに自分本意な欲が見え隠れしている。
 コイツ、絶対初日でヤれると思ってるタイプの男だ。
 ……完全に憶測だけど。
 とにかくご期待には添えない旨をハッキリと伝えないと面倒なことになると思い、見上げるくらい高い位置にある男の顔を睨みつける。
 クッソ、こいつ背ェ高えな!
 腹立つわ!

「あのさあ。期待を裏切るようで悪いんだけど、俺、男なんだわ。お前とおんなじモノ付いてんの。残念でした。じゃ、そういうことで」

 やっぱりこいつも俺のことを女だと勘違いしていたんだろう、できる限り低めの声でそう告げると驚いたのか俺の腕を掴んでいた力が少しだけ緩んだ。
 その隙に振り払ってさっさと逃げる。
 
「次はちゃんと女の子をナンパしろよ、このミーハー野郎!」

 逃げながらそう叫ぶと、幾分気持ちがスカッとした。
 後ろからなんか言ってるのが聞こえたけど気にしない気にしない。
 この世には逃げるが勝ちって言葉があるんだよ、ばーか。
 生まれながらの小さな体をどうにか大きくしたくて小中高と色んな部活に勤しんだのが功を奏したのか、追いかけようとしていた男を振り切ることに成功した俺はさっさと大学敷地内を後にした。
 運動神経はそこそこあって助かった。
 まあ運動部入っても痩せるだけで全く筋肉はつかなかったけれど……。
 すばしっこくなっただけ……。
 ラグビー部に体験入部してみたら三メートルくらい吹っ飛ばされて初日で心と骨が折れたのはいい思い出。
 身体が大きいのはある種の才能なんだとそのときに痛感したものだ。

「はあ、マッチョになりてえ……」

 ……うん、男の魅力は体の大きさだけじゃないよな!
 俺、ファイト!
 と強引に気持ちを切り替え改めてバイトに向かおうとすると、平日昼間の少しざわついた街の中をゆっくりと歩く見慣れた背中を見つけた。

「あ、芦屋さーん!」

 ラッキー。
 俺ってツイてる。
 このまま芦屋さんと合流して事務所に行くついでに昼飯おごってもらおー、なんて下心満載で彼の名を呼んで大きく手を振ったのだけど、どうやら声は届かなかったようで彼の背中はそのまま曲がり角の向こうに消えていってしまった。
 慌てて追いかけ、角の向こう側を覗き込んだけれど彼が足を止めてくれる様子はなさそうだ。
 というか……そっち、事務所と逆方向、だよな?
 もしかして仕事の予定でも入ったんだろうか。
 スケジュール表には何も書いてなかったような気がするけれど。
 色々考えながらも、どちらにせよ彼が居ないと事務所に入れないので迷った末に芦屋さんの背中を追いかける。
 キビキビと歩くその背中との距離はなかなか縮まらず、自分の小さな身体が憎らしい。

「ちょ、ちょっと……待ってくださいよ、芦屋さ…………ん……?」

 ぜえはあと息をしながら何度目かわからない角を曲がって目の前に開けた景色に思わず足を止めた。
 そこはなんてことのない普通の住宅街だったのだけど、異様なほどしんと静まり返ったその空間に、どこか違和感がある。
 平日だから住宅街が静かなのはそこまで不思議ではないのだけれど、それにしたって、例えば専業主婦の方だとか幼い子供の一人や二人くらいはいてもいいだろう。
 けれど、目の前に立ち並ぶ家々からは生活音すら聞こえなくて……まるでただそこにあるだけのように見えてしまう。
 そんな人の気配がしない空間をたった一人進んでいく芦屋さんの背中が先程までよりずっと遠く感じた。

「……っ」

 思わず怖くなって後ろを振り返ったが、後方には前方と同じような住宅街がずっと広がっているだけ。
 周囲をよく観察せずただ芦屋さんの背中を追いかけることに必死になっていた俺には自分ひとりで来た道を戻ることもできそうになかった。
 ここで芦屋さんを見失ってしまったら二度と家に帰れないような気がする。
 なんとなく直感的にそう感じた俺は不安に背を押されるようにして慌てて前方に視線を戻し、再び彼の追跡を再開した。
 それから十分もしないうちに住宅街は終わり、代わりに木々が立ち並ぶ少し田舎っぽい道が姿を表す。
 そんな道をまた少しだけ歩いた後、芦屋さんの姿は唐突に脇道に入り木々の間に消えていった。
 え……あれ、道なの?
 ほんとに?
 あの人どこ行こうとしてんの……?
 ただでさえ見慣れない風景なのに更に木をかき分けて歩くなんて不安で仕方なかったが、彼とはぐれるのはもっと不安だったので恐る恐る木々の間に体を滑り込ませた。
 その瞬間、目の前に現れたのは、永遠に続いているんじゃないかと思うほど長い、苔の生えた階段。
 ひっそりと隠れるようにして存在しているそれは少し湿っぽくて、じわりと嫌な汗が首筋を伝う。
 正直逃げ出したいけれど尻込みしている俺を置いて芦屋さんはすたすたと軽やかな足取りで薄暗い階段を登っていった。
 こんなところに置いていかれるのは嫌だと思った俺は急いで彼の後に続く。
 …………が。

「はあっ、はっ、はあ……っ、あー……キッツぅ……」

 [[rb:太腿 > ふともも]]が震える。
 [[rb:脹脛 > ふくらはぎ]]もぴくぴくする。
 走って逃げるくらいならともかく、階段ダッシュなんて部活に入っていた頃以来で身体が言うことを聞かない。
 少しぼやつく視界でなんとか階段を登り続けていくと、一番上の段で芦屋さんが立ち止まっているのが見えた。
 一体どうしたんだろう、そう思っていると芦屋さんがこちらにくるりと振り向く。

「……やれやれ。いけない子ですね、灯くん」

 彼が着ているベージュのトレンチコートが風に煽られてぶわりと舞い上がった。
 眼鏡が反射して彼の目元は見えないけれど、口元にはいつもの薄い笑みを湛えている。

「途中で諦めてくれるかなと思ったんですけど、まさかここまで着いてくるとは。こうなるなら早めに追い返しておくべきでした」

 ……?
 芦屋さん、なんか怒ってる?

「だめですよ、人のことを付け回しちゃ」
「あ、えっと……すみません……。何回か声かけたんですけど」
「まあ私も悪かったです。こうなってしまった以上離れるのは危険なので、ちゃんと着いてきてくださいね」
「? はい」

 なにが危険なんだろ。
 よくわからないけれどとりあえず合流できてよかった。
 再び階段を登りだした彼に息も絶え絶えになりながら続く。

「芦屋さん、これどこに向かってるんスか?」
「……すぐにわかりますよ」

 そうしてようやっと登りきった先にあったのは、昼間なのにどこかひんやりとして薄暗い、少し風が吹いたら根本から崩れてしまいそうなほど廃れた神社と、赤黒く変色した鳥居。
 和風ホラー映画の舞台とかになっていそう。
 端的に言うと、不気味な場所だ。

「ここは?」

 そう尋ねると芦屋さんはふいと周囲を見渡し安堵したように小さく息を吐く。

「見た通り、神社ですよ。ちょっとしたお参りに来たんです」
「お参りって……見た感じ廃神社ですよね、ここ」

 わざわざこんな廃れた神社に来なくてもお参りなら他の場所もあると思うけれど。

「灯くん。先日きみがした質問、覚えていますか?」

 突然話題を変えられて思わずぽかんとしてしまう。
 質問?
 俺、なんか聞いたっけ。

「覚えていないのなら、大丈夫です。私の目的は達成しましたし帰りましょうか」

 なんだそれ。
 そんな風に言われると気になるじゃんか。
 それ以降押し黙ってしまった芦屋さんに少し不満を[[rb:懐 > いだ]]きつつ、折角来たのだから自分も挨拶ぐらいしようと思い彼より少し遅れて鳥居を潜った。
 その瞬間、強く風が吹いて目の前を木の葉が舞う。
 突然のことに驚き、思わず目を瞑って、そして。

「…………え?」

 視界が真っ暗になった。
 ……いや、違う。
 赤黒い何かが、目の前にいる。
 今まである程度は平和な人生を過ごしてきた俺にもわかる。
 今目の前にいる”それ”が、どれだけ危険で、人間が関わってはいけないものなのか。
 ああ。
 少し前に芦屋さんにした質問、思い出した。

 ”芦屋さんは幽霊って信じてます?”

 俺は全く以て信じていない。
 ……いや、信じていなかった。
 今、この瞬間までは。
 上方から刺さるような視線を感じるけれど、その視線を辿る勇気が出ない。
 ただただ、自分を見下ろしているその存在を否定するように自分の靴の紐を見つめることしかできそうになかった。

「灯くん、逃げなさい!」

 境内いっぱいに響いた声に弾かれるようにして顔を上げる。
 瞬間、目の前に居た”それ”の姿がくっきりと見えた。
 辛うじて人っぽい形はしているけれど、その体は人にしてはあまりにも大きい。
 憧れるほど逞しい体にくっついている頭はまるで牛のようで、灰色の立派な角が木々の隙間から落ちてくる細い光に照らされて光っていた。
 顔には鮮やかな和柄の布がかけられていて、感情やら表情やらそういったものは一切感じられない。

「あ、」

 喉が掠れて悲鳴すらあげることもできないまま俺は立ちすくむ。
 逃げなければいけないというのはわかっているのに膝が震えて動かない。
 ただただ脳内だけが危険信号を発して、意識だけが混乱していく。
 どうしよう。
 逃げなきゃ。
 どうしようどうしようどうしよう。

「灯くん!」

 芦屋さんの声が響くのと、その声に背中を押されるようにして走り出すのと、その赤黒い何かがゆっくりと手を伸ばすのとは殆ど同時だった。
 背中を向ける時間すら惜しいくらいなのに、何かわからないものと対峙してしまった恐怖で足がもつれて思うように進めない。
 あーもう!
 もうちょっと頑張れよ俺の足!
 階段めっちゃ登ってきて疲れてんのはわかるけどさあ!
 もどかしさを感じながら必死に両足を動かしていたら案の定、自分の足にもう片方の足を引っ掛けてしまい、派手に身体が傾いた。
 ぐらりと揺れる視界。
 ゆっくりと反転していく世界を何も出来ず眺めていると、さきほど登ってきたばかりの苔だらけの階段が目の前にどんどん迫ってくる。
 あー……死んだなあ、これ。
 そうぼんやりと思いながら迫りくる景色を見つめていたのだけれど、身体に走ったのは覚悟した痛みではなく二の腕を力強く掴まれた感覚だった。
 自分の腕をつかんだのが誰か……いや、”なにか”なんて簡単に想像がついて、背筋がひんやりと冷たくなる。
 そう、ちょうど半年前のあのときのように。



002

 目の前すれすれを巨大な貨物を積んだトラックが通り過ぎていく。
 青色に点滅する歩行者用信号をぼうっと眺めていた俺の意識を現実に引き戻してくれたのは、どこか胡散臭く、でも頼りがいのある優しげな声だった。

「大丈夫ですか?」

 恐る恐る振り向くと、スーツを少しラフに着こなした男性と目が合う。
 丸眼鏡の奥で細められている柔い目元にどこか安心して、それと同時にたった今、自分が死にかけたという事実が喉の奥に滑り落ちていって、どっと汗が吹き出した。
 大学の帰り、さっさと帰ろうと思った俺は横断歩道に飛び出して……信号が点滅して、クラクションの音が聞こえて、突然目の前が真っ白になって。
 そしたら腕を引かれたような感覚がして、視界がぐんって後ろに戻った。

「おーい。生きてますかー?」

 目の前で手をひらひらと振る男性。
 彼の持っているスマホの画面越しにきょとんとした顔をしている自分と目が合う。

「生きて、ます」
「にゃはは。それはよかった」
「えっと、ありがとうございます……」
「いーえ。お気になさらず」

 相変わらず地べたに座り込んだままの俺に目線を合わせてしゃがみこんだ彼は、薄く笑みを浮かべながらスマホの画面をこちらに向けた。
 そこに映っていたのは横断歩道を渡っている俺の後ろ姿と、それに迫ってくる大きめのトラック。
 写真を見る限りは少し遠目から撮影されているようだった。
 この人、よくこの距離から俺のこと助けられたな……。

「さっきのはどう見たって信号無視ですねえ。歩行者が居るのにブレーキを踏む様子もなし……随分と悪質な行動に私、びっくりしてしまいました。でも大丈夫。見てください、証拠もナンバーもばっちり映ってます」
「……え、えっと」
「どうです? あのトラックの運転手、訴えませんか? なあに、悪いようにはしませんよ」

 …………あれ、もしかしてこの人、やばい人?
 にんまりと笑みを深くした彼は立ち上がり、こちらにそっと手を差し出す。
 その手を取りかけて……ちょっと思い直して彼の手は借りず立ち上がった。
 うわあ、ジーパンが砂利まみれ。

「ああ、そういえば自己紹介がまだでしたね。私、こういう者です」

 差し出された名刺を受け取って、紙面を見る。
 シンプルなデザインの紙面には彼の名前と職業だけが印刷されていた。
 ……えーっと、これ、名前なんて読むんだろ。

「私は芦屋時雨。弁護士をやってます。よければ、きみのお名前を聞いても?」
「えっ、あ、……月白灯、です」
「ふむ。では、灯くん。私はああいった[[rb:手合 > てあ]]いを見ると慰謝料を請求して借金まみれにしてこの先の人生すべてを奪ってやらないと気がすまない性分なんですよ。なにゆえ正義の味方なものでねえ。にゃっはは」

 正義の味方の台詞とは到底思えなかったけれど、舌の上まで出かけたツッコミは飲み込んだ。
 いきなり下の名前をくん付けで呼ばれたことに関してもまあこの際気にしないことにする。

「それに灯くんは怪我まで負わされているわけですしね」
「え?」
「右手、切れてますよ」

 彼の言葉に右手を持ち上げると、手の側面に一直線に伸びた傷口から血が零れ落ちてコンクリートの上で弾けた。
 よく見たらトレーナーの袖口も真っ赤に染まっている。
 うわあ、と思った瞬間に、ぴりりと指すような痛みが背中から頭の後ろまで駆け上がってきて思わず顔を[[rb:顰 > しか]]めた。
 こういうのって自覚した瞬間から痛くなるんだよな。

「とりあえずは病院に行きましょう。病院での診断書も武器になりますから。親御さんは近くに居ますか?」
「……親、と呼べるような人たちは……呼んでも、来ないと思います」

 ゆっくりと首を振ると彼は、そうですか、とだけ零し、なぜか俺の頭を撫でた。

「じゃあ私が保護者代わりということで。ご両親へ連絡したいのですけれど」
「いいです。あとで俺が言っとくんで」

 そう突き放しつつ血まみれの右手を袖の中に戻そうとすると、彼はぎょっとしたような顔をして俺の右手首を握る。

「ダメですよ、そんなことしたら。服が汚れますし、傷口に雑菌が入ってしまいます」
「……離してもらえます? 大丈夫なんで」
「大丈夫なわけ無いでしょう。とりあえず急いで病院に……」

 彼の目線が俺の右手に向かい、そして、固まる。
 またこの反応だ。
 嫌になる。
 俺が指先まですっぽり隠れる服を着るのは、右の手のひらを見られないため。
 小学生の頃、家が火事になったときに負った酷い火傷の痕。
 ぐちゃぐちゃで化け物みたいなその右手を見たやつは大体、気持ち悪いものを見るような顔をしたり、異常に俺を可哀想なやつ扱いしてきたり、まあ[[rb:碌 > ろく]]な反応が返ってこない。
 できるだけ触れないでいてくれたらいいのに、無駄に干渉して来ようとするんだ、どいつもこいつも。
 ……この人も、そうなのかな。

「はい、これでどうですか?」
「……え?」

 俺の手を優しく握った彼は回想に耽っていた俺の顔を笑顔で覗き込んできた。
 なにが、と言いかけたとき、自分の視界に白い布が巻かれた右手が映り込む。

「たまたま包帯を持っていてよかったです。とりあえずこれで応急処置ってことで」

 たまたま包帯を持ち歩いてる人なんているか……?
 今回負った怪我を処置するだけなら手のひらに巻くだけで事足りるはずなのに、包帯は指先までしっかりと巻かれ火傷の痕をしっかりと覆い隠していた。

「これなら袖の中に手を隠す必要はありませんよね」
「え……ああ……そう、ですね」
「さて。じゃあ早いとこ病院行きましょうか。応急処置といっても素人が包帯巻いただけなのでね」

 そう言って、彼は俺の右手を優しく握ったまま歩き出す。
 なんだか恥ずかしかったけれど、なんとなくその手を振り払うことが出来ないまま俺は彼と病院に向かい、診察と治療をしてもらった。

「あの、ありがとうございました」

 素人ではなくプロに包帯を巻いてもらった右手を袖の奥に隠しながら、彼にそっと頭を下げる。
 すると彼はにんまりと嬉しそうに笑いながら……財布を取り出した。

「え、ちょ、あの?! もしかして治療費払おうとしてます?! 自分で払うんで大丈夫ですから!」

 慌てて自分も財布を取り出したが間に合わず払うだけ払った彼はさっさと出口に向かっていく。

「ほら灯くん、行きますよー」
「待ってくださいって! 治療費、お返しします!」
「いりませんよ。建て替えた分の治療費はあのトラックの運転手に請求するのでご安心を」

 領収書を手ににんまりと笑った彼は、こちらに向き直った。

「さて、改めてですが、灯くん。私は弁護士で、きみは事故に遭った被害者だ。……こうして会えたのも何かの縁だと思いません?」

 ざわりと風が吹いて、木の葉が舞う。

「成功報酬で三割。着手金は学生さんってことでサービスしときましょう。悪い条件ではないと思いますが?」
「ええっと……」
「私の見立てでは数百万は取れるでしょうねえ」
「すうひゃっ……?!」
「さあ、どうします?」

 正直、あんまりこの人を信用したわけじゃないけれど、今まで出逢ってきた人の中では一番好感が持てる。
 彼の話のとおりなら、俺はノーリスクハイリターンのギャンブルに参加できるってことだ。
 後から費用請求される可能性がゼロではないけれど。
 そっと横目で彼の顔を見る。
 ………………笑顔だ。
 うーん、読めない。
 右手を見つめて……改めて彼に向き直る。

「……お願い、します」
「にゃはは。そう来なくっちゃ」

 嬉しそうに微笑む彼の笑顔は、とても頼もしく見えた。


◆ ◇ ◆ ◇


 今のは走馬灯ってやつなんだろうか。
 たった半年前の出来事の走馬灯ってだいぶ近々すぎる気がするけど。
 なんてぼんやり思っていると、目の前にあった階段の角はぐんと離れていって、身体が後ろに引っ張られた。
 幸いなことに階段を転げ落ちることは避けられたようだけれど、その代わりに俺の頭くらいなら簡単に握りつぶせてしまいそうなくらい大きな手に引かれて後ろにつんのめる。
 勢いそのまま振り向かされたと思ったら視界はまた数秒前と同じように赤黒く染まった。
 改めて逃げようにも俺の胴体と同じくらい太い腕がしっかりと背中に回っていてびくともしない。
 さきほど目の前にいた謎の巨体に拘束されているという事実は考えるまでもなく明らかだった。
 なんで俺、ムッキムキの巨体に抱きしめられてんの?
 うわあ、胸板えぐい。
 このまま押しつぶされんのかな、俺。
 痛そうだなあ。
 死にたくないな。
 この状況だと押し潰されるとはちょっと違うのかな……抱き潰される?
 …………考えんのやめよ。
 なんてぐだぐだ考えながら数秒後に来るだろうと予想した痛みにぎゅうと目を瞑って構えたけれど、待てど暮らせど一向になにもない。
 それどころか、大きな手はまるで宝物でも扱うかのように優しく、恐る恐るといった様子で俺の背中を行ったり来たりしていた。

「はっ、え……?」

 目を開けると、目の前にやっぱりあの巨体と牛の形をした頭。
 うん。
 やっぱ絶体絶命だよな、状況的には。
 抜け出そうと[[rb:藻掻 > もが]]くけれど巨体の腕はびくともしなくて、相変わらず背中に回っている手はこちらの都合なんてお構いなしに、感触を確かめるように腰から背中、肩までを伝う。
 えっと……これ、なにされてんの?
 全力で暴れてみたけど、やっぱりびくともしない。
 あ、これもしかして、どこから食べるか迷ってる?!
 どうせ食うなら一思いに頭からお願いしたいんだけど!

「その子から離れなさい」

 パニックになりかけた脳に、芦屋さんの唸るような低い声が響く。
 続いて、かちり、と金属が擦れるような音。
 相変わらず目の前には赤黒い何かがいるので何も見えないけれど、声色でとりあえず芦屋さんがとんでもなく怒ってるっていうのはわかった。
 ちょっと前、慰謝料の支払いを渋った人がこのくらいドスの効いた声で恐喝ギリギリのラインを攻められていたっけ……。

「離れなさいと言っているのがわかりませんか?」

 芦屋さんが凄んだ瞬間、背中に回っていた手の力は少しだけ緩んで、でもしっかりと俺の腰を掴んだまま、視界を遮っていた巨体はゆっくりと体を捻る。
 やっと開けた視界に映ったのは黒光りする銃口を巨体に向けた芦屋さんの姿。
 ……待って、なんかめっちゃ物騒なもん持ってる。
 え、あれ銃? 本物? マジで? なんで?
 加害者の脅し方とか相手を訴えるまでの手際とかよくわからない人脈とか、確かにヤで始まってクを経由してザで終わる職業の人っぽいなあってたまに思ってはいたけど、もしや本職の人なの?
 さっき聞こえた金属の音って、もしかして撃鉄を下ろす音、ってやつ?
 芦屋さんの顔が見えたことで少し余裕が出たのか、ぐるぐるとどうでもいいことを考えていると、視界に大きな手が滑り込んできて一瞬光が遮られる。
 それは本当に一瞬のことだったのだけれど、次に光が戻ってきた時、俺は絶望した。

「……え」

 そりゃそうだろう。
 ついさっきまで目の前に居た芦屋さんの姿が消えていたんだから。
 え、ちょっと待って。
 何が起こった?
 展開が早すぎてついていけない。
 しかし混乱している俺を他所に、巨体は俺の腕を掴んでどこかへと歩き出す。

「えっ、え……? ちょ、え?!」

 まるで私有地を歩くようにまっすぐ進んでいく巨体。
 殆ど引きずられるようにして、そのまま神社の境内の奥へと連れ込まれてしまった。
 靴を脱ぐ暇すらなく土足のまま本殿に入ってしまったことに罪悪感が頭を擡げる。
 こんな綺麗な本殿を土足で歩くなんて、罰当たりも良いところだろう。
 本殿の中は檜のいい匂いがして、室内の装飾はまるで建てられて直ぐかのように煌びやかで…………って、あれ……?
 思わず振り向いて本殿の外を見た。
 鳥居は朱い輝きを放ち、手洗い場の水も飲めそうなくらい澄んでいる。
 瞬間、首の後ろを冷や汗が伝った。
 さきほどまで目にしていた神社とは明らかに様子が違う。
 俺がこの場所に足を踏み入れた瞬間に見た神社は、少しでも風が吹こうものならギシギシと鳴いて、少しでも地面が揺れようものなら跡形も無く崩れ落ちてしまいそうだったのに。
 この状況……芦屋さんがいなくなったんじゃなくて、俺がどこか別の場所につれてこられたんじゃないだろうか。
 まさか俺、さっきの一瞬で絶命した?

「ん……?」

 肩を控えめにつつかれて思わず振り向くと巨体の顔が目の前にあって思わず飛び上がる。
 ヒィ、と情けない声と一緒に肩が激しく跳ねて、恐怖で膝から崩れ落ちそうになったが背後にあった柱を支えにしてなんとか耐えた。
 いやまあ殆ど崩れ落ちたようなもんだけど。
 膝とか、ほら見て、ガックガク。
 生まれたての子鹿に笑われそうなぐらい震えてるよ。
 巨体と一対一になってしまった今、一体なにをされるんだろうと身構えたが、巨体はこちらをじっと見るばかりで動こうとしない。
 まだどこから食べるか迷ってるのかな……。

「あの、お、俺に何か用ですか」

 どうせなら足掻いてみるかと意思の疎通を図ってみるけれど残念ながら無反応。
 これが玉砕ってやつかあ。
 いまさら流暢に日本語話されても怖いけど。
 っていうかこの巨体、喋れるんだろうか。
 微動だにすることなくこちらを真っ直ぐ見つめてくる巨体。
 それにしても顔にかかっている布、装飾が綺麗だなあ。
 窓から差し込む日差しを反射してキラキラしてる。
 触り心地も良さそうだ。
 このまま死ぬならなんかもうどうでもいいやと思い、手を伸ばし触れようとして……止まった。
 相変わらず巨体は俺のことを“まっすぐ見つめてくる”。
 少し前までは遠くにある顔を見上げていたはずなのに。
 違和感に気付いて視線を下にずらすと、どうやらこの巨体、俺の目線に合わせてしゃがんでくれているようだった。
 まるで忠誠を誓う騎士か、或いはちょっとキザなプロポーズのような姿勢。
 一度伸ばした手を引っ込めることも出来ず宙に浮かせたままにしていると、自分のそれより二周り以上も大きな手が恐る恐る絡みついてくる。
 感触を確かめるように指先から手首までをなぞられてくすぐったい。

「え、あの」

 この巨体が何なのかは結局わからない。
 わからないけれど……でも、本当に何となくだけど、こうやって優しく手を握られてしまうとこいつは悪いやつではないんじゃないかと思ってしまう。
 今までの感じだと危害を加えようとしているわけではなさそうだし、もう一度意思の疎通を試して見る価値もあるかもしれない。

「あー……ええと、ここはどこです、」

 か、という声が跳ねた。
 また巨体に腕を引かれてされるがまま奥へ奥へと連れて行かれる。
 前言撤回!
 やっぱ食われるわこれ!
 丸焼き? 刺し身……いや、踊り食いが一番可能性高いか……。
 どうせ食べるなら残さず食べてほしいと祈っている間に、いくつもの襖を開けてやっと辿り着いたその部屋は殺風景な書斎のような部屋だった。
 だだっ広い空間に隙間だらけの本棚がぽつんと置いてあって、部屋の隅っこにこれまたぽつんと和風っぽい低めの机が置いてある。
 ここまで抜けてきた部屋も何もなく殺風景だったけれど、少しだけ生活感が見えるこの部屋が一番寂しくて、ひんやりと寒いような気がした。
 というかこの本殿、外から見た大きさと明らかに広さ違くないか?
 やっぱり俺がどっか変なところに連れてこられたって認識、間違ってなさそう。

「あっちょ、」

 短い人生だったなあ、なんて感慨に耽っているとこの空間に少し強引に招待してくれた巨体は急に俺の手を放した。
 かと思ったら机の前に座り込み、置いてあった紙を引っ掴むとその上に筆を滑らせていく。
 なんか書いてる?
 何がしたいのか全然わかんないけどすごい夢中になってるっぽいし、もしかしたらこの隙に逃げられるかも。
 そう思って振り向いたのだけど……先程まで全開だったはずの襖は隙間もなくぴったりと閉まっている。
 …………待って。
 え、嘘でしょ。
 嫌な予感がして襖に手をかけて力の限り引いたが、襖はうんともすんともガタとも言わない。
 やっぱそうだ!
 開かねえ!
 というか、びくともしねえ!
 ホラーゲームとかでよくあるやつだ!
 “鍵はかかっていないはずなのに何故か開かない”ってやつだ!
 これ絶望感ハンパねえな!
 暫くの間あがいてみたけれど、こりゃ無理だと諦めた俺はなんとなく未だに机に向かったままの巨体にできるだけ足音を立てないよう気をつけながら近づいた。
 俺が襖相手に奮闘している間にどうやら巨体も奮闘していたらしく、巨体の周囲には筆跡が残された紙が幾つもくしゃくしゃになって転がっている。
 好奇心は猫をも殺す。
 そんな[[rb:諺 > ことわざ]]が脳裏を過ぎったけれど、気になるもんは仕方ない。
 大きな背中越しに机の上をそおっと覗き込んだ、その時だった。

「ヒィッ?!」

 がさ、と繊維が擦れる音がしたかと思ったら、目の前に紙が差し出された。
 めっちゃビビった。
 この巨体の一挙手一投足に精神力と寿命が削られていく……。
 ってあれ、紙に書いてある文字、ちょっと下手くそだけど日本語だ。
 どれどれ。

「こ……わ、く、……な、い?」

 “怖くない”?
 怖がるなってことかな。
 ……あ、もしかして会話しようとしてくれてる?
 ちょっと質問してみよう。

「お、俺のこと、食べようとしてます?」

 そう言ってしまってから元気良く頷かれたらどうしようかと不安になったけれど、意外にも巨体は俺の問いに勢いよく首を振った。
 それから再び机に突っ伏したかと思うと筆を走らせ、またその紙を目の前に差し出してくる。
 ええと、なになに。
 “いっしょ に いたい”……?
 その文字をとりあえず飲み込むことはせず、巨体にそっと視線を向ける。
 顔は布がかかっているから見えないけれど多分目が合ったんだろう、巨体は小さく何度か頷いた。
 これ、やっぱりなんかこう、死後の世界に連れて行かれるとか、この空間に永遠に縛り付けられるとかってこと……?

 ここに いて

 次に差し出された紙にはそう書いてある。
 ……やっぱそれっぽいな。
 流石にまだ死にたくないけど、この状況を打破する策も思いつきそうにない。
 どうしよう、なんか無いかな。
 どうにかして逃げられないもんかと視線をあちこち泳がせていた時、足元に落ちていた一際くしゃくしゃにされた紙が妙に気になった。
 そんなことしている場合じゃなかったはずなのに、そっとその紙を拾い上げて何の気無しに開く。
 あれ、白紙……?
 いや違う。
 紙の端に、小さく、本当に小さな文字がか細く並んでいる。
 “さみしい”という四文字が。
 巨体はと言うと、まさか俺がこの状況で紙を拾って見るとは思っていなかったのか何やらあたふたしている。
 そういえば……俺に紙を差し出したこいつの手、震えていたような。

「……寂しい、のか?」

 俺の問いに肩を震わせた巨体はその後少し固まっていたけれど、やがてゆっくりと首を縦に振った。
 殺風景な部屋。
 鳥の声も聞こえない森。
 揺らがない水面。
 この巨体が寂しさを感じることができるということに驚いたけれど、ずっとこの空間で一人きりで過ごしてきたんだとしたらその感情は抱いて然るべきだろう。
 そう思うと急にこの存在がすごく小さく見えて……まあ早い話が同情してしまった。
 巨体のごつごつとした大きな手が指先に触れて、縋るように弱々しく握られてしまって、どうしていいかわからなくなる。

「まあ……こんなとこ、寂しいよな、そりゃ」

 それにしても、なんでこの巨体はこんなところにいるんだろう。
 いやまあ人ならざるものが登場するロケーションとしては完璧だったけど。
 とりあえずこの巨体が完全に悪いやつではないっていうのは何となく分かった。
 とはいえ要求通りずっとここに留まるというのはちょっと、いやかなり都合が悪い。
 折角ならちゃんと社会人を経験してから死にたいし……一応、将来やりたいこともあるし。

「でも俺、大学もあるし、帰らないと」

 そう言うと巨体はしゅんと項垂れてしまった。
 うう、罪悪感がすごい。
 ごめんな、俺は君と一緒にいるわけにはいかないん……だ……。
 あ、あれれ?
 いつの間にか腕に巻き付いていた大きな手のひらが徐々に食い込んでいく。
 ゆらりと立ち上がった巨体はこちらを見下ろしながら、もう片方の手をゆっくりと伸ばしてきた。
 途端、背筋に震え上がるような悪寒が走る。
 腰から力が抜けそうになって、肩に何かが乗っかっているような重みが伸し掛かった。

「っ、ぐ……」

 待って待って待って待って!
 なんかミスったっぽい!
 俺このまま殺されるかもしれない!
 どうしよう、どうしよう……!

「あ、のっ」

 無我夢中で声を張り上げ、巨体の手を握る。
 するとほんの少しだけ腕を掴んでいた力は弱まり、巨体はこてんと首を傾げた。

「俺の家っ、来ればいいんじゃないっすかね……!」

 あーもう何言ってんだ俺!
 とっさに言ってしまったそれを脳裏で反芻しては深く後悔する。
 でもこれ以外に解決策が見つからなかった。
 巨体は俺の言葉に首を傾げたまま微動だにしない。
 沈黙で心臓がぶっ壊れそうだ。
 やっぱりダメかと諦めて目を瞑った瞬間、背筋にずっとあった寒気と肩に乗っていた重みが消える。
 恐る恐る目を開けると先程までとは打って変わって、しゃんと背筋を伸ばして勢いよく何度も頷く巨体が目の前に居た。
 これは、オッケーってことか?
 なんとか死亡ルート回避できたっぽい。
 やっちまった感は否めないけど死ぬよりはマシなはず。
 …………多分。
 なにやら楽しそうにウキウキしてるっぽい巨体とは対象的に、俺の気分はずんと沈んでいく。
 気分が沈むとかのレベルじゃない気はするけどまあとりあえず生きられるっぽいから良いかあ。
 思わず肩を落として、次に顔を上げたときには、目の前に芦屋さんの姿とその背後に廃れた神社があった。
 ……。
 …………?
 ……………………!
 あっ、戻ってこられたのか!
 良かったー!
 とにかく生きてる!
 今は!

「灯くん、耳を塞いでください」
「え?」

 まだ自分が死んでいなかったことと元居た場所に戻って来られたことに幸せを感じていると、空をも劈くような音が聞こえた。
 何が起こったか分からずキンキンと鳴る耳を押さえる。

「これは効かないか」

 芦屋さんが舌を鳴らすのと同時に、かつん、と金属が砂利の上に転がる音が聞こえた。
 からからと音を立てながら足元まで転がってきたのは……うん、実際に見るのは初めてだけど多分これ、弾丸……だよ、ね……。
 彼と初対面のときに思った“この人ヤバい人かも”っていう感想は多分間違ってなかったらしい。
 っていうか警告してからもっと猶予くれよ!
 耳塞げって言いながら撃ったぞこの人!

「っちょ、」

 静かに怒りを覚えていると、隣にいたらしい巨体がずんずんと芦屋さんに近づいていった。
 どうみても仲良くしようとしている感じではない。

「ま、待って!」

 声を掛けても止まってくれない。
 ど、どうしよう、どうしよう!
 多少同情しちゃったけどまだ巨体のことは怖いし死にたくないし足は竦むし人の心配なんてしてる場合じゃなかったけれど……ああ、もうっ!
 結局何も思いつかなかった俺は、巨体の腕にしがみついた。
 その気になれば簡単に俺の身体なんて弾き飛ばせるはずだけれど、巨体は動きを止めてこっちに視線を寄越す。
 その視線を睨みつけ、声を張り上げた。

「えっと、えっと……もしその人になにかしたら、あの階段から落ちて死んでやるからっ!」

 必死だったとは言え、我ながら情けない。
 しかも(憶測でしか無いけれど)自分を殺そうとした相手に死んでやるという脅しは逆効果にも程が有るのでは……。
 真に受けられて本当に連れて行かれたら洒落にならないぞ。
 なんて、言ってしまってから思ったのだけど、俺の不安とは裏腹に巨体は慌てたようにこちらに振り返り俺の服の裾を指先でつまんだ。
 こちらに目線を合わせてしゃがみ、ゆるゆると首を振るその様子にとりあえずこの脅し文句は通用するのだと一安心する。
 っていうか死んでやるって。
 今更だけど恥ずかしい……。

「っうわ?!」

 羞恥に顔を隠していると、身体がふわりと浮遊感に襲われた。
 まるで人形でも持つように胴体を掴まれてることに気がついたのはその数秒後。
 え、ちょ、そんな簡単そうにひょいって。
 人間の身体ってそんな簡単に持ち上がるもんなの?

「待ちなさい! どこへ……っ」

 芦屋さんの制止も虚しく、俺の身体を握ったまま巨体は鳥居の下を潜った。
 途端、視界が眩んで、かと思ったら見慣れた風景が飛び込んでくる。
 愛すべき我が家……もとい、単身者向けのボロくさいアパートがそこにはあった。

「え……?」

 慌てて周囲を見渡して、唖然とする。
 幻覚かなにかの類に惑わされたんだろうかとも思ったけれど、周囲の家々からは普段とそう変わらない人の気配がするし、なんなら帰宅を急ぐサラリーマンが家の前の通路をなんてことのない顔で通っていく。
 相変わらず握られたままの俺と、遠目からも目立つはずのこの巨体にはどうやら気付いていないようだ。

「あの、下ろしてもらえます……? 逃げたりとかしないんで」

 なんか俺、誘拐事件の被害者みたい。
 …………実際そうか。

「ど、どうも」

 思ったよりもあっさりと俺の両足は母なる大地を踏みしめることに成功した。
 解決しなければいけない問題は山積みだけど、とりあえず家に帰って落ち着きたい……。
 そんな一心で自宅へと続くむきだしの階段を登り部屋の鍵を開けようとして、固まる。
 どうやら本当に俺の家に来るつもりらしい巨体と自宅のドアを見比べて、今更ながら重大なことに気がついてしまった。
 うちのドア、この巨体が通るには明らかに小さすぎる。
 幅はまあ横になってもらえれば大丈夫そうだけど、高さが明らかに足りない。
 というか、ドアもそうだけど……天井、足りなくね?
 この巨体が家の中で普通に立とうもんならご自慢の鋭い角が天井を突き破って上の階の人にこんにちはしてしまうだろう。
 上の人、めっちゃ神経質だってもっぱらの噂なのにそんなことになってしまった日にはご近所トラブルは避けられない。
 流石にサイズ感まで考慮していなかった。
 自分から誘った手前いまさら断るのも忍びないし、というか断ったら命の危機に直面しそうだし……ううむ、どうしたものか。
 とりあえずダメ元で巨体に振り返って、顔を見上げる。

「えっと……俺の家めっちゃ狭くて……多分頭とかぶつかっちゃうと思うんです……無理なお願いかもなんですけど、ちっちゃくなったりとかできない、ですかね」

 今まで起こったことを振り返るに、ワープ的なやつとか幻覚的なやつとかできそうだし、ちっちゃくなるくらいならできるんじゃないかなあって思ったんだけど……。
 む、無理かな。
 無理だったらどうしよう。
 常に身を屈めながら過ごしてもらうしかないぞ。
 小さくなってもらおう作戦が失敗に終わった場合に備え、次の策を熟考していた俺の視界を巨体が両手で塞ぐ。
 それから数秒後、目を開けると巨体の姿は消えていた。

「え、あれ? どこいった?」

 まさか消えた?
 なんて思っていると、ズボンの裾を引っ張られるような感覚。
 足元に視線を持っていくと膝くらいまでの大きさのふわふわしたものがこちらを見上げていた。

「……マジか」

 おもちゃ売り場とかでよく見る、牛の人形みたいだ。
 相変わらず顔に和柄の布がかかっているのが少し異質だけど、小さな体で短い両手をばたつかせるその姿は何とも愛くるしい。
 これがさっきまで筋肉もりもりだったあの巨体?
 ふっくらした身体、ふわふわの毛並み、ちんまりとした手足。
 しゃがんで目線を合わせ、恐る恐る小さくなった巨体の頬を人差し指で触ると高級な絨毯のような上品な柔らかさが指先を包んだ。
 巨体……じゃないな、ええっと。
 牛っぽいし名前がわかるまで牛さんと呼ぼう。
 牛さんは急に触られたことが不思議だったのか緩く首を傾げる。
 な、なんだこの生き物…………いや、生き物か?
 よくわからんけどとりあえず可愛いじゃねえか……!
 あまりの可愛さに思わず牛さんを抱き上げようとしたその瞬間、腰からなんかヤバそうな音が聞こえた。
 う、嘘だろ。
 ちょっと大きめの人形ぐらいのサイズ感なのに、中に石臼でも詰まってんじゃないかと思うくらい重たい。
 重たいっていうか、持ち上がらないし持ち上げられるビジョンが見えない。
 自分を信じて暫く頑張ってみたけれど、無理やり持ち上げようとしたら腰が粉砕してしまいそうだったので泣く泣く諦めて牛さんを家に招き入れた。

「散らかってますが」

 牛さんの後に続いて家に入り、十五畳もない部屋を見渡す。
 我ながら本当に散らかってるな。
 とりあえず置きっぱなしだった空のペットボトルは捨てよう、うん。
 牛さんはというと家の中をきょろきょろと見渡したり、部屋の中をスキップ気味に探索していた。
 はしゃいでるようにも見えるその姿に心臓がきゅんと音を立てる。
 このちっこいままで居てくれるなら一緒に暮らすのも悪くないかも。
 ああ、でも一つ懸念点が。
 ……ここのアパート、ペット禁止なんだよなあ。
 いや、こんなちっこくて二足歩行する牛なんて見たこと無いし、人形です、で通せるか。
 なんてしなくてもいい心配をしながら、狭くて少しボロいアパートの一室で大学生と牛さんとの奇妙な共同生活がスタートしたのだった。
 あれ、なんか忘れてるような気がする。
 なんだったっけ?
 まあいいか。
 そのうち思い出すだろ。


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