部長に顔を埋めたい!

 獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
 獣人。
 文字通り、獣の形をした人。
 ”猿人”を祖先とする人間に対し、獣人は大昔に存在していた”犬”という生き物が祖先になるのだそう。
 人間に地域や見た目、肌の色などによってある程度区分けがあるように獣人にも種類があり、”犬”という生き物の種類……いわゆる”犬種”というものに帰属するのだそう。
 歴史上の記録によると、平安時代とかその辺から人間とは似ても似つかない二足歩行の文明生物が現れたのが獣人の始まりだと言われている。
 かつて、人間と獣人はいがみ合いながら暮らしていた。
 獣人は力を、人間は知能を誇示し、お互いに自分たちの方が種族的に上だと互いを見下し続けていたらしい。
 そんな殺伐とした世界に終止符が打たれたのは、数十年前、とある番が出現した頃だった。
 その番は片方が獣人、もう片方が人間という、当時では異端とされるような二人。
 しかし彼らが声を上げたことで秘めたる思いを告白する者たちが次々と現れ、やがて獣人と人間とが手を取り合い歩む世界として落ち着いていったのだった。
 そしてそんな世界で、ハスキー種の獣人である母と、純正の人間の父との異種婚によって産まれたのが、自分……一之瀬まこと。
 性別は男。
 平凡に大したイベントもないまま小学校から大学までの学生生活を終え、就活も特に苦労することもなく、あまり大きいとはいえないが同僚も上司も優しい人たちばかりの会社に就職してかれこれ二年。
 僕は、入社時と変わらず今日も会社の営業事務を担当している。
◇ ◆ ◇ ◆
「まーこと! ランチ食べに行こー!」
 鈴が跳ねるような元気な声が飛び込んできてふいと顔を上げた。
 作成中の書類が表示されたモニターの向こう、小さな耳を湛えたふわふわの彼女がぴょいと顔を出す。
 可愛らしく結わえられた三つ編みと桃色のリボンが跳ねた。
 目が合ったポメ種の彼女の目がくしゃりと可愛らしく細められる。
「桜花、ちょっと待ってね。区切りがいいところまでやっちゃうから」
 正面のデスクの彼女は同期の東桜花。
 もうかれこれ二年もの付き合いになる彼女は良い意味でパーソナルスペースが狭く、人懐こい性格だ。
 最初は距離感が近いのが少し苦手だったのだけれど、お互い唯一の同期であることもあり交流を進めていくと意外にも面倒見が良い面があったり物怖じしない芯がある姿勢だったりが見えてきて、いつしか苦手意識は消えてなくなっていた。
 今では何でも相談できる良き友人となった彼女はいつもこうしてランチに誘ってくれる。
 編集していたデータを保存してデスクを立つと、待ってましたと言わんばかりに桜花も勢いよく立ち上がった。
 まん丸い尻尾が忙しなく揺れているのが見える。
 早く早くと彼女に急かされながら、身軽に財布だけを持って桜花と共にオフィスを出た。
「今日は何にしようかな~? パスタ? ハンバーグ? ラーメン? ちょっと奮発して焼肉っていうのもいいよね~!」
 ついつい腹の虫が鳴いてしまいそうなその言葉に相槌を打ちながらふいと隣でスキップ気味に歩く彼女に視線を向ける。
 ポメ種……正式名称はポメラニアン種族。
 ポメ種は基本的に小柄で、隣にいる彼女も例にもれず身長僅か百四十七センチ。
 ふわふわの体毛とピンク色の肉球がとても愛らしい。
「まことは何か食べたいのある?」
「うーん……僕は特に」
「もー! そういうこと言ってるからまことはいつまで経ってもガリガリのもやし君なんだよ! よしっ、じゃあ今日のお昼は焼肉に決定! 桜花ちゃんが奢ったげる! いっぱい食べなさい!」
「えっ? いいよ、そんな。自分で払うよ」
「いいからいいから! ほら、レッツゴー!」
 ふわふわの綿毛のような感触が手首を包んだ。
 彼女に腕を引かれながらぼんやりと、羨ましいなあ、なんて考える。
 獣人特有の肉球と、彼女の体を覆うふわふわの可愛らしいベージュの体毛は自分にはない。
 そして、彼女のように自分に自信を持てるような武器もない。
「まこと? どしたの、ぼーっとして」
「ううん。なんでもないよ」
 彼女の大きくてまん丸い瞳に、自分の顔が反射した。
 ぼんやりとしたグレーの髪と瞳。
 母譲りのそれらを携えているのはどこか頼りなさそうな人間の男。
 自己主張が少なく、地味で、根暗。
 目の前にいる桜花とは正反対な自分に嫌気が差す。
 こんなことだから想い人に気持ちの一つも伝えられないんだなあ、と一人勝手に肩を落としつつ、桜花に手を引かれるまま焼肉ランチの店へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませー!」
 店員の元気な挨拶を心地よく感じながら案内された席に向かい合って座る。
 一冊しかないメニューを二人で覗き込みながら、隣の席から聞こえてくる肉が焼ける音に喉を鳴らした。
「まこと、なんにするー? 私はこの、色んなお肉が乗ってる”満足セット”ってやつにしようかな!」
「ええと…じゃあこの”食べ比べセット”にするよ」
「オッケー! どっちも美味しそうだし、交換しながら食べよー♪」
 きらきらとした瞳で桜花が呼び鈴のボタンを押す。
 数秒待った後、額に汗を光らせた店員さんがぱたぱたと駆け寄ってきた。
 さくっと注文を済ませ、これまた忙しそうに厨房へと戻っていく店員さんを見送りながら桜花と目を合わせる。
「焼肉久しぶりかも~♪ 超テンション上がるね!」
「だね。あっちこっちからいい匂いがしてきて、お腹鳴りそう……」
「あたしもヨダレ出そう……」
 なんて、二人で笑っているとさっきの店員さんがお皿をいくつも抱えて戻ってきた。
 テーブルの上に所狭しと並べられるお肉やらサラダやら白いご飯やらをついつい凝視してしまう。
 店員さんがテーブルを離れるが早いか、二人揃ってトングを手に持ち焼き網の上にお肉を並べていく。
 途端、油が網の上で踊る音が鼓膜を揺らし、香ばしい匂いが鼻孔を撫でた。
 やはり肉食動物として産まれた以上、目の前で肉が美味しく調理されていく様子を眺めている瞬間は心躍るものだ。
 セットの卵スープを啜りながら食欲をそそる赤みがゆっくりとその身を焦がしていくのを今か今かと待っていると、正面に座って同じくお肉と睨めっこをしていた桜花が我慢ならないとでもいうように肉を持ち上げ、口にぽいと放り込んだ。
「え、ちょ、まだ赤いよそれ?」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ!」
 肉をゆっくりと味わうように噛みながら、恍惚の表情を浮かべる桜花。
 くそう、羨ましい。
 獣人は本人たちが自負する通り生命力が強い。
 ちゃんと処理をすれば火の通っていない生肉でも食べられるらしく、居酒屋なんかにいくと真っ赤な生肉を食いちぎってビールを流し込んでいる中年の獣人男性なんかを見かけることもままある。
「まこと、そのお肉、もういいんじゃない?」
 桜花に言われて視線を落とすと、程よく焦げ目のついた香ばしい匂いを放つお肉が自分を見上げていることに気が付いた。
 零れ落ちる肉汁が勿体ない。
 少し焦りながらしっかり焼けたそれを箸で摘んで甘めのタレにダイブ。
 タレを絡めたらご飯の上でちょっとタレを落として、と。
「いただきます」
 甘い肉汁が舌の上でじわりと溶け出してタレと絡む。
 すかさず白いご飯も投入。
 濃いめのタレのおかげでご飯の甘みが際立ち、なんともいえない幸福感に包まれていく。
 ううん、生きてるって感じ。
 焼肉最高。
「あ、ところでさ」
 雑談もそこそこにデザートのアイスまでぺろりと平らげ食後の煎茶で一息ついていたとき、桜花がふと顔を上げた。
 食後だからか少し眠そうだ。
 かくいう自分も、この後の業務のことを考えると溜息が漏れる。
 ああ、このまま帰りたい……。
「いつ部長に告白するの?」
 突然の爆弾投下に啜っていた煎茶を吹き出す。
 飲み下しかけていた煎茶は急に進路を変えて気管に飛び込んでいった。
 激しく咽る自分を尻目に、桜花は呆れたように小さく息を吐いて目を細める。
「まことから部長が好きだって聞いてからもう二年近く経つよ? いつまでウジウジしてるの」
「う、……だ、だって……」
「もう。まこと、いつも”でもでもだって”しか言わないじゃない。部長みたいなタイプは言わないと気付いてくれないよ? あの人、鈍そうだもの。まことのこと、きっと可愛い後輩ぐらいにしか思ってないよ」
「それは、そうなんだけど。でもまだ自信が……」
「いつもそればっかり。言っとくけど、まこと、レベル高い方なんだからね! 顔可愛いし華奢だし。でも歩くときも座るときも猫背気味だからそれは直した方がいいと思う」
 からん、と解けた氷がグラスの中で崩れた。
 薄い烏龍茶が少しだけ残ったそこには弱々しい自分の姿が映っている。
「兎に角、あの手のタイプはガンガン攻めてこそよ! ってことで、どうせこのままじゃ進展なんてしないだろうから、部長と飲み会セッティングしといてあげたからねっ♪」
「…………え?」
 いつもと変わらない可愛らしくて懐っこい笑みを浮かべる彼女が、今回ばかりは悪魔のように見えた。
◇ ◆ ◇ ◆
 営業部部長、朝桐伊墨。
 齢四十後半。
 柴種の獣人である彼からはいつもコーヒーとタバコの匂いがする。
 物腰が柔らかく、穏やかで落ち着いた大人な姿勢に十年来の顧客も少なくはない。
 それでいて時折、営業事務担当である自分や桜花に営業先で買ったお土産を差し入れしてくれたり労いの言葉をかけてくれたりといった姿勢から彼に憧れるようになるのに時間はそうかからなかった。
 というか今思えば、配属されて初めて挨拶をしたときの彼のくしゃっとした笑顔にもう惚れていたような気さえする。
「戻りましたー」
 元気に片手を上げて営業部オフィスに飛び込んだ桜花に続いて、入り口で頭を下げてから自分の席に腰を下ろす。
 座りなれたオフィスチェアから伝わってくる優しい揺れが、甘たるく睡魔を誘った。
 ストレッチも兼ねて体を伸ばし眠気に退場を願うが、逆効果だったらしい。
 あー、ぼんやりしてきた。
 やばい。
 パソコンのモニターの向こう側で桜花が大きく口を開けて欠伸をしているのにつられて自分も小さく欠伸を零した。
「眠そうなところ申し訳ないけれど、急ぎの案件をお願いしてもいいかな?」
 視界の端から優しい声が滑り込んできて肩が跳ねる。
 心臓が口から飛び出てしまうかと思った。
 振り返ると優しく見下ろしてくる円らな瞳と視線がかち合う。
「あ、す、すみません……」
「はは。大丈夫だよ。この時間は眠くなってしまうよな。私もこの後の会議で寝ないか不安だよ」
 部長はからからと笑いながら、よいしょ、とこちらに視線を合わせてしゃがみ込んだ。
 ふわりとタバコとコーヒーの香りがする。
 次いで、あまり飾り気のない石鹸の匂いも。
「それで急ぎの案件なんだけれど、共有フォルダに入れてあるのを開いてもらえるかい? 今日付けのフォルダ」
「はい。えっと、……これですか?」
「そうそう。一緒に資料を入れてるから、過去十年分のデータをグラフ化しておいてほしいんだ。今日十七時に約束してるクライアントから急な要望変更があってね……十六時半までにお願いできるかな? 今日の他の業務はアポにまだ期間があるものばかりだから月曜日以降でも大丈夫だし」
「わかりました。このくらいなら間に合うと思います」
「本当かい? ありがとう、頼むよ」
 安心したように小さく息を吐いた彼は姿勢を戻す。
 ぽき、と膝から音が聞こえた。
 運動不足かな。
「急な変更だったからさ。すまないね、手間をかけて」
「いえ。大丈夫です。すぐやりますね」
 どうせもう週末だし、あと数時間仕事に真剣に打ち込むくらいなんてことない。
 それに部長に声をかけられたことで眠気も吹き飛んだし、想い人から直々にお願いを受けたとあっては頑張らない他もないだろう。
 よし、と資料を開いたところで背中にぽんと軽い衝撃を感じた。
 柔らかい感触と人間より少し高めの体温がじんわりと染み込んでくる。
「それじゃ、よろしく頼むよ」
 どうやら背を軽く叩かれたらしい。
 恐らく彼としては部下を激励するためのなんてことのないアクションだったのだろうけれど、こっちは正直突然の触れ合いに気が気でなかった。
 彼の手が触れた背中がじゅくじゅくと熱を持つような感覚に思わず縮こまる。
 ふと視線を感じて顔をあげると向かいのデスクに座っている桜花がにやにやと楽しそうな笑みを浮かべているのが見えた。
 いけない、仕事に集中しないと。
 感情を振り払うように首を振り、デスク脇に置いていた飲み物を飲んでクールダウンしてから改めて画面に視線を戻す。
 しかし急な要望変更とは、随分と迷惑な話だ。
 これが週末じゃなければ内心はイライラしていたに違いない、なんて思考を切り替えながら資料と睨めっこしていると、オフィスを離れようとした部長がふいに振り向いた。
「おっと、そうだ。東くん、一之瀬くん。今日の夜だけど、私は営業先から直接向かうから駅で待ち合わせにしないか?」
 今日の夜?
 首を傾げていると、桜花が花の咲くような笑顔を浮かべて元気よく立ち上がった。
「はーい! 了解です!」
 なんだなんだ。
 自分のあずかり知らぬところで一体何の約束がされているというんだ。
 ぽかんとしている間に彼は名前が書かれたマグネットを”会議”の欄に移動させ、何やら色々資料を抱えて営業部オフィスを出ていった。
 今は他の営業の人もご飯だったり営業だったりに出ていて不在。
 自分と桜花の二人だけが残されたオフィス内はがらんとしていて、静寂が頬を撫でる。
「えっと……桜花?」
「んー?」
「今日の夜って」
「言ったじゃん、飲み会セッティングしといたって」
「いや、言ってたけど……まさか今日なの?!」
「今日だよ? あ、ちなみに、あたし今日仕事終わりそうになくて残業の予定だから二人で行ってきてね!」
 …………んん?!
◇ ◆ ◇ ◆
 急展開だ。
 予想だにしていない急展開だ。
 まさか何の心構えもないままいきなり部長と二人きりだなんて。
 桜花のお節介には今まで何度も助けられてきたけれど……今回のは有難いようなそうでもないような……。
「まこと、ファイトー!」
 とかなんとか言いながら急ぎでない資料をのんびり作りつつお菓子をつまんでいる桜花をオフィスに残し、恐る恐るいつもの帰り道とは逆方向の電車に乗った。
 仕事終わりのサラリーマンで賑わう車内がガタゴトと揺れるたびに心臓の鼓動が大きくなっていく。
 待ち合わせの駅に近付くにつれて現実味が増していき、同時に不安が背筋を駆けた。
 少しでも気を紛らわせようとイヤホンで音楽を聞いているとそれに紛れてチャットアプリの通知音が鳴る。
 ふとスマホを見ると、通知欄には桜花の名前が表示されていた。
{ やっほー! 守備はどう? )
 可愛らしいスタンプと一緒に送られてきた一文に思わず笑みが溢れる。
{ まだ電車だよ )
{ ありゃ? まだそんな時間? )
{ 桜花、仕事終わったの? )
{ うん。今会社出たとこー )
{ お疲れ様 )
{ ありがとー! まこともお疲れ! )
 本当は今からでも合流してほしかったが、それを伝えるのは留まった。
 今からでも、まで入力したメッセージを消し、代わりに普段使っている”お疲れ様”のスタンプを送る。
 彼女はきっと呼べば来てくれるだろうけれど……今それをしてしまったら自分が抱えている想いは心の内で燻ったままになるだろう。
 多少荒治療でも、折角彼女が機会を用意してくれたんだ。
 彼と少しでも距離を縮められるよう、あがいてみることにする。
{ じゃあ頑張ってねー! 月曜日、成果聞かせてね )
 ハート形のスタンプが送られてきたのを最後に、彼女からのメッセージは途絶える。
 小さく息を吐いた次の瞬間、次の停車駅のアナウンスが流れた。
 部長との、待ち合わせの駅だ。
 慌てて持っていた鞄を抱え直してドアの近くに寄る。
 つい先程まで窓の外にはビルが立ち並ぶ無骨なオフィス街が広がっていたのに、気がつけばオフィス街は賑わいのある夜の街並みにお色直しをしていた。
 煌々と輝くネオンが眩しい。
 あまり縁のない華やかな景色に見惚れていると、これからそんな場所に飛び込もうとしているとは思えないほど不安げな顔をしている自分と窓ガラス越しに目が合った。
 あがいてみるとは言ったものの、実際彼と何を話せばいいんだろう。
 ただでさえ普段は仕事でしか交流がないのに。
 どうしよう、大丈夫かな……。
 不安で押しつぶされそうになっていると、再び手に握ったままのスマホが震えた。
 画面に映し出されたのはメッセージアプリの通知。
 その送り主は……、
「ぶ、部長……?!」
 思わず出てしまった声に、はっとして口を塞ぐ。
 視線が気になってふいに顔を上げるとぽかんとした顔をしたサラリーマンと目が合い、慌てて目を逸らした。
 今にも口から出ていってしまいそうなほど暴れている心臓を宥めつつスマホの画面と向き合う。
 配属時、緊急連絡用にと登録した部長のアカウント……基本的に仕事関係は社内メールあるいは社内電話で連絡をくれていたからトーク画面は真っ白だった。
 ……つい数秒前までは。
{ すみません。商談が長引いて、少し遅れます )
 恐る恐る開いた真っ白なトーク画面に浮かんだメッセージに拍子抜けする。
 なんで敬語なんだろう。
{ わかりました。僕はもう着くので、駅で待っていますね )
{ 了解。どこか入っていていいよ )
 目の前で電車のドアが開く。
 人の波に少しだけびくびくしながら改札を抜けた。
 流石、華の金曜日。
 繁華街の最寄り駅だということもあり人通りが多い。
 とりあえず邪魔にならないよう脇に避けたが、さてどうしたものか……。
 部長の言う通りどこかに入っていたほうがいいのかな、なんて思いながらとりあえず駅を出てすぐのところに設置されている少し高めの花壇の淵に腰を下ろした。
 土と葉との青臭さに交じって花の蜜の優しい匂いがする。
「日没の時間も遅くなってきたなあ……」
 時刻は十九時半。
 紺色と橙色とのグラデーションを背景に、喧騒がネオンの海を漂っている様子をただぼうっと見つめる。
 仕事終わりに繁華街なんて、まだ新人の頃に参加した歓迎会以来かもしれない。
 桜花と遊ぶ時は、仕事終わりは基本的に職場付近だし、休みの日にもショッピングセンターやお店とかが多い方に行くし。
 アフターファイブを数時間過ぎた今の時間帯、どうやら既に一次会を終えた人たちも少なくないようで時折前を通り過ぎる騒がしい集団からアルコールの匂いが漂ってくる。
 ここにいると空気だけで酔えてしまいそうで、あまりお酒を飲まない自分には少し場違い感があるけれど足音や笑い声が入り混じったちょっとだけ下品な雑音はすごく心地いい。
 聞き入るように少しだけ目を伏せたその時、ネオンの光を遮って視界に大きな影が落ちてきた。
 肩で息をするその影は、頬を伝う汗をぐいと拭う。
「一之瀬くん! すまない、待たせたね」
 ジャケットを鞄と一緒に脇に抱えた彼、もとい部長は少しだけ煩わしそうにネクタイを緩めた。
 妙に艶めかしいその様子に心臓が跳ねる。
 と同時に、行儀よく締められていた襟元から零れ落ちるようにふわふわの毛が飛び出したのが見えた。
 うわ……あそこ、顔埋めたい。
 大人らしさが滲み出る姿に見蕩れてぽかんとしているとネクタイを緩めた手がそのままゆっくりと近づいてきた。
 すり、と彼の手の甲が頬を滑る。
 少しだけ固めのしっかりした毛質が柴種の特徴だと聞いたことがあるけれど……全然違うじゃん。
 ふわっふわで触り心地最高。
 おばあちゃんの家に敷いてあるちょっと高い絨毯みたい。
 わー、気持ちいいー。
 ………えーっと。
 今、これ何されてるの?
 どういう状況?
「こんなに冷たくなって。どこかに入っていてと言ったのに」
 予想外の出来事にフリーズしている自分を置いてけぼりにして、彼の体温はゆっくりと離れていった。
 触れていた温度に名残惜しさを感じていると、部長は耳をぴくぴくと動かしながら周囲を見渡す。
「あれ? 東くんは?」
「ああ、えっと。どうやら残業になっちゃったらしくて」
「? そうなのか。珍しいな、東くんが残業だなんて」
「そうですね……あはは」
「まあでもそういうことなら仕方ないな。じゃあ今日は二人で飲もうか」
「は、はいっ」
 良かった。
 今日は解散にしようとか言われなくて。
 部長の性格からしてそんなことをいう人ではないとは分かっているんだけれど、そこはまあ恋する故の弊害ともいえるもの。
 相手を信じたいと思う反面もし相手にこんなことを言われたら、されたらどうしようと考えてしまうのは正常な思考回路だろう。
 多分。
「それで、どこに行こうか」
「……へ?」
「東くんに誘われただけでどこに行くのかとかは何も聞いていないんだ。一之瀬くんは何か聞いているかい?」
「僕も何も聞いてませんね……いつも二人で飲む時も行き当たりばったりなので」
「そうなのか。若いのになかなかチャレンジャーだね」
 部長と二人で並んで繁華街を歩く。
 時折すれ違うカップルや仲睦まじそうな夫婦を見ると今の自分たちはどう見えているんだろう、なんて思ってしまう。
「君たちのいつも通りに従って適当にどこかに飛び込んでもいいけれど、今日は金曜日だからね。目につくところはどこも混んでそうだし、私の行きつけでもいいかい? 君のような若い子を連れていけるようなお洒落な店ではないんだけれど……」
「そ、そんなっ、全然大丈夫です! それに部長の行きつけのお店、行ってみたい、です」
 後半は声が徐々に小さくなってしまったけれど、気持ちはきちんと届いてくれたみたいで、彼は嬉しそうに頬を緩めた。
「じゃあ、行こうか」
 先を歩き出した部長の広い背中を追いかけていくと、景色は煌びやかな大通りから徐々に提灯や小さな看板が立ち並ぶ静かな裏道に変わっていく。
 十数分ほど歩いた頃だろうか、部長が指したのは赤提灯と青い暖簾を引っさげた木造の建物。
 店名すら書かれていない質素な店構え……と思ったら、足元にある電飾スタンド看板に”だるま”と書かれているのを見つけた。
 なるほど確かに、桜花とは絶対に入らないタイプの店だ。
 ガラス張りのドアの向こうから煌々とした明かりと野太い笑い声が漏れている。
 こちらが尻込みしていることに気付いたのか、視界の端にひょいと部長の顔が滑り込んできた。
 不安げに眉が垂れている。
「やっぱり店、変えようか?」
「い、いえっ! 大丈夫です!」
 飛び込むにはなかなか勇気のいる店構えだけど隣に部長がいるだけで大分心強い。
 少しだけ申し訳なさそうな部長に続いて恐る恐るお店に足を踏み入れた。
 途端、ぶわりとタバコの匂いがして、次いで母親を彷彿とさせるような、優しい声色の”いらっしゃいませ”が耳を撫でる。
 カウンターの向こう、静かに佇んでいるのは割烹着に身を包んだ綺麗な人間の女性。
 奥にあったボックス席に部長が腰を下ろしたのに倣って、自分も正面に腰を下ろすとタイミングよく水の入ったグラスとおしぼりが目の前に置かれた。
「なんにします?」
 差し出されたおしぼりは温かくて、思わずほう、と息を吐く。
「うーん、そうだな。じゃあとりあえず瓶ビールと……一之瀬くんは?」
「あ、ええと」
 慌ててメニューを手に取って開く。
 お酒のページは……あった、最後だ。
 うーんと、ビール、日本酒、焼酎、ハイボール、ワイン……。
 えっとカクテルは……もしかして、ない……?
 どうしよう困った。
 カクテルしか飲めないのだけど。
「メニューにないものでも仰って下されば作れますよ」
 メニューと睨めっこして困っていたこちらを察してか、女将さんがそう声を掛けてくれた。
「ほ、本当ですか? じゃあえっと、カシスオレンジ……とか、できますか?」
「はい。大丈夫です」
 にこにこしながら頷いてくれた彼女にお礼を伝えつつ、ほっと息を吐く。
「すぐお出ししますから、ちょっと待っててくださいね」
 優雅に頭を下げてカウンターに戻っていった彼女を見送っていると部長と不意に目が合った。
 彼の真っ黒い瞳に店内の暖色の照明が反射して、きらきらと光っている。
 綺麗だなあ、なんて見惚れていたら彼は不思議そうに首を傾げた。
「どうかしたかい?」
「い、いえ! なんでもないです!」
 すると彼は小さく困ったように笑う。
「そんなに片肘張らなくていいんだよ。ここは会社の外なんだから。……といっても、上司と二人きりの飲みで緊張するなという方が難しいか」
「そ、そんなことは……!」
 あなたが好きだから緊張しているんです、なんて到底言えるはずもないけれど、かといって上手い言い訳も思いつかない。
 なんと言うのが正解なのかはわからない。
 でも……。
「僕、今日、部長とこうして飲みに来られて、すごく嬉しいんです。……ガチガチで、そうは見えないかもしれないけど、でも、これは嘘偽りない僕の本心です……っ!」
 思わず身を乗り出しながらそう告げる。
 すると彼は少し目を見開き、ぽかんとした表情を浮かべた。
 ……しまった、勢いに乗ってやりすぎた。
 こんな言い方じゃまるで……。
「はは、それは嬉しいな」
「え?」
 予想だにしていなかった返答に思わず固まっていると彼は頬を掻きながら笑う。
「いやあ、ほら、私は見ての通りおじさんだろう? 流行もよくわからないし、若い子たちから煙たがられていないかなといつも心配だったんだよ」
 ああ、そういうことか……。
 ちょっと……いや、結構期待してしまった。
 やはり彼から見て自分はただの部下なんだなということを悲しくも再確認しつつ、とりあえずそれなりに気をかけたい部下としての地位は確立していることに安堵する。
「そういえば、飲み物以外何も頼んでいなかったね。何か食べたいものはあるかい? 好きなのを頼むといい」
 
 そう言われ、手に持ったままだったメニューに視線を落とす。
 年季の入った色褪せた紙面には昔ながらのスピンが垂れ下がっていて、後から少しずつ増えたのか手書きのメニューが数枚挟まっていた。
 えっとお刺身、てんぷら、串、……わ、グラタン?
 それにオムレツまで。
 どうやら和食に限らず、洋食、中華も取り扱っているようだ。
 居酒屋というよりは家庭料理って感じらしい。
 あの女将さんが作るグラタンは間違いなく美味しいだろうなんて考えながら、腹の虫と相談する。
 悩んだ結果、枝豆に卵焼き、お刺身といった当たり障りのないラインナップになってしまったけれど、まあいいか。
「そういえば、今日はどうして誘ってくれたんだい?」
 女将さんの出してくれた料理に舌鼓を打っているとふと気がついたように部長が零した。
 どうしてと言われてもなあ……。
「僕も桜花から誘われただけなので、なんとも……」
「そうなのか。突然誘われたときはびっくりしたけれど、交流を図ろうとしてくれるのはとても嬉しいよ。今度は是非東くんも一緒に行きたいな」
「そ、そうですね……」
 多分、桜花が一緒に来ることは滅多なことがない限りないだろうなあと思いつつ、カクテルを口に含む。
 そもそもお酒に強くないということもあって普段はあまり飲まないのだけれど女将さんが作ってくれる料理もどれも美味しくて自然とお酒が進んでしまい、数十分も経つ頃には体がぽかぽかと火照ってしまっていた。
 意識がぼんやりとして、珍しく随分酔ってるなー、なんて呑気に考えていると不安そうな部長の顔が飛び込んでくる。
「一之瀬くん、顔が赤いけれど大丈夫かい?」
「うーん……へへ、ちょっと酔ってます。いつもはこんなに飲まないから」
 部長との飲み会は最初こそ緊張していたけれど、美味しいお酒とご飯とに背中を押されるように意外と話は弾んだ。
 部長が聞き上手なのもあって随分と自分ばかり話をしてしまったような気もするけれど。
「あまり無理してはいけないよ。酒は呑んでも飲まれるな、だからね」
「ふふ、わかってます」
 彼のおじさんくささに思わず笑みが零れる。
 こんなに格好良くて、スマートで、年齢を感じさせないのにやっぱり言動には年相応な感じが出るんだ。
 まあ、そこも含めて彼のことが好きなんだけれど……。
「部長」
「ん? どうしたんだい?」
「部長って、お付き合いしている方とかいないんですか?」
 はっきりとしない意識の中で、正面に座る彼が困ったように笑ったのだけがわかった。
 いつもは自信ありげにぴんと立ったままの耳が少しだけ傾いている。
「はは。恋人なんてもう暫くいないよ。それに、もう、諦めている」
「……え?」
「私もいい年だしね。これから誰かとどうこう、っていうのは考えていない」
 ぐい、と御猪口を煽った彼。
 困らせてしまっただろうか……前後の話に全然絡んでなかったし、きっと不躾だっただろう。
 でも……。
「そ、そうなんですか。でも、部長すごく素敵ですし……ほら、告白とか、されないんですか?」
 止められなかった。
 お酒の力を借りた今しか無いと、ここを逃したらもう彼に近付くことはできないかもしれないと、なんとなくそう思ってしまった。
 恐る恐る発した言葉に、彼は数秒の沈黙。
 やはり失礼だっただろうか。
 何か気に障っただろうか。
 このお店に入ってから初めて訪れた静寂に思わず青くなり、訂正をしようと口を開いた瞬間、目の前に座った彼の口が先に開いた。
「告白かあ。そんなの、いつが最後だろう。学生の時とかだろうなあ。もう三十年も前の話だ」
 大口を開けて笑う彼。
 きらりと鋭い牙がお店の暖色の照明を浴びて光った。
 少しだけ目を細めた彼は徳利を覗き込み、最後の一杯を御猪口に注ぎ込んで軽い音のするそれをテーブルに置く。
「私のことは兎も角、一之瀬くんはどうなんだい? まだ若いんだから、浮ついた話の一つや二つあるだろう?」
 ぐい、と一息で御猪口を空にした彼はカウンターの向こうで何やら調理をしていた女将さんに熱燗を注文した。
 それにしてもすごい飲みっぷりだ。
 もう清酒を何杯も飲み干しているというのに表情一つ変わらない。
「……ああ、最近はこういうのもセクハラになってしまうんだったかな。すまない、忘れてくれ」
「い、いえ、その、大丈夫です」
 女将さんがテーブル脇にやってきて、目の前に湯気の上る徳利が置かれる。
 途端、気化したアルコールの匂いが鼻先を突き上げて、脳裏がぐらりと揺れた。
「好きな人は、います。……でも、多分相手は僕の気持ちには気付いていなくって。いつも僕が勝手に見てるだけなんです」
 酔いのせいか、いつもは喉の奥に押し込める弱音が、ぽろぽろと零れ落ちる。
「僕、鈍くさくて頼りがいもないし……仮に、こんな僕に告白なんてされても、きっと相手は、迷惑だろうって」
 湯飲みに入った柔らかい千草色の水面ごしに今にも泣きだしてしまいそうになっている自分と目が合った。
 その顔には今吐き出した弱音を否定してほしいとありありと書いている。
「そんなことはないさ」
 彼の声にはっとして顔を上げる。
 言わせてしまった。
 彼にこんな面倒くさいことを言ってしまって、しかもそれを慰めさせてしまった。
 上司という立場上、”そんなことはない”という返答以外の選択肢は殆どないに等しいだろう。
 当たり障りのない、社交辞令。
 慌てて茶化そうとしたが、見上げた先にあった彼の顔は真剣そのもので、思わず言葉を呑む。
「君はよく周りを見ている。フォローも上手だ。相手を思いやるが故に自分の気持ちを飲み込んでしまうのが玉に瑕だが、君はとても優秀な人だよ。迷惑だなんて思うはずないさ」
「……そう、でしょうか」
「ああ。君の直属の上司である私が言うんだ。間違いない。だから自信を持ちなさい。ね?」
 にこり、と細められた彼の目は相変わらずきらきらと輝いていて。
 思わず真っ赤になった顔を見られない様に下を向く。
 やっぱり僕は、この人のことが好きだ。
◇ ◆ ◇ ◆
 お店を出ると冷たい風が頬を撫でた。
 火照った頬から少しずつ体温が攫われていって、それに引きずられるように酔いも少しずつ抜けていく。
 ふと横に視線を移すと、部長が大きく伸びをしているのが見えた。
「すみません。奢ってもらっちゃって……次は僕が」
「いいんだ。私は上司だからね。部下は黙って奢られていなさい」
 力強く微笑む部長の口元から八重歯が覗く。
 思わず心臓がきゅんと縮んだ。
 ほんの少し残ったアルコールのせいでふわついた視界の中、彼の顔だけがくっきりと見える。
 優しく皴を刻んだ目元、タバコの匂いが染みついたシャツ、時折ぴくぴくと動くふわふわの耳に少しだけ乾燥した肉球。
 そのすべてが。
「好きです……」
「……え?」
 ………………え。
 首を傾げる彼とぱっちりと目が合う。
 もしかして今、声に出てた?
 その瞬間に酔いは少しも残らず吹き飛び、街征く人の足音も喧噪も、周囲の視線も、くっきりと意識の中に滑り込んできた。
「あっ、えっと……! その、こういう、お酒飲んだ後の風って、好きだなあって……! あ、あはは……!」
 ビルの隙間から零れ落ちている星の少ない夜空を指しながら彼の顔を恐る恐る盗み見ると、指した方に視線を向けて納得したように、ああ、と呟く。
「わかるよ。ひんやりして気持ちいいよね」
「そ、そうですよねー!」
 誤魔化せた、かな……?
 できればもう少し一緒に居たかったけれど勿論そんな可愛らしいおねだりなんてできるわけもなく、今日のところはそのまま解散。
 遠くなっていくネオン街がなんだか恋しい。
 たった数時間居ただけなのだけれど。
 なんとか家に帰りつき上着を脱いでそのままベッドに飛び込む。
 自分の家ってこんな匂いだったっけ、なんて思いながら大きく息を吸い込むとどこからかタバコの匂いがする。
 シャツだろうか、それとも上着?
 微睡んでいく視界に慌てて体を起こし、シャツを脱いだ。
 寝巻に着替えて改めてベッドに飛び込み直す。
 本当はシャワーでも入りたかったけれど残念ながら意識が持ちそうにない。
 それに、もう少しだけ彼と同じ匂いを纏っていたいと思うことぐらい、きっと許されるだろう。
 ほんの数時間、正面に座っていた想い人の色んな表情を思い出しながら、そっと目を閉じた。