来世も見つけて、憑いてきて。 - 1/3

 

 暗い。
 とてつもなく暗く――暗くて、暗くて、暗い。
 果たして本当に此の場所は、現し世に存在している空間なのかと神に問うてしまいたくなる程に、此処は暗くて冷たい。固い座敷をがりがりと指の|爪先《つまさき》で撫でたら人間の汚い欲望の臭いがつんと鼻先をついて、嫌悪感と一緒に胃の中身が喉元まで迫り上がってきた。
 |現《うつつ》の汚いものを全てかき集めて作ったような、そんな空間にいるのは、|吾《われ》と、吾が生まれて初めて|何処《どこ》|迄《まで》も添い遂げてやらんと誓った愛すべき存在だけ。愛しいものと共に在るという事実。其れだけが唯一の救いとも言えよう。
 まァ、|吾《あ》が内側に詰まっているのは内蔵ではなく、怨恨とか怨嗟とか怒りとか悲しみとか嘆きとか、苦しみとか悔しさとか遣る瀬無さとか殺意とか……そういうものだから、人間とかいう奴らが良くやる”胃の中身を吐き出す”なんてことは到底不可能なのだけれど。

「|砌《みぎり》」

 名を呼んでやると御前様は幸薄そうな顔にほんのりと笑みを乗せて、血色のない頬を緩ませる。
 どうしてこんな場所に居ながら、何よりも大事に思っていた家族に裏切られ閉じ込められておきながら、この世の全てから見放されても尚――こんなにも穏やかに微笑むことが出来るのだろう。吾はと言えば、何もかもを恨んで、何もかもを壊して、何もかもを引き裂いて、御前様をこんな場所に追いやった奴らの喉仏を食い千切ってやりたくて仕様が無いというのに。

「どうしましたか、|八房《やつふさ》」

 そう言って御前様は吾の肩に頭を預けて、|吾《あ》が背を撫でる。
 心の内は|如何《どう》しようもないほど色んな奴への怨みつらみで煮えくり返っているけれど、御前様に触れられるだけで二本ある尾が勝手に揺れて、喉は甘え声を出そうと|狭《せば》まりながら震えた。

「好きだ。好きだ、砌」

 御前様の頬に鼻先を擦り付けると、御前様はくすくすと笑みを零しながら「仕様のない子ですね」と言って吾の頭やら耳やら頬やらを揉みくちゃに撫でる。此の人の優しさやら甘さやらに触れたら触れただけ、この世に存在する彼以外の全てが憎らしく感じて、狂ってしまいそうになった。
 此の人は本来こんな場所にいるべき御人ではない。
 こんな日の光も届かないような座敷牢で、雨水で喉の乾きを潤して、数日に一度貰えるかどうかわからない痩せ細った小さな焼き魚を|食《は》んで、死んだように生き|存《ながら》える。そんな生涯が許される御人ではない。そのはずなのに。

「御前様は一体、何を考えておるのだ」
「……八房?」

 不思議そうに首を傾げた御前様は、相変わらず反吐が出るほど美しい笑みで吾の顔を覗き込んだ。彼の変わらぬその様子に、また吾の怒りとか恨みとか、そういうものが汚く渦巻いて止まらなくなる。

「何故、|彼奴《きゃつ》らに従う? 御前様のお陰でこの家は今、札束に火をつけて暖をとれるほど繁栄している。だというのに、その立役者である御前様を忌み嫌って座敷牢に閉じ込めた挙げ句、満足に飯も水も出さんのだぞ。どころか早く逝ってしまえとまで|曰《のたま》うのだぞ。何故ここまでされておいて、御前様は何も恨まず何も嫌わず、|其儘《そのまま》で居られるのだ」

 吾が泣くように、縋るように、祈るように、願うように、彼の胸元に額を押し付けて襟元を握りながらそう言っても、やはり御前様の表情には負の感情一つ浮かぶこともなく、何かを揺らすこともなく。――彼は|唯《ただ》そこに優しく存在していた。
 |否《いや》、もしかしたら彼の心と呼ばれるものは、|其処《そこ》にはもう無かったのかもしれない。家族の代わりに全ての不幸を背負い、全ての恨みを買い、それでも|尚《なお》家族を愛して幸せを願った此の人の心は、そんな家族から腫れ物扱いされて座敷牢に押し込められた瞬間に|亡《・》|く《・》|な《・》|っ《・》|て《・》しまったのかもしれない。
 だってそうでもなければ、一体此の人が何を糧として生きているのか到底想像もつかないから。

「それでも、彼らは私の家族ですから。家族は助け合うものでしょう」

 だん、と。気がつけば吾は御前様の身体を全体重で押し倒して、冷たい座敷の上に彼の手首を縫い付けていた。今目の前にいる彼のことを愛していなければ……吾はこの男の喉元にこの鋭い牙を突き立てていただろう。そもそも彼に気を許していなければ共にこんな|処《ところ》にいなかっただろうから真相はわからないけれど。

「八房」

 名を呼ばれて|漸《ようや》く彼の顔を真正面から見つめる。先程まで変わらぬ笑顔を貼り付けていた御前様は、ようやっとその薄っすらとした笑みを崩した。
 なんだか安心したような憎らしいような不思議な心持ちに囚われつつ、それから一体どんな顔をするのかと期待していたら、御前様はまるで恋に溺れるような、愛おしいものを見るような顔でこちらをじいと見上げるのだから、やれいけと吾の背中を押したどす黒い感情は尻尾を巻いて引っ込んでしまうのだ。
 その代わりに、彼をどうにも助けてあげられないという事実が――こんな場所からさっさと連れ出してくれ、と言って貰えないもどかしさが、じくじくと胸の辺りを焦がした。

「もっと……もっと、なにかあるだろう。憎らしいとか、殺してやりたいとか、呪ってやりたいとか、そういうものが。人間はそういうのを持っている|筈《はず》だろう。人間とかいうやつは、何もされていなくても勝手に何かを恨み、自身が飲み込めない事柄を全て何かの|所為《せい》にして他者を憎むはずだ。それなのに、何故」

 悔しくて、苦しくて。
 床に転がった御前様の着物にしがみつく。
 せめて恨んでくれ。
 せめて憎んでくれ。
 御前様を苦しめているものを全て、呪ってくれ。

「無駄だからです」

 そんな御前様の声が聞こえたと思ったら、ちう、と音がする。彼の少しだけ乾いた唇が頬に触れた。

「恨んだり、憎んだり、怒ったり、悲しんだり、苦しんだり。そんなことをするのは無駄だと知っているからです。例えそれをしたところで自身がどうにかなってしまうだけで、現状は何も変わらないと|理解《わか》っているからです。そんな下らないことに残り少ない時間を割くぐらいならば、私はもっとお前の良いところを探したり、お前と|何時《いつ》か行きたい場所の話をしたり、お前とこうして触れ合っていたい。それに――お前が代わりに憎んだり恨んだりしてくれているから、せめて私はお前の止まり木になってやりたいのです」

 嗚呼、此の人は。
 本当にどうしようもない人だ。どうしようもなく、愛おしい人だ。

「でも、こうして|其儘《そのまま》で居られるのはお前のお陰でもあるのですよ、八房」

 その言葉の意図がわからず首を捻ると、視界がぐるりと回って背中に座敷の冷たい温度が走る。先程まで御前様の顔にかかっていた影が今度は吾に降りかかった。
 まるで仕返しとばかりに吾の身体を押し倒した御前様は、ぺろりと舌舐めずりをして血に飢えた獣のようにその瞳をぎらぎらと輝かせる。
 生きることにしがみ付く、貪欲な野犬のように。

「私がいなくなった後、お前はきっと私の代わりに溜め込んだ真っ黒な恨みを、これでもかと晴らしてくれるでしょう? 私は小狡いですから、なんてことのない顔をしながら其の時を今か今かと待っているのですよ」

 驚いた。この男には恨みだの憎しみだのそんなものとは無縁だと思っていたから。
 その貼り付けたような嘘くさい潔白さが唯一、嫌いなところだった。だから、この男の中に初めて負の感情を垣間見たその瞬間、吾は思わず笑みを零す。
 ……と同時に、疑問と焦燥と不安とがじりじりと喉の奥を焼いた。
 なぜこの男は今までずっと隠していた感情を今日になって吐き出し始めたのだろう、と。

「それは……確かに小狡いな、御前様」
「ふふ、そうでしょう。それに私如きがどれだけ憎んだところで大した報復は出来ませんから。でも、お前は違います」

 御前様は吾の頭を抱きしめて、撫でて、幾重も唇を押し付けて――やっと一粒、涙を流した。

「愛して|止《や》まない、私の犬神様。私を|斯様《かよう》なところへ追いやった彼らに、何もかもを後悔するような天罰を。どうか宜しくお願いしますね」

 その言葉を吐き終えると同時に、御前様の薄い口元から|朱殷《しゅあん》色が溢れ落ちた。白い肌の上を伝ったそれは吾の口元に散らばって、途端、錆びた鉄のような臭いが喉の奥にじわりと広がる。

「砌」

 吾の上に倒れ込んできた彼の体を抱きしめて名前を呼ぶ。
 ああ、やはりそうなのか。そういうことなのか。ほんの数分前からなんとなくこうなることは察していた。ただその予感を直視したくなくて、疑問と焦燥と不安でわざと掻き消していただけだ。
 何故今日に限ってこんなにも饒舌なのか。
 何故今日に限って吾を犬神と呼んだのか。
 何故今日に限って吾に願いを託したのか。
 その答え合わせを今、させられている。

「嗚呼。できることなら私はお前と旅に出たかった。何にも縛られず、何にも囚われず、風の吹く|儘《まま》、気の向く|儘《まま》。お前と私だけでその|日暮《ひぐ》らしをしたかった」

 か細く掠れていく御前様の言葉を、声を、音を。一つも取り零さないよう聴覚を研ぎ澄ませて自分の中に飲み込む。時折水音と共に彼から溢れ出る血の一滴までも残らず舐め取って、喉の奥に仕舞い込んで、少しずつ冷たくなっていく体温の変化さえもすべて刻みつけた。
 たった一つとして彼を形成するものを取り零したくない。
 吾の手から零れ落ちて構わない御前様なぞ欠片もないのだ。
 だから例え――目の前で愛おしくてたまらないその灯火が燃え尽きようとも、絶対に、涙を流すことはない。
 流した分だけ吾の中にある御前様が減ってしまうような気がするから。

「愛しています、八房。……どうか、どうかまた、私を見つけてくださいね」
「ああ、約束だ。必ずまた見つけてみせる。そしたら今度は、二人で旅をしよう」

 気が付いたらもう彼の魂はそこに無かったから、吾の言葉は果たして最後まで届いたかわからない。
 その夜は、動かなくなった御前様の体を抱きしめて一晩中そこにいた。
 彼と過ごす夜はいつも甘く静かだったけれど、その日の夜はいつにも増して静かで、今この瞬間だけは誰にも邪魔されないようにと祈るようにして眠ったのを今でも覚えている。
 そうして彼に別れを告げて、朝日が登ったその瞬間に吾は力の限り鳴いた。
 鳴いて、鳴いて、――泣いて。
 鳴き疲れた頃、座敷牢ごと彼を苦しめた全てに終止符を打った。轟々と燃え上がる屋敷を後目に、再会を願い、愛しい亡骸と共に飛び込む――深くて暗くて、座敷牢より遥かに温かい、宵闇の中へ。