王座に座して、手を引いて。

 人を殺すことに抵抗はあるか。仮に誰かからそう問われたとしたら――私はきっと不思議そうに首を傾げてしまうだろう。逆にどうして抵抗があるのか、と。なぜならこいつらは国を脅かす、殺されて仕方がないやつらなのだから。

「――あらいけない。ドレスが汚れてしまったわ」

 と、思わず声に出した自分の口元を抑えながら、ふ、と笑った。群青の髪を纏めていたコサージュを乱暴に取りながら、かつて人だった肉塊からナイフを引き抜く。

「はあ、疲れた」

 踵の高いパンプスを脱ぎ捨てると足首には酷い痛みが走った。靴ずれのせいでぐずぐずになってしまったらしいその傷口にドレスの裾を破って巻きつける。
 こうして令嬢を装って悪人を始末するのはもう幾度目になるかわからない。人を殺すことには随分慣れたものだが、このヒールという履物については一向に慣れることができそうになかった。

「痛いし、脱いで帰ろ」

 軽く返り血を拭ってから裸足のままさっさと帰ろうとしてやっと、自分の背後に得体の知れないなにかの気配があることに気がついた。普段の自分であったなら冷静に、つい先程人間を一人葬ったばかりのナイフを振りかぶっただろう。
 だけど、できなかった。
 後ろにいるそのなにかに、ただの人間が到底敵うはずがないと本能で悟ってしまったから。

「随分鮮やかな手際だ」

 なんて感情のない声色で褒め言葉を紡いだそのなにかはふわりと小さく欠伸をした後、背後から私の耳元に口を寄せた。むせ返るような邪悪を発しているその存在を前にして背筋には嫌な汗が流れる。

「気に入った。君、僕のものになれ」

 頬にこつんと冷たい何かが当たった。それが魔族の象徴である角だと理解できないほど馬鹿ではない。
 人間史が始まってから千年と少しが経過した現在、この世界は魔物という存在に悩まされている。魔族は何もない場所から突然発生するとされていて、発生を留める原因も明らかになっていない。
 魔族の特性として、野生動物のように本能に従って存在しているものから人間のように知性を持ち合わせているものまでいるが、魔族の特性は総じて攻撃性と加虐性があるということが大前提である。魔族の配下になるぐらいならば死んだほうが苦しまなくて済むという冗談があるほどだ。
 もし魔族に拐かされそうになることがあれば――その時は躊躇するなと訓練の時いつも師から口酸っぱく言われていたことを思い出す。
 死とは案外突然訪れるものだ。今日、手の中にあるナイフで葬られた者のように。
 覚悟を決めた私は小さく息を吐いて、ナイフを自分の首元に宛てがった。
 そのままナイフを力の限り横に凪ぐ――。

「おっと。そうはさせない」

 背後からくつくつと笑い声が聞こえたと思ったら手に持っていたはずのナイフが消え去った。ただ空を切っただけの手を呆然と眺めていると、がしゃん、とまるでガラスが割れるような音がして、次いで足元になにかの破片が転がる。
 恐る恐る足元を見ると、先程まで持っていたはずのナイフがまるでガラス細工のように粉々に砕け散っていた。まさかナイフが砕けるなんて想像もしておらず、驚きと得体の知れないものに遭遇した恐怖に思わず固まる。
 そんなこちらの感情を意に介す様子もなく、魔物はひょいと私の体を持ち上げ、酒樽でも持つようにして肩に抱えた。

「なっ?!」

 魔物はそのまますたすたと窓に近付いていく。なんとか抜け出せないものかと力の限り暴れるが魔物の腕はびくともしない。

「離せ! 何をするつもりだ!」
「そう怯えなくても僕に人食いの趣味はないから安心していい。――ああ、そうだ」

 魔物は何かを思い出したかのようにそう言ったと思ったら抱えていた私の身体をそっと床に下ろし、小さな子供を抱えるようにして持ち変えた。そうしてようやく、自分を無理やりどこかへ連れ去ろうとしている魔物と相対する。
 禍々しい黒い角に、人と似たような色の肌。人とは思えない黒い結膜の真ん中にはエメラルドの瞳が揺らめいていた。
 髪と同じ色の毛に覆われた獣のような手はひんやりと冷たくって思わず体が震える。気取ったブリーチズからは不気味な黒山羊の足が生えていた。
 魔物が床を踏みしめる度に、かつこつと蹄が音を鳴らす。

「もし舌を噛んで死のうと思っているならやめておいたほうがいい。僕は一度欲しいと思ったものはどんな手を使ってでも手に入れる性分だ。舌のないまま生きるのはかなり辛いと思うけれど」

 月光を浴びて魔物の瞳がぎらりと光った。
 蛇に睨まれた蛙とはまさにこの事を言うのだろうか、とぼんやり他人事のように思いながら、私は魔物が一丁前に来ているシャツの裾を思い切り握りしめた。

 ◆ ◇ ◆ ◇

 魔物という存在は得体が知れない。それらについて人間が知っている情報といえば、ただ『それらと関わることは危険である』ということだけだった。だからこそ人間は魔物に対して武力以外の抵抗方法を持たず、怯えて過ごすことしかできずにいる。
 その中でも人々が特に恐れているのがこの世界の最古にして最強にして最悪の魔物、いわゆる『魔王』の存在だ。
 この世界に存在する国ごとに様々伝承はあれど、自分が生まれ育った国――プレリド王国に残っている古い伝承によれば、百年ほど前、人間は一度魔王に滅ぼされかけたらしい。命からがら逃げ出した残り少ない人間たちは死にものぐるいで魔王に対抗する術を編み出し、自国の最北に位置する朽ち果てた古城に封印したという。
 しかしその封印は不完全で、毎年雪が降っている間に誰か一人生贄を捧げないと解けてしまう――そう言い伝えられており、プレリド王国では年に一度、冬を迎える前に生贄が選ばれ、その生贄は吹雪の日に古城へ行かなければいけないのだ。

「どうして。どうして、かあさんが!」

 幼き日、自分を置いて出ていってしまった両親のことを思い出す。
 母は十年ほど前、魔王に捧げる生贄として選ばれ、そのまま帰ってこなかった。そしてその翌年父も同じ道を辿った。
 そうして両親を失った結果、私はスラム外の隅っこで死んだように生きて泥まみれの水溜りで喉を潤し、ゴミを漁ることになったのだ。
 それもこれも……すべては魔族、しいては魔王という存在のせいで。

「ここ――は、」

 そうして今、抵抗虚しく魔族によって攫われた私は朽ち果てた古城の入り口に立っている。生贄に選ばれた人がその命を賭けて訪れる場所。
 天井が崩れた古城の中には色褪せた玉座と、いくつもの白骨死体が転がっていた。その中でも、身を寄せ合うようにしながら壁にもたれ掛かっている二つの死体に目を奪われる。
 その服は幼い記憶の中で両親が身に纏っていたものと同じだった。

「あ、あ……」

 こうして古城を実際に訪れるのは初めてだが、今日たった今確信した。自分を置いていなくなってしまった両親は確かにここで腐ちたのだと。
 ようやっと地に足をつけることを許された私は震える膝を引きずりながら両親の前に跪く。骨だけになってしまった愛おしい手を恐る恐る握ると、ひんやりとした温度が指先を伝い、彼らの薬指に嵌められていたお揃いの指輪がかつんと音を立てて転がった。

「なんだ。それに思い入れでもあるのか?」

 その声に弾かれるようにして振り向くと王座に座している魔物と目が合う。脚を組み、肘掛けで頬杖をついているそいつは、成る程確かに魔王と呼ぶにふさわしい傲慢さを孕んでいた。

「……お前のせいだ」
「む?」
「お前のせいで――父さんも母さんも、死んだ」

 本当にこいつが、この世界の民全員が怯えている魔王なのかどうかなんてわからない。というか、今の自分にはそんなことはどうでも良かった。
 ただ父と母がこうして無惨に死を迎えなければいけなくなった原因を何かに押し付けて、怒りと憎しみをぶつけたかっただけだ。

「うわああああ!」

 感情のまま駆け出し、近くにあったレンガの破片を拾ってそのまま魔物の喉元めがけ腕を横に凪いだ。――が、折角手に入れた即席の武器は魔物の手によっていとも簡単に弾き飛ばされる。
 やはりだめかと唇を噛んだ瞬間、腰にするりと腕が回ってそのまま抱き寄せられた。

「威勢がいい奴は嫌いじゃない。だが、僕のことをお前呼ばわりするのは気に入らないな」
「何を、偉そうに」

 唇を噛みながらそう呟くと、魔物はにやりと笑う。それから頭の後ろに手を添えられたかと思うと強引に唇を奪われた。
 くちゅ、と水音が鳴って唇にぬらりとした感触が這う。
 抵抗しようにも力が強くて振り払うことができず、ただただ口内を弄ばれて……次第に背中をぞくぞくとした感覚が走り、体から力が抜けていく。

「ん、ぅ。やめっ、んんっ」

 ようやっとまともに息ができるようになった頃には、ぐったりとその身を魔物に預けることしかできなくなっていた。

「なにを、した」

 そう問いかけると魔物は妖しく口角を上げる。

「少々元気が過ぎるようだったから。抵抗できないよう体力を奪わせてもらった」

 魔族は人間には使えない特殊な技法――魔法を使う。今のもきっとその一種なんだろう。

「お前……一体、私に何をするつもりだ?」

 肩で息をして睨みながらそう問うも魔物はふるふると首を振る。

「僕の名前は、バフォメットだ。君たちがそう呼んでいるだろう?」
「バフォメット?!」

 その名前には聞き覚えがあった。だってそれはまさに、人々が怯えている魔王の呼び名そのものだったから。
 ということはやっぱりこいつは。

「お前が――魔王」
「強情なやつだな。次に僕をお前呼ばわりしたら、食ってしまうよ」

 にたりと口角を上げた魔物の口元から鋭い牙がちらりと覗いた。
 |捕食《ころ》される側になるなんて久しぶりで、つい、指先がぞくりと震えて冷たくなる。
 だけど、負けたくない。せめて気持ちだけでも。

「ふん。どうせ私を無事で帰すつもりもないんだろ、お前は」

 わざとらしく『お前』を強調してやった。
 するとそいつはこれまた楽しそうに笑って、忠告はしたからな、と呟く。かと思ったらドレスのホックにゆっくりと手をかけた。
 ぷつ、ぷつ、と音を立てて少しずつドレスが肌蹴ていく。

「魔物ってのは案外グルメなんだな。食い物の包みを脱がそうとするなんて。てっきり頭から丸呑みするもんだと思ってたが」
「食い物? ふふ、君は勘違いをしている」
「……なに?」

 そう問うと魔物は肩口に顔を埋める。なにかと思っているとぬらりとした感触が首筋を這って、思わずびくりと肩が跳ねた。

「っ?!」
「君を食い物だとは思っていないさ。今はまだ、だけど。せっかく面白そうなものを見つけたんだ。……飽きるまで楽しまないと、勿体ないだろ?」

 こいつ、そういうことか……!
 確かに魔物の中にはその加虐性の高さから人間を性的な意味で襲う種族もいると聞いたことがある。だからこそ女性が夜に独り歩きをするのは危険とされているのだけれど……まさか自分がその被害に遭いかけているとは考えてもいなかった。
 だけど自分は令嬢を装っているだけでれっきとした男だ。脱がしたところで女じゃないと知れば多少驚くだろうし、その隙を突いて逃げ出してやる。そう息巻いて、どくどくと鳴る心臓を落ち着かせるように小さく息を吐いた。
 そうこうしているうちにホックは全て外され、はらりとドレスが腰元まで落ちてくる。

「ん?」

 ドレスの奥から現れた身体を見た魔物は不思議そうに首を傾げた。
 今だ、と咄嗟に逃げ出そうとするも、どうやらその作戦は失敗に終わる。腰に回っているだけの手はどれだけ暴れようとぴくりともしない。それどころか暴れれば暴れただけ魔物の拘束はキツくなっていって、もはや逃げ出すことは不可能だとさえ思えた。

「こらこら、逃げようとするんじゃない。君はもう僕のものなんだから」
「くそ、離せよ! 何が楽しくてこんなことを……っ! 私が男だってことはわかっただろう?!」

 そう言うと魔物はぽかんとした後、ああそうか、と零す。

「人間は普通、男女でまぐわうのだったな。だから君もこうして女に化けているんだろう? 男を、自分の領域に誘い込むために」
「そ、それがなんだって言うんだ」
「君はどうやら男だから僕に食われないと思っているみたいだけど――残念ながら、僕には性別なんて関係ないんだ」
「……は?」

 にこやかに笑った魔物は私の体を抱き寄せ、ぐり、と自身の下半身を押し付けた。
 服の上からでもわかるその大きさに思わず息を呑む。

「ひっ?!」
「僕がこれを使うのは……手に入れた玩具に、僕のものだって印をつけるためだから」

 舌舐めずりをするそいつを見て、思わずぞくりとした。
 この魔物が言っている『印』とはきっと眷属契約のことだろう。一定以上の強さを持つ魔物は人間に魔力を注入することで自分の眷属を作り出すことが出来るのだ。
 眷属となった人間は自我を失い、ただ主の命令を聞くだけの存在になってしまう。
 今すぐ逃げなければ、おしまいだ。背筋を嫌な汗が伝って寒気がする。
 早くこの場から逃げろと体中から危険信号が発信されているのに――こいつから発せられている|圧《プレッシャー》が強すぎるせいかもはや身体が逃げ出すことを諦めていて。簡単に言えば絶体絶命という状況だった。

「特別に優しくしてやる。だから大人しく僕のものになるといい」

 ふわふわの指先が肌を擦る。妙に優しく触れられて、思わず声が出そうになるのを必死に堪えた。
 ぎゅうと唇を噛んで口元を抑えていると手首を掴まれて引き剥がされる。

「なんだ、恥ずかしがってるのか? ふふ、面白いな」
「この野郎……っ、んうっ」

 まるで恋人に愛撫でもするようにして触れられ、キスをされ、頭がどうにかなってしまいそうだった。嫌なはずなのに柔い指先が這う度に身体が跳ねて快感を訴える。

「やめっ、ろぉ……やだぁ……っ」

 恥ずかしさ、悔しさ、両親の仇が目の前にいるというのに良いようにされているもどかしさ――色々な感情が湧き上がってきて思わずサルビアはぐずぐずと涙を零した。
 途端、魔物はぽかんとした表情を浮かべる。しかし数秒後にはまたにんまりと楽しそうに笑った。

「気に入った」

 何を思ったのかそいつは一度脱がしたドレスをいそいそと元に戻し始める。一体どういった心境の変化だろう。
 わけが分からず涙も止まってしまい、混乱する脳裏で魔物の顔を見た。

「君に印をつけるのは、君が本当の意味で僕のものになった時までとっておくことにする」
「本当の意味……?」

 不思議がって問いかけるも魔物は優しくにこりと微笑むだけで何も言わない。

「そういえば、君の名前を教えてもらってないな」
「答えないと言ったら?」
「それでもいい。こうすればわかるから」

 魔物の手のひらが頬を包み込んで、ゆっくりとやつの顔が近づいてくる。思わずぎゅうっと目をつむると額にこつんと何かが当たるような感触がした。するとなんだか、記憶の中に誰かが勝手に侵入してくるような不思議な感覚に襲われる。
 恐る恐る目を開けると目の前に緑色の眼光が飛び込んできた。まるで子供の体調を心配する母親のようにやつは私の額にひやりとした体温を当て続ける。
 それから数分後、魔物はそっと離れていきながら微笑んだ。

「君はサルビアというんだな。綺麗な名前だ」
「……今のも魔法か。便利なものだな」

 皮肉たっぷりにそう言ってやると魔物は、そうだろう、と自慢げに目を細める。

「じゃあこれから君のことはルビィと呼ぶことにしよう」
「っ!!」

 思わず固まった。
 それは……ルビィという名は、幼き頃、父と母が自分を呼ぶときによく使っていた愛称だったから。

「……う、ぅ」

 一度引っ込んだ涙が再び頬を流れ落ちる。普段なら人前で、ましてや敵前で泣くなんて絶対にしないのに、自分は一体どうしてしまったんだろうか。

「先程触れていたあれは、君の親の骨だったんだな。僕は親というものを知らないが、ルビィが親というものをどう思っていたのかは君の記憶を覗いてわかった。……思う存分、泣くといい」

 両親が死んだのはこいつのせいなのに。
 こんなことを言われて本当は怒り狂うべきなのに。
 優しい声色で寄り添うようにされて、思わず魔物――バフォメットの胸元に頬を寄せて泣きじゃくった。
 父さん、母さん、と叫びながら。
 どのくらいそうしていただろうか。
 涙が枯れた頃には空はすっかり明るくなっていて、皮肉にも美しい朝焼けが古城を照らしていた。
 敵の胸にしがみついて泣いてしまったことを一生の恥と思いつつ、自分を抱きしめているバフォメットをちらりと見上げる。

「ん?」

 目が合ったバフォメットは、にこり、と笑った。優しげな笑顔にどきりとする。
 いやいや、どきりとしてる場合じゃない。
 正気を取り戻すためふるふると首を振った。

「お前は、」
「お前じゃない。バフォメット。バフって呼んでくれ」
「……お前は」
「ルビィ。今すぐ僕のものになりたいのか?」
「――バフ」

 名を呼ばれ、やつは満足そうに頷く。

「で、なんだい?」
「バフは……ここに封印されていたんじゃないのか」
「封印?」

 バフォメットは目を見開いた後、おかしそうにくつくつと笑った。

「僕を封印できる人間なんているわけないじゃないか。僕はこの世界に存在する魔族の中で一番の古株だ。千年ぽっち続いているだけの種族に後れを取るわけないだろう。それに君たち人間は魔術なんて使えないじゃないか。どうやって僕を封印するっていうんだ?」

 確かに……冷静に考えればそうだ。
 国に伝わっているのは〝魔王が封印されている〟ということと〝封印を保つには生贄が必要〟ということだけで、その封印の方法も封印が解けた後の対処も、現実的な部分は何も残されていない。

「でもそれなら、何故今まで姿を見せなかったんだ」
「ああ……」

 バフォメットは何かを思い出したように、ぽん、と手を叩いた。

「百年ほど前、人間と遊んでいたらうっかり国を一つ滅ぼしかけてしまって」
「え」
「僕の唯一の楽しみはその国の行く末を眺めることだったのに、このままなくなったらまずいと思ってね。暫く大人しくしてることにしたんだ。そしたらいつの間にか寝てしまっていたみたいだ」

 彼の話が本当であるならば国に残っている、百年前に人間が滅ぼされたという伝記は間違ってはいないらしい。……しかし、その後の封印だの生贄だのという記述はまるで良い加減な神話のように嘘っぱちだということだろうか。

「じゃあ、あの伝承は……」

 震える声で呟くとバフォメットはくいと首を傾げる。

「伝承?」
「年に一度、この古城に生贄を捧げないと魔王の封印が解かれるって」
「あはは。人間って馬鹿だな。そこが可愛いんだが」

 私は、可笑しそうに笑ったバフォメットを恨みがましく見上げた。

「ただ昼寝をしていただけの僕に生贄なんて必要だと思うか?」

 あっけらかんとそう言われ、言葉を失う。周囲の音が消えて、きんきんと耳鳴りがした。
 だって。
 じゃあ……どうして、二人は。
 自分の今までの生活はなんだったんだ。

「は、はは……父さんと母さんは、無駄死にだったってことか」

 思わず乾いた笑いを零す。バフォメットは何を思ってるのか無表情のままこちらをじいと見つめていた。

「それだけじゃない。この国はずっと何年もこの古城に生贄として人間を送り続けていた。国を守るためだと信じて何人もの人がここで息絶えたんだ。……それが全部、無駄だったなんて」

 きっと自分と同じ思いをした人が何人もいただろう。大切な人を失う悲しみに打ちひしがれながら、それでも愛する国のためと涙を呑んで見送った人々が。
 こんな真実では、亡くなった人たちも失った人たちもあまりに報われない。

「……やはり私は、魔物が嫌いだ」

 いつの間にか緩んでいた拘束から抜け出しながら私は先程弾き飛ばされたレンガの欠片を拾った。それをバフォメットに向けながらじりじりと間合いを計り、ある程度の距離を取ったところで古城の出口へと駆け出す。
 どうせこんな古い城だ、扉に鍵なんてついていないはず。そう思い、城の出口に手をかけた瞬間だった。
 ぶわりと風が吹いたと思ったらつい先程まで崩れ落ちてボロボロだった城がみるみるうちにその絢爛さを取り戻していく。ほんの数秒、何もできずその様子を眺めていると、朽ちた古城は立派で美しいながらもおどろおどろしい黒い城に変貌を遂げていた。
 薄暗い王の間を照らすのは蝋燭とステンドグラスから挿し込む朝日のみ。まるで幽霊屋敷のようだ。

「こ、れは……」

 驚いているといつの間にか背後にいたバフォメットの手がそっと指先に絡みついてくる。

「僕は君たちが魔王と呼ぶ存在だ。……君たちの理解が及ばないことなんていくらでもできる」
「離せ。魔族と仲良くする気は毛頭ない」

 バフォメットの手を振り払って出ていこうとするが、押そうが引こうが扉はがちゃがちゃと音がするだけでびくともしなかった。もはや逃亡は絶望的だと思い立ち尽くしているとバフォメットはこちらを閉じ込めるようにして壁に手をつく。

「言っただろう。ルビィはもう僕のものだ。どこにも行かせない」
「ふざけるな! 私は……人間は、お前たち魔物の所有物でも玩具でもない!」

 そう言うとバフォメットは不思議そうに首を傾げた。

「どうしてそんなに怒っている? 君の親を殺したのは僕じゃない」
「確かにお前が直接手を下したわけじゃない。……だけど、お前たちがいなければそもそも生贄を捧げるなんて忌々しい風習はできなかった。お前たちが|存《い》るから……ッ!」

 私は感情任せに叫んだあと、壁に体重を預けてずるずると力なく崩れ落ちていく。両手で顔を覆い、失ってきた者たちの表情を瞼の裏に思い浮かべた。

「お前たちが居るから。私は、何もかもを失ってきたんだ」

 両親の死体を目の当たりにしてしまったせいか色褪せた記憶がじんわりと湧き上がってくる。蹲って、膝に顔を埋めながら震える自分の体をぎゅうと抱きしめた。

 ◆ ◇ ◆ ◇

 裕福というわけではなかったが食べるものに困ることのない平凡な一般家庭で私は育った。頼りがいのある父と優しい母にたっぷり愛される日々。
 幼い自分はそんな幸せな日常が突然崩れ去ってしまうなんて思っても見なかったんだ。――父と母が魔王の生贄に選ばれるまでは。
 最初に選ばれたのは母。
 私がまだ齢五つの頃だった。

「ルビィ、強く生きるの。何があっても。生きるのよ」

 出発の日、母はそう言いながら私を抱きしめて出ていった。
 その次の冬、今度は父が生贄に選ばれた。

「どうして。どうして私なんだ……。サルビア、すまない。本当にすまない」

 出発の日、父は何度も謝って泣きながら出ていった。

「やだよ、やだ! ぼくをおいていかないで!」

 幼子の切なる願いは到底届くはずもなく、私は古くから伝わっている国のしきたりのせいで孤児になることを余儀なくされたのだ。

「うちには金も払えないガキを泊めておくだけの余裕はないよ。さっさと出ておいき」

 両親を失ってまもなく、私は借家だった自分の家を追い出されてしまった。
 ただでさえ貧富の差が激しいこの国は、まだ齢二桁にもなっていない幼子にとって地獄と同等に――いや、それ以上に厳しい。
 住み慣れた屋根の下から追い出されて行く宛をなくした私は、放浪の末に同じような境遇の子どもがたくさん棲み着いているスラム街へと流れ着くことになった。

「さむい、おなかすいた……」

 ネズミがゴミを漁っているのをぼうっと眺めながら空腹と寒さに耐える日々。
 スラム街に住んでいる子供たちは観光客を狙ってスリをしたり店の品物をこっそり盗んだりして日々を必死に生きているようだったが、今まで普通の生活をしてきた自分にはそれができなかった。
 勿論、空腹に耐えかねてうっかり魔が差してしまったことは何度もある。だがその度に記憶の中で両親がブレーキをかけるのだ。

「ルビィ。人に迷惑をかけてはいけないよ。清く正しく生きなさい」

 そう言って……記憶の中の両親は私の頭を優しく撫でる。その幻影を振り払い、寒空の下、自分の体を抱きしめた。

「おとーさん、おかーさん。おこるぐらいなら、かえってきてよ」

 そう文句を垂れてみるも二人が問いかけに答えることはもうない。たった一人、蹲りながら死んだように生きる自分の中には次第にふつふつと本当に存在するのかどうかもわからない『魔王』に対する恨みだけが募っていった。
 そんなある日。

「おまえ、ずっとここで座ってるけど、死にたいのか?」

 とある少年が私の顔を覗き込んでそう言った。
 時折両手にパンを抱えて前を通り過ぎる、見覚えのある少年だった。
 スラムに生きる子供たちは自分たちが生きるのに必死でこうして第三者に声をかけることは滅多にない。それでもこの少年はスラムに流れ着いてから水溜りで喉を潤す以外の行動を取らない自分を気にかけていたのだ。
 久方ぶりに記憶の中の両親以外と話をしたことで張り詰めていた感情がぷつりと切れる。

「しにたくない。しにたくないよぉ!」

 突然泣き叫ん私に少年は驚いたようだったけれど、やがてきゅっと唇を一文字に結んで隣に腰を下ろし、落ち着くまで黙って手を握っていてくれた。
 人のぬくもりに触れるのがあまりにも久しぶりだったせいか、あの時はもう一生分の涙を流したんじゃないかと思うぐらい声を上げて思いっきり泣いた。
 それから暫くして、ようやっと涙が枯れた頃。

「ほら」

 少年は乾いたパンを半分に千切ってそっとこちらに差し出す。

「くれるの?」

 そう問いかけると少年はそっぽを向きながら頷いた。
 恐る恐るパンを受け取って、一口食べる。そうしたらまた涙が溢れ出してきた。
 だが、慌てて目尻を拭い、少年に微笑む。

「……ありがとう。えっと、ぼくは――」
「待った!」

 名を告げようとした私の言葉を少年が遮った。
 どうしたのだろうと首を傾げると、少年はゆるゆると首を振る。

「ここでは自分の名前は明かしちゃだめだ」
「どうして?」

 半分残ったパンを齧りながら、少年は俯いた。

「スラム街に住む奴らは仲間じゃない、敵同士なんだよ。自分以外のやつなんて腹の中で何を抱えているかなんてわかったものじゃないんだ。だから、自分のことはなるべく話さないのが暗黙のルールなんだよ」
「そっか……」
「それにうっかり情なんて湧いてしまったら共倒れしかねないだろ。俺はこんなとこでくたばるわけにはいかないんだ。……お前もだろ?」
「……うん」

 何があっても強く生きよ、と脳裏で母が繰り返す。
 そうだ。自分はこんなところで死ぬ訳にはいかない。生贄となった両親のためにも。
 そのまま私と少年は特に言葉を交わすことなく並んでパンを食べた。

「なあ。俺ここに来て長いから食い物見つけるの得意なんだ。お前どん臭そうだし、食い物余ったら持ってきてやるよ」

 私がパンを食べ終わった頃を見計らって少年がぽつりとそう零す。
 少年の言葉にくいと首を傾げた。

「え? でも……」
「あくまで余ったら、だよ!」

 きっと彼だって生きるのに必死なはずだ。それなのに自分を助けてくれるというのか。
 なんだか申し訳ない気持ちになっていると少年はびしりとこちらを指差す。

「そ、それに! あげるわけじゃないぞ」
「? どういうこと?」
「ここに置いとくだけだ」

 そういう少年の指先が自分の手のひらの上を指していることにようやっと気づいた。

「まあ俺の見てない間に誰かが食っちまったとしても困らないけどな!」
「……そっか。ありがとう」
「ふ、ふん。何に対してのお礼かわかんねーけど、どういたしまして」

 少年のちょっぴり下手な嘘に思わず小さく笑う。
 その日を境に少年は自分に食べ物を分けてくれるようになり、時折、誰も見ていない夜中に二人でこっそりと話をするようになった。

「そうか。お前も親が生贄になっちまったんだな」
「おれも、ってことは、きみも?」

 少年はこくりと頷く。
 そして路地裏の天井に広がっている憎らしいほど綺麗な星空を見上げた。

「俺ン家は母ちゃんしか居なくてさ。兄弟が何人か居たんだけど。皆、このスラム街で死んだ。満足に食えなくてな」
「……!」

 言葉を失っていると少年は優しく微笑む。

「俺さ、目標があるんだ」
「もくひょう……」
「めちゃくちゃ強くなって、軍に入るんだ。そんで魔王を討ち倒す。それが俺の目標」

 この世界における軍とは国によって結成された魔物を討伐する部隊のことだ。
 全国から集った選りすぐりの精鋭で構成されており日夜、魔物から街の平和を守るべく戦っている。

「……ぼくも。ぼくも、ぐんに入る」
「え?」
「まおうのせいで、おとーさんもおかーさんも出ていっちゃった。だから……ぼくもまおうをたおしたい!」

 ぐ、と握りこぶしを作った私の手を少年が握った。

「じゃあ俺たち二人で軍に入ろうぜ。そんで、俺たちが魔王を討ち取るんだ」
「うん……!」

 そんな誓いを立ててから数年後――私がすっかりスラム街に馴染んだ頃のことだった。

「へへっ。また俺の勝ちだな」
「くっそぉ……また負けたぁ……」

 私達はすっかり相棒のような関係になっており、いつしか、どちらの方が上手くパン屋の店先から品物を奪ってこられるかという対決をするのが日課になった。
 もう幻想の中の父と母に叱りつけられることもない。多少の罪悪感はあれど、自分の命が何よりも大事だ。

「こんだけ盗ってこれたら明後日までは生きれるな。今日はゆっくりしてようぜ」
「うん、そうだね」

 二人並んでいつもの隅っこに座り、パンに齧りつく。今日はパン屋が開店したと同時に盗んだから焼き立てでふわふわのパンにありつくことができた。

「……早く大人になりてぇな」

 ぽつりと少年がパンを食べながら呟く。

「軍に入れるのは確か十五歳からだから……あと五年かぁ。そういえばお前は何歳なんだ?」
「えと……今年で八歳」
「八かぁ。まだまだ遠いな、へへ」

 少年は楽しそうに笑ってから小さくため息を吐いた。

「せめて背が高かったら年を誤魔化して入れるんだけどなぁ」

 少年の言葉にふいと自分の体を見下ろす。
 小さくて、痩せぎすで、魔物すらも食べるのを躊躇しそうなほど弱々しい体がそこにあった。

「背って、どうやったら伸びるのかな」
「え? うーん、そりゃいっぱい食って、いっぱい運動すりゃ伸びるんじゃねぇか?」
「……そっか」

 もう一つパンを手にとってかぶりつく。普段ならパン一つで止めておくが、なんだか今はもう一つ食べたい気分だった。

「まあでもとりあえずは軍に入れるようになるまで生き残らなきゃだからな」
「うん、そうだね」

 まだ幼い私達はこうして世界から爪弾きにされてもまだ自分たちに未来があると信じて疑っていなかったのだ。
 だが、ある日の夜――その希望すら粉々に打ち砕かれることになる。

「んぅ……?」

 路地裏の隙間で寝入っていた私は不審な物音で目を覚ました。
 体を起こし、寝ぼけたまま音の正体を探るために耳を澄ませる。聞こえてきたのはぐちゃぐちゃと水分と粘り気を含んでいて……まるで、生肉を弄んでいるかのような音だった。
 恐る恐る音の出どころを探って路地裏から顔を出す。すると。

「ひっ?!」

 思わず喉の奥から悲鳴が漏れた。
 スラム街のど真ん中に居たのは二足歩行で鋭い牙を持つ……人狼のような生き物。彼らの世界で言う、魔物だった。
 魔物がこちらの気配に気が付き、ふいと周囲を見渡す。
 瞬間、見えた。
 見えて――しまった。

「う、そ」

 先程の不審な音は魔物が人間を食い散らかす音で。
 腹の中をぐちゃぐちゃにされて絶命していたのは、あの少年だった。
 血溜まりのなかに浮かんでいる彼は間違いなくただの肉塊になっていて。軍に入るんだと希望を語っていたあの眼差しはどす黒く曇っている。

「そんな。なん、で」

 魔物はぐるぐると低く唸りながら私を探している。
 本来なら逃げるべきだったが、彼の中にふつふつと溜まっていた憎しみが、怒りが、その瞬間に大きく音を立てて爆発した。

「ふざけるな……ふざけるなぁッ!」

 近場にあったパイプを手に取って駆け出す。それを力のまま魔物に向かって凪いだ。だが幼い子供の攻撃が野生の中で生きているような存在に通用するはずもなくあっさりと躱される。

「お前らは、どれだけ僕から奪ったら気が済むんだ! 父さんも、母さんも……助けてくれた恩人も! お前らが奪った!」

 泣き叫ぶ。
 ただただ感情を込めて、全てをぶつける。

「まだ名前も聞いていなかったのに。一緒に軍に入るって、約束したのに!」

 じわりと滲む視界で魔物を睨みつけた。

「返せ! 僕の大事な人達を、返せよッ! うわあああッ!!」

 怒りを込めて頼りない武器を何度も振る。
 だが自分の攻撃はすべて軽くいなされ、体力がなくなったところで弾き飛ばされた。そして。

「っあ……あああッ!」

 ひゅ、と何かが空を裂くような音がしたと思ったら、焼け付くような痛みと共に左側の視界が真っ赤に染まる。魔物の手からはぽたぽたと、自分のともかつての友人のともわからない血が滴り落ちていた。
 もうこの左目に光が届くことはないだろうということを幼いながらに自覚する。

「あぐっ、うぅっ」

 痛みに蹲ることしかできずにいると、首に長くて鋭い爪を携えた魔物の手がゆっくりと伸びてきた。
 それはそのままぐるりと首に巻き付いていく。

「ぐすっ……嫌いだ、お前らなんか……ッ」

 爪が喉元に食い込んで呼吸が苦しくなった。
 こんなところで終わりだなんて。
 こちらをぎろりと睨みつけている魔物は随分余裕そうで新しい獲物を捕らえたことがよほど嬉しいのか尻尾を振っていた。
 嗚呼、なんて憎らしい。願わくば次に生まれてくる頃には、魔物なんて消えてなくなっていますように。そう願いながらそっと目を閉じた。

「少年、大丈夫かい?」

 ここで息絶えるのだと覚悟を決めてからほんの数秒後。
 突然そんな声が聞こえたと思ったら首元の圧迫感がするりと消える。恐る恐る目を開けると先程の魔物が血を流して地面に突っ伏していた。その脇に立っているのは立派な銀色の鎧に身を包んだ大柄な男。
 男はそっと私の頭を撫でると申し訳無さそうに眉を下げた。

「遅くなってすまなかった。怖かっただろう?」
「だれ……?」

 掠れた声で問いかけると男はにこりと笑う。

「俺はカラン・ボイス。軍に所属している。ところで、お父さんかお母さんはいるかな? 君を保護したことを伝えないと」

 男――もといカランからの問いに私は首を振った。

「二人は……数年前、生贄に選ばれた」
「!! ……それは、すまない」

 カランは恐る恐るといった様子で私の体を抱き上げる。
 久方ぶりの大人の体温はなんだか酷く安心できて、深く息を吐いた。

「もし君が良ければ孤児院を紹介することも出来るけど」
「こじいん……?」
「君のように親を失ってしまった子供たちが過ごす場所だよ。温かい食事も出るし屋根の下で眠れる。どうだい?」

 その申し出はかなり魅力的だったが、再び首を横に振る。

「いやだ」
「え? じゃあ、どうするんだい……?」

 困惑したように首を傾げる彼の服をぎゅっと握りしめた。
 怒りと憎しみでどうにかなってしまいそうな自分を必死に抑え込んで、荒く息を吐きながら、カランの目をじいと見つめる。

「僕を強くして欲しい。軍に入れるぐらい、強く」
「そ、そう言われてもだな」
「僕はずっと魔物に奪われてきた。暖かい家も両親も、大切な命の恩人も、幸せな日常も、左目も。……だから、今度は僕が奪う番だ」

 するとカランは目を見開いて、じいっと視線を返してきた。

「お願いします。僕に魔物の殺し方を教えて」

 きっと無茶なお願いだっただろう。
 自分が後に師と仰ぐことになるこの人は、本来虫も殺せないほど優しい人なのだから。……でも彼は自分のわがままに付き合ってくれたのだ。

「……わかった」
「本当?!」
「ああ。ただし、条件がある」
「条件……?」

 首を傾げると彼は私の手をぎゅうと握って、真剣な眼差しでこちらを見る。

「君に戦い方を教えるのは何かを殺めるためではない。君自身を、そして君の大事なものを守るために教えるんだ。……それだけは忘れないでくれ」
「――はいっ!」

 その日から、私は彼に養子として引き取られ――彼を師と仰ぎ、毎日訓練に明け暮れた。

「剣を振る時はできるだけ腰に重心をかけて体を真っ直ぐ保つんだ。相手に弾き返されてもよろけないようにな」
「はい」

 連日、日が暮れた後も恨みを込めた刃を降り続け、戦い方も知識も吸収できるものはすべてその身に取り込んだ。
 全ては魔族からあらゆるものを奪うために。
 そうして我武者羅に色々なものを吸収し続けて――気がつけばとうに七年が経過していた。

「サルビア。いよいよだな」
「……はい」

 師の前で剣を振りながら頷く。
 明日はいよいよ軍への入隊試験が控えていた。
 ようやっと自分を苦しめた魔王を殺しに行ける。そう思うと心臓が高鳴って仕方がなかった。

「――なあ、こんなことを今更言うのも何なんだが」
「? なんでしょう、師匠」

 師匠の深刻そうな表情に思わず剣を振る手を止める。
 ゆっくりと向き直ると、彼は今にも泣いてしまいそうな笑顔を浮かべていた。

「本当に、軍に入隊するのか?」
「え?」

 首を傾げた。
 だって、自分はそのために強くなって、師匠もそのために自分を鍛えてくれていると思っていたから。

「どういう、ことですか?」

 そう問いかけると師匠は私を家の中に手招きした。大人しく剣を鞘に収め、彼の後に続いて家に入る。
 ソファへ座るよう促され、大人しく座ると師匠はキッチンで飲み物を淹れ始めた。

「お前は凄いやつだ、サルビア。俺が十五年かけて会得した技術をほんの数年でものにして使いこなしてしまった。この数年、脇目も振らず貪欲に強さを吸収してきたお前は、今きっとこの国で一番強いだろう。……だからこそ俺は、お前のことが心配になるんだ」
「心配……?」

 一体なにが心配なのだろう。
 師の言っている言葉が理解できず眉をひそめる。
 こちらに淹れたばかりの紅茶を差し出した彼はゆっくりと私の隣に腰を下ろした。

「お前はあまりにも強すぎる。その強さがお前を苦しめる結果にならないか、不安なんだ。お前のことを搾取しようと考えるやつがいるかもしれないし、強すぎるお前を淘汰しようとするものが居るかもしれない」
「……ごめんなさい、師匠。僕には、良く分からない」

 サルビアは首を振るとソファから立ち上がって剣を抜いた。
 そして師へ、敬意を込めて刀身を向ける。

「僕は強さだけを信じています。強ければ奪われることも、大事なものを失うこともない」
「サルビア……」

 カランは立ち上がり、剣を握り締めているサルビアの手を取った。
 その手のひらからそっと剣の柄を奪って床に投げ捨てる。

「まだ間に合う。俺と一緒に田舎にでも行かないか。二人で畑を耕して家畜を育てるんだ」
「師匠、どうしてそんなことを仰るんですか? 僕の夢が明日、叶うのに」

 そう言うとカランは今にも泣きそうな顔をしてサルビアを抱きしめた。

「綺麗なお前を――あんな汚水のような場所に放り込みたくないんだよ」

 何を言っているのだろう、この人は。
 自分が所属している場所をそんな風に言うだなんて。
 だって、軍は国を魔族から救う|英雄《ヒーロー》で、魔物を殺す正義の集団のはず。

「師匠。僕は、軍に入ります。……この意志は変わりません」

 自分の思いを真っ直ぐ伝えると、師匠は小さく息を呑んで、ゆっくりと離れていった。ぽつりと一粒、涙が彼の頬を伝う。

「わかった。ただし――出会ったあの日と同じように、約束してくれ。絶対に正しさを失わないと。お前の強さは、なにかを守ることにだけ行使すると」
「勿論です、師匠。約束します」

 その翌日。
 入隊試験に参加した私は他の希望者どころか試験官までもを容易くねじ伏せ、圧倒的な強さを見せつけることに成功した。
 いっそ、恐ろしいまでの強さだったと同期に言われるまでに。

「サルビア・ボイス。お前に第一部隊への所属を命ずる。養父と共に、国のためその強さと命を捧げてくれ」
「かしこまりました。必ずや魔族の存続を断ち切ってみせます」 

 そうして私は希望通りカランと同じ第一部隊へ配属され、ただただ、命じられるまま魔物を殺す日々を過ごした。
 毎日、毎日。魔物の血を浴びて、やつらを刃の錆にする。
 そうして過ごすうち、いつしか命を奪う行為になんら抵抗を持つこともなくなっていき……ただ無心で切って捨てることができるようになっていた。
 そんなある日のこと。

「サルビアよ。とある者を始末して欲しい。これはお前だけの極秘任務だ」

 国王から呼び出された私は、謁見の間でそう告げられた。

「とある者、とは?」
「魔族の中には知性を持ち合わせているものがいることは知っておろうな?」
「ええ、勿論です」

 こくりと頷くと王は小さく息を吐いた。

「始末してもらいたいのは国の東側に居を構えるサフラン卿。うまいこと隠しているが、どうやら奴は魔族の上位種と癒着しているらしい」
「魔族と癒着……?! そんなことが可能なのですか?」
「ああ。魔族は狡猾な存在だ。自分の安全が脅かされないよう人に褒美をぶら下げて操っているのだろう。……やってくれるか、サルビア」

 王の言葉にほんの少しの違和感を感じた私はつい即答できず考え込む。

「勿論、王の意向には全て同意したい思いです。ですが……そういうことであれば元凶である上位種を屠るだけで宜しいのでは? サフラン卿を始末する必要はどこに?」
「サルビア、冷静に考えてもみなさい。そもそも魔族に惑わされるような貴族がこの世に必要だと思うか? 我々は皆、魔族に対抗すべく日々戦っているというのに、過程はどうであれサフラン卿は国や民よりも自身を優先したのだぞ」

 ああ、それもそうだ。
 そもそも魔物に絆されるような人間など、同じ魔物のようなものじゃないか。

「……仰るとおりでございます、王」
「やってくれるな、サルビア?」

 それに王からの直々の命とあれば断る理由など何処にもない。

「畏まりました。仰せのままに」
「お前ならばそう言ってくれると信じておった。頼んだぞ」

 こくりと頷き、|頭《こうべ》を垂れた私は、王がにたりと厭らしく笑ったことに気がつけなかったのだ。

 ◆ ◇ ◆ ◇

「お前、また私の記憶を覗いたな」

 重たい目元でぎろりとやつを見上げる。しかしバフォメットはそれを意に介さずにこりと笑った。

「ふむ。見られてまずい記憶でもあるのかい?」
「同族を殺されて困るというのならまずい記憶だらけだな」
「それなら安心していい。僕は人間ごときに殺されるような同族に興味はないから」

 ひょいと私の体を横抱きにしたバフォメットは玉座の後ろにある両開きの扉の前に立つ。すると扉はゆっくりと音を立てながら開いた。
 扉の向こうには王宮のような煌びやかな広間が広がっている。
 確かに古城の敷地は大きいが、玉座が置いてある間の向こうは崖になっていてこんな立派な広間を作れるスペースはなかったはずだ。それに広間にはいくつも扉があって更に広い空間があることを雄弁に物語っている。
 これも魔法の類なのだろうか。

「驚いているね、ルビィ」
「……なんで嬉しそうなんだよ」

 バフォメットは奥の空間へと足を進める。

「だってルビィは僕が魔法を見せるたびに色々な顔をするから、面白くてね」
「あっそ」
「はは。連れないな。そういうとこも良い」

 臆面もなくそう言ったかと思うと彼は私の額にそっと唇を押し付けた。柔らかい感触と小さなリップ音が鳴る。

「ああ、もう! そういうのやめろ! 私は男とどうこうって趣味はないんだよ、気持ち悪い!」
「む。それなら心配しなくて良い。僕に性別という概念はないからな。それに見た目が気になるのなら女に化けることもできるぞ?」
「そういうことじゃ……。はあ、もういい」

 話をしているうちにもう一つ扉をくぐる。するとその向こうには長いテーブルに沢山の椅子が設置された食堂のような空間が広がっていた。
 更にテーブルの上にはまるで貴族のパーティで出てくるような豪華絢爛な料理がずらりと並んでおり、アイスペールに入った高そうなワインのボトルがそっと華を添えている。
 私をそっとテーブルの一席に座らせたバフォメットはその隣の席へ優雅に腰を下ろした。

「まあ、まずはお互いを知るためにも乾杯といこうじゃないか、ルビィ」

 予め席に用意されていたグラスにワインが注がれていく。自分のグラスにも同じようにワインを注いだバフォメットはそっとグラスを持ってこちらに差し出した。
 恐らく乾杯を誘われているのだろうけれど、その手には乗るものか。

「魔族の用意したものに口をつけるわけないだろ」
「強情だな。嫌いじゃないが……。ああ、わかった。ルビィは酒が飲めないんだな? 人間はある程度の年齢になるまで飲酒は禁じられていると聞いたことがある」

 失礼したな、と笑いながらバフォメットはグラスに入ったワインを飲み干した。

「お子様にはオレンジジュースでも用意して差し上げようか?」
「な……っ! さ、酒ぐらい飲める! 私はもう十六なんだぞ、馬鹿にするな!」

 安い挑発だったと思う。だけど私はそれを受け流せるほど余裕がなくて。
 頭に血が昇ってしまった私は、ワイングラスを乱暴に掴んでぐいと一気に煽った。
 実際のところ自分はあまり酒に強い方ではない。令嬢のふりをしてパーティに潜入するときもほんの数口飲むぐらいなので、グラス一杯分、ましてやそれを一気に飲むだなんてことはしたことがなかった。

「う、」

 少し強めのアルコールの香りで脳裏がぐらりと揺れる。テーブルに突っ伏しそうになるのを必死に堪えていると、バフォメットと目が合った。どうせまた楽しそうに笑っているんだろうと思ったけれどバフォメットは意外にも驚いたような表情を浮かべながらそっと私の肩を支える。

「ルビィ、ダメじゃないか。アルコールを一気飲みだなんて危険だぞ。ほら、水を飲んで」

 どこから出したのか水の入ったコップを用意したバフォメットはそっとコップを口元に持ってきた。
 アルコールでくらくらするまま水を口に含んで、飲み込む。

「全く。君たち人間は簡単に死んでしまうくせに危機管理能力が低すぎる。もう少し生きることに必死になったらどうだ?」

 まさか魔族に説教をされるとは……。複雑な気持ちになりながら口を噤んでいるとバフォメットの右手がそっと頬に触れた。

「今は何も食べたくないのなら湯浴みを用意しようか」
「……ずいぶん気が利くようだが、どれだけ優しくしたところで私がお前に懐くことはないからな」
「それはやってみないとわからないからな」

 余裕の滲む笑顔がこれまた憎たらしい。思わず殴りそうになるが、どうせそんなことをしたところで軽々と避けて笑われるのがオチなのはわかっているのでなんとか抑え込んだ。

「さ、そうと決まれば早速バスルームへご案内しよう、愛しのステディ」
「……気色が悪い」
「ふふ。そう連れないことを言わないでくれ。これからずっと一緒なのだから良いだろう?」

 いよいよ持ち上げられることに抵抗がなくなり始めた自分に嫌悪感を感じつつ、逃げ出す機会を狙うためバフォメットの腕の中で大人しくすることに。
 決して抵抗するのが面倒になったとか、もうどうでもよくなったとか、そういうことじゃない。

(というかこいつ、私のことをペットかなにかと勘違いしてないか?)

 魔族が人間に対して危害を加える様子は何度も見てきたし、サルビア自身も経験してきた。だからこそ、今こうして甲斐甲斐しく人間の世話をするバフォメットの行動原理が全くと言っていいほど理解できない。
 実際、彼がどう思っているのかなど人間には理解不能なのだろう。

「さ、脱ぐのを手伝ってあげよう。ドレスもこんな血まみれのものではなく新しいのを用意してあげようね」

 浴室に到着したと思ったら手際よくドレスを脱がされ、そのままバスタブに放り込まれる。白く濁った湯船からミルクのような甘い香りがして足先からじんわりと心地よさが伝わってきた。

「ふふ。良い香りだろう? ミルクの入浴剤にしてみたんだ。君たち人間は不思議とこの香りで落ち着くと聞いたことがあってね。気に入ってもらえたかな」

 正直、全身の力を抜いて湯船にゆっくりと浸かってしまいたいところだが、敵陣でそんなことができるはずもなく。ただただバフォメットの行動を睨みつけながら追いかける。

「目を瞑っていなさい。泡が入ってしまうと困るだろう?」

 一方バフォメットは特に怪しい行動をすることもなく、それどころか優しい手付きで私の髪を洗い始めた。誰かに髪を洗ってもらうなんていつぶりだろう。きっと最後は……母が居なくなる前日、彼女と一緒にお風呂に入った時か。
 水滴が落ちて弾ける音と湯船が揺蕩う感覚、優しく頭部に触れられる感触に思わず深く息が零れそうになる。

「そんなに警戒せずとも、今更君を獲って食おうとは思っていないさ。もう少し肩の力を抜いてもいいんだよ」
「うるさい」

 ぷいとそっぽを向くと、バフォメットがくすくすと笑った。
 余裕を見せつけられているようでなんだか悔しい。

「さて、次は体を洗うから一旦バスタブから出てくれるかな」
「は?! い、いや、体は自分で洗う! だから触るなっ」
「遠慮しなくて良いんだよ。ほら、人間は確か……裸の付き合いとやらをして仲良くなるんだろう?」
「どんな付き合いだ! いいから、自分で洗う!」
「まあまあ。僕にまかせておきなさい」

 両手にボディソープを馴染ませたバフォメットが私の背後に回った。
 かと思ったら、指先がするりと首元に滑り込んでくる。

「ひぅっ?!」

 泡だらけの手が首を滑って――肩から指先へ伝う。手を随分丁寧に洗われたと思ったら、今度は脇から胸元へ指先が走った。

「んんッ……やめっ、自分で……っ、やる、からぁっ」
「いいからいいから」

 バフォメットの両手が執拗に胸元を擦る。
 人間にはない獣の毛を湛えたその手が肌の上を進む度に筆のようなもので弄ばれてるようなぞくぞくとした感触が背筋を駆け上がった。

「お前っ、わざと、だろ……ッ!」
「ふふ。なんのことやら」

 抵抗しようにも泡のせいで滑るわ力が入らないわでどうしようもない。
 唇を噛み締めて悲鳴を押し殺すことしかできずにいると、まるで焦らすように胸元を行ったり来たりしていた手が胸元の突起をぴんと弾いた。

「あぅっ?!」
「ルビィ、震えてるね。どうしたのかな?」
「うるさいっ、離せっ……やっ、あぐッ……」

 やつがぺろりと舌舐めずりをしたと思ったら、そっと耳元に顔を近づけてきた。あ、と口を開ける声が聞こえて、耳に何かが触れるような感触。

「はぅ……っ! おい、ふざけるなっ……ひっ、」
「心外だな。僕は君の体を洗ってあげているだけなのに」
「耳を噛む必要はないだろうが……!」

 なんとかして抜け出さないと。
 そう思うのに、体からは次第に力が抜けていって、まともに抵抗もできなくなる。

「僕にとって人間なんてただの暇つぶしの道具だったのだけれど。……ルビィ、君を見ていると、別の感情が湧いてくるよ。この感覚を君たち人間はなんと呼ぶのだろうね」
「知るかッ! いいから、離せって!」
「不思議なものだ。最初は僕に怯えることなく歯向かってくる人間に興味があるだけだったのにな。……今は、君をぐちゃぐちゃに甘やかして僕に陶酔させたいと思うんだ」

 先程まで焦らすように触っていただけの指先が、突然突起を少し強めに握った。

「うあッ?!」
「ルビィ。僕は君の心も体も、全て自分のものにしたい。……堕ちてくれ」
「やだっ……やめろッ、あ、ぅぐ……ッ」

 敏感な部分を潰され、擦られ、頭の奥がちかちかする。呼吸が上手く出来ない。

「ここも、可愛がってあげないとね」
「っ?! やめっ、そこはっ」

 胸元から腰を伝って、バフォメットの手がサルビア自身に伸びた。優しい手つきで握ったり緩めたり、時折扱かれたりと愛撫を繰り返される。

「っ、あァッ! ひ、はうぅ……っ」
「気持ちいいかい? 顔が真っ赤だ」
「きもち、よくなんて……ないッ」

 精一杯の嘘。本当は今すぐ気をやってしまいそうなほどの快感がずっと脳みそを揺らしていた。
 しかし、たった一筋残った彼のプライドがぎりぎりそれを食い止めている。

「そうか。それなら、もっと激しくしないとだめかな」

 楽しそうに笑って、バフォメットは攻めの手を早めた。
 途端、これまでと比べようのない快感が一気に駆け上がってくる。

「ひぅっ、やっ……~~~ッ!」

 声に鳴らない悲鳴と共に、全身をびりびりとした強い刺激が走った。途端、体から力が抜けていく。

「おっと」

 ぐらりと視界が揺れて、倒れる、と思ったのも束の間、バフォメットに支えられた。

「どうだい? 少しは絆されてくれたかな?」
「……んなわけ、ないだろ……」
「あれれ。おかしいなあ。人間は快楽に弱いって聞いてたのだけど」

 肩で息をしながら睨みつけると、やつは不思議そうに首を傾げる。

「覚えとけ、魔族野郎。私はお前には屈しない。絶対に、だ!」
「ふむ。快楽漬けにする作戦は失敗か。心を手に入れるというのは存外難しいものなんだな」

 少し残念そうにした彼を見てざまぁみろと思ったのも束の間、ちゅ、とリップ音が鳴って唇を奪われた。

「んぅ?! うぅーっ!」

 どれだけ抵抗しようがどこ吹く風、好きなだけ私の唇を嬲ったバフォメットは楽しそうに微笑む。

「ふふ。長いこと生きてきたが、こんなに上手くいかないのは初めてだよ。なんだか楽しくなってきた」
「……マゾかよ。気持ち悪いな、お前」
「失敬な。向上心が強いだけさ。僕は絶対に君をものにしてみせるよ。覚悟しておきなさい、愛しのルビィ」

 そう言ってバフォメットはそっと私の頬を撫でた。