こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。
006
獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
小学生の頃、歴史の授業で人間の祖先は”猿人”、獣人の祖先は”犬”という生き物だったのだと習ったのをぼんやりと覚えていた。
人間に地域や見た目、肌の色などによってある程度の種族の区分けがあるように獣人にも種類があり、例えば獣人である自分の母はハスキー種という種族で寒い地域に住んでいた犬の末裔なのだと聞いたことがある。
そしてそんな母と、純正の人間の父との異種婚によって産まれたのが、自分……一之瀬まこと。
性別は男。
平凡に大したイベントもないまま小学校から大学までの学生生活を終え、就活にも特に苦労することもなく、あまり大きいとはいえないが同僚も上司も優しい人たちばかりの会社に就職してかれこれ二年とちょっと。
入社時と変わらず今日も会社の営業事務を担当している。
いや、変わらずというのは少し違う。
つい先日のことだけれど、入社時から二年間あたためた恋に、終止符が打たれた。
営業部部長、柴種の獣人である朝桐伊墨。
営業事務、朝桐伊墨とハスキー種の母を持つ混血の一之瀬まこと。
僕たちは、恋人だ。
007
「部長、頼まれていた資料、共有ファイルに保存しておきました」
「さすが早いな。ありがとう、確認しておくよ」
さて。
これで今日頼まれていた業務はすべて終了してしまった。
追加の仕事は……どうやら来そうにない。
友人に一度注意された猫背を無理やり伸ばして、背もたれに全体重を預けると節々から骨が鳴る音が聞こえた。
ふいと静かなオフィスを見渡す。
オフィス内には自分と、それから、部長。
普段はざわついているだけに二人きりのオフィスにはまだ慣れなくて、気恥ずかしさを感じながら横に目を向けると、まあ当たり前なのだけれど自分が作成した資料と睨めっこする部長がいる。
彼は視線を気取ることもないままひたすら資料の確認と週明けに控えているクライアントとの打ち合わせの内容の詰めを行っているようだ。
いくら恋人とはいえ仕事中の彼に迷惑をかけるわけにもいかないのでそっと視線を外して再び目の前のモニターを眺める。
フォルダをいくつか開いてみたけれど、やっぱり特に今やらなければいけない仕事もないし……ついに手持ち無沙汰になり、バッグに入れておいたスマホを覗き見た。
通知はなし。
トークアプリを開き、今日は体調不良で仕事を休んでいる同僚であり同期でもあり親友ともいえる、東桜花とのトーク画面を開く。
最後のトーク履歴は昨日。
部長との進捗状況を切り込んできた桜花にエールを貰ったところで終わっている。
{ 桜花、具合どう? )
数秒画面を見つめて、既読が付かなかったのでスマホをそっと脇に置いた。
ふいと顔を上げるとオフィスの窓の向こうはすっかり橙色に染まっていて東側からは少しずつ淡い光を飲み込んだ濃紺が空を飲み込まんと迫ってきている。
もう三十分もしたら定時。
幸いなことに今日も残業をすることなく帰ることが出来そうだ。
会社用のグループチャットでは、営業の人たちが営業先から直帰する旨が続々と報告されている。
そんな様子を見ていると、つくづく優良企業に入社出来たものだと自分のこれまでの行いを一人ひっそりと褒めるのだった。
「うーん……」
横から小さな唸り声が聞こえてきて、そっと窓から視線を外し遠くの席にいる部長を盗み見る。
相変わらず彼は真剣な顔でパソコンの画面と睨めっこをしていて、時折首を傾げたり頬を掻いたりとお困りの様子。
「部長? もしかして資料に不備でも?」
「いいや、資料に不備はない。完璧だよ。それより今さっき先方から送られてきたデータが文字化けしていてね、なんとか復元できないかと作業していたんだけれど」
そう言って困ったように笑う彼。
席を立って近付き、彼の画面に目をやると確かに画面に表示された資料には見たことのない字やカタカナが羅列していて、到底読めそうにはなかった。
「ちょっと見せてもらっていいですか?」
「あ、ああ」
ちょっとだけ避けてくれた部長に頭を下げて、画面を睨みつける。
折角の週末、部長とこのあとデートの予定が控えているのだ。
こんな数枚しかないぺらっぺらの資料に足止めなんてされている場合じゃない。
あれはこれはと思いつく限りの方法を試し、数十分にも及んだ手に汗握る格闘の結果、なんとかほぼ定時ぴったりにファイルを開くことができた。
軽い仕様の変更くらいだろうから最悪来週に回そうと部長と話していたけれど、表示された資料には結構重要な変更内容が表記されていてこのまま諦めて帰っていたら週明けにえげつないシワ寄せが来るところだった。
危ない危ない。
「おおー! さすが一之瀬くん! 助かったよ、ありがとう! やっぱり機械系は若い子に聞くのが一番だな!」
「いえ。それよりこれ結構重要な内容ですよね。無事に開けてよかった……」
「本当だよー! こんな大事な資料、メールでぽんっと送ってくるなよ、びっくりするなあもう」
小さく悪態をついた部長。
その様子がなんだか子供のようで思わず笑いが零れる。
二年もあたためた片思いが実ってから二週間。
たった二週間では大きく関係が変わることはないけれど、部長は二人きりだとちょいちょいそうした隙のある様子を見せてくれるようになった。
桜花や他の営業の人がいる時は絶対にこんな愚痴は零さない。
それは恐らく「上司」「部長」という立場があるから。
ほんの二週間前までは自分の前でもそうだった。
スマートで隙がなくて、頼りがいのある広い背中をずっと追いかけていた。
だからこそ、ギャップが心臓に悪い。
無意識なのかどうかはわからないが自分の前でだけは少し気が抜けている彼が本当に愛しくて。
いそいそと帰る準備をしている彼の背中にぴったりと頬を寄せる。
ずっと追いかけていたその背に、やっと届くようになったんだ。
触れている頬から流れ込んでくる体温、それにタバコとコーヒーの匂いが混ざり合って、カフェラテのような優しくて甘いほろ苦さが喉の奥に流れ込む。
「い、一之瀬くん?」
「はい」
「えっと。ど、どうしたのかな、急に」
「特に意味はないです」
「ええ……」
「こうしたくなって。ダメでしたか?」
「だっ……だめ、じゃ、ないけど……えっと、その」
しどろもどろになる彼。
どうしたらいいのかわからないらしい両手はあたふたと宙を舞っている。
取引先のお偉様方も他の営業の人も、多分だけど桜花も、こんなに言葉に詰まっている部長は見たことがないだろう。
この会社の取引先割合は未だに部長が五十パーセント以上を握っている。
いわゆる、営業部トップ。
そんな人が、今、自分に寄り添われてこんなにも狼狽している。
その事実を考えるだけで喉の奥がきゅんと縮んで、まるで心臓をくすぐられているような感覚を覚えた。
「けど、なんですか?」
「う、えっと、だな……」
そっと離れて、彼の正面に回る。
顔を覗き込むと真っ赤な顔をした彼は小さく縮こまってしまった。
その様子が可愛らしくて、また笑みが零れる。
「わ、笑わないでくれ。付き合う前に言っただろ、こういうのは久しぶりだって……」
「ふふ。すみません」
彼の柔くてふわふわの頬にそっと触れるとまた彼はあたふたと視線を泳がせた。
頬に添えたままの手をゆっくりと引くと彼は不思議そうな顔をしながら少し姿勢を下げる。
少し背伸びをすれば届くぐらいの距離になったところで、彼の額に唇を押し付けた。
彼のまんまるい、獣人特有のいわゆる”まろ眉”が驚いたように跳ねる。
踵が床に着くと同時に見上げた彼の顔はやっぱりというか案の定真っ赤になっていて、どうしたらいいかわからないと雄弁に物語っている。
自分の行動ひとつがこんなにこの人を揺れ動かしている事実が本当に嬉しくて。
「そろそろ行きましょう、部長」
「あ、ああ」
こんな感じで付き合う前とちょっと関係性は変わって、彼の好きな部分を少しずつ拾い集めるような日々を楽しんでいた。
◇ ◆ ◇ ◆
……の、だけれど。
「はあ……」
思わずため息が漏れた。
部長と交際を始めてそろそろ三か月が経過する。
あれから何度もデートや食事を繰り返してはいるものの、関係性は変わらないままだった。
”付き合う前と変わっていない”……つまるところ”手を出してくれない”。
それどころかキスだって未だ軽いもの止まり。
付き合えているだけで殆ど奇跡のようなものなのでそれ以上を望むのは贅沢かもしれないけれど、やっぱり彼のことが好きだしそういうことをしたいと思うことも一度や二度ではない。
自分から誘うっていうのも考えたけれど、なかなかタイミングもなくて頭を抱えていた。
「……あれ?」
そう。
デートはしてくれるのだ。
最初は楽しかったけれど、デートのそのあとがないことにいつもがっかりしてしまう自分がいて、それが申し訳ないやら恥ずかしいやらで最近は心からデートを楽しむことができなくなっていた。
今日もその数ある物足りないデートの中の一日……に、なるはずだった。
電光掲示板を見上げて首を傾げる。
いつも乗っている、最寄り駅へと向かう最終電車の時間が表示されるはずの場所には「運転中止」の文字。
不安なこちらの気持ちを汲み取ってか、すぐさまざわついた駅構内にアナウンスが入った。
「お客様にお知らせいたします。十一時四十三分着、〇〇方面三百二号車は現在、機材のトラブルにより運転を見合わせております。復旧の目処は現在立っておりません。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解のほどよろしくお願い致します」
そのアナウンスと同時にタクシーを求めて駅を駆けだしていく人や不満を漏らしながら家族に迎えの要請をする人など、ざわめきは一層増す。
そんなざわめきの中、ぽかんと電光掲示板を見上げてアナウンスを聞いていた自分は恐る恐る真横に立っていた彼に視線を向けた。
「えっと。どう、しましょう?」
この場所からなら自分の家にタクシーを使って帰るより、動いている逆方面に乗って部長の家の最寄り駅まで行く方が断然安いし楽だ。
それを分かったうえでの、この問い。
自分でも狡い言い方だったと思う。
口ではどうしよう、なんて言いながらきっと目は切望していただろう。
でも許してほしい。
ここしかない、とついついがっついてしまうのは仕方ないことだと思うから。
そんな風に言われた彼はというと、ブリキの玩具のようにぎこちなく視線を持ってきて困ったように笑ったかと思うと、少しだけ視線を泳がせたあと意を決したように息を吐く。
「うちに行こうか。逆側の路線は動くみたいだし。タクシーで帰るのも勿体ないだろう?」
そういう彼の声はいやに落ち着いていたけれど、指先が小刻みに震えていることに気付くのは難しくはなかった。
少しだけ頼りないそれをそっと握ると彼の肩はびくりと跳ねる。
その様子が面白くって、愛らしくって、笑みが零れた。
少しだけじんわりと湿った手の平に指を絡めて、指の腹で肉球を撫でる。
ざらついた感触に背筋がぞわぞわと震えた。
恋人として彼の家にお邪魔するのは初めてで、考えるだけで心臓が過労死してしまいそうだ。
「……はい」
流石は金曜日の夜。
最終電車が来るホームは家路につく人でごった返していて、それは勿論車両の中も同等……いや、それ以上に混雑している。
ぎゅうぎゅうの車両が揺れるたびにあまり身長の高くない自分の身体は人の波に押し流されてしまう。
やっぱりみんな散々飲み明かした後なのか車内はアルコールの匂いが充満していて、この空間にいるだけで酔ってしまえそうだった。
しかも時期は梅雨。
深夜でもじっとりと張り付く湿気に充てられて、深く息を吐いた。
「大丈夫かい?」
ざわめきの中、少しだけ聞こえにくい彼の声が降ってくる。
彼に背中を預ける形になってしまっていたので何とか体を捩って視界に彼を入れようとするが、周囲の人はびくともしない。
仕方なく首だけを回したけれど、彼の鼻先しか見えなかった。
「だ、大丈夫、です」
「……あまりそうは見えないけれど」
実をいうと先程から、自分の前方にいる男性がその、なんというか、ちょっと、いやかなりふっくらしてて、その腹圧で少々苦しい。
自分が身動きひとつ取れずにいるのはそのせいもある。
でも当の男性は残業終わりなのかとんでもなく疲れた顔でつり革を握ったまま眠そうにうとうとしていて、声をかけるのは憚られる……。
「一之瀬くん、ちょっとだけ右に動ける?」
「? はい」
言われるまま、本当にちょっとだけれど右に身体をずらす。
途端、軽い衝撃と共に視界が回ったと思うと背中にひんやりとした温度、目の前には汗の所為か少しだけへたっている首元のふわふわとした毛。
そして部長の背後に先程まで自分の目の前にいた男性の影が見えた。
「えっと……?」
「これなら少しは苦しくないかい?」
「あ、えっと、はい……」
どうやら位置を変わってくれたらしい。
背中がひんやりとしたのはどうやらドアにぴったりと押し付けられるようにしているからだったようだ。
目の前にあるどアップの部長の顔には薄暗く影がかかっていて、体毛の所為で暑いのか真剣な顔で少しだけ苛立たし気にネクタイを緩めるその姿に心臓が跳ねた。
もしかしたらこの後……なんて、妄想ばかりが脳裏を駆けて、彼の顔がまともに見られずただ足元にじいと視線を落とし続ける。
そんな感じで彼の匂いを目の前に感じながら満員電車に揺られること十数分。
押し出されるようにして最寄り駅に降り、やっと暑苦しさと圧苦しさから解放されたことで二人そろってホームで深く息を吐きだした。
「混んでましたね」
「ああ。混んでたね」
苦笑いをして、先を歩きだした部長の背を追う。
駅を出ると灰色の雲を纏った夜空が一面に広がった。
少しぼやけた向こうにちらほらと星が輝いている。
「折角だから途中のコンビニで何か買っていこうか? 折角だしもう少し飲み直そう」
「わ、いいですね。アイスとか食べたいです」
まだ少しだけ肌寒い夜風を浴びながら帰路に就く途中、何か色々と話したような気がするけれどあまり覚えていない。
ただ、ひんやりとした空気がアルコールで火照った頬を優しく撫で上げてくれていたことと、思わず取った彼の手がいやに熱を持っていたこと以外は。
「お邪魔します……」
彼の家の玄関。
一度来たことはあるけれど”恋人”として訪問するのは初めてだ。
付き合う前、路上で倒れてしまい部長の家に運び込まれたことがあった。
その時は甘い雰囲気になんてなる余裕もなく、勿論まだただの上司と部下の関係だったのもあって何事もなく終わったのだけれど、今回は違う。
体調はなんだったら色々と万全だし、なによりもう自分たちは恋人同士……何かがあってもおかしくはない。
彼の匂いが充満するその空間は本当に心地よくて、とんでもなく息苦しくて。
今にも呼吸が止まってしまいそうだ。
「適当に座っていて。いまコップ出すよ」
「あっ、ありがとうございます……」
適当に、とは言われたものの。
悩んだ末にソファの上ではなく絨毯の上に腰を下ろす。
先程までほぼ一日中誰もいなかった絨毯の上は冷やっとして、肩が跳ねた。
「こらこら、床に座らないの」
戻ってきた部長の手には氷が入ったガラスのコップが二つ。
それを見計らってコンビニの袋を覗き込む。
たくさんお酒買ってきたけど、どれにしようかな……甘めのがいいから、桃かな。
「床、冷たいでしょ」
コップをテーブルの上に置いた彼は恐る恐る手を伸ばして……少しだけ迷って、二の腕を掴む。
支えられるようにして体を持ち上げられ、ふかふかのソファに改めて腰を下ろした。
「桃でいいですか?」
「ああ。ありがとう」
ゆっくりとコップに酎ハイを注ぐと、炭酸の弾ける音と氷の軋む音とが喉の渇きを加速させていく。
「じゃ、改めて。お疲れ様」
「お疲れ様です」
コップを軽くかち合わせると、たぷん、と手の平で水分が揺れた。
ぐいと力強く煽る部長に釣られて口をつけると、つんとアルコールの匂いが鼻を突く。
あまりお酒に強くない自分はたった数パーセントの缶酎ハイでも酔うには十分。
そのうえ、途中夜風を浴びて幾分か醒めたとはいえ深夜の二次会……数口飲んだところで意識は少しずつぐらつき始める。
「一之瀬くん?」
ずいと覗き込んできた彼の顔がぼやけた。
いつの間にか自分の手に持っていたはずのコップはテーブルの上に置かれている。
「ぶちょお、」
彼の顔がぼやけるのが勿体なくて、放っておいたらどこかに行ってしまいそうで。
そっと手を伸ばして、確かめるようにして彼の頬に触れた。
じんわりと熱を持ったその頬に触れた瞬間、ぼやける視界の中で彼の目が見開かれたのだけが分かる。
「すきです……」
そっとその頬を手繰り寄せて胸元に抱き込めると、彼の体温が一気に雪崩れ込んできて蕩けてしまいそう。
分かり切っていたことだけれど……今更改めて認識するようなことでもないけれど、やっぱり自分はこの人が好きだ。
「い、一之瀬くん……酔ってる……?」
「ふふ。酔ってます……酔ってるので、ぎゅうってしてください」
今日はお酒の力を借りて我儘を言いたい気分だった。
だって、おうちデートなんて初めてで。
こんなに、彼だけを視界に入れていてもいい時間なんてきっと滅多にない。
独り占めしなきゃ、勿体ない。
「ええっと」
「だめですか……?」
「だ、だめじゃないけど」
「もう。部長、そればっかりですね」
「う……すまない」
頬を膨らませて見せると彼は申し訳なさそうな顔をして……恐る恐る、まるで硝子細工にでも触れるかのような手つきでそっと背中に腕が回ってきた。
「く、苦しくないかい?」
「全然。もっと強くてもいいくらいです」
人間は、獣人ほど頑丈じゃない。
自分はただでさえ筋肉量のない弱々しい体格だから、きっとそれを気にしてくれているんだろう。
聊か気にしすぎだけど。
「……一之瀬くん」
緊張していたのか少しだけ低く、唸るようにして呼ばれて心臓の奥がきゅんと鳴く。
彼とソファの背もたれとに挟まれて、射抜くような視線に見つめられて、身動きが取れなくなった。
少しずつ近づいてくる吐息と、アルコールの匂い。
「ん、」
人間と違うふわふわの口元が唇に触れる。
少しだけそのまま触れていたかと思えば、慌ただしく離れていった。
やっとくっきり見えた彼の顔は不安そうに歪んでいる。
「えっと……ごめん、急に」
「ふふ。謝らないでくださいよ」
「で、でも。嫌じゃなかった……?」
「嫌だと思われるようなこと、したんですか?」
「意地悪だな、君は」
あ、ちょっと不満そう。
眉をしかめた彼はもう一度距離を詰めてきた。
背中に回っている手が少しだけ力を増していく。
触れるだけのキスならもう何度かしたことはあるけれど、今日は彼も酔ってるのか少しだけ強気だ。
もしかしたらこのまま……?!
なんて、期待したけれど。
「……今日はもう寝ようか」
まあ。
この人のこういう硬派なところも好きなんだけれど。
好き……なんだけれど。
自分は、もしかしてそういう対象だと思われていないんだろうかなんて思うけれど、キスはしてくれるし自分の行動ひとつで赤くなったり焦ったりしてくれる様子を見ると好きでいてくれてるのは事実だと思う。
というか、そう信じたい。
並んで歯磨きをして、シャワーまで借りてしまって、準備万端な状態で何事もなく迎えてしまった朝。
呑気に窓の外で鳴いている雀の声を聞きながら寝ぼけたまま周囲を見渡した。
男性の一人暮らしとは思えないほどすっきりと整理整頓された寝室。
フローリングもピカピカ。
前にお邪魔したときはこんなに綺麗なフローリングに嘔吐してしまったんだっけか……本当にあの時は申し訳なかった。
こんな部屋に恥じない様、できるだけ自分が寝ていたベッドを綺麗にメイキングしてリビングに向かうとパジャマのままの部長がキッチンに立っていた。
「おや、おはよう。一之瀬くん」
「おはようございます、部長」
目を覚ましたら大好きな人が”おはよう”と言ってくれる。
それだけでこんなに幸せなのだから、やっぱりくよくよ悩むのはやめていつかそういう流れになったらいいな、ぐらいで気長に待つことにしよう。
「朝ご飯もうそろそろできるよ」
「すみません、何から何まで……」
「いいんだよ。君はお客人なんだから、もてなすのは当然だ」
そういって、彼は電気ケトルを手に取ってカップにお湯を注いだ。
苦みをふんだんに含んだ、香ばしい香りが漂ってくる。
「それに、恋人を甘やかしたいと思ってしまうのも……当然だろう?」
昨日のお返しとばかりににやりと口角を上げた彼。
その悪戯っぽい笑顔を見るのは初めてで、思わず顔を逸らした。
「っお、お手洗い借りますっ」
「ははは。いってらっしゃい」
あんな顔もするんだ。
まだまだ彼の知らない部分がある。
これ以上先に進むのは……やっぱりもっと彼のことを知ってからでもいっか。
勝手に持ち上がる口角を両手で押さえながら廊下に出てお手洗いへと歩いていたその時だった。
視界の端っこで少しだけ開いたドアが目に映る。
そういえば部長は昨日の夜、この部屋に入っていった。
寝室が二つあるのかな……?
なんとなく好奇心で覗いてみるとそこは思い描いていた空間とは違い、天井まで届きそうな本棚が置かれて少し煩雑な印象のある部屋だった。
本棚にはぎっしりと本が押し込まれていて、そのどれもが窮屈そうにしている。
どうやら書斎のようだ。
あ、机の上にメガネある。
垣間見えたおじさんくささに思わず笑みをこぼした次の瞬間、そのメガネの隣に写真立てが置いてあるのが見えた。
ここからだとどんな写真までかは見えないけれど……。
「……」
思わずリビングに振り向く。
ドアの向こうからは、かちゃかちゃと部長が朝ご飯を用意してくれているのであろう音が漏れてきていた。
暫く廊下に出てくることはなさそうだと判断し、恐る恐る書斎に足を踏み入れる。
部屋の中には紙の匂いが充満していて、まるで図書館のようだった。
見えていたのは一部だったので気付かなかったけれど足を踏み入れてみると部屋の壁四方向すべてに本棚が設置されていて、なんというか圧巻の光景だ。
ぐるりと部屋を見まわして、改めて机の上に視線を戻し、お目当てである写真立てをそっと覗き込む。
好奇心は猫をも殺す、とはよく言ったものだけれど、こんなにやめておけば良かったと思ったのは初めてだった。
窓の外から差し込む光を反射するその写真立てに映っていたのは、お淑やかに微笑む獣人の女性。
この人は一度見たことがある。
部長の、死別した奥さんだ。
彼が大切にしている年季の入った手帳に挟まっていたあの写真。
付き合う前、特に意図したわけでもなくたまたま、その写真を見つけてしまったんだった。
「あの写真は妻との結婚式の写真だ。……もう、二度と会えないけれど」
そう零す彼の笑顔がフラッシュバックする。
「死別したんだよ。五年前。末期ガンだった。腫瘍が見つかった頃にはもう間に合わなくて」
もう、あんな顔は見たくない。
改めて写真立てに向き直る。
位置的に陽の光を浴びやすいのか写真はすっかり日焼けしてしまっているけれど写真立ては随分綺麗にされていた。
きっと定期的に変えているんだろう。
そっと指先で触れると、じんわりとした温度が返ってきた。
そりゃこんなに暖かくなるくらい陽に当たっていたら日焼けもしてしまうだろう。
「やっぱり、そうなのかな」
ずっとどこかにあった不安。
もしかして自分にそういう気になれないのは、まだ奥さんのことを……。
故人を前に不謹慎かもしれないけれど、この人がとんでもなく羨ましい。
そして、悔しい。
この人が居ないから、今自分は彼と一緒に居られる。
彼の隣を歩ける。
でももし……奥さんがまだ元気でご存命だったとしたら、きっとその間に自分が入る隙なんて少しもなかっただろう。
流石に既婚者だと分かったうえでアプローチをかけるほど非常識ではないけれど。
自分にはこの先も彼とずっと一緒に居られる保障なんてどこにもないのに、確証なんて得ようもないのに、この人はこの先自分と彼とがどうなろうと関係なく、ずっと彼の中で”最愛の妻”という立場を確立し続けることができるのだろうから。
そっと手に取った写真立てを机に戻し、部屋を出てドアを後ろ手に閉める。
悔しさに苛まれながらお手洗いを済ませて、リビングのドアを前に深く息を吐いた。
ちゃんと笑えるだろうか。
そんな不安を抱えたままリビングに足を踏み入れると、彼は変わらず笑顔で出迎えてくれて、その笑みが今はいやに突き刺さる。
「ご飯できてるよ」
「あ、ありがとうございます」
テーブルの上はもうセッティングが済んでいて、綺麗なお皿の上には湯気の立ち上る目玉焼きとベーコン、艶々としたサラダが乗っていた。
一緒の食卓を囲むことは本当に嬉しいはずなのに、ふとした瞬間に先程見た写真立ての中で柔く微笑むあの人の笑顔がちらつく。
彼の顔をまともに見られなくて、差し出されたカップの中で揺らいでいる黒い湖越しにどこか歪な笑顔を浮かべた自分と目が合った。
「コーヒー、一之瀬くんはミルクだったよね」
目の前に出てきた小さなミルク。
お礼を言いながら受け取って黒い湖の中に注ぎ込むと、自分の顔は歪んで消え、その奥からゆっくりとベージュ色が浮き上がってくる。
小さなスプーンで水面を撫でてやるとその色はじわりじわりと広がっていき、カップの中を全て飲み込んだ。
カフェラテのふんわりとした優しい色合いをいつもは綺麗な色だと思うけれど……今は濁っているようにしか見えない。
せっかく部長が作ってくれた朝ご飯だったのに、あまり味も分からず、コーヒーの苦みだけが鮮明に口の中に残っている。
「ごちそうさまでした」
「うん。お粗末様でした」
手を合わせると、目の前に座る彼は満足そうに笑った。
「味は大丈夫だったかい?」
「はい。美味しかったです」
「それはよかった」
目を逸らしかけて、やめる。
こんなに露骨に逸らしたら何か感づかれてしまうかもしれない。
「洗い物、僕がやりますね」
「え? いいよ、私がやるから」
「ダメです。お世話になりっぱなしなんですから、これくらいはさせてください。ね?」
「……わかった。助かるよ、ありがとう」
嬉しいはずなのに。
今は、あまり笑わないでほしいと思ってしまう。
嫌な奴だな、僕。
思わず苦笑いを零しながらキッチンに立った瞬間だった。
「……っ!」
体から力が抜けていき、床に力なく腰を下ろす。
心臓が早鐘を打って視界はぐんにゃりと歪み、呼吸は浅くなっていく。
「一之瀬くん?!」
彼の声が遠くで聞こえた。
なんで……朝、薬飲んだのに……。
「なんっ……で……!」
「一之瀬君、大丈夫か?! 待ってろ、今病院に……!」
「ぶ、ちょ……そこまでは、大丈夫、です」
呼吸が苦しくて、目尻から零れた水分が頬を伝う。
あまりの彼の顔は見えなかったけれど、ごくり、と喉を鳴らす音が聞こえた。
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