【試し読み】君の代わりは何処にも居ない

 こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
 冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。
 ※R18作品のため全年齢部分のみ抜粋しています。

000

「兄さん、僕ね、結婚するんだ」

 ある日、離れて暮らしている弟からそう連絡が来た。

「そうか。良かったじゃないか」
「うん。それでね、兄さん。僕の結婚式、来てくれないかな」

 あいつの幸せそうな声色を聞いていると、今まで俺がやってきたことは間違いじゃなかったんだって、そう思える。
 辛い過去を経験した弟が人並みの幸せを手に入れられたことが心から嬉しくて。
 あいつのせっかくの門出を祝ってやるのが兄としての正しい姿勢なのかもしれない。
 だけどぶっきらぼうで表情が表に出ず、周囲から良く怖がられてしまう俺がそんな輝かしい場所に足を踏み入れるのはあまり好ましくないだろう。
 だから俺は、弟が努力の末にやっとこさ掴んだ幸せを邪魔してしまうことを恐れ、あいつと距離を置くことを選んだ。

「いや、やめておく。俺のようなやつが行っても迷惑をかけるだけだろうから」
「そ、そんなこと……」
「それに仕事が立て込んでるんだ。悪いな。代わりに写真だけでも送ってくれ」
「……わかったよ。絶対、絶対に送るからね!」
「ああ。ごめんな」
「? どうして兄さんが謝るの?」
「いや……なんとなくだ。気にするな。じゃあな、優。幸せになれよ」
 
 通話が切れたのを確認した俺は、自分一人しかいない四畳一間の空間に寝転がる。
 布団しか無い殺風景な空間に自分の息遣いだけが吸い込まれていった。

「いいんだ。これで」

 あいつの晴れ姿を見られないのは残念だが、仕方ない。
 とりあえずあいつから写真が送られてくるのを楽しみにしながら俺はゆっくり起き上がり職場へと向かった。
 まさかこれがあいつとの最期の会話になるだなんて、微塵も考えることなく俺は――一人きりの日常に、戻ったのだ。



001

 獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
 小学校の歴史の授業では、人間の祖先は「猿人」、獣人の祖先は「犬」という生き物だったのだと世間一般では教えられているらしいが、生憎と俺は小学校というものに通ったことがない。
 俺と双子の弟は、とある紛争地域に生まれた。
 両親は俺たちに物心がついた頃、銃弾の雨に倒れ、俺たちはずっと二人で生きていた。
 俺たちには身寄りも力もなかったが、ボロボロになりながらも必死で激動の中を生き抜くことになる。
 そして15になった頃、焼け野原になった母国から命からがら逃げ出して、この平和な国に辿り着いた。
 あれから二十年。
 路地裏で野垂れ死にそうになったり、泥水を飲んで腹痛に襲われたりしながらもなんとか生き抜いて生活が安定した今。
 俺は学歴職歴不問の日雇いバイトで朝から晩まで働いて、コンビニで安売りされた惣菜パンを食べるといった日々を送っている。
 弟は数年前、好きな人と暮らすと言って二人で住んでいた家を出ていった。
 弟を守るためだけに生きてきた俺は、弟の元に幸せが舞い込んだということが何より嬉しくて、快く送り出したのを覚えている。
 そして去年、弟から結婚の報告を受けて以来、彼からの連絡は途絶えてしまった。
 結婚式への参列は遠慮させてもらったが代わりに写真を送ってもらうという約束をして……それっきり。
 まめな弟が連絡を怠ることがあるだろうかと不思議に思いながらも、きっと幸せな過程を築くので手一杯なのだろうと納得し目の前を過ぎていく毎日をただ消費していた、そんなある日。

「優くんっ!」

 呼ばれ、腕を掴まれる。
 夜勤明けで昼の街を歩いていた俺の腕を掴んで引いたのは、俺より五十センチ近くも背の低い、スーツを着た人間の男だった。
 ……見たところ、50後半くらいか。
 男は暫し腕をつかんだまま俺の顔をじいと見て、そして一気にその表情を曇らせる。

「人違いだが」

 そう言うと男はハッとしたように肩を揺らし、慌てて俺の腕を離した。

「す、すみません! その、知り合いに……似ていたものですから」

 段々と弱々しくなっていくその口調に俺は眉を顰めた。
 このまま立ち去ってもいいが――知り合いに似ていたという言葉が引っかかる。
 カンガール種。
 俺はそういう種族に分類されるのだが、この国では俺と同じ種族の獣人はとても珍しく、少なくとも俺の行動範囲内で自分と同じ種族に遭遇したことはなかった。
 下手をしたら今この国にいるカンガール種は俺と弟だけの可能性すらある。
 そんな俺と誰を勘違いするというんだ。
 ……いや、待て。
 こいつ、先程俺を何と呼んだ?
 とぼとぼと去っていこうとするその男の腕を今度は俺が掴む。

「まさかお前、弟を知っているのか」

 くるりと振り向いた男の目元には薄っすらと涙が浮かんでいた。

「何故泣いている? なにか気に障ったか?」
「い、いえ! そうではないのです」

 男はぐいぐいと服の袖で目元を拭うと、改めて俺の顔をじいと見る。
 そして暫し沈黙の後、近くにあったカフェを指さした。

「もしよければ少しお話させて頂けませんか」
「……ああ、わかった」
 
 ゆったりとした足取りで歩き出した男の背を追ってカフェに足を踏み入れるとコーヒーの香ばしい匂いが鼻先をつつく。
 店員に飲み物を注文し、俺たちは空いていたテラス席に向かい合って腰を下ろした。

「とりあえず自己紹介をさせてもらおう。俺は赤坂静」
「申し遅れてすみません。私は星空まとばと申します」
「なんだそれ、名前なのか?」
「はは。まあ、一応。珍しい名前だと昔から言われてきました」

 給仕が席に近付いてきて、コーヒーを二つテーブルに置く。
 黒い水面に自分の顔が反射した。

「早速だが本題に入るぞ。お前が俺と間違えたのは、カンガール種の赤坂優という男で間違いないか?」

 男もとい、星空がゆっくりと頷く。

「なら、人違いにも納得だ。……優は俺の双子の弟なのだから」
「そうでしたか。あなたが、優くんの」

 俺と弟――優は見た目だけならば見分けがつかないほどに似ている。
 性格は真逆と言っても過言ではないほどだが。

「双子の兄がいるということは優くん本人から聞いていました。まさか街で偶然お会いできるとは」

 そういい、薄く微笑む男は震える手でコーヒーカップを手に取り、口に運ぶ。
 こいつが弟のことを“優くん”と呼んだことを考えるとそれなりに親しい仲であろうことは予想できた。
 が、この男と優の接点がいまいち見えてこない。

「それで、お前は優とどういう関係なんだ」

 単刀直入にそう尋ねると星空はびくりと肩を震わせた。
 その様子を不審に思いつつ返事を待っていると彼はゆっくりと口を開く。

「優くんとは……義理の親子になるはずでした」
「義理の親子?」

 言葉の真意がうまく呑み込めず首を傾げると男は小さく笑った。

「つまりですね、私の息子と婚約していたんです。優くんは」

 その言葉でやっと状況を飲み込むことが出来た。
 そうか。
 去年、優は結婚すると俺に報告してくれた。
 この星空という男はその結婚相手の父親なのだろう。
 ということはつまり、俺はこの男と一応親族に当たるということだな。

「そうか。合点がいったよ。いつも優が世話になっているな」

 まさか毎日大量の人間と獣人が行き交う往来でそんな人物と遭遇するなんてほぼ奇跡に近いだろう。
 よくこうして出会えたものだ。
 なんだか感動すら覚えてしまった俺は星空に頭を下げた。

「えっと……はい……」

 が、煮え切らない態度の彼に違和感を覚える。
 この男の正体に納得したところまではいい。
 先程から、星空の話し方にどこか引っかかるものがあった。
 遠くを懐かしむような、過去を想うような……そんな言い方と視線に胸の奥がざわつく。
 この言いようもない不安感を拭うべく俺は率直に、彼に問うた。

「それで、優は元気にしているか」

 途端、星空が固まる。
 まるで凍ってしまったかのように。

「……どうした」

 嫌な予感がして思わず答えを急かす。
 まさか、と嫌な予感が頭を擡げるがすぐに首を振ってそんな考えを振り払った。
 優はきっと結婚相手と幸せな日常を送っているはずだ。
 連絡が途絶えたのだって結婚相手と日々を過ごすのが精一杯ってだけだ。
 そうだろう?

「優、くんは」

 男が言い淀むその様子に喉の奥が焼けそうになる。
 なぜこの男は縋るように弟の名を呼びながら俺の腕を掴んだのか。
 なぜ俺の顔を見てこんなに泣きそうになっているのか。
 なぜまめな性格の弟と一切連絡が取れないのか。
 疑問が、繋がっていく。

「数ヶ月前……病で、亡くなりました……」

 男の言葉が肩に重くのしかかった。
 死んだ?
 優が?
 そんなわけがない。

「笑えない冗談だ」

 最後の抵抗とばかりに星空を睨みつけるが、彼は悔しそうに唇を噛んで俯くだけ。
 その様子は嘘を吐いているとは到底思えない。
 ……まさか、本当に?
 共に激動の中を生き、やっと幸せを手に入れた大事な俺の半身は、俺の与り知らぬところで息絶えたというのか。

「心臓の病でした。ドナーが見つからなくて……」

 その男の言葉を聞いた瞬間、俺は思わずテーブルを叩きながら立ち上がった。
 視界の端でカップが音を立てて倒れる。
 木目のテーブルにコーヒーが広がっていった。

「なぜ」

 思わず星空の胸ぐらを掴んでしまいそうなり、それはなんとか抑える。
 しかし声に乗る怒りだけは抑えられそうにない。

「なぜ俺にすぐ連絡しなかった?! 一つでも連絡をくれていたら、そうしたら俺は……っ!」

 彼に当たったところでどうしようもないということはわかっていた。
 だが、それでも。
 俺の存在を知っていたのなら一報くれたって良かったじゃないか。

「……迷いなく心臓を差し出していた。そうですよね?」

 静かに零れ落ちた男の言葉に固まる。
 それは、まさに俺が次に紡ごうと思っていた本心そのものだった。

「優くんから止められていたんです。きっとあなたはそうするだろうから絶対に連絡するなと」
「そ、んな」

 全身から力が抜けていく。
 どうして。
 結婚を目前に控えた幸せなあいつと誰もいないボロアパートと職場を往復しているだけの俺……どちらが生き残るべきかというのは一目瞭然だというのに。

「もうあなたに何も失わせたくないと、そう言っていました。……右足……義足、なのですよね」

 星空はその言葉と同時に俺の右足を見る。
 ぎしり、と足の付け根が痛んだ。

「自分を庇ったせいであなたは右足を失ったのだと、彼は悔やんでいた」
「違う! 俺が足を失ったのは、あいつのせいではない……!」

 この右足は、あいつを守り切ることができた、名誉の傷なんだ。
 だからあいつが気に病む必要はない。
 ……だが。
 思えば俺はそれを弟本人に伝えたことはなかった。
 あいつはずっと、悔やんでいたのか。
 悔やんだが故に俺に連絡しなかったのか。
 もっとあいつと多くの言葉を交わしていれば、もしかしたら結果は違ったのかもしれない。
 そう思うと口下手な自分自身がとても憎らしくて仕方がなかった。

「……声を荒げてすまなかった」
「いえ。仕方のないことかと」

 弱々しく笑う彼に釣られて、なんとなく少しだけ口元を緩める。
 溢れてしまったコーヒーを近くに備えてあったナプキンで拭きながら、ふいと気になったことを口にした。

「なあ、アンタは優の死に目に会えたか?」
「え? ええ。立ち合いました。もちろん、息子本人も」
「そうか」

 少なくとも弟が愛する人に看取られながら逝けたことに安堵しつつ、不思議そうな顔をしている星空に視線をやる。

「あいつはどんな顔をして死んだ?」
「え……」
「笑いながら、死んだか?」

 せめて。
 せめて最期を笑顔で飾れていますように。
 祈るような気持ちで男の二の句を待った。

「泣いて、おられました。最期に、あなたと一目会いたかったと。こんな死に方でなければあなたと会えたのにと」

 悔しそうな唇から溢れるその言葉に、俺は最後の希望すら打ち砕かれたような気がしてへなへなと椅子に座る。

「……そう、か」
「ですが笑ってもいられました。幸せな時間だった、と」

 ……何故。
 何故あいつが死ななければいけない?
 やっと幸せを手に入れたあいつが、どうしてこんなところで人生を終えなければいけない?
 そう叫び、泣きじゃくりたい気持ちを抑えながら、両手を握りしめ、星空に向き直った。

「なあ、頼みがあるんだが」

 そういうと彼は今にも泣き出しそうな顔のまま首を傾げた。

「もし優の墓の場所を知っているのなら、教えてくれないか。あいつの最期の望み通り……会いに行ってやりたいんだ。話したいことが山ほどあるから」
「……ええ。きっと、優くんもあなたに会いたがっていると思います」

 星空はふにゃりと笑って小さく頷く。
 かと思ったらコーヒーを飲み干して勢いよく立ち上がった。

「善は急げと言いますし、もしお時間があればこの後ご案内しますが」

 それに倣って俺も立ち上がり、深く頷く。

「では車を回してきますね。少しここで待っていてください」

 そう言って少し駆け足でどこかへ向かう彼を見送りながら、俺はこっそりと両手をきつく握りしめた。


002


 これは、弟と共に地獄を生き抜いた記憶の一部だ。

「兄さんッ‼」

 弟の、悲鳴にも似た叫び声が聞こえる。
 視界の遥か遠くで粉塵が舞い、弟の身体は俺に突き飛ばされて少し遠くへ転がっていった。
 途端、耳元で聞こえる爆音。
 一瞬世界から音が消えて……意識が戻ってきた次の瞬間、右足の太ももから先が血飛沫と共に消し飛んでいることに気がつく。
 地雷によって右の腿から下を失った――そう自覚した途端、想像を絶するほどの痛みが背筋から脳天まで駆け上がってきて思わず悲鳴を上げそうになった。
 しかし弟が涙目で駆け寄ってくるのが見えた俺は唇を噛んで、せり上がってくる痛みを必死に胃の奥へと送り返す。

「兄さんっ、兄さんの……あし、足がぁ……ッ!」

 ぼろぼろと大粒の涙を零しながら慌てふためく弟。
 俺は苦痛を悟られないよう低く唸りながら、力強く弟の首根っこを掴んで上を向かせた。
 空は、皮肉なほどに晴天だ。

「泣いている時間はない。足の一本がなんだというんだ。生きてさえいればどうとでもなる。……そうだろう?」

 正直不安はある。
 左足一本でこんな紛争地帯を生き延びられるのか。
 だが……死にたくないのなら、生きるしかない。
 痛みに泣いたって、不自由に嘆いたって、一度失くしたものは二度と帰ってこないのだから。

「ユウ。お前が俺の右足になってくれ」

 優が涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、何かを決意したような表情を浮かべたところで、ぼんやりとしていた意識が戻ってくる。
 ……どうやら、少しうたた寝をしてしまったようだ。
 まさか今更になって右足を失った時のことを夢に見るとは。

「そういえばお二人はこの国の生まれではないのですよね?」

 声を掛けられてふいと顔を上げる。
 運転席でハンドルを握っている星空とバックミラー越しに目が合い、俺はゆっくりと頷いた。

「その割には親しみやすいお名前のような気がしますね。なんというか、国外の方らしくないというか。優くんも名前を書くときは漢字で書いていましたし」
「……この国に来て間もない頃、優が名前に漢字を宛てたんだ。この国で違和感なく暮らしていけるようにと」

 そういうと星空は、なるほど、と瞬きをする。

「ところで、どこへ向かっているんだ? 随分と郊外まで来たようだが……こんなところに本当に弟の墓があるのか?」

 優の元へ案内してくれるという彼の車に揺られて、そろそろ二時間ほどが経過する。
 気がつけば窓の外は無骨なビル街から人の気配がしない森の中を映し出しており、人気の無さに少し肌寒さを感じた。

「ええ。実は、優くんの墓石は本人の希望で、我が家の敷地内にあるんです」

 そう言うと彼は、見えてきましたよ、と前方を指差す。
 示されるまま少し身を乗り出して確認すると、深い森の奥に、確かに建物の屋根のようなものがちょこんと頭を出していた。
 随分辺境の地に家を構えたものだ。
 こんなところにあって不便ではないのだろうか?
 そう思いながら更に車に揺られること更に数十分。
 屋根しか見えていなかった建物がその全容を曝け出した途端、俺は思わず息を呑む。
 この場所だけ時が止まってしまったような……幾年も前の西洋を思わせるようなレンガ造りの巨大な洋館が、森を抜けた丘の上にぽつんとそびえ立っていた。
 ミステリーものやホラー映画の舞台になっていても何ら不思議はないその建物の近くにゆっくりと車は停車する。

「到着しましたよ」

 にっこりと微笑みながら、星空が車を降りていくのを俺はどこか緊張しながら追いかけた。
 改めて目の前にすると……なんというか。
 いや、俺の貧相な語彙ではこの壮観な景色を言語化できそうもない。
 まるでタイムスリップでもしてしまったようだ。
 そういえば昔、優がそんな感じの本を読んでいたっけ、なんてぼんやり考えながら星空の後ろをひたすらついて歩く。

「墓石は裏庭にあります。こちらへどうぞ」

 そう言って彼は綺麗に手入れされた屋敷の脇道に入り、奥へと進んでいった。
 空は晴れ渡り、心地よい風に木々の踊る音がして……そのどれもが今は憎らしくて、思わず俯く。

「こちらです」

 そう言われてはっと顔をあげると、目の前には、色とりどりの花に囲まれた小さな墓石が二つ並んでちょこんと建っていた。
 恐る恐る近づき、花を少しだけ避けて……墓石に刻まれた名を見る。
 片方は知らない名だったが、もう一つの墓石には確かに弟の名と――墓碑銘が刻まれていた。

「この墓碑銘は、誰が?」

 振り向かないままそう尋ねる。

「御本人の希望です」
「……そうか」

 墓石に刻まれた墓碑銘は、“In Loving Memory”――”愛すべき思い出と共に”。
 よくある墓碑銘だが……弟が、記憶のすべてを愛おしいと思ってくれていることが、何より嬉しかった。

「優。お前の最期の望みを、叶えに来たぞ」

 もう一度、ひんやりと冷たい墓石を撫でる。
 あいつに俺の言葉は届いているだろうか?
 すぐそこで、俺の話を聞いてくれているだろうか?

「俺たちは生きるのに必死で、今日まで互いの内心を明かすことは殆どなかったな」

 この国に渡ってからも、ゆっくり話をする時間なんて無いに等しかった。
 その日あったことを報告して、互いの存在を確かめるように手を握りあって寝るのが精一杯のふれあいだった。

「本当に色々あったな。死ぬ思いをして母国から逃げてきて……こっちに渡ってきてからも死にものぐるいで言語を学んで、必死に働いて。お前は特に勉強を頑張っていたな。俺の人生はあまり褒められたもんじゃないが、俺の稼ぎでお前を大学まで行かせてやれたことは今でも誇りに思っているよ」

 生きているうちにこうして色々話していれば、結末は違っただろうか。
 死に際、あいつは俺に連絡をくれていただろうか。

「きっとお前もわかっていただろうが……俺は、本当に心の底から、お前のことを愛している」

 ……いや、あいつのことだ。
 きっと黙っていただろうな。
 昔からそういうやつだったから。
 
「俺たちはきっと来世でも兄弟で生まれられるだろう。少なくとも俺はそう信じている。次の世では俺はできるだけお前と話をすることにするよ。たくさん、飽きるほど色んな話をしたいと思っている。……だから少しの間、待っていてくれ」

 長生きしたとしてもあと百年生きられるかどうかだ。
 昼寝でもして待っていればすぐだろう?
 なあ、優。

「次死にそうになったら、ちゃんと俺に連絡をくれよ」

 目頭が熱い。
 だが、飲み込んだ。
 あいつが憧れてくれていた、格好いい兄でいるために。

「おやすみ、優。また次の世で」

 柔らかい風が吹く。
 墓に添えられていた花の弁がふわりと舞って、どこかへ飛んでいった。
 なんとなく、もうここにあいつはいないと悟った俺はそっと立ち上がり、後ろに居た星空へと向き直る。

「……星空、恩に着る。お前と出会えなかったら俺は弟に別れの言葉すら言えずに今生を終えるところだった」

 頭を下げ――上げたところでぎょっとした。
 星空は、まるで俺の代わりに泣いているとでも言うように顔面をぐちゃぐちゃにして号泣していたのだ。

「そんな……こちらこそ、来てくださってぇ……ありがとうございますぅう……!」
「お、おい。いい年をした男がそんなおいおい泣くんじゃない。まったく、しょうがないな」

 弟のために泣いてくれる人物が俺以外にもいるという事実にほっと息を吐きながら、星空の背を撫でる。
 ……きっと優はこの場所で家族として大切にしてもらえていたんだろう。
 それが知れただけでも星空と街で出会うことが出来てよかったと思える。

「じゃあ、俺はこの辺で――」
「お父様?」

 そろそろお暇しようとしたら突然、星空のでも俺のでも、ましてや優のでもない声が聞こえてきて言葉を飲んだ。
 さくさくと芝生を踏みしめる音がしてふいと視線をずらすと、杖をついた青年がこちらにゆっくりと近づいてくるのがみえる。
 何色にでも染まりそうなホワイトブロンドの長髪を肩の辺りで一纏めにし、目元を黒いレースの布で覆った彼は足元を確かめるように数歩先を杖で叩きながらこちらへと歩を進めた。
 神や天使の類に対する信仰心などとっくの昔に捨て去ってしまったが、仮に彼が目の前で純白の翼を生やし飛び立っていったとしても驚かない……そう思えるほど、繊細な空気を全身に纏った青年が、そこにはいた。

「お父様、そこにいらっしゃるのですか?」

 その問いかけに、星空はハッとしたように顔を上げてぐちゃぐちゃの顔を拭い、青年に駆け寄る。

「聖。起きていたのか」

 青年は頷きながら星空の肩に手を置くと、持っていた杖を小脇に抱えた。

「ええ。それより……お客様ですか? 知らぬお声が聞こえてきましたが」
「そうだ、お前にも紹介しよう」

 星空はそう言い、青年を連れてこちらへと近付いてくる。
 歩くたびに揺れるブロンドヘアが陽の光を反射してきらきらと輝いていた。

「静さん。この子は私の倅で、聖といいます。今年二十歳になりました」

 星空の倅ということは、彼が優の婚約者だという子か。
 思ったより若いな。

「聖。この方は、優くんの双子のお兄さん、静さんだ。街で偶然会うことができてね。お連れしたんだ」

 星空の言葉に聖と呼ばれた青年はぴくりと肩を揺らす。
 数秒の沈黙の後、彼は優雅に、まるで淑女のようにお辞儀をした。
 黒い目隠しと長い前髪のせいで感情はあまり読み取れない。

「そうでしたか。遠路はるばるようこそおいでくださいました」
「あ、ああ。こちらこそ突然お呼ばれしてしまってすまない」

 彼につられて、そっと頭を下げる。

「あなたのことは優さんからよく聞いていました。とても自慢の、格好良くて逞しい素敵な兄だと」
「……そうか」

 あいつがそんな話を。

「聖、と言ったか。……弟のことを愛してくれてありがとう。きっとあいつは幸せだったと思う。弟から結婚の話を聞いた時、もしその相手と会うことが出来たら伝えようとずっと思っていたんだ。こうして伝えられて良かった」
「僕の方こそ、彼から色々なことを教えてもらいました。お礼を言うのはこちらの方です」

 ふわりと口元に笑みを浮かべる彼。

「ところで静さん。今日はこの後、どうされるんですか?」
「どう……というと?」
「いえ、その……せっかくいらしたのでぜひお話をしたいなと。彼と長く過ごしてきたあなたはきっと、僕の知らない優さんを知っている。逆にあなたが知らない彼の一面もあるでしょう。そういったことをお話できればなと思ったんですが。こうして出会えたのもなにかの縁ですし、もしよければ一晩泊まっていきませんか?」

 そう言いながら、聖はぴっ、と空を指差す。

「どうやら嵐も近づいているようですし」

 彼に倣って空を見上げると確かに少し遠くに黒くて分厚い雲がぷかぷかと浮かんでいた。
 あの感じだと数時間も経たないうちに一雨来るだろう。
 ここまで送ってもらった上、一晩世話になるのはなんだか申し訳ない気もしたが……確かに優がここでどう過ごしていたのかを知りたいという感情もある。
 ありがたい申し出には違いない。

「ああ、それはいい。静さん、ぜひ泊まっていってください」

 近くで話を聞いていた星空がこくこくと何度も頷く。
 ここまで言われてしまっては断るほうが失礼にあたるだろう。
 そう判断した俺は静かに首を縦に振った。

「そうか。じゃあ、一晩だけ世話になる」

 すると星空も聖も顔をぱあと輝かせ、どうぞ、と言いながら俺の背を押す。
 半ば強引に屋敷の玄関へと案内されながら、似たもの親子だな……なんて思い、少し笑ってしまった。

「おかえりなさいませ、旦那様」

 招かれるまま屋敷に足を踏み入れた途端、ずらりと一列に整列した使用人と思しき者たちが一斉に頭を下げる。
 ざっと見た感じ、二十人はいるだろうか。
 こんな大勢に囲まれて頭を下げられる体験など初めてで思わず言葉を失っていると星空が一歩前に出た。

「皆、今日は大事なお客様がいらしている。最大限のおもてなしを頼むよ」
「かしこまりました、旦那様」

 声を揃えて返事をし、優雅な立ち居振る舞いでぱたぱたと捌けていく使用人たち。
 ここは本当に現代なのかと疑いたくなるほど、あまりにも見慣れない異質な光景だった。
 俺を招き入れた二人が普通にしているところを見るとこの屋敷の中では日常の光景なのだろうが……優もこんなところで生活していたのか。

「静さん、こちらへ。お部屋にご案内します」
「あ、ああ……」

 そう言って先を歩く聖の後をついていく。
 星空はというと仕事があるとかでどこかへ言ってしまった。
 まるで異国の王宮のような立派な装飾が施された静かな廊下に二人分の足音が響く。
 ときおり見かける、花瓶と共に飾られている花に気を取られながら歩いていたら、ふいに聖がこちらを見上げて小さく笑った。

「どうした。もしや、なにか作法を間違えていたか?」
「いえ、違うんです。双子でもここまで性格が変わるものなのかと少し面白くって」
「? どういうことだ」
「優さんが初めてうちに来たときのことを思い出していました。あの人はずっとおどおどソワソワしていて。……逆にあなたはどっしりと構えた感じなので、不思議なものだなと」

 確かに、この廊下を居心地悪げに歩くあいつの姿は想像に難くない。
 
「そうそう、この花瓶。実は優さんが初めてうちに来た時、割ってしまったんですよ。うちの使用人が急に後ろから声を掛けたのが悪かったんですけど……そうしたら優さん、真っ青になって、弁償するって聞かなくて。ふふ、あの時は面白かったなぁ」

 肩を震わせながらそういう聖に釣られて、少し笑う。

「この場所にはあいつの生きた証がたくさんあるんだな」
「ええ。ほら、そこにある絵画、額縁に少しだけヒビが入っているでしょう? これは優さんがぶつかってしまって、額縁が落ちた時の傷なんです」

 指された額縁の端の方に視線をやると、確かにヒビが入っていた。
 目を凝らさないと見えない程度の小さな亀裂だ。

「あいつ、人んちのもの壊し過ぎじゃないか?」
「これに関しても原因はうちの使用人が突然優さんを驚かしたからなので、おあいこですね」
「お茶目な使用人が多いんだな……」
「ええ、困ったことに」
「額縁は直してないのか」
「最初は買い替える予定だったんですが、残しておくことにしたんです。大切な思い出ですから」
「……そうか」

 どこか楽しそうな彼から視線をずらしてあいつの爪痕が残った額縁を見上げる。
 額に入れられているのは薄い紫色の、果実のような形をした不思議な花の絵だった。

「なあ、この紫色の花はなんという花なんだ?」
「紫色……?」

 首を傾げた彼を見て、はっとした。
 言われて、はっとした。
 杖をつきながらとはいえ随分しっかり歩くものだから失念していたが、彼は……。

「ええと、紫色で、花の部分が果物のように丸くて、葉が波打つようにぎざぎざしている花の絵だ」

 すると彼は、ああ、と言いながらぽんと手を叩く。

「それでしたらアツモリソウという花ですね。平安時代末期の武将が背負っていた母衣に見立てて付けられた名前なんだそうです」
「ほろ?」
「甲冑の補助武具の一つだとか。風で風船みたいに膨らませて、後に旗印のようなものになったんですって」
「ほう、ものしりだな」
「そんな大層なものではありませんよ。それに僕の知識は大体が優さんからの受け売りです」

 聖は手に持った杖をぎゅうと握りしめながら、そっと額縁に触れる。

「僕には何も見えませんから。誰かに教えてもらわないと、勉強の一つもできない」
「……やはり、見えていないのだな」
「ええ。そういえばご説明していませんでしたね。僕は生まれついての盲目でして。僕にとってはこの真っ暗な世界が生まれた時から当たり前でしたし、父も随分甘やかしてくれますから不自由だと思ったことはなかったんです。でも」

 ひんやりとした額に、彼はそっと頬を寄せた。
 感触を確かめるように。

「優さんと出会ってから僕は初めて目が見えないことを恨みました。願わくば彼と同じ景色を見て、同じ色を感じたかった」

 もう叶うことはありませんが、と小さく笑う聖。
 なんと声をかければいいかわからずぼうっと突っ立っていると、彼はやがてこちらにくるりと振り向いた。

「立ち話ばかりさせてしまってすみません。そろそろ行きましょうか」

 そう言って歩き出した彼の背を追いかけること数分。
 やがて目の前に現れたのは随分立派な装飾がされた大きなドアだった。

「こちらが静さんのお部屋です。自由にお使いくださいね」

 恐る恐るドアを開けて中に入ると、出迎えてくれたのは立派なソファ。
 どっしりと構えたローテーブルに天蓋付きの巨大なベッド、洗面台やトイレまでついていて、この空間だけで暮らしていけそうなほど立派な空間が広がっていた。
 自由に使えと言われても……。
 つい昨日までは布団しか無い四畳一間で寝泊まりしていた自分にとって、この空間で過ごすのはかなり敷居が高いような。

「こんな立派な部屋、使ってしまって良いのか……?」
「ええ。ゲストルームですし」

 ゲストルームの概念がわからなくなりそうだ。
 これだけの規模でゲストルームだなんて言われてしまうと、この家の主人達の部屋は一体どうなってるのか気になって仕方がない。
 回転するベッドでも置いてあるんだろうか。
 ……いや、それはないな。
 なんてアホなことを考えていたその時、ゲストルームのドアが小さくノックされた。
 何かと思い振り向くと、開きっぱなしだったドアの向こうに立っているメイド服を着た獣人の少女と目が合う。
 蝶のような大きな耳を持つ獣人――パピヨン種の少女が優雅に頭を下げた。

「坊っちゃん、静さま。湯浴みの用意ができてございます」
「わかった」

 聖がそう返事をすると彼女は再び頭を下げる。

「彼女はうちのメイドのシャーリィ。僕のお世話係でして、静さんの身の回りのことも彼女にお願いしてあります。何かあれば彼女に声を掛けてくださいね」
「あ、ああ。わかった」
「じゃあ僕はそろそろ勉強の時間なのでこれで。シャーリィ、お願いね」
「はい。坊っちゃん」

 こちらにぺこりと会釈をした聖は、長い廊下の先へと歩いていってしまった。
 その姿を見送っているとシャーリィと呼ばれた少女がこちらに向き直る。

「改めまして、シャーリィと申します。宜しくお願い致します、静さま」
「ああ、よろしく。……しかしなんだ、その“さま”っての、どうにかならんのか?」
「? どうにか、と申しますと?」

 こて、とシャーリィが首を傾げた。
 彼女の大きな耳がひらひらと揺れる。

「客人扱いはどうも慣れなくてな。もっとフランクに接してくれないか?」
「そう申されましても。私はメイドで、静さまは旦那様と坊っちゃんの大事なお客様ですから」
「無理を言ってるのは承知しているが、頼む。むず痒くて仕方がないんだ。敬われるほどの獣人でもないしな。せめて“さま”呼びはやめてくれないか」

 このままずっとこの呼び方をされていたら、いつかむず痒さに耐えきれなくなって暴れてしまいそうだった。
 そう思っての提案だったのだが、シャーリィは少し考え込むようにした後、ふわりと笑う。

「ゆーくんにも同じことを言われました」
「ゆーくん……?」
「ええ。優くん……崩して、ゆーくん。あの人もさま呼びは苦手だと言って、あなたと同じお願いをしてきたんですよ」

 そうか、あいつも……。
 俺と違って優は社交性があるから案外簡単に馴染んだだろうと思ったが、流石にここまでの待遇には慣れることができなかったんだろう。

「俺にもそうしてくれるか?」
「勿論、お望みなら」
「じゃあそれで頼む」
「かしこまりました、せーくん」
「……せ、せーくん……」
「静さまなので。お嫌ですか?」
「いや、大丈夫だ。それでいい」

 そもそも、“くん”呼びされることなんて殆どないから違和感があるが……まあ、じきに慣れるだろう。
 さま呼びよりかは随分しっくり来る。

「じゃあ、せーくん。浴室まで案内しますね。ついてきてください」
「ああ。……敬語はそのままなんだな」
「それはまあ、おいおいね」

 歩きながら、にひひ、と彼女はラフに笑った。
 
「それにしても俺が一番風呂をもらってもいいのか?」
「一番風呂といいますか、屋敷内には旦那様用の浴室と坊っちゃん用の浴室とお客様用の浴室がありますので長風呂してもらって大丈夫ですよ」
「な、なんだと?! 一人に一つ専用の風呂があるのか……?!」
「ええ、そうなんです。驚きますよね、普通の人は」
「驚くというか……一体どれだけ稼いだらこんな豪邸を建てられるんだ……?」

 先程も見たばかりの豪華な廊下を今度はシャーリィと並んで歩く。
 それにしても、うっかり一人で出歩こうものなら迷子になってしまいそうなほど広いな、この屋敷。

「まあ、星空グループの当主ですからねぇ。むしろお城を持っていないことにびっくりするぐらいですよ」
「星空グループ?」
「この国でも有名な大財閥なんですがご存知ありませんか? ホテル、銀行など国内外にいろんな事業を展開しています」
「すまない、社会情勢には疎くてな……。とにかく星空は会社を沢山持っていてとても金持ちってことだな?」
「まあ……ざっくり言うとそんな感じですね」

 となると聖はその御曹司ということか。
 ……優、すごいやつと結婚しようとしてたんだな……。

「せーくん、浴室到着しましたよ。タオルは中にあるのを使ってください。上がるまでに着替えをお持ちしますね」
「ああ、すまない」
「ご希望があればお背中をお流ししますけど、どうします?」
「い、いや、いらん! 年頃の娘にそんなことさせられるわけないだろう!」
「あらら。硬派なんですね」

 突飛なことを言うもんだからつい語気を荒らげてしまった。
 一方、シャーリィはというと楽しそうにくすくすと笑いながら、ごゆっくり、と言い残して浴室を出ていく。
 ……若い娘に振り回されている自分がなんだか情けなくて俺は小さく肩を落としながら服を脱ぎ――浴室に足を踏み入れた。
 広い空間には身体が大きい俺でもあと数人は入れそうなほど広いバスタブがあり、入浴剤の甘い香りを纏った柔らかそうな湯気が立ち込めている。
 とりあえず全身を念入りに洗ってから、恐る恐る、白濁とした湯に触れた。
 当たり前だが、温かい。
 やっと覚悟を決めて湯船にゆっくりと浸かると、思わず喉の奥から深くため息が漏れた。
 こうして風呂に浸かるなんて何時ぶりだろうか。
 こっちに来た頃は優と二人で銭湯に行ったりもした記憶があるが、一人になってからは職場にあるシャワーを借りるばかりだった。
 家に帰ったら、久しぶりにあの銭湯へ行ってみるのもいいかもしれない。

「本当はこの風呂だって一緒に入りたかった。……恥ずかしいかもしれんが、昔みたいに背中を流し合ったりしてな」

 聖と身を寄せ合う優が俺をこの家に招いてくれる、そんな未来を迎えられたら良かったのに。
 願ったところで、もう叶いはしないが。
 それにしても今日は怒涛の一日だった。
 星空と出会って……優の死を知って、聖と出会って、ここで一晩明かすことになって。
 こうして温かい風呂に入って。

「……ここにいるべきなのは、お前のはずなのにな、優」

 俺は優に幸せになってもらうことだけを考えて生きてきた。
 母国から逃げ出すと決めたのも、死にものぐるいで働いたのも、家を出ていくという優の背中を押したのも……全ては、痛くて苦しい思いをしてきたあいつに幸せな未来が訪れてほしかったから。
 あいつは死に際に幸せだったと零したらしいが、ほんの数年の幸福では精算しきれないほどあいつはずっと苦労してきたんだ。
 それなのに。

「なんで、お前が死ななきゃならなかったんだ」

 墓前で飲み込んだ感情が再び溢れ出てくる。
 右足の付け根がぎしりと痛んだ。

「神様ってやつは一体何をしてるんだろうな。……あれだけ願っても、祈っても俺たちを助けてくれなかったくせに、やっとの思いで地獄から這い出たあいつをあっさり連れて行ってしまった」

 やっと人並みの幸せを得られたあいつになんて仕打ちをしやがる。

「優……兄ちゃんな。お前に、幸せになってほしかったんだよ」

 俺がもっとあいつのことを気にかけていれば。
 結婚の報告を聞いた時、せめて一度でも会おうと言っていれば何か変わっていただろうか。

「兄ちゃんはお前のためなら、心臓でも、足でも、なんでも差し出せたんだぞ」

 それをわかっていたから優しいあいつは俺に連絡をしなかった。
 だが……それでも俺は、兄ちゃん助けてって、言って欲しかったんだよ。
 自己満足でも自己中でも、なんと言ってくれても構わないから、ただ頼ってほしかったんだよ。

「俺は、お前の兄ちゃんなんだから」

 あいつの痕跡を辿るたび、あいつはもうここに居ないという事実がじわじわと染み込んできて心臓の奥が痛くなる。
 ここにはあいつが生きた証と、あいつの死んだ証明がくっきりと残っていて、少しだけ息が苦しい。
 あいつがここで幸せに過ごしたんだと思えば思うたびに、やり場のない怒りと悔しさで胃がひっくり返りそうになる。
 幼き日の優の笑顔を思い浮かべながら――俺は湯船に顔を沈めて、少しだけ、ほんの少しだけ、泣いた。


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