じめじめとした時期がやってきた。
毎年、この季節は嫌になる。通勤電車はまるで蒸し風呂のようで他人同士の匂いが混ざりあってクラクラするし、汗を掻きながら他人とぴったりくっつくのが気持ち悪くて仕方ない。
それでも毎日仕事に行かなければいけないし、仕事を終えたら愛する人が待つ我が家へと帰らなければいけない。
いくら愛しい彼が出迎えてくれるとは言え憂鬱な季節であることには変わりなかった。
「あっつ……」
家の最寄り駅で満員電車を降り、少しイライラしながらネクタイを緩める。
やっと車内よりも快適な場所に出られると思っていたのに、生憎外は土砂降りの雨︙︙電車の中とそう変わらないくらい空気がしっとりと湿っていた。
ああもう、早く帰ろう。
そう思って歩き出した視界にふわりと飛び込んでくる鮮やかな色と、愛おしい匂い。
「いーすみさんっ」
薄い微笑みを見ていると、つい先程まで感じていた苛立ちはどこかへと吹っ飛んでいき、代わりに多幸感がじわじわと胸元にせり上がってきた。
「まこと? どうしてここに。買い物の途中かい?」
そう尋ねると彼は悪戯っぽく笑って、後ろに隠し持っていたらしい大きめの傘をこちらにずいと差し出す。
「お迎えに来ました。今日はずっと雨だったので、なんか寂しくって」
指先で髪を弄りながら気恥ずかしそうに言う彼。
そんな彼を思わず抱きしめてしまいそうになり︙︙ここが往来だということを思い出してなんとか抑えた。
代わりにまことの手から傘を受け取って広げて持ち、もう片手で空っぽになった彼の手を取る。
「じゃ、帰ろうか」
「はいっ」
本当に不思議なもので、彼が近くにいるだけで苛立ちなんてものは少しも生まれないし、さっきまで灰色に見えていた世界がパステルカラーに華やいでいく。
駅から家までのそう遠くない道をゆっくりと二人並んで歩きながら、お互いに今日あった出来事を報告するこの時間が何より幸せだ。
「あっ、紫陽花だ」
そう言ってまことが指した先を見ると確かに、青やら紫やら桃色やらのグラデーションに身を包んだ紫陽花が道脇の花壇に植えられていた。 雨露を纏うその姿があまりにも綺麗で思わず足を止めて見惚れる。
「すごーい! 綺麗ですねっ」
そういってこちらを見上げる彼の瞳越しに自分と目が合った。照れくさそうな、ふにゃふにゃと口角が上がった少しだけ情けない表情を浮かべている自分が恥ずかしくて口元を隠す。
なんて、彼の一挙手一投足にドギマギしているこちらの心情を知ってか知らずか、まことは薄く笑みを浮かべてこてんと首を傾げた。
この子はどうしてこう、私の中を掻き乱すような仕草を。
いや、結婚してもう何年も経っているのに未だに彼のやること成すこと意識してしまう自分が弱いだけなのだけれど。
「あ、雨上がりましたよ、ほら」
ぐるぐると考え事をしていた私の指先を、まことが引く。
言われて傘を下げふいと空を見上げると確かに空を覆い隠していた分厚い雲はいつのまにかどこかへ居なくなっていて、代わりに夕空が顔を出していた。
空の終わり際は目を細めなければいけないほど赤く、そして黄色く輝いており、それに覆いかぶさるようにして星を纏った濃紺が頭上で揺蕩っている。
「綺麗ですね」
「︙︙そうだね」
濡れた草木の匂いが鼻先を擦って少しくすぐったい。それに混じっている、自分と同じ洗剤の匂いも。
「伊墨さん、紫陽花の花言葉って知ってます?」
「いや、知らないな」
そう首を振るとまことは悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「色々あるけど︙︙時期によって色が変わることから浮気って意味があるんですよ」
くすくすと笑う彼。
これは、誂われているな。
自分ばかり振り回されているのが何だか悔しくて、余裕そうに笑う彼を傘の中に攫い、きつく抱き込めながら唇を奪った。
「ん、ぅ」
彼の口元から零れ落ちた吐息にまたドキドキする。
だけどそれを悟られないよう、できる限りポーカーフェイスを保ちながら彼の耳元に顔を寄せた。
「悪戯っ子には優しくできないかもしれないぞ」
指先を彼の頬に滑らせながら囁く。
私の精一杯の反撃に彼は目を見開き、頬を少しだけ赤く染めながら……それでもまた、笑う。
「優しくしてほしいなんて僕言ってませんよ」
ああ、もう。小悪魔め。
覚悟していろよ、なんて恨めしく思いながら、彼の手を引いて家路を急ぐのだった。