こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。
※R18作品のため全年齢部分のみ抜粋しています。
001
「今日はぜってえ譲らねえぞ」
ぎし、とスプリングが軋む。
あまり広いとは言えないセミダブルのベッドの上で、向かい合う二人。
締め切ったカーテンの向こう側からカラスの鳴き声が聞こえる。
随分夜も更けてきた。
今日はさっさと決着をつけてしまわないと、お互い明日の活動に支障が出てしまう。
「僕だって負けられないね。今日は絶対にこっちの気分なんだ」
鋭い視線がかち合い、火花が散った。
見つめ合うこと数秒……示し合わせたかのように二人はそっと拳を握る。
ふわふわの手に覆われた獣人らしい手と、細くすっきりとした真っ白い手。
「いくぞ」
「ああ」
喉を震わせて吠えるような声と同時に勢いよく二人は拳を突き出した。
「じゃんけんぽんっ!」
互いの手元を見下げると、そこには同じ形をした拳が並んでいる。
まあ、初回でこうなるのはよくあることだ。
流石に二十年以上も一緒に居れば思考が似るのは当然なのだから。
「あいこでしょっ!」
二回同じ手が出るのもまあ、確率的に決して低いものではない。
たかだか九分の一の確立だ。
「あいこでしょっ!」
……段々イラついてきたのが目に見えてわかる。
スピードアップしていくこの勝負、決着がつくまでに夜が明けてしまわないかだけが心配になってきた。
「あいこでしょっ!」
「あいこでしょっ!」
「あいこでしょっ!」
「あいこでしょっ!」
濃紺の中に星が沈む静かな夜。
向かい合って座ったのは十一時頃だったのに、気が付けば時計の短針は三を少し過ぎている。
「ぜぇっ、はあっ」
「はあっ、はっ」
じゃんけんすること計百三十六回。
肩で息をする二人が威勢よく突き出した手はまたもや同じ形をしていた。
確率にして、六百十二分の一。
「……っふ、ふふふ……」
先に笑い出したのは空だった。
ブロンドの、本人に似て柔らかく素直な髪がさらりと頬に落ちる。
それに釣られるようにして向かい合っている條の口元もぐにゃりと歪み、鋭い犬歯が覗いた。
「く……くくっ」
一度逸らした視線がもう一度かち合った瞬間、二人は耐えきれなくなったように吹き出す。
「だはははははは!」
「あっはははははは!」
たった今目の前で発生した超常現象に腹がよじれるほど笑った後、二人でベッドに転がった。
二人分の重みでまたスプリングが悲鳴を上げる。
「なんっだあれ! あんなに被ることあんのか?!」
「すごい確率だっていうのは計算しなくてもわかるね」
「っはー、笑った笑った。つか今何時だよ……うげっ、もう三時過ぎてんじゃん。今日は寝ようぜ、明日十時から特売あるんだよ」
「僕も朝から大事な会議があるからもう寝なきゃ」
いつの間にかぐちゃぐちゃになっていたベッドを適当に直し、二人並んで掛布団を被る。
取り合いになるので毛布は一枚ずつ。
几帳面な空が丁寧に布団を直すのを横目に枕に頭を預けると、シーツの上も枕も思ったよりひんやりとしていて、思わずまだ上半身を起こしたままの空の腰に身を寄せた。
「わ、ちょっと條。一回そっち寄って」
「んー」
言われるままベッドの端まで寄ると、空っぽだった隣に体温が滑り込んできて、少しずつ布団の中が暖かくなっていく。
温度を求め、改めて空の頬にすり寄ると、背中に彼の手の平が伸びてきた。
触れている部分から体温が流れ込んできて、ほう、と息を吐く。
「おやすみ、條」
「ん」
「條?」
「…………おやすみ、空」
「うん。おやすみ」
まだ冴えている視界を遮断し、ただ互いの体温に顔を埋めながら、二人はゆっくりと眠りに落ちていった。
002
獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
小学校の歴史の授業では、人間の祖先は「猿人」、獣人の祖先は「犬」という生き物だと教えられているのだけれど、そんなことは彼もとい工藤條はあまり覚えていないだろう。
彼の中で、小学生時代の記憶はあまり思い出したくはない、苦いものなのだから。
「それじゃあ、行ってくるね」
「おう。気を付けろよ」
少しだけ眠そうに時折欠伸を零しながら仕事へと向かった彼は出雲空。
交際歴五年、結婚して三年。
ゴールデン種の獣人である父と人間である母の間に産まれた空、ウルフ種の獣人である父と人間である母の間に産まれた條。
幼馴染である二人は二十数年もの時を共に歩んできた。
これまでの二十数年は、色々あったけれど、本当に色々あったのだけれど、まあ今はそれよりも愛すべき旦那様のため家事をこなさなければいけないので、今回は割愛。
「さーて。ちゃっちゃと終わらすか」
ただ今の時刻は七時半、早速家事に取り掛からないと十時のタイムセールに間に合わなくなってしまう。
まずは洗濯ものを洗濯機に放り込み洗剤をぶち込む。
色物を分けるのも忘れずに。
洗濯機を回している間に掃除機をかけ、ちょうど終わったところで洗濯物をベランダに干し、一息吐く間もなく着替えてスーパーへ。
家から徒歩十分ほどの位置にある大型スーパー。
自社製品が安い、美味いで文句なしの百点で買い物は殆どこのスーパーを利用している。
さて今日のお値下げ品は、と。
手元の献立メモと店頭に貼ってあるチラシとを軽く見比べて目星をつけ、入店。
とりあえず野菜コーナーから全部回っていこう。
明後日はカレーの予定だから玉ねぎと人参と……じゃがいもはご近所さんから貰ったのがあるからそれ使おう。
えーと、卵と……あ、ケチャップもなかったな。
あとはベーコンと、鶏肉……。
「おあっ?!」
思わず声が漏れた。
目の前に山の如く積み上げられたトイレットペーパー達。
その上には自慢げに力強く書かれた”お値下げ品”の文字。
なんだこれ、引くほどトイレットペーパーが安い!
ダブル十二ロールで二百八十九円……?!
いや待て!
おひとり様二個まで……?!
くっそ、分身してえ!
とはいえ残念ながら今のところ自分はこの世に一人しかいないので、とりあえずトイレットペーパーを二つ確保して調味料コーナーへ。
「えーっと、調味料コーナーは、っと」
ケチャップを探して棚を眺めていると、視界の端で灰色……?
いや、緑……?
わからんが、不思議な色がちらついた。
思わず視線をずらすと、自分より三十センチくらい背の低い小柄な人が一生懸命棚の上の方に手を伸ばしている。
確かにもう少しで届きそうな位置だけれどちょっと危なっかしいな。
「ううん、もうちょっ……と……」
スーパーの棚は基本的に高めに設計されていて、獣人向けの食べ物は上の方、人間向けの食べ物は下の方に配置されている。
獣人と人間との混血が増えてきたというのもあって人間の見た目でも獣人の見た目でも同じものを食べるようにはなってきたけれど、純正の獣人だと食べられない人間用の食材なんかがあったりもする。
代表的なものだと、玉ねぎとか。
あんなに美味しいものが食えないなんて、可哀そうに。
「うっ、ん……」
相変わらず背伸びをしている彼の左手の薬指でシルバーの指輪が光る。
獣人向けの食品コーナーに手を伸ばしているところを見ると、きっと結婚相手が獣人なんだろう。
思わずハラハラしながら見守ってしまっていたら、彼の手はようやっと目的のものに手が届いたんだろう、ぱあっと明るくなった。
と同時に、ぐらり、と棚が揺れる。
あまり立て付けが良くなかったのか棚が一つ分丸々、小さな彼の頭上目掛けて傾いた。
「あッぶねえ!」
握っていたカートがひっくり返るのも厭わず、思わず駆けだして、小さな身体を右手で抱きしめながら倒れかけた棚に手の平を叩きつける。
少し大きな音がなったけれど、上にあった商品がいくつか落ちただけで済んだようで深く息を吐く。
間に合ってよかった……。
棚の揺れが収まったのを確認してからそっと視線を下ろすと、腕の中でぽかんとしている彼と目が合う。
「あ、ありがとうございます……」
髪と同じ色の透き通った瞳には自分の顔が反射していて、一瞬息が止まった。
落ち着いていて綺麗な色。
宝石のようなその色に思わず見蕩れてしまって、数秒の沈黙の後、彼の薬指にある指輪のことを思い出し慌てて離れた。
「あ、えっと、怪我はないか?」
「大丈夫です。すみません、素直に踏み台使えばよかったですね」
はは、と笑いながら彼は頬を掻く。
その時に初めて彼の後ろに現れた巨大な影に気が付いた。
巨体の持ち主はゆっくりと近づいてくると小柄な彼の顔を覗き込む。
「まこと」
「あっ、伊墨さん」
ああ、旦那か。
平日だからてっきり一人だと思ってたけど一緒だったのか。
っつーか旦那でけえな。
身長だけで言えば俺と同じくらい……いや、ちょっと高えな。
恐らくだけど純正の獣人。
見た感じ柴種だな。
柴種はすっきりしてるけど筋肉量はしっかりあるうえに頭いいやつが多いから、喧嘩になるとダルいんだよな。
……って、いやいや待て待て、なんで喧嘩する前提なんだ。
「何かあったのかい?」
「上の商品を取ろうとしたら棚が倒れてきちゃって……この人が助けてくれたんです」
「そうだったのか。うちのが迷惑かけたね」
穏やかな笑みを浮かべた旦那はぐいと、まことと呼ばれた彼の肩を抱き寄せる。
と同時に向けられた視線に思わず固まった。
なんだこいつ……にこやかだけど、目の奥が笑ってない……。
守るためとはいえ咄嗟に抱きしめちゃったの見られたか?
「もう。今度は勝手に離れたらダメだからね。じゃあ、私たちはこれで」
「えへへ、すみません。お兄さん、ご迷惑おかけしました」
「いや……大丈夫だ。今度からは高いとこにあるやつはそこの旦那様に取って貰えよ」
「ふふ。そうします」
少しだけ頬を染めた小さな彼に見上げられた旦那も釣られてか頬を染める。
最後に小さく頭を下げて、二人は仲良く去っていった。
……なんか俺、当て馬みたいになった?
「なんだかなあ」
まあ幸せなのはいいことだ。
なんとなく、彼らとはこれっきりにはならない気がする……気のせいかもしれないが。
そんなことをぼんやりと思いながら、今度こそ、タイムセールへと勇み足で向かうのだった。
◇ ◆ ◇ ◆
「っはー……」
鬼気迫る奥様方に揉みくちゃにされながらもなんとかタイムセールを切り抜け、ぐちゃぐちゃになった毛並みを直す暇もなく帰宅。
ふいと時計を見上げると十二時。
戦利品たちを冷蔵庫にしまい、エプロンを外してソファに腰を下ろし、やっと一息。
真っ白い天井を見つめること数十秒、窓の外から聞こえる雀の鳴き声と、とっくに空っぽになっていた胃袋が零した悲痛な鳴き声とが重なった。
「……なんか食うか」
空が朝食を食べないタイプなので自分の分も用意していないが本来自分は三食しっかり食べなければ活動できない生き物なので、もう腹が減って死んでしまいそうだ。
折角なので空には内緒でちょっと奮発して買った三百円ぐらいの冷凍のラーメンをレンジ調理し、ついでに冷凍の餃子をフライパンで焼いてテーブルの上に並べる。
うん、プチ贅沢。
餃子にはラー油と醤油もいいけど、俺は断然、酢胡椒派。
これがさっぱりして美味いんだ。
皿を洗う時に面倒にならないように(という大量に塩分を摂取しているという罪の意識をどうにかするための言い訳)汁までぺろりと飲み干し、最後の一つの餃子を口に放り込んで、氷がすっかり解けて冷え切った水を喉の奥に流し込む。
「っぷはー」
最近涼しくなってきたのでやっと首回りを包む癖の強い毛並みが愛おしくなってきたところだったのだけれど、まだ流石に暖かい室内で一味をたっぷり放り込んだ味噌ラーメンとラー油たっぷりの餃子のタレを堪能した後は暑くてしょうがない。
空気の入れ替えもかねてちょっと窓を開けようと立ち上がったその時、ふいと意識の端に時計の針の音が入り込んでくる。
「あっ、やべ」
食事に集中していたらいつの間にか時計の針は正午をもうとっくに数時間も過ぎていた。
慌てて皿を洗い、お風呂とトイレを掃除して床掃除はルンバに任せつつ、少しずつ陽が落ち始めてきたところで夕食の仕込みに入る。
今日の晩御飯は、鮭のバターホイル焼きときのこの味噌汁、里芋の煮物とたくあん。
鼻歌交じりに今日の特売でゲットした鮭を椎茸やコーンと一緒にホイルに放り込み、下味をつけてバターを乗せてグリルに投入!
鮭の脂が跳ねる音を聞きながら、小さな鍋にミネラルウォーターを注ぎ温めつつ、なめこ、えのき、しめじ、豆腐、油揚げを切る。
まずは油揚げを鍋に入れて火にかけ、少し後にきのこと豆腐も満を持してダイブ。
出汁と味噌を溶かして沸かさない様にじっくり煮込む。
あとは基本的に待つだけだ。
煮物は昨日の残りを温めるだけだし。
その間にお皿を用意して、朝のうちに予約しておいた炊飯器が動き出したのを確認しつつふいと時計を見上げると、短針はもう六を少し過ぎている。
慌ててソファの上に放置しておいたスマートフォンに駆け寄ると、トークアプリの通知が画面に浮かび上がっていた。
もちろん、彼からの。
{ 仕事あがった。今から帰るよ )
ベタにも自分とのツーショットのアイコンが画面に表示され、顔に熱が集中する。
昨今は職場の人ともこういうトークアプリで業務連絡やらをする時代になっているのだから、こんな小っ恥ずかしい画像を使うのはできれば辞めてほしいものなのだけれど。
だがまあトークアプリのアイコンなんて目を凝らさないと見えないぐらいのサイズ感だし、それはまだいい。
もっと恥ずかしいのは彼のスマートフォンの待ち受けだ。
いつの間にか盗撮されていた寝顔という、これまたベタに死ぬほど恥ずかしいやつ。
幾度も変えろと懇願しているのだがどうやら彼の意思は固いらしい。
あんまりにも硬い鋼の意思にできるだけ外でスマホを起動させないでほしいということで話は落ち着いているが、多分彼はそんな約束も覚えていないだろう。
{ 了解 )
既読が付くのも確認せずぶっきらぼうにそれだけを送るとスマートフォンを再びソファに放り投げ、キッチンに戻る。
バターの焦げる匂いが対面キッチンを飛び越えてリビングまで充満していて、キッチンに近付くにつれ脂が跳ねる音が耳先を撫で上げた。
食欲をそそる魅惑的なミュージカルに思わず喉の奥がごくりと鳴る。
我慢できずにそっとアルミホイルを開くと黄金に輝く泉がふつふつとその身を震わせていた。
手に持っていた箸で鮭を解し、少しだけ口に含む。
じゅわ、と舌の上でバターの塩味と脂の甘みが混ざり合い、次いで柔らかい鮭の香り。
これだけで大盛ご飯一杯食いきれそうだ。
米が炊けるまであと十分。
恐らく彼が帰ってくるのはそのもうちょっと後。
米を蒸らす時間があることを考えれば完璧な時間配分なんだけれど、先にこっちの胃袋が暴れだしてしまわないかが心配だ。
とりあえず折角いい感じに焼けた鮭をできるだけ冷めないようにアルミホイルでもう一度包み直してグリルの中に戻しつつ、口の端から溢れた涎を手の甲で拭う。
早く帰ってきてくれ、空……!
そう考えながら今にも死んでしまいそうだと空腹を訴える腹部をそっと撫でた。
◇ ◆ ◇ ◆
焦らされること数十分。
テーブルセッティングまで終えて後は座って食べるだけ。
そろそろ空腹が限界を訴え出した瞬間、少し遠くから聞き慣れた足音と、金属同士が擦れる音が聞こえて肩が震える。
少し急ぎ足で玄関に顔を出したところで、錠が回って玄関のドアがゆっくりと開いた。
外の匂いを纏って帰ってきた空は玄関で深呼吸をすると、安心したように肩を落として廊下に鞄を下ろす。
靴を脱ぎながら顔を上げた瞬間にばっちりと目が合うとふにゃりと笑った。
彼はいつもこうだ。
仕事中はきっと気を張ってるんだろう、家の玄関に足を踏み入れて俺の顔を見た瞬間に安心したように笑う。
優しくて頼まれると断れない性格から色々苦労したはずなのに、社会人になってからもチームリーダーだったりプロジェクトリーダーだったりまあ色々やらされているらしい。
重たい荷物は下ろしていいのに、真面目なやつ。
こいつが本当はいい加減で面倒くさがりでちょっとだけ口が悪いってこと、周りの奴らは知らないんだろうな。
「ただいまあ、條」
「おう。飯出来てるぞ」
「ありがと。すごい良い匂いする」
上着を脱いだ空をおいて一足先にリビングを抜けてキッチンに戻り炊飯ジャーを開くと、米の甘い香りが鼻先を撫でて一度忘れていた空腹が再び頭を擡げる。
ぐう、と不満を漏らす腹の虫を睨みつけながら真っ白い柔らかな空間にそっとしゃもじを差し込む。
「うわ、これ鮭? 美味そう」
「こら触るな。手ェ洗って着替えてこい」
「はーい」
ぱたぱたと遠くなっていく足音を聞きながら、色違いの茶碗に米を盛りテーブルに置いた。
味噌汁も同じく色違いの汁椀に注いでいるところで着替えまで済ませた空が戻ってくる。
まだちょっとだけ濡れている手を振りながら戻ってきた彼は、テーブルの上を見渡して目をきらきらと輝かせたかと思うと、我先にと椅子に腰を下ろした。
「食べていい?」
「ったく。しゃーねーな。ほら味噌汁」
「ん、いただきまーす」
行儀よく手を合わせた彼は何から食べようかと箸を空中に漂わせている。
数分悩んだ彼はとりあえずは味噌汁を啜ることにしたようだ。
「っはあ~……なめこ美味い……」
「七味入れるか?」
「うん」
相変わらず美味そうに食うなあ。
主夫冥利に尽きるってものだ。
「美味いか?」
「うん。今日のも美味いよ」
「そりゃよかった」
食事に夢中になっている空をチラ見しつつ、味噌汁を喉の奥に流し込んだ。
その時、テレビから何やら仰々しい音楽が流れてきて思わずそちらに視線を持っていく。
始まったのはドキュメンタリー番組で、題材は小学校や中学校での「いじめ」についてだった。
MCと思われる人間が喋りだした瞬間、向かいに座っていた空が慌てたようにリモコンを手に取る。
「條、チャンネル変えていい?」
「……おう」
結局、番組表を一周しても観たいものが見つからなかったのか彼は静かにテレビを消してリモコンを元あった場所に戻した。
心配そうな顔をする空に、思わず苦笑いが漏れる。
「そんな顔すんなよ。もう十年以上前だぞ? 今更気にしてねえよ」
「……だって」
「ったく。そんなに気にされたら逆に辛いっての」
そう。
小学生時代、自分は「いじめ」に遭っていた。
いや……いじめなんてぬるい言い方をするべきではない。
大なり小なり、あれは迫害だ。
ただ、虐められる側にも理由がある、とは言わないけれど、虐める側には確実に虐める何かしらの理由がある場合というのが殆どで、例えば生活環境の違いだったり種族の違いだったり家庭環境の違いだったり、あるいは自分の好きな人を取られただとか無視をされただとか小さなことまでその理由は多岐に渡るだろうけれど、自分の場合はまず大きな要因として、種族の違いだった。
あらゆる書類を書くのが嫌になる、自分の種族である”ウルフ”。
遥か昔、獣人の祖先といわれている「犬」がまだ存在していた時代、人間は自分たちの飼っていた「犬」と狼とを交配させ、ウルフドッグという種族を作り出した。
目的がどうだったかは定かではないけれど随分迷惑な話で、そんな純正のウルフ種を父に持つ自分は祖先が確実に人間に飼われていたということから手始めに家畜だと蔑まれた。
不幸というものは連鎖するもので、小学二年の夏、父が過去に暴力事件を起こし懲役していたという事実が学校中に知れ渡り、迫害はエスカレートした。
さらに最悪なのは自分の容姿。
一般的に獣人と人間との混血は外面の要素だけでいえば人間あるいは獣人に完全に寄って産まれる。
しかし極稀に人間と獣人とのどちらもの身体的特徴をもって産まれる子供がいる。
違うのは見た目だけなので一人でいる分には実生活には問題ないのだが、世間様というものは随分と無情で、人間でも獣人でもない見た目をしている存在を影で「異形」と呼びあらゆる面で蔑むという常識が浸透していた。
それゆえに、クラスメイトだけではなくクラスメイト達の親にまで自分は奇異の目を向けられていた。
家畜であったウルフ種の血を引き、更に「異形」で、父が過去に傷害事件を起こしているというトリプル役満。
逆にこれだけの要素を持っていると、迫害を受けない方が不思議だと今となっては思えるぐらいだ。
「條? 大丈夫?」
空の肌色の指先が頬を撫でる。
あの柔らかな肌が、体毛の生えていない指先が、自分にもあったなら。
種族的に優秀と称えられエリートと持て囃されるゴールデン種の血が自分にも流れていたら。
優しく穏やかな父と母とに囲まれる生活を送れていたら。
昔は幾度も望んだ。
切望して、諦めた。
だからまあ恥ずかしい話、一時期はとんでもなく荒れていたのだけれど、そんな自分が今こうしてただ旦那の帰りを待ちながら飯を作り家事をする生活を送れているのは、
「おーい、條? もしかして目開けたまま寝てる?」
目の前にいるこいつのお陰だ。
こいつがいてくれなかったら……自分は今頃、どうなっていたんだろうと、たまに考える。
二十数年にもなる腐れ縁。
その糸はきっといつ切れてもおかしくなかっただろう。
いや、多分何度か切れてるだろう。
俺が切ったんだから。
ただその度に、こいつがわざわざ固く結び直しては性懲りもなく身を寄せて力なく俺の手を引くもんだから、殆ど根負けしてしまったような感じだ。
あの時変な意地を張り続けなくてよかったと、大人になった今は心から思う。
だからこそこいつは、自分にとっての救世主で。
こんなに尽くしてやりたくなるのもきっとその所為だ。
自分の手で作った料理にがっつく姿に心臓の奥がむずむずとくすぐられてしまうのも、その所為だ。
「いんや。なんでもない」
「あっ、起きてた。もし疲れてるんなら無理しないでよね、條は辛くても何にも言わないんだから心配になるんだよ」
そう言って、困ったように笑う顔に腹が減ったような気がしてしまうのもその所為だろう。
◇ ◆ ◇ ◆
「條、なにそれ」
頬を上気させて風呂場から戻ってきた空はソファに座ってぼうっとバラエティ番組を眺めていたこちらの手元を覗き込んだ。
眼鏡をかけていないからか少しだけ見辛そうに目を細め、眉間に皴が寄っている。
くしゃくしゃの眉間を思わず人差し指でぐいと押した。
あ、戻った。
「ハーゲンダッツ。冷凍庫にもう一個あるぞ」
「やった。なんかお祝い事?」
「なんか食いたかったから買った」
「はは、素直でよろしい」
ハーゲンダッツを取り出してきた彼はローテーブルの上に放置されていた眼鏡を装着し、鼻歌交じりに蓋を取った。
「ん、甘」
「そりゃアイスだからな」
「そっち何味?」
「キャラメルマキアート? みたいなやつ」
「甘そ。一口ちょーだい」
「ほらよ」
半分ぐらい残っているアイスを一口掬って、彼の目の前に差し出す。
開いた口の端から見える歯は自分とは違って鋭く尖ってはいない。
アイスを数度味わうように口を動かしていた空は改めて、甘っ、と零す。
「こっちのも食べる? ほい」
差し出されるままプラスチックのスプーンを口に含む。
噛み砕いてしまわない様、慎重に。
「美味しい?」
「ん」
その時だった。
何となく流しているだけだったテレビから、どこかで聞いたことのある曲が流れだす。
思わず画面に視線を向けると幼い頃に見ていた子供向けアニメが放送されていた。
左上に映し出された「再放送」の文字と荒い作画、余っている画面の幅に時代を感じる。
「うっわ、懐かしい。これよく一緒に見てたよね」
そういえばそうだった。
半端ものだと馬鹿にする奴らばかりだった空間の中で、こいつだけが種族ではなく俺自身を見て、隣にいてくれて、同じ景色を見てくれていた。
目を見て、手を握って、話をしてくれた。
「ああ」
だけど人間のコミュニティというのは難儀なもので、何か一つ共通の敵を作ったうえで築かれた絆は皮肉にもとてつもなく硬い。
それがたとえ生徒や先生、学校中から慕われている秀才の出雲空であったとしても、その共通の敵を同じく敵と認識していないと知られてしまったのなら迫害の対象になってしまう可能性は十二分にあった。
だから、俺は。
「? どうした、真剣な顔して」
視線を感じて画面から目を離す。
目が合うと同時に指の間に温度が滑り込んできて、まるで逃がすまいとでも言うように、ぎゅうと握られた。
「昔の事、思い出してたんだ」
不安そうな声を出しながら、空は互いの鼻先が触れてしまいそうなほどに近付いてくる
心臓の音まで聞こえてしまいそうな距離。
懐かしい音と、絡み合う視線だけが五感を支配した。
「そんな顔しなくても、俺はもうお前から逃げない。だから安心しろ」
「わかってる……戻ってきてくれてありがとう、條」
「当時のお前のへなちょこパンチ、随分効いたからな」
「それは何より」
弱いくせに、力なんてないくせに、こいつはこうやって時々、力強く笑うんだ。
そうやって迫害されていた俺のことも、荒れていた俺のことも、連れ戻そうとしてくれた。
「ん、」
絡み合った指先に、互いを握り合う手に、もっと多くを求めるようにと自然に力が入っていく。
どちらともなく触れた唇は吐き気がするほど甘ったるくて、癖になってしまいそうだ。
いつ彼の肩を押してマウントを取ってしまおうかと機会を伺っていると、ぐるんと視界が反転した。
ぺろり、と口元を舐めた空はにんまりと口角を上げ、楽しそうに笑う。
白い光を背中に浴び、影が下りた優し気なタレ目が意地悪く細められるその瞬間が、堪らなく好きだ。
好き、なのだけれど。
「……今の流れは逆だったろ」
納得がいかない。
こちとら夕飯の時からずっとお預けをくらってるんだ。
今更大人しく抱かれるなんて出来そうにない。
「それはそれ、これはこれ」
「通用するか! お前いっつもムードがどうちゃらとか文句言うだろうが!」
「えー? 知らないよ、僕そんなこと言わないし」
「言ってんだよ! おいどけっ……ちょ、おい、やめろ固めんな固めんな! 痛てててててッ」
数分の格闘の末に俺が10カウントを取られ(器用なことにウエイトがなくても何とかなる寝技を使ってきやがった。いつ覚えたんだこいつ)、節々が痛むなか今日は大人しく組み敷かれてやることにした。
というか頷く他なかった。
関節を外されるのだけは遠慮したい。
あれめっちゃ痛いんだよ。
「さて。前座はこの辺にして」
「お前途中から楽しんでただろ……」
「何のことかな」
「ッのやろ……覚えとけよ」
「はい脱いでくださーい」
「だからもっと雰囲気どうにかしろっつーの!」
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