【試し読み】今日はどっちの夢を見る?

 こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
 冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。
 ※こちらの作品はニ冊セットになっているためお試し読みもそれぞれご用意しています。

 條side

 少し遠く、セミが命をかけて生涯の番を探す音が響く。
 高く上がった入道雲を背に、俺はいつもの公園を駆け回っていた。

「あれ」

少しだけ傾いた陽が眩しい。
 放課後逃げるようにして教室を出ていってしまった彼の姿をあちこち探していると、ブランコの近くを通りかかった時どこからか噛みしめるような小さな嗚咽が聞こえてきた。
 その声と彼の匂いとを辿ってかまくらのような形をした遊具を覗き込む。

「あ、いた」

 あまり広くはない湿ったその空間の中で、彼は膝を抱えて小さく縮こまっていた。
 彼に倣って遊具の下に滑り込むと、昨日降った雨の影響か少しだけ地面が自重で沈む。

「そら」

 名を呼びながら、相変わらず膝を抱えて俯いている彼の顔を覗き込んだら、ふいと顔を逸らされてしまった。
 自分の服をぎゅうと握って離そうとしないその様子にどうしたもんかと悩んだ末、彼の正面にしゃがみこんで少しだけ膨らんでいる両頬を手のひらで包み込む。
 抵抗する彼の顔を無理やり正面に向かせて、ぐじゅぐじゅになった透き通るような瞳をじいと睨みつけた。

「なんでさきかえったんだよ」

 すると彼は気まずそうに顔を逸らす……ことはできなかったので、視線だけをずらす。
 開いては閉じてを繰り返すその口元を見ながら彼の舌の上に溜まっている言葉が聞こえるようになるのを待った。

「……った、から」
「あ?」
「さみしかった、から」

 やっと絞り出したらしいその声は震えている。
 寂しかったから?
 その言葉の意味を理解しかねた俺は首を傾げた。

「じょうが、とられちゃう、って……おもった、から」

 そう言うと、タガが外れたのか若しくは堪えきれなくなったのか彼の瞳から大粒の涙がぽろぽろと頬を伝う。

「ずっと、ふたりだったのに……っ、いろんなひと、が、いて……じょう、どこもいかないで……ぼくをおいてかないでよ……」

 俺より一回り小さい指先は震えながら俺の服の裾を弱々しく掴んだ。
 その瞬間、脇においてあったランドセルが倒れて、お揃いで買った給食袋が砂利に塗れる。

「ばーか」

 そう言うと彼は目を白黒させて数度瞬きをした。
 涙でぐちゃぐちゃになった頬を手の甲で拭ってやり、震える手を掴んで無理やり引く。
 彼の軽い体はあっさりと持ち上がり、俺はその手を掴んだまま湿っぽい遊具の下から陽の光が降り注ぐ真っ白い砂の上にほとんど引きずるようにして空の手を引いたまま飛び出した。
じりじりと照りつける日差しが心地良い。

「おれがおまえをおいていくわけないだろ!」

 まだ世界に俺とお前との二人しかいなかった頃から、この公園は二人の秘密基地だった。
 なんの変哲もないただの公園だったけれど、彼がいれば遊園地にも水族館にもお店にも、闘技場にだってなる。

「でも……じょう、がっこーだといっつもほかのともだちといる……」

 少しだけ不機嫌そうに頬を膨らませたその様子に思わず笑ってしまった。
 小学校で常に二人だけでいるということは不可能だということはわかっているのだろう、その控えめな、でも驚くほど自分勝手な独占欲に不思議と悪い気はしない。
 俺だって、お前だけがいればいいと思っているのだから。

「じゃあさ、ここで会おう」

 二人の秘密基地。
 ここにいれば、二人だけになれる。
 ここにいれば、世界に二人だけになる。
 互いの家のちょうど中心辺りに位置するこの小さな公園は、あまり人が立ち寄らない。
 少し行ったところにここより何十倍も大きな国立公園があるからだ。
 だからこそ、二人だけで過ごすにはもってこいの場所。
 静かで、ちょっぴりもの寂しくて、でも安心できる、俺たちの関係に似ている。

「さみしかったら、ここに来いよ。おれもくるから。で、ふたりだけであそぼうぜ」

 すると彼はぱあっと顔を輝かせて、何度も頷いた。

「やくそく、ね?」
「ああ。やくそくだ」

 差し出された小指に自分のそれを絡ませると、ひんやりとした体温が流れ込んでくる。
 それがなんだか心地よくて頬が緩んだ。

「ね、じょう」
「ん?」
「だいすき」
「おう。おれもだぞ」

 彼の言う”だいすき”と、俺の言う”だいすき”に多少の齟齬があったことを知るのは、もう少し先のこと。



001

「はっ」

 手元でスマートフォンが震え、飛び起きた。
 ぼうっとする頭を軽く振ってソファに沈んでいた上半身を持ち上げる。
 ふいと窓に視線を移すと外はすっかり暗くなっていて、窓越しに左側の毛だけが寝癖でぐちゃぐちゃになった自分と目が合った。
 窓の向こうの自分はぱちくりとまばたきを繰り返した後、さあっと顔が真っ青になっていく。

「えっやべっ今何時?!」

 慌てて部屋にかけてある時計を見上げると長針は五を少し過ぎた辺りだった。
 それを見た瞬間、安堵の息を吐く。
 まだ五時か……良かった。
 スマホを手に取りながら少しだけ記憶を漁る。
 夜ご飯の仕込みをした後ちょっと眠くてソファに横になった辺りで記憶が途切れているところを考えるとそのまま寝落ちてしまったんだろう。
 それにしても、と窓の外に視線をずらす。
 まだ五時過ぎだというのに外はすっかり影を浴びて街灯の光だけが煌々としていた。

「暗くなるの早くなってきたなー」

 寝落ちで凝り固まってしまった体を伸ばし、思い出したようにスマホに目を落とす。
 そっと画面に触れると表示されたのは時間と通知。
 いつも使っているスーパーの特売を教えてくれるアプリと、メッセージアプリだ。
 あっ明日あそこのスーパー卵特売なんだ。
 行かなきゃ。
 そんなことを思いながらメッセージアプリを開くと、一番上に表示されている未読メッセージの通知に目が行く。
 空からだ。
 今から帰る旨とウサギが「だいしゅきー」と叫んでいるスタンプが浮き上がっているトーク画面に、ぶっきらぼうに「了解」とだけ放り込んでスマホをソファの目に前にあるローテーブルの上に置く。

「よし、仕上げするかー」

 ダイニングの椅子にかけてあったエプロンを装着し、炊飯器が稼働していることを確認。
 前に炊飯予約をし忘れたことがあってからキッチンに入る度に炊飯器がちゃんと動いているかを確認するのが癖になった。
 よしよし、大丈夫だな。
 冷蔵庫を開けて数時間前に作ったハンバーグのタネを取り出す。
 今日の晩飯は煮込みハンバーグ。
 今朝唐突に食べたくなって作ることにした。
 デミ缶がないので即席デミグラスもどきだけど。
 熱したフライパンに軽く油を引いて、ハンバーグのタネを乗せる。
 じゅう、と美味しそうな音がなって跳ねる油を時折拭き取りながら、しめじと玉ねぎを切って寄せておく。
 ハンバーグに焼き目がついたらひっくり返し、片面にも焼き目がつくまでの間に包丁とまな板を洗ってと。

「~♪~♪」

 思わず鼻歌が漏れた。
 最近テレビでよく流れてる曲。
 なんか年末の歌番組にも出場が決まったとか。
 自分も空も年末はお笑い番組派なのであんまり見ないけど。

「あっ年末の寿司予約しないと」

 旦那である出雲空とは幼い頃からずっと一緒に年末を越してきた。
 互いの母親が親友同士だったのもあり記憶もないほど幼い頃の写真には、ほぼ確実に空も一緒に写っている。
 そういえば、と先程見たような気がするぼんやりとした夢を思い出した。
 随分懐かしい夢。
 今でこそバリバリ社会で仕事をしている上に人望を一身に集めてチームリーダーだかを任されている彼だが、幼い頃は人見知りで引っ込み思案、いつも端っこで本を読んでいるような子供だった。
 二人で遊ぶ時はきゃっきゃと楽しそうに駆け回るのに、他に誰かがいるとどうやら声が出なくなってしまうらしい。
 だからか、小学校に入ってから彼は一人でどこかに隠れて泣いていることが増えた。
 まあ高確率でいっつもの公園の遊具の中にいたから探すのは簡単だったけど。
 そういえばあの公園、しばらく行ってないな。
 まだ残ってるんだろうか。

「あっやべ」

 香ばしい匂いがしてきて我に返り、慌ててハンバーグをひっくり返す。
 危ない危ない、焦げるところだった。
 いい感じの焦げ目がついていることを確認したところでハンバーグを一旦皿に移して放置。
 一度フライパンについた油を拭き取って、そのフライパンで小麦粉を炒る。
 この手法は初めてやるのでちょっとだけ緊張していた。
 少し前にお昼の番組で紹介されていたレシピを書き留めておいたものなので作るのは初めてなのだ。
 うまくできるといいけど。
 換気扇を回して小麦粉を炒りつつ、もう一つ大きめのフライパンを出してそっちにはバターを投入。
 大きめのフライパンが温まったところでしめじと玉ねぎを入れてバターと絡める。
 おお、いい匂い。
 小麦粉も焦げないように時折混ぜつつ、きつね色になるまで我慢。
 調理中にシェフが言っていた通り焦げたような匂いがしてきて少しだけ肩が跳ねた。
 なんだろう、そうだ、花火の匂いがする。
 これご近所さんに火事と間違われないかな、大丈夫かな。
 更に合間を縫ってボウルにウスターソースとケチャップ、コンソメ、水を入れて混ぜておく。

「そろそろいいかな」

 小麦粉がちょうどよくきつね色になったところでバターで炒めていた方の大きいフライパンに炒った小麦粉を投下。
 しめじと玉ねぎに小麦粉を絡めたらボウルに混ぜておいたソースを入れて伸ばす。
 そこにさっき焼いておいたハンバーグも投入したら蓋をして弱火でコトコト二十分。
 タイマーセットしてっと。
 ちなみにうちのキッチンはIHで、タイマー機能がついてる。
 タイマーが切れたら自動で火も止まるので便利だ。
 さて、煮ている間に空になったもう一個のフライパンを洗って、やっと一息。
 手が空いたのでテーブルの上に放置していたスマホを覗き込む。
 通知はなし。
 メッセージアプリを開くが、新着の通知はなかった。

「……あれ」

 おかしいな。
 普段の彼なら速攻でスタンプやら何やらで返事が来るのに、今は既読もついていない。
 疲れてんのかな。
 折角の週末だし今日は前にご近所さんから貰ったいいワインでも開けようか。
 そう思いつつ、スマホをもう一度テーブルに置いてキッチンに戻る。
 十分経ったところでハンバーグをひっくり返してコトコト。
 ここでちょっと味見。
 うーん、ちょっと酸味が強い……煮ていくことである程度は飛ぶだろうけれどもう少し甘みが欲しい。
 というわけで砂糖を投入して少し馴染ませたらもう一度味見。
 うむ、いい感じ。
 まろやかさを出すために牛乳も一回し。
 この濃いベージュの中に白がまだらに馴染んでいく様子を見ているのが好きだったり。
 あとは残り時間煮るだけ。
 冷めちゃうから盛り付けは空が帰ってきてからだなー、なんて思いつつソースがぐつぐつと煮だっている様子を眺める。
 あ、チーズ乗っけよう。
 冷めたら固まっちゃうからこれも空が帰ってきてからだけど。
 ふいと時計を見上げると時刻は六時を回っている。
 そろそろ帰ってくるかなーなんて思いながら、スマホを手にとって一度ソファに腰掛けた。

「……?」

 あれ、まだ既読ついてない。
 その瞬間嫌な予感がぞわりと背筋を駆け上がる。
 事故? 事件?
 電話してみたほうが良いだろうか……迷惑かな。
 いま電車の中とかかもしれないし。
 いやでも電車の中だったとしても、電話が来たら気付いてメッセージくれるかもしれない。
 何かあってからでは遅いし電話かけてみよう。
 そう思ってメッセージアプリの電話のマークに触れようとしたときだった。
 チャイム音が家中に鳴り響いて肩が跳ねる。
 空が帰ってきたかと一瞬安心しかけたが、家の鍵を持っている彼がチャイムを鳴らす必要はない。
 恐る恐る、玄関に向かってスコープを覗き込むとその向こうに立っていたのはご近所さんだった。

「まことさん?」

 玄関を開ける。
 朝桐まことさん、ご近所に住む新婚さんだ。
 近くのスーパーで遭遇することが多く、それから仲良くなった。

「じ、條くんっ、ごめんねっ突然……」

 肩で息をした彼は胸元に手を当てて必死に呼吸を整えようとしている。
 その様子にただ事ではないと察し、心臓のあたりがざわついた。

「あのね、空くんがっ、なんかガラの悪い人たちに絡まれてて……っ、連れてかれちゃったの……! 僕、助けられなくって……慌てて教えに来たんだけど……っ」

 その言葉を聞いた瞬間、靴の踵を踏むことも気にしないままその辺にあったスニーカーを足に引っ掛けて玄関を飛び出す。
 スマホだけを握りしめて。

「えっ、ちょ、條くん?!」
「ありがとうまことさん!」
「まっ……鍵開けっぱ……條くーん!」





002

獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
 小学校の歴史の授業では、人間の祖先は「猿人」、獣人の祖先は「犬」という生き物だと教えられていた。
 そんな世界に産み落とされた二つの命が出会ったのは、必然でも運命でもなんでもなく、偶然であった。
 偶然にも母親が親友同士で、家が近所で、お互い結婚してからも家族ぐるみの付き合いを続けていて、それでいて同じ時期に妊娠が発覚して、同じような時期に出産をしたと言うだけの話。
工藤くどうじょうと、出雲いずもそら
 まだ自分の名前も認識していない頃から、互いを認識し、触れ合い、互いの心音を聞いた。
 母親二人の趣味だったけれど、おそろいの服を着て街を闊歩した。
 歩けるようになってから握っていたのは、母親のでもなく父親のでもなくお互いの手。
 意思表示ができるようになった頃、今までは母親に連れられて行くのが当たり前だった互いの家に自分たちの意思で行き来するようになったし、互いの家の中心あたりにある公園に植えられた巨大な植木の下、遊具の中、ブランコの上は二人の秘密基地になった。
 世界にまだ二人しかいなかった頃。
 空がいれば、それでよかった。
 遠回りをした。
 回り道をした。
 だけどそれでよかったんだ。
 これは、俺が幸せになるまでの物語。

「じょー! サッカーしよー!」
「おう!」

 クラスメイトに誘われて、俺は最後の一口を舌の上に放り込んだ。
 飲み込むより前に給食の食器を下げてまだ少し口の中に残っているカレーの風味を味わいながら校庭に出る。
 遊びたいざかりの小学生にとって貴重な昼休み。
 少しでも長く休憩時間を確保しようと殆ど噛まずに給食時間を終えて教室を飛び出していく俺に、先生がよく噛んで食べるように注意するけれど、なんのその。
 悪ガキだったなあ。

「そっち行ったぞー!」

 小学校一年生の夏。
 少しずつ学校にも慣れてきて、集団生活にも余裕が出てきた頃。
 何故かわからないが気がつけば俺の周りには人が集まるようになっていた。
 望んだわけでもなくそうなるように動いたわけでもない。
 だからこそ、小学校に入学してすぐの頃に空から可愛らしい嫉妬を受けてしまったわけなのだけれど。

「よっしゃゴール!」

 俺が蹴り上げたボールはキーパーの脇を通り抜けて白いネットに吸い込まれていった。
 ばし、と心地良い音が夏空に響く。
 と同時に同じチームだった同級生たちが駆け寄ってきて、揉みくちゃにされた。
 俺より一回りくらい小さなクラスメイトたち。
 成長期が早かったのか、はたまた種族の違いか、それとも父の遺伝か、自分の体は同級生たちに比べて大きくリーチも長い。
 幸いなことに運動神経も悪くなく、チーム決めのときに取り合いされるのは決して悪い気分じゃない。
 チームを変えて二戦目を始めようと俺以外の同級生がじゃんけんをし始めたその時、ちらりと見上げた校舎の窓越しに見慣れたブロンドが揺れる。
 ばっちりとかち合った視線に弾かれるようにして俺は駆け出した。

「わり、俺トイレ!」

 クラスメイトたちに断りを入れて、校庭側の玄関から校舎に戻る。
 途中、水道で水分補給をしつつ二階にある自分の教室に飛び込むと、数グループに分かれてお喋りを楽しむ女子たちを横目に少しだけ居心地悪そうにしている空と再び目が合った。
 窓際の席で陽を余すことなく浴びる彼の髪はきらきらと輝いていて、真っ白い肌は今にも溶けてなくなってしまいそうだ。
 俺が教室に飛び込んだことで教室を占拠していたガールズトークのボリュームは少しだけ小さくなり、空が静かに息を吐く音が聞こえる。
 俺は女子陣に目をくれることもなく教室を奥まで進み、窓際で陽を浴びている空の背中に凭れかかった。
 彼の少しだけ甘いシャンプーの匂いに混じっておひさまの匂いがする。

「條、重いよ」

 嗅ぎ慣れた匂いがして、思わず頬が緩む。
 少し困惑したような彼の声を聞きつつ、ふいと彼が持っている本を覗き込むとまだ習っていない漢字がたくさん並んでいて、殆ど読めなかった。

「空、なにそれ」
「? どれのこと?」
「それ。本」
「ああ、これ? 小説」
「おもしろいか?」
「まあまあ」

 やっと読書に集中できると言わんばかりに彼は文字を目で追う。
 一緒になってつらつらと並んでいる字を追ったけれど、やっぱり読めない漢字ばっかりで、読むのも意味を理解するのも早々に諦めた。
 ぐで、と空に更に体重を預ける。

「もう條、重いってば」

 くすくすと楽しそうに笑った空は本にしおりを挟んで机の上に置くと校庭に一度目を遣って、こちらに振り向いた。

「サッカー飽きたの?」
「うんにゃ。下からお前がこっち見てんの見えたから来た」

 そういうと空はぽかんと俺の顔を見上げた後、慌てたように顔を逸らす。
 え、なんか怒った?
 凭れかかっていた身体を起こして彼の正面に回り、机に頬を預けて彼の顔を見上げた。
 真っ白い頬が薄桃色に上気していて、俺はついと首を傾げる。
 怒っては……なさそう?

「? 空、顔赤いぞ。風邪か?」
「う、うるさいな! ばか!」
「へぶっ」

 彼の読んでいた本の表紙が顔面にめり込んだ。
 騙された。
 めっちゃ怒ってる。

「いってえ……なに怒ってんだよ」
「怒ってない」

 どこからどうみても怒ってるな。
 ひりひりと痛む鼻を擦りながら空の机の上に腰を下ろす。

「ちょ、こら降りろ」
「やだー」

 残念ながら彼の細腕では俺の身体はびくともしない。
 空の机をがっちり握って抵抗していると、古びたスピーカーからじりじりとノイズ音が聞こえた後に昼休みの終了を告げるチャイムが学校中に鳴り響いた。

「あ、終わっちった」

 サッカー一緒にやってたやつら、ほったらかしにしてたなあ、なんて思いながら空の机から退く。
 すると少し悪戯っぽく笑った空と目が合った。

「あーあ。いいのか、あいつらほったらかしにして」
「いいんだよ、あとで謝っとくから」

 仕返しのつもりだろうけれど、残念ながら俺にはノーダメージだ。
 同じように口角を持ち上げて空の目を見つめ返す。

「たった一人の幼馴染が、さみしそーにこっち見てたから。そっちをどーにかすんのが先だっただけ」

 そういうとまた、空は少し悔しそうな顔をして視線を逸らす。
 引っ込み思案の空はよくこうして教室の隅で何やら難しそうな本を呼んでいることが多かった。
 随分薄情なことにクラスメイトたちはいつも一人でいる彼を気にすることもなく自分たちの世界に入り浸っている。
 だからこそ俺はよくクラスメイトたちより彼を優先してしまうことが多く、それをよく思われていないのも薄っすらと自覚していた。
 だが冷静に考えて、いや冷静に考えなくても、生まれてからずっと並んで手をつないで同じ景色を見てきた幼馴染より、まだ会って何年も経っていないクラスメイトたちを優先するわけがないだろう。
 その態度が明らかに出てしまっていることにも、きっとクラスメイトたちはあまり良く思っていないんだろうな。
 だけど、そうしたいと思ったわけでもないのに勝手にクラスの中心に据えられていた俺としては知ったことではない。
 俺は好きなように、やりたいように、しているだけだ。


◇ ◆ ◇ ◆


「やーい、カチク! カチク!」

 クラスメイトから悪質な嫌がらせを受けるようになったのは、小学校の二年生に進級してすぐのことだ。
 異形。
 自分のような存在をそう呼ぶことを、知った。
 そして自分のような存在をそう呼んでいいことを、クラスメイトたちが知ってしまった。
 まあ授業内容自体はそういった、人間の見た目も獣人の見た目も受け継いで産まれるケースがあるけれど特に問題があるわけではなく普通の人間や獣人と同じということを説いていたから、教育者たちからすれば差別をしないようにという意思表示だったのだろうけれど、そんなのが小学二年生に伝わるはずもなく。
 まだ自分との違いを個性ではなく敵だと認識することに罪悪感を抱けない子供に燃料を投下しただけだった。
 この段階ではまだ燃料を投下されただけで終わってくれたのだけれど、問題はその次の国語の授業。
 その日の授業で取り上げられた教材は”種族の違いについて”。
 父から受け継いたウルフ種という種族。
 その名の通り狼の血を色濃く引く先祖。
 父からはいつも、誇り高く、誉れ高く、力強く、弱きを守る、そういう種族だと言い聞かされていた。
 異種婚がすっかり浸透していたのもありクラスの大半は混血ハーフだったので、クラスメイト達は自分たちの種族が紹介されるのを今か今かと待ち、どのように紹介されるのかとそわそわしていたのを覚えている。
 もちろん自分もその一人だ。
 自分が誇りを持つ、父から受け継いだ種族が世間でなんと言われているのか酷く興味があった。

 ウルフ種は、遥か昔、獣人の祖先である「犬」がまだ存在していた時代に、人間が家畜として飼っていた「犬」と狼とを交配させて作り出したウルフドッグを祖先とする種族です。

 記憶にあるのはこの一文。
 ウルフ種の紹介は他にも夜目が効くとか体力があるとか色々な特徴があげられていたけれど、学校生活に慣れて少し余裕が出てきたクラスメイトたちの目に止まったのは「家畜」という文字だったんだろう。
この一文が授業に出てきただけで、特に授業中にフォーカスを当てられたわけでもないこの一文がクラスメイトたちの目に触れてしまっただけで、俺の居場所は掻き消えた。
 いや、もしかしたらあそこに俺の居場所なんてなかったんじゃないかと思う。
 いったい何が気に障ったのか、それとも元々俺をよく思っていなかったのか……理由はわからないが、クラスの中でも体格が良いそいつの言葉がトリガーになったことだけは、確かだった。

「”カチク”は獣人サマと人間サマのいうこと黙って聞いとけよ」

 乱暴で粗野だったそいつに抗うことができなかったやつもいれば、日頃溜まった鬱憤をどこかにぶつけたかっただけのやつもいれば、人の不幸を単純に楽しめる性悪もいれば、同調することで自分を守っていたやつもいた。
 誰がターゲットになってもおかしくはなかったんだ。
 ただ、俺は運が悪かっただけ。
 もう数日目にもなる無茶苦茶な難癖にため息が漏れる。

「それだよ……お前のそういう態度! どうせ心の底でクラスのみんなを見下してたんだろ! 調子乗ってたんだろ! ”カチク”のくせに!」

 肩に走った衝撃を打ち消すことができず自分の体は壁際まで弾け飛んだ。
 教室の壁に叩きつけられたときに口を噛んでしまったのかじんわりと血の味が広がる。
 誇りを持っていた自分の鋭い牙を恨んだ。

「そ……そうだよ、そいつ、遊びにさそっても絶対来ないんだ」
「いつもえらそうにしてた……”カチク”のくせに」
「バレンタインにもらったチョコ、食べずに誰かにあげてたの私見た!」
「わ、わたし、ラブレター突き返されたことある……!」
「カチクのくせに」
「カチクのくせに!」

 完全に逆恨みだとは思うけれど、そんなこともう彼らには関係ないのだろう。
 あまりの覇気に気後れしてしまった。
 まあ多少他人に不満や嫌な感情を抱いてしまうのは仕方ないことだとは思うけれど、それにしたって言いがかりがひどい。
 あまりに横暴な言いがかりに反論もできずにいると奴らは言い返してこないことに味を占めたのか日頃の鬱憤をぶつけるようにして言いたい放題。
 教室内を罵詈雑言が支配した。
 どうしたもんかと視線をずらすと、空と目が合う。
 途端。

「や、やめようよ!」

 嘲笑と蔑みで溺れそうな教室内が、しんと静まり返る。
 呼吸音だけが響くその真中、震える声を絞り出した空に視線が集中する。
 彼の指先は力なく震えていた。

「條はみんなのこと見下したりなんかしてない! ひどいこともしないよ!」

 一生懸命、慣れない大声をあげて空はクラスメイトたちの顔をぐるりと見渡した。
 彼の必死な様子に一瞬ぽかんとしたクラスメイトたち。
 その雄姿は讃えられて然るべきだったろう。
 だが、讃えられることとその言葉の真意が受け入れられるかどうかは別の問題だ。

「あっはっは! いいんだよ、こいつは”カチク”なんだから!」
「空くんやさしい~♡」
「ホントに空はいいヤツだなあ」

 一度静まり返ったクラスは反省するどころか、まるでコメディを見ているかのようにどっと湧く。
 何が面白いのか全然わからない。
 背筋がぞっとするのがわかった。
 クラスメイト達に囲まれ、肩を組まれたり女子の甘い声や視線を浴びた空は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 今まで散々空のことを空気のように扱っていたくせにこの掌返し。
 でも、なんとなく予想はできていた。
 種族の違いについての授業ではもちろん空が受け継いでいるゴールデンという種族についても言及されていたけれど、それを聞いているときのクラスメイト達の羨望にも尊敬にも似た眼差しを見たときから。
 そもそも、クラスの中心っていうのは俺みたいなのより空のようなカリスマ性のあるやつがなるべきなんだ。

「條、だいじょうぶ……?」

 おずおずと差し出された右手。
 優しくてお人好しで、嫌とは言えない彼の背後から降り注ぐ、突き刺さるような視線。
 その手を取ることができたら結末は変わっただろうか。
 握って、引いて、折れてしまいそうな身体を抱き込めて、こいつらを睨み返して、心の底から唸ることができたなら、また何か変わっていただろうか。
 いや、多分同じだっただろうな。
 この世は味方の少ないやつが負けるようにできている。
 いつだって甘い汁を啜れるのはずる賢く立ち回った者だけなのだということを、この瞬間に痛感した。

「触んな」

 まん丸くなった空の瞳と視線がかち合う。
 お前ならわかるだろ、空。
 俺の考えてること。
 その手を取ったところで状況が好転するわけないって。
 俺の重みで、お前も俺と同じところまで落ちてしまうのは絶対に嫌なんだよ。
 傷を負うのは俺だけでいいんだ。
 途端、一度和んだ雰囲気はぴしりと凍った。
 忘れかけていた憎悪を思い出したかのように振りかざしたクラスメイトたちは俺に詰め寄る。

「おまえ! 空がせっかくやさしくしてくれてんのに、何してんだよ!」

 手加減なく突き出された一人のつま先が鳩尾の辺りに食い込んで、思わず嘔吐えづいた。
 空気が逆流して何度も咳き込む。
 他のクラスメイトからもブーイングが飛んだ。
 そんな顔すんなよ、空。
 俺なら大丈夫だから泣くな。
 ほら、おとぎ話だと、狼っていっつも悪役だろ?

「うるせェよ」

 そう凄んでやるとクラスメイト達は後ずさった。
 父から譲り受けたこの切れ長の目元とその中で爛々と光る金眼はどうやら威圧感があるらしい。
 それと同時に、本気で狼の血を引く俺と喧嘩なんかをしようものなら勝ち目はないことを本能的に悟っているからだろう。

「俺は誰の助けもいらない」

 それだけ言って空の顔を一瞥した俺はさっさと教室を出た。
 あのときの彼の顔は今でもたまに思い出してしまう。


 <この続きは製品版で!>

 空side

001

 頰にしっとりとした温度が張り付く。
 こぼれ落ちるのを必死に抑えようと服の裾をきつく握り、膝に顔を埋めるが溢れ出す感情は留まることを知らずじわじわと足元の砂利の色を変えていった。
 きっと今頃、人気者の彼はクラス中から引っ張りだこになっているんだろう。
 それを考えるだけで、一度乾いた涙がまた目尻に溜まっていく。

「あ、いた」

 薄暗いその空間に響いた声に弾かれたように顔を持ち上げた。
 遊具の入り口にしゃがんでいたのは、今頃クラスで引っ張りだこになっているはずの彼。
 困惑しているこちらを気にすることなく彼は遊具の下に滑り込んでくると不満そうに頬をふくらませる。

「そら」

 名を呼んだ彼は僕の正面にしゃがみ込むと、ぐちゃぐちゃになったこちらの顔をじいと覗き込んできた。
 わざわざクラスメイトたちの誘いを断って来てくれたんだろうか。
 それを考えると少しだけ嬉しくなって、つい緩んだ口元を隠すためにふいと顔を逸らす。
 しかしすぐ頰に彼のぷにぷにの肉球が滑り込んできて、優しくも強引に顔を元の方向に戻されてばっちりと金色の瞳と視線がかち合った。

「なんでさきかえったんだよ」

 その言葉に思わず目を泳がせる。
 理由ならたくさんあった。
 ついこの間まで世界には二人しか、自分と彼としかいなかったのに、小学校に入学した途端に彼は持ち前の明るさとコミュニケーション能力であっという間にクラスの中心人物になってしまってとんでもなく寂しいとか。
 慣れ慣れしく條に近づいてくるやつらがウザいとか。
 だけど、まだ自分の思いを言語化することが苦手だった僕は、言葉を選んでは言い淀むを繰り返す。
 しかし、まごついている僕を急かすことはせず、彼は時折瞼の奥に金色の瞳を隠しながらじいとこちらの言葉を待ってくれていた。

「さみしかった、から」

 やっと絞り出したその声は酷く掠れていて、少しだけ咳き込む。

「じょうが、とられちゃう、って……おもった、から」

 あんなに一緒だったのに。
 自分しか居なかったのに。
 彼しか居なかったのに。
 考えれば考えるほど懐かしい記憶が蘇ってきて、もしかしたらもう彼と二人だけで過ごすなんて無理なんじゃないかと思うと、また感情がぼろぼろと目尻からこぼれ落ちていった。

「ずっと、ふたりだったのに……っ、いろんなひと、が、いて……じょう、どこもいかないで……ぼくをおいてかないでよ……」

 分かっている。
 そんなことは不可能だと。
 それでも感情は抑えきれなくて、困らせてしまっているだろうに、目を白黒させる彼の裾を掴む。
 どこもいかないで。
 僕だけを見ていて。
 ……無理、だろうけれど。

「ばーか」

 ぐい、と彼のふわふわの手の甲が頬を滑り、涙を吸ってしっとりとした指先はそのまま手首に巻き付いた。
 強引にその手を引かれて、砂利の下に根を張ってしまったんじゃないかと思われた僕の身体はいとも簡単に持ち上がる。

「おれがおまえをおいていくわけないだろ!」

 じめっとした薄暗い地面から真っ白い砂の上に飛び出した瞬間、頬を伝っていた涙は乾いて真上から降り注ぐ陽の光に目を細めた。
 眩しい。
 太陽も、彼も。

「でも……じょう、がっこーだといっつもほかのともだちといる……」

 まだ少しだけ残った不安から彼の手をぎゅうと握り返すと、彼はもっときつく僕の手を握って、にいと口角を持ち上げる。
 鋭い牙が陽の光を浴びて煌めいた。

「じゃあさ、ここで会おう」

 青空を、眩しい光を背に、彼は僕の手を握ったまま両手を広げる。
 二人だけの、いやに開けた秘密基地。
 錆びた鉄棒、ぎしぎしと鳴く弱々しいジャングルジム、滑りの良くない滑り台、殆ど砂の残っていない砂場……この古びた小さな公園には殆ど人が来ない。
 二人でいるときは、この公園から見える小さな空も、二人だけの秘密基地だ。

「さみしかったら、ここに来いよ。おれもくるから。で、ふたりだけであそぼうぜ」

 視界がちかちかする。
 眩しさにどうにかなってしまいそうだ。

「やくそく、ね?」
「ああ。やくそくだ」

 恐る恐る差し出した小指には少しの躊躇もなく彼のそれが絡みついてきて、自分より高い体温がじんわりと指先から染み込む。
 それがなんだか心地よくて頬が緩んだ。

「ね、じょう」
「ん?」
「だいすき」
「おう。おれもだぞ」

 僕の好きが含む意味をきっと彼は知らないだろうけれど、まあ、今はいいか。



001

「はあ……」

 思わずため息が漏れた。
 座りっぱなしでばきばきになった身体を伸ばしながらすっかり冷え込んだ夜道を帰路につく。
 今日も疲れた。
 腰が痛い、背中も痛い、心做しか頭も痛い……。
 かれこれ数年続けてきたエンジニアという仕事、まあ向いてるとは思う。
 波風を立てたり争い事が苦手であれよあれよといううちに断りきれずプロジェクトのリーダーとかいう役目を任されていることには心労が溜まる一方だけれど。
 どいつもこいつも僕に頼ってきやがって……自分のケツくらい自分で拭けよまったく。
 やっと開放された手で今日一日ずっと放置していたスマートフォンの画面を覗き込んだ。
 いくつか表示された通知を見ることなくメッセージアプリを開いて家で夕飯を作って待ってくれているであろう愛する旦那様とのトーク画面を開き、これから帰宅する旨を送信してまたポケットにスマートフォンを仕舞う。
 今日の夕飯はなんだろうか。
 そう考えていると視界は住宅街に差し掛かり、両脇に建ち並ぶ家々からは夕飯の匂いが漂ってきている。
 あ、あそこはカレーか。
 こっちはシチューかな? あっちは焼き魚……ああ、だめだ。

「おなかすいたあ……」

 再び息を吐きながらついと上を見上げると、濃紺の上にぽっかりと浮かんでいる月と目が合った。
 彼の瞳に似た金色……俄然彼に会いたくなってしまう。
 よし、さっさと帰ろう。
 とりあえず帰ったら彼をもふもふして二人でご飯食べて……今日は週末だしお酒でも買って帰るのも良いかもなあ。
 そういえば少し前にご近所さんからいいワインをもらったって言ってたような。
 今日の晩御飯にも寄るけどそれを飲むのもいいな。
 でもワイン以外はもう無かったような気がするしコンビニでも寄って帰ろう。
 最近忙しくてあまり彼と過ごす時間が取れていなかったし、今日はめいっぱい甘えさせてもらって、甘えてもらおう。
 彼のことを考えるだけでこんなにも幸せになる。
 気がつけば重かった足取りはスキップ気味になっていて自然と鼻歌も漏れ出した。

「~♪~♪」

 途中、コンビニに寄ろうと帰路から少し外れたその時、鬱蒼と生い茂る木々の向こうに懐かしい景色が見える。
 ふらふらと足を踏み入れると、昔より一回りも二回りも小さく感じる空間の中にブランコと滑り台だけがぽつんと残されていた。
 幼い頃、彼と約束を交わしたあの公園。
 来ようと思えばいつでも来られる距離にあるはずなのに、そういえばこの辺にある実家に帰省するときすら気にも留めていなかった。
 昨今の風潮を受けてどうやらジャングルジムやら他の危なそうな遊具は撤去されてしまっているらしく寂しいその空間に哀愁を感じる。
 過保護な世の中だなとは思う反面、たしかにジャングルジムから落ちて砂まみれになったりシーソーから飛んで頭から落ちたり一歩間違えば大怪我していたかもしれないことも日常茶飯事だったし、まあ自然な流れなんだろう。
 試しにブランコに座ってみる。
 小さなそれが大人の体重を受け止めきれるか不安になったが、さすが先人が作ったものというか少々臀部はキツキツだけれど足を離しても少し鎖が軋むくらいでしっかりと支えてくれた。
 漕いでみようかと思ったけど……ケツの脇に鎖が食い込んでそれどころじゃない。
 ブランコ断念。
 何やってんだ僕。
 良い年した大人が夜、一人で小さな公園でブランコに座ってるって下手したら通報されかねない。
 こんなことしてないでさっさと帰ろう。
 少しだけ鉄臭くなった両手を擦って温めながら、僕はそっと公園を後にした。



002

獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
 小学校の歴史の授業では、人間の祖先は「猿人」、獣人の祖先は「犬」という生き物だと教えられていた。
 そんな世界に産み落とされた二つの命が出会ったのは、必然でも運命でもなんでもなく、偶然だった。
 偶然にも母親が親友同士で、家が近所で、お互い結婚してからも家族ぐるみの付き合いを続けていて、それでいて同じ時期に妊娠が発覚して、同じような時期に出産をしたと言うだけの話。
工藤くどうじょうと、出雲いずもそら
 まだ自分の名前も認識していない頃から、互いを認識し、触れ合い、互いの心音を聞いた。
 母親二人の趣味だったけれど、おそろいの服を着て街を闊歩した。
 歩けるようになってから握っていたのは、母親のでもなく父親のでもなくお互いの手。
 意思表示ができるようになった頃、今までは母親に連れられて行くのが当たり前だった互いの家に自分たちの意思で行き来するようになったし、互いの家の中心あたりにある公園に植えられた巨大な植木の下、遊具の中、ブランコの上は二人の秘密基地になった。
 世界にまだ二人しかいなかった頃。
 條がいれば、それでよかった。
 遠回りをした。
 回り道をした。
 だけどそれでよかった。
これは、僕が幸せになるまでの物語だ。

「それでね、隣のクラスの田中くんがね」
「えーっ、うっそー」

 普段よりも静かな教室内に女子生徒の噂話が咲く。
 給食を食べ終えて迎えた昼休み、僕はそっと活字から顔を持ち上げた。
 窓の外から差し込んでくる夏の日差しはぽかぽかと暖かくて、すぐ近くで手招きしている睡魔に退場願うため、ぐいと背中を伸ばす。
 しかし彼は随分しぶとく逆に体を伸ばしたことで勢力を増してしまったみたいだ。
 せっかくの昼休みだし寝てしまおうかとも思ったけれど、そうなると今度は女子生徒の噂話の声が気になる。
 聞きたくもない会話を聞かされるほど不愉快なこともない。

「それより、じょーくんへのラブレターわたせたの? ねえねえ」
「えっ、ま、まだだよ……」
「なんでよー! 早くわたしちゃいなよー!」

 彼の名前に肩が跳ねる。
 そっと聞き耳を立ててみたけれどそれ以降はあまり周囲に聞かれたくないのか小声になってしまって聞こえなかった。
 諦めて窓の外に目を向ける。
 噂話の中心に据えられている当人は楽しそうにサッカーボールを追いかけていて呑気なものだ。
 なんとなく眺めていると、彼の蹴ったボールは真っ白いネットに吸い込まれていき、その瞬間高らかにガッツポーズをした彼をチームメイトたちが囲んで揉みくちゃにする。
 あいつ癖毛だからあんなにされたら絡まって大変だぞ。
 なんて、彼と一緒に居られない嫉妬心を宥める。
 小学校に入学して数ヶ月、やっと慣れない学校生活にも余裕が出始めた頃クラスではもうグループのようなものが形成されつつあったけれど僕はそのどこにも所属していなかった。
 というか、入学以来殆ど誰とも話していない。
 こちらから話しかけない……いや、話しかけられないというのもあるけれど、向こうから特に話しかけてくることもない。
 今日も窓際にある自席で授業を聞くか本を読むかぐらいしかしていない僕に対し、逆に彼……もとい工藤條は持ち前の太陽のような明るさと人懐っこさであっという間にクラスの中心になっていた。
 彼が学校生活に慣れていくにつれて自分はクラスというコミュニティの中で浮いていく。
 寂しくないと言えば嘘になるけれど、それでもいいと思えているのは……。

「……!」

 ばっちりと、校庭にいる彼と目が合った。
 途端、彼はチームメイトたちに何やら言って手をふると校庭から姿を消す。
 かと思ったらすぐに教室のドアが開いて再び彼とさっきよりずっと近い距離で目が合った。
 突然の彼の登場に教室内のガールズトークは鳴りを潜めるが当の本人は女子たちに目もくれず、ずんずんと窓際まで近づいてきて…………ぐぇ。

「條、重いよ」

 背中にずっしりと乗った彼の体重と体温。
 彼の匂いに混じって、少しだけ汗と土の匂いがする。

「空、なにそれ」
「? どれのこと?」
「それ。本」
「ああ、これ? 小説」
「おもしろいか?」
「まあまあ」

 條は数秒、手に持ったままになっていた本に目を落としていたけれどすぐ小さく欠伸をして目を細めると僕に殆どの体重を預けてきた。
 頰に彼のふわふわの毛が触れてくすぐったい。

「もう條、重いってば」

 本にそっとしおりを挟んで脇においた。
 條、何しに来たんだろう。
 ふいと校庭に目をやる。
 先程まで彼と一緒にサッカーをしていた男子生徒たちがまたチーム分けをしているけれど、どこかそわそわしているように見えた。
 多分だけど、いま僕の背中に凭れかかっている彼を待っているんだろう。

「サッカー飽きたの?」

 彼は凝り性でハマればずっとやり続けるような性格なのでこのくらいで飽きるとは考えられないけど。
 すると彼は僕の頭の上に顎を置いて大きく欠伸をした。
 ぽかぽかとした陽の光に当てられて眠くなったんだろうか。
 まあご飯を食べてちょうどよく運動したら、そりゃそうだろうな。

「うんにゃ。下からお前がこっち見てんの見えたから来た」

 ……。
 その言葉に固まる。
 どういう意図で言ったんだろうと恐る恐る顔を見上げるけれど、彼の表情には特別な感情なんて何も伺えず普段どおりのそれのまま。
 わざわざそれだけで教室戻ってきたのか……。

「? 空、顔赤いぞ。風邪か?」
「う、うるさいな! ばか!」
「へぶっ」

 困惑するこちらを他所に、彼は正面に回ると机に柔い頰を預けてこちらを見上げる。
 突然視界いっぱいに広がった大好きな彼の顔に驚いて手に持っていた本を彼の顔に押し付けてしまった。

「いってぇ……なに怒ってんだよ」

 彼は頰を膨らませながら赤くなった鼻先を擦ると、すっと立ち上がり僕の机の上に少し乱暴に腰を下ろす。
 流石に体重を支えるように出来ていない机はぎしぎしと苦しそうに音を立てた。

「ちょ、こら降りろ」
「やだー」

 お行儀が悪い。
 けたけたと笑う彼をなんとか机の上から下ろそうと試行錯誤していると、教室にノイズ混じりのチャイムが鳴り響いた。
 その瞬間、教室内の女子生徒たちの少しだけうんざりしたような、残念そうな吐息が聞こえる。
 ついと窓の外に視線をやると校庭にいた生徒たちは慌ててボールを回収して校内へと戻っていくのが見えた。

「あーあ。いいのか、あいつらほったらかしにして」
「いいんだよ、あとで謝っとくから」

 外からの日差しが眩しくて少しだけ目を細める。

「たった一人の幼馴染が、さみしそーにこっち見てたから。そっちをどーにかすんのが先だっただけ」

 思わず彼の顔を見上げたその時、風で舞い上がったカーテンで視界が遮られた。
 教室の景色は消えてただ白い背景と日差しを浴びた彼の姿だけが映る。
 日に焼けて少しだけ赤くなった頰に湛えられた笑みに心臓が大きく跳ねた。
人の気も知らないで……條のばか。


◇ ◆ ◇ ◆


「空くんは公立小学校に行っているんでしょう? それでうちの跡取りにちゃんとなれるんでしょうねえ?」
「一族の血に不純物を入れただけでは飽き足らず、折角出来た唯一の跡取りを凡庸な一般人と同じやつに育てるつもりなのか」
「それに異形の子と遊んでいると聞いたわよ」

 ずらりと並んだ親戚一同は俯く僕を横目でじろじろと見ながら、口々に言いたいことを手前勝手に言っている。
 これが父方の親族会のいつもの光景だった。
 ゴールデン種という種族は人間で言う医者一家とか弁護士一家とか、まあつまるところエリート一家。
 特に出雲家は代々ゴールデン種のみで子孫を繋いできた。
 その純正種族至上主義という現代では古臭い風習を打ち破ったのは、父。
 人間の両親の元に産まれた母に一目惚れした父は親族一同の反対を振り切って母と結婚した。
 父は一人っ子で「結婚を認めてくれないというのなら俺はこの一族から抜ける」と親戚たちを黙らせたらしい。
 流石に自分たちの血がここで潰えるのは避けたかった親族たちは渋々了承したのだと聞いている。
 それをよく思わない親戚たちは両親をどうにかして攻撃してあわよくば仲を引き裂こうと躍起になったようなのだけれど、父は一代にして会社を上場企業まで持ち上げた社長、さらに母は経理として父の会社を支えつつ家事や料理はプロ級、華道や茶道まで完璧なうえ柔らかい物腰と女優顔負けの美貌といった超人で突く隙がなく悔しそうに唇を噛んでいた。
 そんな中で誕生したのが僕……彼らのターゲットになるのは、必然だったと言える。
 今思えば、僕がいつも俯いて活字に目を落とすしかなく他人と話すのが苦手なのはこいつらのせいもあるだろう。
 というか、完全にこいつらのせいだ。

「空にはいろんな世界を見てほしいんですの。ほら、自分の価値観を押し付けるような方には誰もついていきたいとは思わないでしょう? 誰かさん達とは違って相手のことを思いやれる人になってほしいんです」

そう言って、僕を抱き寄せて微笑む母に親戚一同はぐっと口を噤む。

「それじゃ、そろそろ帰ろうか」
「ええ。そうね。では、私達はこれでお暇しますね。お邪魔いたしました」

 両親はできる限り僕が彼らと接触するのを避けてくれてはいたし、何かを言われることがあればフォローしてくれていたけれど、怖いものは怖いし嫌なものは嫌だ。

「全くあの人たちったら。ねえあなた、私いい加減キレそうだわ。言葉でお返しするだけじゃ全然スッキリしないもの」
「そうだなあ。思い切りやり返してやりたいところだけど、空が大きくなるまでは我慢だな。約束したろ?」
「そうだけれど……このままじゃ空の成長にも影響が出てしまいそうで心配なんです。ねえ空、あの人達の言うことなんて気にしなくていいのよ。あんな人達、いつかお母さんがぶっ飛ばしてあげるからね。だから空は自分のやりたいことをやりたいようにやっていいの」
「はっはっはっ。母さんにぶっ飛ばされたらあいつら二度と偉そうな口利かなくなるぞ。楽しみだなあ」
「うふふ。腕がなるわね」

 ……まあ、彼らに難がないかと言われればそうとも言い切れないんだけれど。
 親戚たちは知らないが母が礼儀や作法、更に華道や茶道にまで明るいのは、そういう筋の娘だからである。
 ヤで始まってクを経由してザで終わる人たちに蝶よ花よと育てられた母は見事に腕っぷしの強い才色兼備に育った。
 婚約前は部下を引き連れてカチコミやら取り立てやらに行っていたというんだから驚きだ。
 その気になれば親戚一同なんて右手一本でどうにかできるだろう。
 今でもたまに母を「お嬢」と呼ぶちょっと強面のお兄さんたちが家に遊びに来ることがある。
 悪い人たちではないので無問題だ。
 顔が悪そうな人たちということ以外は。
 彼らの出入りが一番激しいのはお正月。
 特に母方のお祖父様なんかはそれいけとばかりにすっ飛んできて、僕に分厚いポチ袋をくれる。
 聞いた話だと、僕が産まれたばかりの正月にはマッキーペンで”お年玉”と書いたアタッシェケースを持って乗り込んできたんだとか……。
 流石に今それはないけれど、僕のお年玉はいつも大盤振る舞いだ。
 お祖父様だけでなく、親族でもなんでもない黒服のお兄ちゃんたちも。
 閑話休題。
 まあそんなわけで、年に数回行われる父方の親族の会合に参加した翌日だったということでその日の僕は機嫌が悪かった。
 そんな日に起こったのは、会合のことなんて全部どうでもよくなるくらいの、僕の人生を変えた出来事。
 三時間目の社会科の授業とその次の国語の授業が終わったあとのことだった。

「おまえ、”カチク”なんだってな」

 クラスの中でも体格が大きめの男子生徒のそんな言葉が、すべての始まりだ。
 その日は珍しく昼休みだというのに條が暇そうにしていたので、二人で一つの机を挟んで談笑に勤しんでいた。
 昨日の晩ごはんの話、昨日見たテレビアニメの話、そして今日の晩ごはんの話。
 彼と休み時間を丸々共有できるなんて久しぶりで二人の時間を噛みしめるようにして過ごしていた僕の脇に立ったそいつのその言葉。

「おまけに異形だろ、お前。そんなやつがなに普通に学校来てんだよ」

 條の眉間にシワが寄っていく。
 突然放たれた彼に対する罵倒に僕はぽかんとするしかなかった。
 確かに、今日の授業でそういったようなことを言ってはいたけれど……獣人の種族毎の特徴を紹介したり、人間と獣人との要素を持つ子供を未だに差別的に「異形」呼びしている社会を変えていかなければいけない、といった前向きな内容だったはずだ。

「あァ? 急に何言ってるんだよ」

 ついと彼の方に視線をやると彼も突然のことに困惑している様子で怪訝そうに目を細めている。
 彼の喉からはぐるる、と低い唸り声が聞こえてきた。
 機嫌が悪かったり怒った時によくやる癖だ。
 本人は威圧感があるからやめたいと思っているようだけれど……カッコよくて好きなんだよなあ、これ。
 一回でいいから本気で唸られてみたい。
 絶対してくんないけど。
 本気で怒らせて嫌われるの嫌だし。

「空も大変だよなあ。こんなやつにいっつも付き纏われて」

 なんて、苛立ってる條に見惚れていた僕は突然槍玉に挙げられて肩が跳ねた。
 よくわからないままいやに熱のこもった視線に絡め取られて身体が固まる。
 なにを言われてるかわからずぽかんとしていると、男子生徒の手が伸びてきて手首に巻き付いた。

「そんなやつと遊んでないで、おれと遊ぼうぜ、空」

 いやいや。
 いきなり名前で呼ぶなよ、気持ち悪いな。
 僕、お前の名前も知らないんだけど?
 心臓の奥は随分とうるさいのに、いざ誰かを目の前にすると声が出ない。
 握られた手首が痛い……放してほしいと、たったその一言すら言えない自分に嫌気が差す。

「離せよ。嫌がってるだろ」

 そんな声が聞こえたと思ったら、手首に滑り込んできたのはいつもの慣れた体温と柔らかい感触。
 そのまま條は僕を背に隠すようにして一歩前に歩み出た。
 彼の肩越しに目が合った男子生徒は数秒だけ拳を作ってその場にいたけれど、やがて苛立ちを隠そうともしないまま教室を出ていってしまった。
 一瞬しんと静まり返った教室は、またすぐにひそひそと自分勝手な解釈披露大会が始まる。

「空、大丈夫か」
「え?」
「手首。結構、痛そうにしてたから」

 彼の言葉に視線を落とすと、確かに掴まれた手首は赤くなっていた。
 まあでもそんなに心配されるほどでもない。
 手首を振って、大丈夫だよ、というと彼はずっと眉間に寄っていた皺をやっともとに戻し、そうか、とだけ呟いて自分の席に戻っていった。




003

それから彼が休憩時間中に引っ張りだこになるようなことはなくなった。
 初めはそのおかげで彼と過ごす時間が増えたと自分勝手に喜んでいたんだけれど、段々とそう呑気に笑っていられる場合でも無くなってきた。

「おい家畜」

 初めは言葉での攻撃だけだったのでまあ我慢できていたけれど、彼を取り巻く環境はどんどんと悪質なものになっていったのを覚えている。
 いつだったかの昼休み、いつもどおり僕のもとへと歩み寄ろうとした條の行く先を塞いだのはあの男子生徒。
 自分の席から條の顔はあまり見えない。
 慌てて立ち上がるけれど、少し凄まれるだけで震えて声も出せない自分にどうにかできるはずもなかった。

「家畜は獣人サマと人間サマのいうこと黙って聞いとけよ」

 一体條の何がそんなに気に食わないんだろう。
 男子生徒は煩わしそうに溜息を零した條を指差して声を張り上げた。

「それだよ……お前のそういう態度! どうせ心の底でクラスのみんなを見下してたんだろ! 調子乗ってたんだろ! 家畜のくせに!」

 男子生徒の影になって見えなかったけれど多分押されたんだろう、條の身体は机や椅子を巻き込みながら吹き飛び、壁にぶつかってやっと止まった。
 そんな様子をクラスメイトたちはなぜか冷ややかな視線でただ見ている。
 助けたいけど助けられない、とか、逆らえない、とかじゃない……クラスメイトたちは自分たちの意思で條を助けないでいるようだった。

「そ、……そうだよ、そいつ、遊びに誘っても絶対来ないんだ」
「いつも偉そうにしてた……家畜のくせに」
「バレンタインにもらったチョコ、食べずに誰かにあげてたの、私見た!」
「わ、わたし、ラブレター突き返されたことある……!」

 よく條をサッカーに誘っていたあいつも、何かあるごとに條の周囲をうろちょろしてた腰巾着みたいなあいつも、條を好きだというクラスメイトを焚き付けていたあいつも、條を好きだと周りに言いふらしていたあいつも。
 どいつもこいつも自分勝手で、これが俗に言う掌返しってやつなんだとぼんやり思った。
 自分自身、目の前で酷い人数差の私刑リンチが繰り広げられている現実を受け入れきれなかったんだろう。
 大切な幼馴染で初恋の人がたった一人孤独に戦っているのを見ていることしか出来なかった。

「家畜のくせに!」
「家畜のくせに!」

 クラス中から彼を非難する声が上がる。
 彼は何も悪いことをしていないのに、たった一人の男子生徒のたった一言でどうしてここまで追い詰められているのか。
 囲まれている條は、言い返すことはせずやり返すこともせず、ただ金色の瞳に静かな怒りだけを湛えてクラス中を睨みつけていた。
 自分だったらきっと怖くて、ただ俯いていることしか出来ないだろうに、どうして彼はここまで強くいられるんだろうか。
 その時、金色の湖の中にぽっかりと浮いた瞳孔がこちらを向く。
 彼の目元はほんの少しだけど、揺れていた。

「や、やめようよ!」

 悲鳴にも似たその声を張り上げる。
 何してたんだよ、僕。
 当たり前だ……平気なわけ無いだろ。
 暴言ぶん投げられて平気でいられるやつなんて居るわけない!
 お前が一番良く分かっているだろ、なあ出雲空。
 いま僕が助けないで、誰が條を助けてくれるっていうんだ。

「條はみんなのこと見下したりなんかしてない! ひどいこともしないよ!」

 震えて、掠れて、弱々しくて、情けない声だったけれど、僕は初めてクラスメイトに声を荒げた。
 というか、クラスメイトに向けて話しかけるなんて初めてだった。
 嘲笑と蔑みで頭が痛くなるほど騒がしかった教室内は、しんと静まり返る。
 声だけでなく指先も震えて、なんだったら肩も膝も震えてたけど、言ってやった、という気力だけでなんとか立っている。
 まさか僕の一声でこの状況がひっくり返るとは思っていない。
 それでも、例えば僕に少しでも矛先が向いて彼の負担が減ればいい……そう、考えていたんだけれど。

「あっはっは! いいんだよ、こいつは家畜なんだから!」

 教室中から笑いが漏れて、言葉を失う。

「空くん優しい~♡」
「本当に空はいい奴だなあ」

 背筋がぞっとする。
 何が面白いのかわからない。
 なんでこんなに急に馴れ馴れしく近寄ってくるんだ。
 ついこの間まで僕のことを空気みたいに扱って、話しかけようともしてこなかった奴らが。
 気持ち悪い。
 彼らに何かを言ったところで無駄だということを悟った僕は條に向き直った。
 彼の口元には血が滲んでいる。
 恐らく牙で唇を切ってしまったんだろう。

「條、だいじょうぶ……?」

 未だにこの時どうすればよかったかわからない。
 ただ、このときの行動が決して正解ではなかったということだけはわかる。

「触んな」

 ばし、と優しい音が響いた。
 少しだけじんじんとする右手には彼の手の体温が残っている。
 自分を見上げる彼の視線に、しまった、と思った。

「おまえ! 空が折角優しくしてくれてんのに、何してんだよ!」

 自分の脇を通り抜けていった男子生徒のつま先が彼の腹部に食い込む。
 激しく咳き込む彼を見下ろしながら周りを固めているやつらは少しも助けようともしないどころか、條が抵抗しないのを良いことに言いたい放題だ。
 彼に親でも殺されたんだろうか。
 そう思ってしまうほどの憎悪が彼らの顔には宿っている。
 このままではいけない。
 どうにかして、なんとかして彼をこの状況から助け出さなければ。

「うるせェよ」

 彼の一喝に肩が震える。
 地の底から響くような低音。

「俺は誰の助けもいらない」

 なんで……なんで、安心したような顔してるんだよ。
 條のことだ、悪者になるのは自分一人で良いとか思ってるんだろう。
 なんて自分勝手で、ずるい。
 だけどそのまま教室を出ていってしまった彼を追いかけることはできなかった。


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