カテゴリー: novel

【試し読み】王座に座して、手を引いて。

 こちらの記事はとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行される同人誌のお試し読みになります。
 ※4月2日のJ.GARDENに合わせて発売予定。
 ※R18表現があります。ご注意ください。

 BOOTH、pictSPACEにてお試し読みのPDF版がDLできます。
 PDF形式をご希望の方はこちらからどうぞ。

※こちらの作品は【R18】作品です。

 人を殺すことに抵抗はあるか。仮に誰かからそう問われたとしたら――私はきっと不思議そうに首を傾げてしまうだろう。逆にどうして抵抗があるのか、と。なぜならこいつらは国を脅かす、殺されて仕方がないやつらなのだから。

「――あらいけない。ドレスが汚れてしまったわ」

 と、思わず声に出した自分の口元を抑えながら、ふ、と笑った。群青の髪を纏めていたコサージュを乱暴に取りながら、かつて人だった肉塊からナイフを引き抜く。

「はあ、疲れた」

 踵の高いパンプスを脱ぎ捨てると足首には酷い痛みが走った。靴ずれのせいでぐずぐずになってしまったらしいその傷口にドレスの裾を破って巻きつける。
 こうして令嬢を装って悪人を始末するのはもう幾度目になるかわからない。人を殺すことには随分慣れたものだが、このヒールという履物については一向に慣れることができそうになかった。

「痛いし、脱いで帰ろ」

 軽く返り血を拭ってから裸足のままさっさと帰ろうとしてやっと、自分の背後に得体の知れないなにかの気配があることに気がついた。普段の自分であったなら冷静に、つい先程人間を一人葬ったばかりのナイフを振りかぶっただろう。
 だけど、できなかった。
 後ろにいるそのなにかに、ただの人間が到底敵うはずがないと本能で悟ってしまったから。

「随分鮮やかな手際だ」

 なんて感情のない声色で褒め言葉を紡いだそのなにかはふわりと小さく欠伸をした後、背後から私の耳元に口を寄せた。むせ返るような邪悪を発しているその存在を前にして背筋には嫌な汗が流れる。

「気に入った。君、僕のものになれ」

 頬にこつんと冷たい何かが当たった。それが魔族の象徴である角だと理解できないほど馬鹿ではない。
 人間史が始まってから千年と少しが経過した現在、この世界は魔物という存在に悩まされている。魔族は何もない場所から突然発生するとされていて、発生を留める原因も明らかになっていない。
 魔族の特性として、野生動物のように本能に従って存在しているものから人間のように知性を持ち合わせているものまでいるが、魔族の特性は総じて攻撃性と加虐性があるということが大前提である。魔族の配下になるぐらいならば死んだほうが苦しまなくて済むという冗談があるほどだ。
 もし魔族に拐かされそうになることがあれば――その時は躊躇するなと訓練の時いつも師から口酸っぱく言われていたことを思い出す。
 死とは案外突然訪れるものだ。今日、手の中にあるナイフで葬られた者のように。
 覚悟を決めた私は小さく息を吐いて、ナイフを自分の首元に宛てがった。
 そのままナイフを力の限り横に凪ぐ――。

「おっと。そうはさせない」

 背後からくつくつと笑い声が聞こえたと思ったら手に持っていたはずのナイフが消え去った。ただ空を切っただけの手を呆然と眺めていると、がしゃん、とまるでガラスが割れるような音がして、次いで足元になにかの破片が転がる。
 恐る恐る足元を見ると、先程まで持っていたはずのナイフがまるでガラス細工のように粉々に砕け散っていた。まさかナイフが砕けるなんて想像もしておらず、驚きと得体の知れないものに遭遇した恐怖に思わず固まる。
 そんなこちらの感情を意に介す様子もなく、魔物はひょいと私の体を持ち上げ、酒樽でも持つようにして肩に抱えた。

「なっ⁉」

 魔物はそのまますたすたと窓に近付いていく。なんとか抜け出せないものかと力の限り暴れるが魔物の腕はびくともしない。

「離せ! 何をするつもりだ!」
「そう怯えなくても僕に人食いの趣味はないから安心していい。――ああ、そうだ」

 魔物は何かを思い出したかのようにそう言ったと思ったら抱えていた私の身体をそっと床に下ろし、小さな子供を抱えるようにして持ち変えた。そうしてようやく、自分を無理やりどこかへ連れ去ろうとしている魔物と相対する。
 禍々しい黒い角に、人と似たような色の肌。人とは思えない黒い結膜の真ん中にはエメラルドの瞳が揺らめいていた。
 髪と同じ色の毛に覆われた獣のような手はひんやりと冷たくって思わず体が震える。気取ったブリーチズからは不気味な黒山羊の足が生えていた。
 魔物が床を踏みしめる度に、かつこつと蹄が音を鳴らす。

「もし舌を噛んで死のうと思っているならやめておいたほうがいい。僕は一度欲しいと思ったものはどんな手を使ってでも手に入れる性分だ。舌のないまま生きるのはかなり辛いと思うけれど」

 月光を浴びて魔物の瞳がぎらりと光った。
 蛇に睨まれた蛙とはまさにこの事を言うのだろうか、とぼんやり他人事のように思いながら、私は魔物が一丁前に来ているシャツの裾を思い切り握りしめた。

 ◆ ◇ ◆ ◇

 魔物という存在は得体が知れない。それらについて人間が知っている情報といえば、ただ『それらと関わることは危険である』ということだけだった。だからこそ人間は魔物に対して武力以外の抵抗方法を持たず、怯えて過ごすことしかできずにいる。
 その中でも人々が特に恐れているのがこの世界の最古にして最強にして最悪の魔物、いわゆる『魔王』の存在だ。
 この世界に存在する国ごとに様々伝承はあれど、自分が生まれ育った国――プレリド王国に残っている古い伝承によれば、百年ほど前、人間は一度魔王に滅ぼされかけたらしい。命からがら逃げ出した残り少ない人間たちは死にものぐるいで魔王に対抗する術を編み出し、自国の最北に位置する朽ち果てた古城に封印したという。
 しかしその封印は不完全で、毎年雪が降っている間に誰か一人生贄を捧げないと解けてしまう――そう言い伝えられており、プレリド王国では年に一度、冬を迎える前に生贄が選ばれ、その生贄は吹雪の日に古城へ行かなければいけないのだ。

「どうして。どうして、かあさんが!」

 幼き日、自分を置いて出ていってしまった両親のことを思い出す。
 母は十年ほど前、魔王に捧げる生贄として選ばれ、そのまま帰ってこなかった。そしてその翌年父も同じ道を辿った。
 そうして両親を失った結果、私はスラム外の隅っこで死んだように生きて泥まみれの水溜りで喉を潤し、ゴミを漁ることになったのだ。
 それもこれも……すべては魔族、しいては魔王という存在のせいで。

「ここ――は、」

 そうして今、抵抗虚しく魔族によって攫われた私は朽ち果てた古城の入り口に立っている。生贄に選ばれた人がその命を賭けて訪れる場所。
 天井が崩れた古城の中には色褪せた玉座と、いくつもの白骨死体が転がっていた。その中でも、身を寄せ合うようにしながら壁にもたれ掛かっている二つの死体に目を奪われる。
 その服は幼い記憶の中で両親が身に纏っていたものと同じだった。

「あ、あ……」

 こうして古城を実際に訪れるのは初めてだが、今日たった今確信した。自分を置いていなくなってしまった両親は確かにここで腐ちたのだと。
 ようやっと地に足をつけることを許された私は震える膝を引きずりながら両親の前に跪く。骨だけになってしまった愛おしい手を恐る恐る握ると、ひんやりとした温度が指先を伝い、彼らの薬指に嵌められていたお揃いの指輪がかつんと音を立てて転がった。

「なんだ。それに思い入れでもあるのか?」

 その声に弾かれるようにして振り向くと王座に座している魔物と目が合う。脚を組み、肘掛けで頬杖をついているそいつは、成る程確かに魔王と呼ぶにふさわしい傲慢さを孕んでいた。

「……お前のせいだ」
「む?」
「お前のせいで――父さんも母さんも、死んだ」

 本当にこいつが、この世界の民全員が怯えている魔王なのかどうかなんてわからない。というか、今の自分にはそんなことはどうでも良かった。
 ただ父と母がこうして無惨に死を迎えなければいけなくなった原因を何かに押し付けて、怒りと憎しみをぶつけたかっただけだ。

「うわああああ!」

 感情のまま駆け出し、近くにあったレンガの破片を拾ってそのまま魔物の喉元めがけ腕を横に凪いだ。――が、折角手に入れた即席の武器は魔物の手によっていとも簡単に弾き飛ばされる。
 やはりだめかと唇を噛んだ瞬間、腰にするりと腕が回ってそのまま抱き寄せられた。

「威勢がいい奴は嫌いじゃない。だが、僕のことをお前呼ばわりするのは気に入らないな」
「何を、偉そうに」

 唇を噛みながらそう呟くと、魔物はにやりと笑う。それから頭の後ろに手を添えられたかと思うと強引に唇を奪われた。
 くちゅ、と水音が鳴って唇にぬらりとした感触が這う。
 抵抗しようにも力が強くて振り払うことができず、ただただ口内を弄ばれて……次第に背中をぞくぞくとした感覚が走り、体から力が抜けていく。

「ん、ぅ。やめっ、んんっ」

 ようやっとまともに息ができるようになった頃には、ぐったりとその身を魔物に預けることしかできなくなっていた。

「なにを、した」

 そう問いかけると魔物は妖しく口角を上げる。

「少々元気が過ぎるようだったから。抵抗できないよう体力を奪わせてもらった」

 魔族は人間には使えない特殊な技法――魔法を使う。今のもきっとその一種なんだろう。

「お前……一体、私に何をするつもりだ?」

 肩で息をして睨みながらそう問うも魔物はふるふると首を振る。

「僕の名前は、バフォメットだ。君たちがそう呼んでいるだろう?」
「バフォメット⁉」

 その名前には聞き覚えがあった。だってそれはまさに、人々が怯えている魔王の呼び名そのものだったから。
 ということはやっぱりこいつは。

「お前が――魔王」
「強情なやつだな。次に僕をお前呼ばわりしたら、食ってしまうよ」

 にたりと口角を上げた魔物の口元から鋭い牙がちらりと覗いた。
 |捕食《ころ》される側になるなんて久しぶりで、つい、指先がぞくりと震えて冷たくなる。
 だけど、負けたくない。せめて気持ちだけでも。

「ふん。どうせ私を無事で帰すつもりもないんだろ、お前は」

 わざとらしく『お前』を強調してやった。
 するとそいつはこれまた楽しそうに笑って、忠告はしたからな、と呟く。かと思ったらドレスのホックにゆっくりと手をかけた。
 ぷつ、ぷつ、と音を立てて少しずつドレスが肌蹴ていく。

「魔物ってのは案外グルメなんだな。食い物の包みを脱がそうとするなんて。てっきり頭から丸呑みするもんだと思ってたが」
「食い物? ふふ、君は勘違いをしている」
「……なに?」

 そう問うと魔物は肩口に顔を埋める。なにかと思っているとぬらりとした感触が首筋を這って、思わずびくりと肩が跳ねた。

「っ?!」
「君を食い物だとは思っていないさ。今はまだ、だけど。せっかく面白そうなものを見つけたんだ。……飽きるまで楽しまないと、勿体ないだろ?」

 こいつ、そういうことか……!
 確かに魔物の中にはその加虐性の高さから人間を性的な意味で襲う種族もいると聞いたことがある。だからこそ女性が夜に独り歩きをするのは危険とされているのだけれど……まさか自分がその被害に遭いかけているとは考えてもいなかった。
 だけど自分は令嬢を装っているだけでれっきとした男だ。脱がしたところで女じゃないと知れば多少驚くだろうし、その隙を突いて逃げ出してやる。そう息巻いて、どくどくと鳴る心臓を落ち着かせるように小さく息を吐いた。
 そうこうしているうちにホックは全て外され、はらりとドレスが腰元まで落ちてくる。

「ん?」

 ドレスの奥から現れた身体を見た魔物は不思議そうに首を傾げた。
 今だ、と咄嗟に逃げ出そうとするも、どうやらその作戦は失敗に終わる。腰に回っているだけの手はどれだけ暴れようとぴくりともしない。それどころか暴れれば暴れただけ魔物の拘束はキツくなっていって、もはや逃げ出すことは不可能だとさえ思えた。

「こらこら、逃げようとするんじゃない。君はもう僕のものなんだから」
「くそ、離せよ! 何が楽しくてこんなことを……っ! 私が男だってことはわかっただろう?!」

 そう言うと魔物はぽかんとした後、ああそうか、と零す。

「人間は普通、男女でまぐわうのだったな。だから君もこうして女に化けているんだろう? 男を、自分の領域に誘い込むために」
「そ、それがなんだって言うんだ」
「君はどうやら男だから僕に食われないと思っているみたいだけど――残念ながら、僕には性別なんて関係ないんだ」
「……は?」

 にこやかに笑った魔物は私の体を抱き寄せ、ぐり、と自身の下半身を押し付けた。
 服の上からでもわかるその大きさに思わず息を呑む。

「ひっ?!」
「僕がこれを使うのは……手に入れた玩具に、僕のものだって印をつけるためだから」

 舌舐めずりをするそいつを見て、思わずぞくりとした。
 この魔物が言っている『印』とはきっと眷属契約のことだろう。一定以上の強さを持つ魔物は人間に魔力を注入することで自分の眷属を作り出すことが出来るのだ。
 眷属となった人間は自我を失い、ただ主の命令を聞くだけの存在になってしまう。
 今すぐ逃げなければ、おしまいだ。背筋を嫌な汗が伝って寒気がする。
 早くこの場から逃げろと体中から危険信号が発信されているのに――こいつから発せられている|圧《プレッシャー》が強すぎるせいかもはや身体が逃げ出すことを諦めていて。簡単に言えば絶体絶命という状況だった。

「特別に優しくしてやる。だから大人しく僕のものになるといい」

 ふわふわの指先が肌を擦る。妙に優しく触れられて、思わず声が出そうになるのを必死に堪えた。
 ぎゅうと唇を噛んで口元を抑えていると手首を掴まれて引き剥がされる。

「なんだ、恥ずかしがってるのか? ふふ、面白いな」
「この野郎……っ、んうっ」

 まるで恋人に愛撫でもするようにして触れられ、キスをされ、頭がどうにかなってしまいそうだった。嫌なはずなのに柔い指先が這う度に身体が跳ねて快感を訴える。

「やめっ、ろぉ……やだぁ……っ」

 恥ずかしさ、悔しさ、両親の仇が目の前にいるというのに良いようにされているもどかしさ――色々な感情が湧き上がってきて思わずサルビアはぐずぐずと涙を零した。
 途端、魔物はぽかんとした表情を浮かべる。しかし数秒後にはまたにんまりと楽しそうに笑った。

「気に入った」

 何を思ったのかそいつは一度脱がしたドレスをいそいそと元に戻し始める。一体どういった心境の変化だろう。
 わけが分からず涙も止まってしまい、混乱する脳裏で魔物の顔を見た。

「君に印をつけるのは、君が本当の意味で僕のものになった時までとっておくことにする」
「本当の意味……?」

 不思議がって問いかけるも魔物は優しくにこりと微笑むだけで何も言わない。

「そういえば、君の名前を教えてもらってないな」
「答えないと言ったら?」
「それでもいい。こうすればわかるから」

 魔物の手のひらが頬を包み込んで、ゆっくりとやつの顔が近づいてくる。思わずぎゅうっと目をつむると額にこつんと何かが当たるような感触がした。するとなんだか、記憶の中に誰かが勝手に侵入してくるような不思議な感覚に襲われる。
 恐る恐る目を開けると目の前に緑色の眼光が飛び込んできた。まるで子供の体調を心配する母親のようにやつは私の額にひやりとした体温を当て続ける。
 それから数分後、魔物はそっと離れていきながら微笑んだ。

「君はサルビアというんだな。綺麗な名前だ」
「……今のも魔法か。便利なものだな」

 皮肉たっぷりにそう言ってやると魔物は、そうだろう、と自慢げに目を細める。

「じゃあこれから君のことはルビィと呼ぶことにしよう」
「っ‼」

 思わず固まった。
 それは……ルビィという名は、幼き頃、父と母が自分を呼ぶときによく使っていた愛称だったから。

「……う、ぅ」

 一度引っ込んだ涙が再び頬を流れ落ちる。普段なら人前で、ましてや敵前で泣くなんて絶対にしないのに、自分は一体どうしてしまったんだろうか。

「先程触れていたあれは、君の親の骨だったんだな。僕は親というものを知らないが、ルビィが親というものをどう思っていたのかは君の記憶を覗いてわかった。……思う存分、泣くといい」

 両親が死んだのはこいつのせいなのに。
 こんなことを言われて本当は怒り狂うべきなのに。
 優しい声色で寄り添うようにされて、思わず魔物――バフォメットの胸元に頬を寄せて泣きじゃくった。
 父さん、母さん、と叫びながら。
 どのくらいそうしていただろうか。
 涙が枯れた頃には空はすっかり明るくなっていて、皮肉にも美しい朝焼けが古城を照らしていた。
 敵の胸にしがみついて泣いてしまったことを一生の恥と思いつつ、自分を抱きしめているバフォメットをちらりと見上げる。

「ん?」

 目が合ったバフォメットは、にこり、と笑った。優しげな笑顔にどきりとする。
 いやいや、どきりとしてる場合じゃない。
 正気を取り戻すためふるふると首を振った。

「お前は、」
「お前じゃない。バフォメット。バフって呼んでくれ」
「……お前は」
「ルビィ。今すぐ僕のものになりたいのか?」
「――バフ」

 名を呼ばれ、やつは満足そうに頷く。

「で、なんだい?」
「バフは……ここに封印されていたんじゃないのか」
「封印?」

 バフォメットは目を見開いた後、おかしそうにくつくつと笑った。

「僕を封印できる人間なんているわけないじゃないか。僕はこの世界に存在する魔族の中で一番の古株だ。千年ぽっち続いているだけの種族に後れを取るわけないだろう。それに君たち人間は魔術なんて使えないじゃないか。どうやって僕を封印するっていうんだ?」

 確かに……冷静に考えればそうだ。
 国に伝わっているのは〝魔王が封印されている〟ということと〝封印を保つには生贄が必要〟ということだけで、その封印の方法も封印が解けた後の対処も、現実的な部分は何も残されていない。

「でもそれなら、何故今まで姿を見せなかったんだ」
「ああ……」

 バフォメットは何かを思い出したように、ぽん、と手を叩いた。

「百年ほど前、人間と遊んでいたらうっかり国を一つ滅ぼしかけてしまって」
「え」
「僕の唯一の楽しみはその国の行く末を眺めることだったのに、このままなくなったらまずいと思ってね。暫く大人しくしてることにしたんだ。そしたらいつの間にか寝てしまっていたみたいだ」

 彼の話が本当であるならば国に残っている、百年前に人間が滅ぼされたという伝記は間違ってはいないらしい。……しかし、その後の封印だの生贄だのという記述はまるで良い加減な神話のように嘘っぱちだということだろうか。

「じゃあ、あの伝承は……」

 震える声で呟くとバフォメットはくいと首を傾げる。

「伝承?」
「年に一度、この古城に生贄を捧げないと魔王の封印が解かれるって」
「あはは。人間って馬鹿だな。そこが可愛いんだが」

 私は、可笑しそうに笑ったバフォメットを恨みがましく見上げた。

「ただ昼寝をしていただけの僕に生贄なんて必要だと思うか?」

 あっけらかんとそう言われ、言葉を失う。周囲の音が消えて、きんきんと耳鳴りがした。
 だって。
 じゃあ……どうして、二人は。
 自分の今までの生活はなんだったんだ。

「は、はは……父さんと母さんは、無駄死にだったってことか」

 思わず乾いた笑いを零す。バフォメットは何を思ってるのか無表情のままこちらをじいと見つめていた。

「それだけじゃない。この国はずっと何年もこの古城に生贄として人間を送り続けていた。国を守るためだと信じて何人もの人がここで息絶えたんだ。……それが全部、無駄だったなんて」

 きっと自分と同じ思いをした人が何人もいただろう。大切な人を失う悲しみに打ちひしがれながら、それでも愛する国のためと涙を呑んで見送った人々が。
 こんな真実では、亡くなった人たちも失った人たちもあまりに報われない。

「……やはり私は、魔物が嫌いだ」

 いつの間にか緩んでいた拘束から抜け出しながら私は先程弾き飛ばされたレンガの欠片を拾った。それをバフォメットに向けながらじりじりと間合いを計り、ある程度の距離を取ったところで古城の出口へと駆け出す。
 どうせこんな古い城だ、扉に鍵なんてついていないはず。そう思い、城の出口に手をかけた瞬間だった。
 ぶわりと風が吹いたと思ったらつい先程まで崩れ落ちてボロボロだった城がみるみるうちにその絢爛さを取り戻していく。ほんの数秒、何もできずその様子を眺めていると、朽ちた古城は立派で美しいながらもおどろおどろしい黒い城に変貌を遂げていた。
 薄暗い王の間を照らすのは蝋燭とステンドグラスから挿し込む朝日のみ。まるで幽霊屋敷のようだ。

「こ、れは……」

 驚いているといつの間にか背後にいたバフォメットの手がそっと指先に絡みついてくる。

「僕は君たちが魔王と呼ぶ存在だ。……君たちの理解が及ばないことなんていくらでもできる」
「離せ。魔族と仲良くする気は毛頭ない」

 バフォメットの手を振り払って出ていこうとするが、押そうが引こうが扉はがちゃがちゃと音がするだけでびくともしなかった。もはや逃亡は絶望的だと思い立ち尽くしているとバフォメットはこちらを閉じ込めるようにして壁に手をつく。

「言っただろう。ルビィはもう僕のものだ。どこにも行かせない」
「ふざけるな! 私は……人間は、お前たち魔物の所有物でも玩具でもない!」

 そう言うとバフォメットは不思議そうに首を傾げた。

「どうしてそんなに怒っている? 君の親を殺したのは僕じゃない」
「確かにお前が直接手を下したわけじゃない。……だけど、お前たちがいなければそもそも生贄を捧げるなんて忌々しい風習はできなかった。お前たちが|存《い》るから……ッ!」

 私は感情任せに叫んだあと、壁に体重を預けてずるずると力なく崩れ落ちていく。両手で顔を覆い、失ってきた者たちの表情を瞼の裏に思い浮かべた。

「お前たちが居るから。私は、何もかもを失ってきたんだ」

 両親の死体を目の当たりにしてしまったせいか色褪せた記憶がじんわりと湧き上がってくる。蹲って、膝に顔を埋めながら震える自分の体をぎゅうと抱きしめた。

 ◆ ◇ ◆ ◇

 裕福というわけではなかったが食べるものに困ることのない平凡な一般家庭で私は育った。頼りがいのある父と優しい母にたっぷり愛される日々。
 幼い自分はそんな幸せな日常が突然崩れ去ってしまうなんて思っても見なかったんだ。――父と母が魔王の生贄に選ばれるまでは。
 最初に選ばれたのは母。
 私がまだ齢五つの頃だった。

「ルビィ、強く生きるの。何があっても。生きるのよ」

 出発の日、母はそう言いながら私を抱きしめて出ていった。
 その次の冬、今度は父が生贄に選ばれた。

「どうして。どうして私なんだ……。サルビア、すまない。本当にすまない」

 出発の日、父は何度も謝って泣きながら出ていった。

「やだよ、やだ! ぼくをおいていかないで!」

 幼子の切なる願いは到底届くはずもなく、私は古くから伝わっている国のしきたりのせいで孤児になることを余儀なくされたのだ。

「うちには金も払えないガキを泊めておくだけの余裕はないよ。さっさと出ておいき」

 両親を失ってまもなく、私は借家だった自分の家を追い出されてしまった。
 ただでさえ貧富の差が激しいこの国は、まだ齢二桁にもなっていない幼子にとって地獄と同等に――いや、それ以上に厳しい。
 住み慣れた屋根の下から追い出されて行く宛をなくした私は、放浪の末に同じような境遇の子どもがたくさん棲み着いているスラム街へと流れ着くことになった。

「さむい、おなかすいた……」

 ネズミがゴミを漁っているのをぼうっと眺めながら空腹と寒さに耐える日々。
 スラム街に住んでいる子供たちは観光客を狙ってスリをしたり店の品物をこっそり盗んだりして日々を必死に生きているようだったが、今まで普通の生活をしてきた自分にはそれができなかった。
 勿論、空腹に耐えかねてうっかり魔が差してしまったことは何度もある。だがその度に記憶の中で両親がブレーキをかけるのだ。

「ルビィ。人に迷惑をかけてはいけないよ。清く正しく生きなさい」

 そう言って……記憶の中の両親は私の頭を優しく撫でる。その幻影を振り払い、寒空の下、自分の体を抱きしめた。

「おとーさん、おかーさん。おこるぐらいなら、かえってきてよ」

 そう文句を垂れてみるも二人が問いかけに答えることはもうない。たった一人、蹲りながら死んだように生きる自分の中には次第にふつふつと本当に存在するのかどうかもわからない『魔王』に対する恨みだけが募っていった。
 そんなある日。

「おまえ、ずっとここで座ってるけど、死にたいのか?」

 とある少年が私の顔を覗き込んでそう言った。
 時折両手にパンを抱えて前を通り過ぎる、見覚えのある少年だった。
 スラムに生きる子供たちは自分たちが生きるのに必死でこうして第三者に声をかけることは滅多にない。それでもこの少年はスラムに流れ着いてから水溜りで喉を潤す以外の行動を取らない自分を気にかけていたのだ。
 久方ぶりに記憶の中の両親以外と話をしたことで張り詰めていた感情がぷつりと切れる。

「しにたくない。しにたくないよぉ!」

 突然泣き叫ん私に少年は驚いたようだったけれど、やがてきゅっと唇を一文字に結んで隣に腰を下ろし、落ち着くまで黙って手を握っていてくれた。
 人のぬくもりに触れるのがあまりにも久しぶりだったせいか、あの時はもう一生分の涙を流したんじゃないかと思うぐらい声を上げて思いっきり泣いた。
 それから暫くして、ようやっと涙が枯れた頃。

「ほら」

 少年は乾いたパンを半分に千切ってそっとこちらに差し出す。

「くれるの?」

 そう問いかけると少年はそっぽを向きながら頷いた。
 恐る恐るパンを受け取って、一口食べる。そうしたらまた涙が溢れ出してきた。
 だが、慌てて目尻を拭い、少年に微笑む。

「……ありがとう。えっと、ぼくは――」
「待った!」

 名を告げようとした私の言葉を少年が遮った。
 どうしたのだろうと首を傾げると、少年はゆるゆると首を振る。

「ここでは自分の名前は明かしちゃだめだ」
「どうして?」

 半分残ったパンを齧りながら、少年は俯いた。

「スラム街に住む奴らは仲間じゃない、敵同士なんだよ。自分以外のやつなんて腹の中で何を抱えているかなんてわかったものじゃないんだ。だから、自分のことはなるべく話さないのが暗黙のルールなんだよ」
「そっか……」
「それにうっかり情なんて湧いてしまったら共倒れしかねないだろ。俺はこんなとこでくたばるわけにはいかないんだ。……お前もだろ?」
「……うん」

 何があっても強く生きよ、と脳裏で母が繰り返す。
 そうだ。自分はこんなところで死ぬ訳にはいかない。生贄となった両親のためにも。
 そのまま私と少年は特に言葉を交わすことなく並んでパンを食べた。

「なあ。俺ここに来て長いから食い物見つけるの得意なんだ。お前どん臭そうだし、食い物余ったら持ってきてやるよ」

 私がパンを食べ終わった頃を見計らって少年がぽつりとそう零す。
 少年の言葉にくいと首を傾げた。

「え? でも……」
「あくまで余ったら、だよ!」

 きっと彼だって生きるのに必死なはずだ。それなのに自分を助けてくれるというのか。
 なんだか申し訳ない気持ちになっていると少年はびしりとこちらを指差す。

「そ、それに! あげるわけじゃないぞ」
「? どういうこと?」
「ここに置いとくだけだ」

 そういう少年の指先が自分の手のひらの上を指していることにようやっと気づいた。

「まあ俺の見てない間に誰かが食っちまったとしても困らないけどな!」
「……そっか。ありがとう」
「ふ、ふん。何に対してのお礼かわかんねーけど、どういたしまして」

 少年のちょっぴり下手な嘘に思わず小さく笑う。
 その日を境に少年は自分に食べ物を分けてくれるようになり、時折、誰も見ていない夜中に二人でこっそりと話をするようになった。

「そうか。お前も親が生贄になっちまったんだな」
「おれも、ってことは、きみも?」

 少年はこくりと頷く。
 そして路地裏の天井に広がっている憎らしいほど綺麗な星空を見上げた。

「俺ン家は母ちゃんしか居なくてさ。兄弟が何人か居たんだけど。皆、このスラム街で死んだ。満足に食えなくてな」
「……!」

 言葉を失っていると少年は優しく微笑む。

「俺さ、目標があるんだ」
「もくひょう……」
「めちゃくちゃ強くなって、軍に入るんだ。そんで魔王を討ち倒す。それが俺の目標」

 この世界における軍とは国によって結成された魔物を討伐する部隊のことだ。
 全国から集った選りすぐりの精鋭で構成されており日夜、魔物から街の平和を守るべく戦っている。

「……ぼくも。ぼくも、ぐんに入る」
「え?」
「まおうのせいで、おとーさんもおかーさんも出ていっちゃった。だから……ぼくもまおうをたおしたい!」

 ぐ、と握りこぶしを作った私の手を少年が握った。

「じゃあ俺たち二人で軍に入ろうぜ。そんで、俺たちが魔王を討ち取るんだ」
「うん……!」

 そんな誓いを立ててから数年後――私がすっかりスラム街に馴染んだ頃のことだった。

「へへっ。また俺の勝ちだな」
「くっそぉ……また負けたぁ……」

 私達はすっかり相棒のような関係になっており、いつしか、どちらの方が上手くパン屋の店先から品物を奪ってこられるかという対決をするのが日課になった。
 もう幻想の中の父と母に叱りつけられることもない。多少の罪悪感はあれど、自分の命が何よりも大事だ。

「こんだけ盗ってこれたら明後日までは生きれるな。今日はゆっくりしてようぜ」
「うん、そうだね」

 二人並んでいつもの隅っこに座り、パンに齧りつく。今日はパン屋が開店したと同時に盗んだから焼き立てでふわふわのパンにありつくことができた。

「……早く大人になりてぇな」

 ぽつりと少年がパンを食べながら呟く。

「軍に入れるのは確か十五歳からだから……あと五年かぁ。そういえばお前は何歳なんだ?」
「えと……今年で八歳」
「八かぁ。まだまだ遠いな、へへ」

 少年は楽しそうに笑ってから小さくため息を吐いた。

「せめて背が高かったら年を誤魔化して入れるんだけどなぁ」

 少年の言葉にふいと自分の体を見下ろす。
 小さくて、痩せぎすで、魔物すらも食べるのを躊躇しそうなほど弱々しい体がそこにあった。

「背って、どうやったら伸びるのかな」
「え? うーん、そりゃいっぱい食って、いっぱい運動すりゃ伸びるんじゃねぇか?」
「……そっか」

 もう一つパンを手にとってかぶりつく。普段ならパン一つで止めておくが、なんだか今はもう一つ食べたい気分だった。

「まあでもとりあえずは軍に入れるようになるまで生き残らなきゃだからな」
「うん、そうだね」

 まだ幼い私達はこうして世界から爪弾きにされてもまだ自分たちに未来があると信じて疑っていなかったのだ。
 だが、ある日の夜――その希望すら粉々に打ち砕かれることになる。

「んぅ……?」

 路地裏の隙間で寝入っていた私は不審な物音で目を覚ました。
 体を起こし、寝ぼけたまま音の正体を探るために耳を澄ませる。聞こえてきたのはぐちゃぐちゃと水分と粘り気を含んでいて……まるで、生肉を弄んでいるかのような音だった。
 恐る恐る音の出どころを探って路地裏から顔を出す。すると。

「ひっ⁉」

 思わず喉の奥から悲鳴が漏れた。
 スラム街のど真ん中に居たのは二足歩行で鋭い牙を持つ……人狼のような生き物。彼らの世界で言う、魔物だった。
 魔物がこちらの気配に気が付き、ふいと周囲を見渡す。
 瞬間、見えた。
 見えて――しまった。

「う、そ」

 先程の不審な音は魔物が人間を食い散らかす音で。
 腹の中をぐちゃぐちゃにされて絶命していたのは、あの少年だった。
 血溜まりのなかに浮かんでいる彼は間違いなくただの肉塊になっていて。軍に入るんだと希望を語っていたあの眼差しはどす黒く曇っている。

「そんな。なん、で」

 魔物はぐるぐると低く唸りながら私を探している。
 本来なら逃げるべきだったが、彼の中にふつふつと溜まっていた憎しみが、怒りが、その瞬間に大きく音を立てて爆発した。

「ふざけるな……ふざけるなぁッ!」

 近場にあったパイプを手に取って駆け出す。それを力のまま魔物に向かって凪いだ。だが幼い子供の攻撃が野生の中で生きているような存在に通用するはずもなくあっさりと躱される。

「お前らは、どれだけ僕から奪ったら気が済むんだ! 父さんも、母さんも……助けてくれた恩人も! お前らが奪った!」

 泣き叫ぶ。
 ただただ感情を込めて、全てをぶつける。

「まだ名前も聞いていなかったのに。一緒に軍に入るって、約束したのに!」

 じわりと滲む視界で魔物を睨みつけた。

「返せ! 僕の大事な人達を、返せよッ‼ うわあああッ‼」

 怒りを込めて頼りない武器を何度も振る。
 だが自分の攻撃はすべて軽くいなされ、体力がなくなったところで弾き飛ばされた。そして。

「っあ……あああッ!」

 ひゅ、と何かが空を裂くような音がしたと思ったら、焼け付くような痛みと共に左側の視界が真っ赤に染まる。魔物の手からはぽたぽたと、自分のともかつての友人のともわからない血が滴り落ちていた。
 もうこの左目に光が届くことはないだろうということを幼いながらに自覚する。

「あぐっ、うぅっ」

 痛みに蹲ることしかできずにいると、首に長くて鋭い爪を携えた魔物の手がゆっくりと伸びてきた。
 それはそのままぐるりと首に巻き付いていく。

「ぐすっ……嫌いだ、お前らなんか……ッ」

 爪が喉元に食い込んで呼吸が苦しくなった。
 こんなところで終わりだなんて。
 こちらをぎろりと睨みつけている魔物は随分余裕そうで新しい獲物を捕らえたことがよほど嬉しいのか尻尾を振っていた。
 嗚呼、なんて憎らしい。願わくば次に生まれてくる頃には、魔物なんて消えてなくなっていますように。そう願いながらそっと目を閉じた。

「少年、大丈夫かい?」

 ここで息絶えるのだと覚悟を決めてからほんの数秒後。
 突然そんな声が聞こえたと思ったら首元の圧迫感がするりと消える。恐る恐る目を開けると先程の魔物が血を流して地面に突っ伏していた。その脇に立っているのは立派な銀色の鎧に身を包んだ大柄な男。
 男はそっと私の頭を撫でると申し訳無さそうに眉を下げた。

「遅くなってすまなかった。怖かっただろう?」
「だれ……?」

 掠れた声で問いかけると男はにこりと笑う。

「俺はカラン・ボイス。軍に所属している。ところで、お父さんかお母さんはいるかな? 君を保護したことを伝えないと」

 男――もといカランからの問いに私は首を振った。

「二人は……数年前、生贄に選ばれた」
「‼ ……それは、すまない」

 カランは恐る恐るといった様子で私の体を抱き上げる。
 久方ぶりの大人の体温はなんだか酷く安心できて、深く息を吐いた。

「もし君が良ければ孤児院を紹介することも出来るけど」
「こじいん……?」
「君のように親を失ってしまった子供たちが過ごす場所だよ。温かい食事も出るし屋根の下で眠れる。どうだい?」

 その申し出はかなり魅力的だったが、再び首を横に振る。

「いやだ」
「え? じゃあ、どうするんだい……?」

 困惑したように首を傾げる彼の服をぎゅっと握りしめた。
 怒りと憎しみでどうにかなってしまいそうな自分を必死に抑え込んで、荒く息を吐きながら、カランの目をじいと見つめる。

「僕を強くして欲しい。軍に入れるぐらい、強く」
「そ、そう言われてもだな」
「僕はずっと魔物に奪われてきた。暖かい家も両親も、大切な命の恩人も、幸せな日常も、左目も。……だから、今度は僕が奪う番だ」

 するとカランは目を見開いて、じいっと視線を返してきた。

「お願いします。僕に魔物の殺し方を教えて」

 きっと無茶なお願いだっただろう。
 自分が後に師と仰ぐことになるこの人は、本来虫も殺せないほど優しい人なのだから。……でも彼は自分のわがままに付き合ってくれたのだ。

「……わかった」
「‼ 本当⁉」
「ああ。ただし、条件がある」
「条件……?」

 首を傾げると彼は私の手をぎゅうと握って、真剣な眼差しでこちらを見る。

「君に戦い方を教えるのは何かを殺めるためではない。君自身を、そして君の大事なものを守るために教えるんだ。……それだけは忘れないでくれ」
「――はいっ‼」

 その日から、私は彼に養子として引き取られ――彼を師と仰ぎ、毎日訓練に明け暮れた。

「剣を振る時はできるだけ腰に重心をかけて体を真っ直ぐ保つんだ。相手に弾き返されてもよろけないようにな」
「はい」

 連日、日が暮れた後も恨みを込めた刃を降り続け、戦い方も知識も吸収できるものはすべてその身に取り込んだ。
 全ては魔族からあらゆるものを奪うために。
 そうして我武者羅に色々なものを吸収し続けて――気がつけばとうに七年が経過していた。

「サルビア。いよいよだな」
「……はい」

 師の前で剣を振りながら頷く。
 明日はいよいよ軍への入隊試験が控えていた。
 ようやっと自分を苦しめた魔王を殺しに行ける。そう思うと心臓が高鳴って仕方がなかった。

「――なあ、こんなことを今更言うのも何なんだが」
「? なんでしょう、師匠」

 師匠の深刻そうな表情に思わず剣を振る手を止める。
 ゆっくりと向き直ると、彼は今にも泣いてしまいそうな笑顔を浮かべていた。

「本当に、軍に入隊するのか?」
「え?」

 首を傾げた。
 だって、自分はそのために強くなって、師匠もそのために自分を鍛えてくれていると思っていたから。

「どういう、ことですか?」

 そう問いかけると師匠は私を家の中に手招きした。大人しく剣を鞘に収め、彼の後に続いて家に入る。
 ソファへ座るよう促され、大人しく座ると師匠はキッチンで飲み物を淹れ始めた。

「お前は凄いやつだ、サルビア。俺が十五年かけて会得した技術をほんの数年でものにして使いこなしてしまった。この数年、脇目も振らず貪欲に強さを吸収してきたお前は、今きっとこの国で一番強いだろう。……だからこそ俺は、お前のことが心配になるんだ」
「心配……?」

 一体なにが心配なのだろう。
 師の言っている言葉が理解できず眉をひそめる。
 こちらに淹れたばかりの紅茶を差し出した彼はゆっくりと私の隣に腰を下ろした。

「お前はあまりにも強すぎる。その強さがお前を苦しめる結果にならないか、不安なんだ。お前のことを搾取しようと考えるやつがいるかもしれないし、強すぎるお前を淘汰しようとするものが居るかもしれない」
「……ごめんなさい、師匠。僕には、良く分からない」

 サルビアは首を振るとソファから立ち上がって剣を抜いた。
 そして師へ、敬意を込めて刀身を向ける。

「僕は強さだけを信じています。強ければ奪われることも、大事なものを失うこともない」
「サルビア……」

 カランは立ち上がり、剣を握り締めているサルビアの手を取った。
 その手のひらからそっと剣の柄を奪って床に投げ捨てる。

「まだ間に合う。俺と一緒に田舎にでも行かないか。二人で畑を耕して家畜を育てるんだ」
「師匠、どうしてそんなことを仰るんですか? 僕の夢が明日、叶うのに」

 そう言うとカランは今にも泣きそうな顔をしてサルビアを抱きしめた。

「綺麗なお前を――あんな汚水のような場所に放り込みたくないんだよ」

 何を言っているのだろう、この人は。
 自分が所属している場所をそんな風に言うだなんて。
 だって、軍は国を魔族から救う|英雄《ヒーロー》で、魔物を殺す正義の集団のはず。

「師匠。僕は、軍に入ります。……この意志は変わりません」

 自分の思いを真っ直ぐ伝えると、師匠は小さく息を呑んで、ゆっくりと離れていった。ぽつりと一粒、涙が彼の頬を伝う。

「わかった。ただし――出会ったあの日と同じように、約束してくれ。絶対に正しさを失わないと。お前の強さは、なにかを守ることにだけ行使すると」
「勿論です、師匠。約束します」

 その翌日。
 入隊試験に参加した私は他の希望者どころか試験官までもを容易くねじ伏せ、圧倒的な強さを見せつけることに成功した。
 いっそ、恐ろしいまでの強さだったと同期に言われるまでに。

「サルビア・ボイス。お前に第一部隊への所属を命ずる。養父と共に、国のためその強さと命を捧げてくれ」
「かしこまりました。必ずや魔族の存続を断ち切ってみせます」 

 そうして私は希望通りカランと同じ第一部隊へ配属され、ただただ、命じられるまま魔物を殺す日々を過ごした。
 毎日、毎日。魔物の血を浴びて、やつらを刃の錆にする。
 そうして過ごすうち、いつしか命を奪う行為になんら抵抗を持つこともなくなっていき……ただ無心で切って捨てることができるようになっていた。
 そんなある日のこと。

「サルビアよ。とある者を始末して欲しい。これはお前だけの極秘任務だ」

 国王から呼び出された私は、謁見の間でそう告げられた。

「とある者、とは?」
「魔族の中には知性を持ち合わせているものがいることは知っておろうな?」
「ええ、勿論です」

 こくりと頷くと王は小さく息を吐いた。

「始末してもらいたいのは国の東側に居を構えるサフラン卿。うまいこと隠しているが、どうやら奴は魔族の上位種と癒着しているらしい」
「魔族と癒着……?! そんなことが可能なのですか?」
「ああ。魔族は狡猾な存在だ。自分の安全が脅かされないよう人に褒美をぶら下げて操っているのだろう。……やってくれるか、サルビア」

 王の言葉にほんの少しの違和感を感じた私はつい即答できず考え込む。

「勿論、王の意向には全て同意したい思いです。ですが……そういうことであれば元凶である上位種を屠るだけで宜しいのでは? サフラン卿を始末する必要はどこに?」
「サルビア、冷静に考えてもみなさい。そもそも魔族に惑わされるような貴族がこの世に必要だと思うか? 我々は皆、魔族に対抗すべく日々戦っているというのに、過程はどうであれサフラン卿は国や民よりも自身を優先したのだぞ」

 ああ、それもそうだ。
 そもそも魔物に絆されるような人間など、同じ魔物のようなものじゃないか。

「……仰るとおりでございます、王」
「やってくれるな、サルビア?」

 それに王からの直々の命とあれば断る理由など何処にもない。

「畏まりました。仰せのままに」
「お前ならばそう言ってくれると信じておった。頼んだぞ」

 こくりと頷き、|頭《こうべ》を垂れた私は、王がにたりと厭らしく笑ったことに気がつけなかったのだ。


 ◆ ◇ ◆ ◇


「お前、また私の記憶を覗いたな」

 重たい目元でぎろりとやつを見上げる。しかしバフォメットはそれを意に介さずにこりと笑った。

「ふむ。見られてまずい記憶でもあるのかい?」
「同族を殺されて困るというのならまずい記憶だらけだな」
「それなら安心していい。僕は人間ごときに殺されるような同族に興味はないから」

 ひょいと私の体を横抱きにしたバフォメットは玉座の後ろにある両開きの扉の前に立つ。すると扉はゆっくりと音を立てながら開いた。
 扉の向こうには王宮のような煌びやかな広間が広がっている。
 確かに古城の敷地は大きいが、玉座が置いてある間の向こうは崖になっていてこんな立派な広間を作れるスペースはなかったはずだ。それに広間にはいくつも扉があって更に広い空間があることを雄弁に物語っている。
 これも魔法の類なのだろうか。

「驚いているね、ルビィ」
「……なんで嬉しそうなんだよ」

 バフォメットは奥の空間へと足を進める。

「だってルビィは僕が魔法を見せるたびに色々な顔をするから、面白くてね」
「あっそ」
「はは。連れないな。そういうとこも良い」

 臆面もなくそう言ったかと思うと彼は私の額にそっと唇を押し付けた。柔らかい感触と小さなリップ音が鳴る。

「ああ、もう! そういうのやめろ! 私は男とどうこうって趣味はないんだよ、気持ち悪い!」
「む。それなら心配しなくて良い。僕に性別という概念はないからな。それに見た目が気になるのなら女に化けることもできるぞ?」
「そういうことじゃ……。はあ、もういい」

 話をしているうちにもう一つ扉をくぐる。するとその向こうには長いテーブルに沢山の椅子が設置された食堂のような空間が広がっていた。
 更にテーブルの上にはまるで貴族のパーティで出てくるような豪華絢爛な料理がずらりと並んでおり、アイスペールに入った高そうなワインのボトルがそっと華を添えている。
 私をそっとテーブルの一席に座らせたバフォメットはその隣の席へ優雅に腰を下ろした。

「まあ、まずはお互いを知るためにも乾杯といこうじゃないか、ルビィ」

 予め席に用意されていたグラスにワインが注がれていく。自分のグラスにも同じようにワインを注いだバフォメットはそっとグラスを持ってこちらに差し出した。
 恐らく乾杯を誘われているのだろうけれど、その手には乗るものか。

「魔族の用意したものに口をつけるわけないだろ」
「強情だな。嫌いじゃないが……。ああ、わかった。ルビィは酒が飲めないんだな? 人間はある程度の年齢になるまで飲酒は禁じられていると聞いたことがある」

 失礼したな、と笑いながらバフォメットはグラスに入ったワインを飲み干した。

「お子様にはオレンジジュースでも用意して差し上げようか?」
「な……っ! さ、酒ぐらい飲める! 私はもう十六なんだぞ、馬鹿にするな!」

 安い挑発だったと思う。だけど私はそれを受け流せるほど余裕がなくて。
 頭に血が昇ってしまった私は、ワイングラスを乱暴に掴んでぐいと一気に煽った。
 実際のところ自分はあまり酒に強い方ではない。令嬢のふりをしてパーティに潜入するときもほんの数口飲むぐらいなので、グラス一杯分、ましてやそれを一気に飲むだなんてことはしたことがなかった。

「う、」

 少し強めのアルコールの香りで脳裏がぐらりと揺れる。テーブルに突っ伏しそうになるのを必死に堪えていると、バフォメットと目が合った。どうせまた楽しそうに笑っているんだろうと思ったけれどバフォメットは意外にも驚いたような表情を浮かべながらそっと私の肩を支える。

「ルビィ、ダメじゃないか。アルコールを一気飲みだなんて危険だぞ。ほら、水を飲んで」

 どこから出したのか水の入ったコップを用意したバフォメットはそっとコップを口元に持ってきた。
 アルコールでくらくらするまま水を口に含んで、飲み込む。

「全く。君たち人間は簡単に死んでしまうくせに危機管理能力が低すぎる。もう少し生きることに必死になったらどうだ?」

 まさか魔族に説教をされるとは……。複雑な気持ちになりながら口を噤んでいるとバフォメットの右手がそっと頬に触れた。

「今は何も食べたくないのなら湯浴みを用意しようか」
「……ずいぶん気が利くようだが、どれだけ優しくしたところで私がお前に懐くことはないからな」
「それはやってみないとわからないからな」

 余裕の滲む笑顔がこれまた憎たらしい。思わず殴りそうになるが、どうせそんなことをしたところで軽々と避けて笑われるのがオチなのはわかっているのでなんとか抑え込んだ。

「さ、そうと決まれば早速バスルームへご案内しよう、愛しのステディ」
「……気色が悪い」
「ふふ。そう連れないことを言わないでくれ。これからずっと一緒なのだから良いだろう?」

 いよいよ持ち上げられることに抵抗がなくなり始めた自分に嫌悪感を感じつつ、逃げ出す機会を狙うためバフォメットの腕の中で大人しくすることに。
 決して抵抗するのが面倒になったとか、もうどうでもよくなったとか、そういうことじゃない。

(というかこいつ、私のことをペットかなにかと勘違いしてないか?)

 魔族が人間に対して危害を加える様子は何度も見てきたし、サルビア自身も経験してきた。だからこそ、今こうして甲斐甲斐しく人間の世話をするバフォメットの行動原理が全くと言っていいほど理解できない。
 実際、彼がどう思っているのかなど人間には理解不能なのだろう。

「さ、脱ぐのを手伝ってあげよう。ドレスもこんな血まみれのものではなく新しいのを用意してあげようね」

 浴室に到着したと思ったら手際よくドレスを脱がされ、そのままバスタブに放り込まれる。白く濁った湯船からミルクのような甘い香りがして足先からじんわりと心地よさが伝わってきた。

「ふふ。良い香りだろう? ミルクの入浴剤にしてみたんだ。君たち人間は不思議とこの香りで落ち着くと聞いたことがあってね。気に入ってもらえたかな」

 正直、全身の力を抜いて湯船にゆっくりと浸かってしまいたいところだが、敵陣でそんなことができるはずもなく。ただただバフォメットの行動を睨みつけながら追いかける。

「目を瞑っていなさい。泡が入ってしまうと困るだろう?」

 一方バフォメットは特に怪しい行動をすることもなく、それどころか優しい手付きで私の髪を洗い始めた。誰かに髪を洗ってもらうなんていつぶりだろう。きっと最後は……母が居なくなる前日、彼女と一緒にお風呂に入った時か。
 水滴が落ちて弾ける音と湯船が揺蕩う感覚、優しく頭部に触れられる感触に思わず深く息が零れそうになる。

「そんなに警戒せずとも、今更君を獲って食おうとは思っていないさ。もう少し肩の力を抜いてもいいんだよ」
「うるさい」

 ぷいとそっぽを向くと、バフォメットがくすくすと笑った。
 余裕を見せつけられているようでなんだか悔しい。

「さて、次は体を洗うから一旦バスタブから出てくれるかな」
「は?! い、いや、体は自分で洗う! だから触るなっ」
「遠慮しなくて良いんだよ。ほら、人間は確か……裸の付き合いとやらをして仲良くなるんだろう?」
「どんな付き合いだ! いいから、自分で洗う!」
「まあまあ。僕にまかせておきなさい」

 両手にボディソープを馴染ませたバフォメットが私の背後に回った。
 かと思ったら、指先がするりと首元に滑り込んでくる。

「ひぅっ?!」

 泡だらけの手が首を滑って――肩から指先へ伝う。手を随分丁寧に洗われたと思ったら、今度は脇から胸元へ指先が走った。

「んんッ……やめっ、自分で……っ、やる、からぁっ」
「いいからいいから」

 バフォメットの両手が執拗に胸元を擦る。
 人間にはない獣の毛を湛えたその手が肌の上を進む度に筆のようなもので弄ばれてるようなぞくぞくとした感触が背筋を駆け上がった。

「お前っ、わざと、だろ……ッ!」
「ふふ。なんのことやら」

 抵抗しようにも泡のせいで滑るわ力が入らないわでどうしようもない。
 唇を噛み締めて悲鳴を押し殺すことしかできずにいると、まるで焦らすように胸元を行ったり来たりしていた手が胸元の突起をぴんと弾いた。

「あぅっ?!」
「ルビィ、震えてるね。どうしたのかな?」
「うるさいっ、離せっ……やっ、あぐッ……」

 やつがぺろりと舌舐めずりをしたと思ったら、そっと耳元に顔を近づけてきた。あ、と口を開ける声が聞こえて、耳に何かが触れるような感触。

「はぅ……っ! おい、ふざけるなっ……ひっ、」
「心外だな。僕は君の体を洗ってあげているだけなのに」
「耳を噛む必要はないだろうが……!」

 なんとかして抜け出さないと。
 そう思うのに、体からは次第に力が抜けていって、まともに抵抗もできなくなる。

「僕にとって人間なんてただの暇つぶしの道具だったのだけれど。……ルビィ、君を見ていると、別の感情が湧いてくるよ。この感覚を君たち人間はなんと呼ぶのだろうね」
「知るかッ! いいから、離せって!」
「不思議なものだ。最初は僕に怯えることなく歯向かってくる人間に興味があるだけだったのにな。……今は、君をぐちゃぐちゃに甘やかして僕に陶酔させたいと思うんだ」

 先程まで焦らすように触っていただけの指先が、突然突起を少し強めに握った。

「うあッ?!」
「ルビィ。僕は君の心も体も、全て自分のものにしたい。……堕ちてくれ」
「やだっ……やめろッ、あ、ぅぐ……ッ」

 敏感な部分を潰され、擦られ、頭の奥がちかちかする。呼吸が上手く出来ない。

「ここも、可愛がってあげないとね」
「っ?! やめっ、そこはっ」

 胸元から腰を伝って、バフォメットの手がサルビア自身に伸びた。優しい手つきで握ったり緩めたり、時折扱かれたりと愛撫を繰り返される。

「っ、あァッ! ひ、はうぅ……っ」
「気持ちいいかい? 顔が真っ赤だ」
「きもち、よくなんて……ないッ」

 精一杯の嘘。本当は今すぐ気をやってしまいそうなほどの快感がずっと脳みそを揺らしていた。
 しかし、たった一筋残った彼のプライドがぎりぎりそれを食い止めている。

「そうか。それなら、もっと激しくしないとだめかな」

 楽しそうに笑って、バフォメットは攻めの手を早めた。
 途端、これまでと比べようのない快感が一気に駆け上がってくる。

「ひぅっ、やっ……~~~ッ!」

 声に鳴らない悲鳴と共に、全身をびりびりとした強い刺激が走った。途端、体から力が抜けていく。

「おっと」

 ぐらりと視界が揺れて、倒れる、と思ったのも束の間、バフォメットに支えられた。

「どうだい? 少しは絆されてくれたかな?」
「……んなわけ、ないだろ……」
「あれれ。おかしいなあ。人間は快楽に弱いって聞いてたのだけど」

 肩で息をしながら睨みつけると、やつは不思議そうに首を傾げる。

「覚えとけ、魔族野郎。私はお前には屈しない。絶対に、だ!」
「ふむ。快楽漬けにする作戦は失敗か。心を手に入れるというのは存外難しいものなんだな」

 少し残念そうにした彼を見てざまぁみろと思ったのも束の間、ちゅ、とリップ音が鳴って唇を奪われた。

「んぅ?! うぅーっ!」

 どれだけ抵抗しようがどこ吹く風、好きなだけ私の唇を嬲ったバフォメットは楽しそうに微笑む。

「ふふ。長いこと生きてきたが、こんなに上手くいかないのは初めてだよ。なんだか楽しくなってきた」
「……マゾかよ。気持ち悪いな、お前」
「失敬な。向上心が強いだけさ。僕は絶対に君をものにしてみせるよ。覚悟しておきなさい、愛しのルビィ」

 そう言ってバフォメットはそっと私の頬を撫でた。
<この続きは製品版で!>

お試し読みをもうちょっと読めるコーナー

 以下からは当サイトの応援プラン加入者様向け限定で、もうちょっとだけお試し読みができるコーナーとなっています。
 もっともっと応援プランの特典です。どうぞお楽しみください。
 

 あれから数日が経過した。
 魔物という種族は酷く自分勝手で本能のままに生きている。だからこそこんな恋人ごっこのような甘だるい|遊戯《おあそび》なんてあっという間に飽きるだろうと踏んでいたのだけれど、やつは一向にこの同棲生活に飽きる様子はなさそうだった。
 そもそも自分は国王からの命を受けて仕事をしていた真っ最中なのだ。
 早く帰って任務が完了した旨をお伝えしなければならず、こんなところで油を売っている場合ではない。……の、だけど。

「……ダメ、か」

 自分の身長の何倍もある扉を見上げながら深く溜息を零した。
 この扉は外へと繋がっている唯一の出口。
 しかしそれは無情なことに押そうが引こうが蹴ろうが殴ろうが微動だにせず、もはや扉としての機能は失っているに等しい。もしかしてこれは壁に描かれている騙し絵なんじゃないかと最近思うようになった。

「何度やったって無駄だよ、ルビィ。君はここから逃げられない」

 いつの間にか後ろに居たらしいバフォメットは私の両脇にするりと手を挿し込むと、子供を抱くようにして持ち上げる。

「おい、降ろせ」
「そう固いこと言わずに」
「……はあ」

 ここに囚われるようになってから早数日……最初のうちはやつからのスキンシップに力の限り抵抗していたが、このタイミングを境にやめることにした。どれだけ抵抗しようが無駄であることに気がついたからである。
 多少の羞恥心と嫌悪感はあるにせよ痛みを伴う行為をされるわけではないし、セクハラまがいの行為以外は大人しく受け入れることを選んだのだ。

「ルビィ、今日の食事はどうしようか。なにか食べたいものはあるかな?」
「別に」
「そうか。じゃあ昨日は肉料理だったし今日は魚にしよう。それにしても人間は不便だな。同じものを食べ続けるだけでは健康に影響が出てきてしまうなんて。そういう手のかかるところも可愛いのだけれど」

 こいつは本当に一言多い。時折こうして人間に対する感想を述べるが、どうも人間という種族を見下して馬鹿にしているようにしか聞こえない。それが魔族の本質であるため仕方ないとは理解しているが、それにしたってカチンとくることがある。

「ふぅん。言えば何でも出てくるのか」

 少し意地悪をしてやりたくてそう聞いてみた。
 すると彼は、ぱあ、と表情を明るくしてきらきらとした目でこちらを見る。

「なにか食べたいものがあるのかい? 何でも言ってごらん。すぐに用意しよう」

 本当は無理難題を押し付けてやろうと思ったのだけれど嬉しそうなバフォメットの様子に罪悪感が頭を擡げた。というか、こいつなら本当になんでもすぐにぽんと用意しそうな気がする。

「え、と……」

 そもそも無理難題を思い付いていなかったせいで言葉に詰まった。一方バフォメットはというと黙って微笑みながらこちらの二の句を待っている。
 相手は魔物だ、気を使う必要なんてないだろう、と思うが普段からそれほど食に関心もないのでこれといって食べたいものも思いつかなかった。
 結局、どうしようか悩んだ末、脳裏に浮かんだのは――。

「……パンケーキ」

 聞き慣れない食べ物だったのか、はたまた予想外のリクエストだったのか、バフォメットは不思議そうな表情で首を傾げた。

「昔、母さんがよく作ってくれた」
「ふむ。わかったよ。それなら君の記憶の中にあるものを再現しよう」
「できるのか? そんなこと」

 尋ねるとバフォメットはにこりと笑う。

「僕に出来ないことはないよ」
「随分な自信だな」
「事実だからね」

 自慢げな様子が幾分鼻につくが、何も言うまい。一体どうやって母のパンケーキを作るのかと思っているとバフォメットは私を抱えたままキッチンへ向かった。
 そうして辿り着いたキッチンに私の体を降ろした彼はいそいそとエプロンを付ける。――ピンク色の。

「お前、馬鹿にしてるのか」

 何が楽しくて野郎のエプロン姿を見にゃならんのだと思い、思わずツッコむとバフォメットはくるりとその場で回った。

「記憶を覗いた感じだと、幼い君は母親の足元でパンケーキが出来上がるのをじっと待っていたからね。それを再現しようと思って。懐かしさも良いスパイスになるだろう?」
「……お前が作るのか?」

 てっきりいつもみたいにぽんと一瞬で出すのかと思ったけれど。エプロンに関しては些かふざけているが、思い出の味を再現しようとしてくれているのは素直に少し……ほんの少しだけ嬉しい。
 なんだかほんわかした気分でいると、バフォメットは戸棚から小さめのフライパンを一つ取り出しながらへらりと笑った。

「君が喜んでくれるのなら、いくらでも作るよ」
「――っ」

 なんだ、今の顔。
 今までそんな笑い方しなかっただろ。

「そう、かよ」

 どくどくと心臓が跳ねて。そう返すのが精一杯だった。
 バフォメットはこちらの様子に気付いているのかいないのか、食材を取り出したと思ったら手際よく調理を進めていく。ふわっとした甘い香りが広めのキッチンを包み込んだ。

「手際が良いな」
「長生きしてると暇が一番の大敵でね。もはやこの世に僕が習得していないことはないんじゃないかってぐらいだよ」

 生地の焼ける音に混じって良い香りがする。
 とても、懐かしい匂い。

「料理も暇だからやってたってだけで楽しくもなんともなかったんだけれど。こうして愛しい人のために作っていると思うと、随分心持ちが違うものだね」
「ふぅん。お前たちにも気持ちなんてものがあるんだな」

 そう言うとバフォメットはこちらにふいと視線をやった。
 いつもの憎たらしい笑顔。やはり感情の起伏は読み取れない。
 でも――なんだか、少しだけ心臓がずきりとする。

「もちろんさ。僕たちにも心はあるよ。君たち人間と強度や構造が少し違うだけでね」
「……」

 バフォメットの視線から逃げるようにして私は自分の足元を睨んだ。
 自分は今まで魔物という種族をただの残忍で自己中心的で狡猾な敵性種族としか思っていなかった。
 勿論、今こうして朝から晩まで甘やかされているのも自分という玩具をなんとか手に入れたい欲求から来る行動だろうし、手に入れた瞬間に飽きて捨てられるという可能性も無くはない。
 そもそも自分は望まずしてここに監禁されているわけなのだから罪悪感を感じる必要もないとは思う。
 だけど、それでも。

「――わる、かった。……その、少し、冷たい言い方になった」

 つい、謝罪が口をついて出た。

「正直、魔族には良い思い出が一つもなかったんだ。……だから、えっと」
「ということは、もしかして僕との生活を多少なりとも良い思い出だと思ってくれている、ということかい?」

 その言葉に、恥ずかしさから弾かれるようにして顔を上げる。
 どうせそこにはいつもの余裕そうな笑みがあるんだと思っていた。だけど目が合ったバフォメットは驚いたような、それでいて感極まったような、ぐちゃりとした表情を浮かべていた。そのせいで発言を誤魔化そうとして開いた口元はぴたりと動きを止める。

「ああ、もう。勘弁してくれ、ルビィ」

 なんて聞こえたと思ったらバフォメットの胸元に閉じ込められた。
 普段と違って簡単に抜け出せそうな力加減だったけれど、どうしてか今は抵抗する気にならない。

「君はどれだけ僕を夢中にさせるつもりなんだ。僕が君を夢中にさせるつもりだったのに……上手くいかないものだな」

 すり、と頬を擦り寄せられる。
 時折触れるふわふわの髪が心地よくて、擽ったい。

「……なあ、お前は私とどうなりたいんだ」

 ぽつりとそう呟く。抱きしめられているせいで彼の顔は見えない。
 だけど背中に回っている手がぴくりと動いた気がした。

「もしこのままずっと、死ぬまで恋人のような真似事をしたいだけなんだったら――私は、ここには居られない」
「どうして? 君は望むものは全て揃えられる。ここにいれば不自由はさせないよ」
「気持ちはまあ……ありがたいが。私にはやるべきことがあるんだ。それに、大切な人を置いてきてしまった」

 ぎゅう、と布が擦れる音がして。
 バフォメットの腕に力が籠もっていく。
 顔は見えないが、歯を噛みしめるような音が聞こえた。

「それは、君が記憶の中で、師匠と呼んでいた人間かい?」
「ああ。きっと心配している。私は帰らなきゃいけないんだよ」

 押し付けられている胸元をそっと押し返す。抵抗されるかと思ったが、案外あっさりと彼の体は離れていった。
 ようやっと見えたバフォメットの表情は酷く悲しそうで、思わず呼吸を忘れそうになる。

「行かないでくれと縋れば、君はここに居てくれる?」

 今までの彼とは違う、弱々しい声。
 震える指先が控えめに服を掴むのを見ていると心臓の奥が苦しくなる。
 しか私は、バフォメットの言葉に頷くことはなくただふいと視線を逸らした。

「……わかった」
「え?」

 小さく呟いたと思ったらバフォメットは数歩下がって、キッチンの出口を指差す。

「扉を開けておいた。去りたいと言うなら、好きにすると良い」

 どういう風の吹き回しだ。そう思うと同時に、少しだけ傷ついている自分に驚き、感情を振り払うようにして首を振る。

「どういうつもりだ? 私のことは逃さないんじゃなかったのか」
「君が僕と居ることを望んでくれないのなら、ここに縛っていても意味がないから。言っただろう? 僕は君の心も手に入れたいと」

 諦めてくれたというのとはまた少し違うような気もするけれど、帰してもらえるのなら万々歳だ。――そのはず、なんだ。
 なのにどうして自分は、こんなにも名残惜しさを感じているのだろう?

「本当に、いいのか」
「……ここにずっと居る気がないのなら早く帰ってくれ。じゃないと僕はもう、二度と君を離したくなくなってしまう」

 ふいとそっぽを向いたバフォメットを見て、サルビアは暫くその場に留まっていたがやがてくるりと踵を返してキッチンを飛び出していった。
 バフォメットはぎゅうと手を握り、入口の扉が閉まる音を聞きながらその場に立ち尽くす。
 ……城の中に静寂がじわりと広がった。

「サルビア」

 一人残された彼は愛おしいその名を口にする。そして――。

「くく……ふははっ! あははははっ!」

 笑った。邪悪に、狡猾に、そして高らかに。
 すっかり黒焦げになったパンケーキを素手で鷲掴みにし、鋭い牙で噛み砕いて、バフォメットは口角を上げる。

「ああ、本当に可愛い、僕のルビィ。急に突き放されて一体何を思ったんだろう? 傷ついた? 寂しいと思った? 気になりすぎて狂ってしまいそうだ。まさかあんな顔をするだなんて。襲ってしまいたい衝動を抑えるのが大変だったよ」

 魔王は、くつくつと喉の奥で笑う。
 手のひらの上で踊る人間にどす黒い欲を滲ませながら。

「ふふ。君が僕のものになる日が本当に待ち遠しい。さあ、早く僕の元へ戻っておいで。――どうせもうその国に、君の居場所はないのだから」


 ◆ ◇ ◆ ◇


 古城は切り立った崖の端にある。
 その崖はプレリド王国の北西にある深く広い森を抜けた先に位置しており、古城から国へ帰るには国境の外――魔物だらけの森の中を駆け抜ける必要があった。
 贄となった人が古城へ向かう際は護衛と共に馬車に乗り、襲い来る魔物を倒しながら数日かけて古城に向かった末に贄だけを古城の中に残して戻ってくるというのが通常のプロセスになる。古城まで送り届ける理由は至ってシンプルで、古城に辿り着く前に魔物に襲われるという事態を防ぐため。
 つまりこの森と山脈はそれだけ危険ということだ。
 そのため、あの古城を飛び出して森へ足を踏み入れる時はかなり覚悟を決めたのだけれど。

「……着いちゃった」

 国境を踏み越え、呆然と立ち尽くす。
 勿論単純に森が広いこともありそれなりに時間はかかったが、護衛が何人も必要になるくらい危険な区域であるにも関わらず一度も魔物と遭遇すること無く抜けてしまった。
 無事に帰ってこれたことを喜ぶべきなのだろうけれど、あまりにも不自然すぎて不安の方が上回ってしまう。

「どうなってるんだ?」

 とはいえそれを考えたところでわかるはずもない。兎に角今は取り急ぎ国王に任務完了の旨を伝えなければ。
 国境を抜け、無事国内に帰り着いた私は王宮へと向かうため城下町を足早に進む。その時、曲がり角の向こうから誰かの足音が聞こえた。
 今はちょうど朝日が昇り始めたばかりだ。こんな朝方から動き出しているなんて新聞屋か漁師ぐらいだろうと思ったが、どうやら違うらしい。
 犯罪者やテロリストだった場合を考えて警戒しつつ、耳を澄ませる。その数秒後その足音が随分聞き慣れたものであることに気がついた瞬間、私は思わず角から飛び出した。

「師匠!」

 突然目の前に飛び出してきた人影に驚いたらしい彼――師匠は数歩後ずさる。だがすぐに私の顔を見て、くしゃりと表情を歪ませた。

「サルビア……! お前、今までどこに……っ!」

 彼は潤んだ目元をぐしぐしと拭って、少し迷った末におずおずと私の手を取った。ほんの数日会っていなかっただけなのに随分久しぶりの再会に思える。
 それほどあの古城で過ごした時間が濃密だったのだろう。

「実は――っ」

 魔王が再来した、と言いかけて言葉に詰まった。
 もし今報告をしてしまったらきっと国は打倒魔王を掲げて剣を取るだろう。
 自分で言うのも何だが、この国で一番に強いのは誰かと問われたら迷いなく自分であると言えるぐらいの自負はある。周囲もきっとそう思っているだろう。だからこそ王族の人々は重要な極秘任務を任せてくれているのだ。
 そんな自分が絶対に勝てるはずがないと悟った相手を、果たして本当に討ち取れるのだろうか。
 私は――あいつに、剣を向けられるだろうか。

「サルビア? どうした?」
「師匠。少しお話が。……できれば、二人きりになれる場所で」

 囁くと彼は深刻な状況であることを察してくれたのか真剣な表情を浮かべて小さく頷く。

「わかった」

 そのまま私達はメインの通りを離れ、とある場所へと向かった。
 人気のない路地裏に体を滑り込ませたところで前を歩いていた師匠がくるりと振り向く。

「この辺でいいか」

 ここは、かつて私が幼少期を過ごしたスラム街だ。
 左目と大切な友人を失うことになったあの日、魔族に襲われたせいでここにいた子供たちは一人残らず殺されるか逃げるかで居なくなってしまい、今となっては誰も寄り付かないゴーストタウンになっている。
 城下町の端っこにあり魔族の領域に近いということもあって一般人はおろか軍の人間すら近寄りたがらない。内緒話をするにはもってこいの場所だ。
 ……少々複雑な気分ではあるが。

「それで話ってのは?」

 師の隣に並んで壁に背を預ける。
 かつて、名も知らぬ親友とそうしたように。

「ここ数日、私が姿を消していた理由ですが――実は魔族に拐かされ、監禁されていたんです」
「なんだと?!」

 師匠は大きく声を上げて、こちらをじいと見た。

「だ、大丈夫だったのか?! なにか変なことをされたりとか……!」

 驚かれるだろうとは予想していたが、まさかここまで狼狽えるとは思っていなかった私は師の様子に思わず目をまん丸くする。彼はというとあたふたしながら、私の体に傷が増えていないかを確認していた。

「師匠、落ち着いてください。あなたが心配するようなことは何もされていませんよ」

 まあ、何もされていないと言えば嘘になるのかもしれないけれど……痛みを伴うようなことは何もされていないし。

「そ、それならいいけどよ」
「問題なのは私を監禁していた魔物の存在です。やつはバフォメットと名乗りました。私達人間がそう呼んでいるのだろう、と言って」

 あたふたとしていた彼はその名を聞いてぴしりと固まった。
 当たり前だろう。その名は、この国では口にするのすらタブーとされるほどに恐れられているのだから。

「つまり魔王が再来した、ってことか?」

 恐る恐る師匠が絞り出したその問いにゆっくりと頷く。

「やつは、人間ではとても敵いません。あまりにも凶悪で強大で。……あいつを敵に回すのは命がいくらあっても足りない」
「お前でも敵わないのか?」
「ええ。仮に私と同じ戦力の人間が千人居たとしても、ものの数秒で消し飛ばされるでしょう」

 身近に感じすぎたせいで忘れていたが、あの存在は自分たち人間にとってあまりにも脅威だ。そもそも、人間を滅ぼしかけた厄災を”遊んでいただけ”なんて表現するようなやつに一体どう対抗するというのか。

「この事実はまだ私と師匠しか知りません。国を混乱させてしまうのは避けたいですから」
「そうだな。……サルビア、本当に何もされていないのか? 直接遭遇したことがあるわけじゃねぇが、魔王っつー存在は酷く狡猾で残忍だと聞く。俺を心配させまいと傷を隠したりしていないだろうな」

 ずい、と彼が近寄ってきた。

「で、ですから、何もされていませんって。監禁されていただけです」
「本当か? 本当にそれだけか?」
「本当ですって。ほら、どこも傷はありませんよ」

 まさか連日豪華な飯を食わされ風呂に入れられ――挙げ句時折セクハラを受けつつ、自分のものになれと口説かれていただなんて口が裂けても言えるはずがない。
 心配性の彼がそんなことを知ったらきっと泡を吹きながら倒れてしまうだろうから。

「そうか……」

 渋々ながらも納得した様子の師匠を見て、ほっと息を吐く。

「それにしても魔王の再来か。俺の予想では、今無闇に進軍したところで全滅するのが落ちだ。後先考えず進軍して、うっかり逆鱗に触れでもしたらかなわねぇ。今度こそこの世界から人間がいなくなっちまう」
「ええ。私もそう思います」

 ふむ、と腕を組み、考え込んだ彼。

「とりあえず皆への報告はもう少し様子を見よう。明日、俺が様子を見に行ってみるよ。お前の話を聞いた感じだと、毎年贄を捧げているあの古城にやつはいるんだろ?」
「そんな。危険です……!」

 私は師匠の腕を掴み、首を振った。
 自分が殺されずに戻ってこられたのは殆ど奇跡のようなものだ。そんな奇跡が二度続くわけがない。

「師匠、あいつは私達が恐れていたよりもずっと強い。それに我々には到底理解できない不思議な術を駆使するんです。近付かれたことにすら気付かないまま死ぬ可能性だって十分にある。それほどまでにやつは強いんです」
「……そう、か。お前がそこまで言うんなら、やめとくよ」

 だから安心しろ、と笑ってくれた彼を見て私はほっと息を吐き、掴んでいた手を離した。

「魔王についてどうするかはまた考えるとするか。とりあえず今日は疲れているだろう? 帰って休もうぜ」
「――あっ」

 私は思わずそう声を上げた。
 国王に任務の報告をしなければいけないのを忘れそうになっていたから。

「どうした? なにか用事でもあるのか?」
「ええ。実は国王様にお話がありまして」

 すると師匠はぴくりと眉を動かして顔をしかめた。
 しかしすぐにいつもの表情に戻る。

「そうか。じゃあ、俺は先に家に戻ってるからな」
「……? わかりました」

 師が一瞬表情を曇らせたことに違和感を感じつつも、彼はそれ以上何も言うことはなかった。


 ◆ ◇ ◆ ◇


 師と別れてから数十分後。
 数日ぶりに訪れた王宮の廊下はいやにひんやりしているような気がして、思わず二の腕を擦った。以前は何も気にならなかったはずなのに今はこの空間にいるだけで言いようのない不安がずっと首筋を撫で続けている。
 その時、脳裏にあいつの顔が浮かび、ほんの少しだけ指先が冷たくなった。
 名を愛おしそうに呼んでくれたあいつの温度が恋しい、だなんて。
 ……何を馬鹿なこと考えてんだ、私は。
 ふるふると首を振って考えを振り払ったところで案内役をしていた兵士がぴたりと足を止めた。
 謁見の間へと続く扉がゆっくりと開いて、玉座に座している国王と目が合う。

「サルビア、無事であったか。数日戻らなかったので心配していたのだぞ」

 まさかこんな朝早い時間に対応してくれるとは思っていなかったが、それだけ彼らを待たせてしまったということだろう。
 玉座の前まで歩み出た私は罪悪感を感じながら国王に頭を垂れた。

「国王様、戻るのが遅くなり申し訳ありません」
「良い、良い。それで任務はどうだったのだ」
「任務は滞りなく遂行しました」

 そう告げると国王は満足げに頷く。

「そうか。それはよかった。ところでこの数日、一体なにをしていたのだ?」
「……実は帰り道、魔物の巣窟を見つけまして。このまま放っておいては国の脅威になると判断し掃討を行っていたのです」
「ふむ、そうだったのか」

 ふいと国王の顔を盗み見るとにこにこと機嫌よく微笑んでいて、なんとか誤魔化せたことにほっと息を吐いた。

「ご苦労だった、サルビア。下がってよいぞ」
「はい」

 頭を下げ、謁見の間を後にする。
 誰もいない廊下で小さく息を吐き、ようやっと家に帰ろうと歩き出したところで、向こう側から人影が歩いてくるのを見つけた。
 あれは――国王の長男であり、この国の第一王子、デイヴィス殿下だ。

「やあ、サルビア。帰っていたのか」
「殿下」

 にこりと微笑む彼に頭を下げる。

「しばらく姿を見なかったけれど、もしかして何か問題でも起こったのかい?」
「いえ、そのようなことは」

 ふるふると首を振った私は、国王に伝えたのと同じ言い訳をした。

「魔物の巣か。確かに放っておくのは心配だね。それにしてもサルビアは勤勉だな。いつも助かっているよ、ありがとう」
「そんな。お礼など無用です。私はこの国のため命を賭けると誓っているのですから、これぐらい当然のことです」

 ふと彼の顔を見る。殿下の華やかで整った甘いマスクには柔い笑みが浮かんでいた。

「そうか。じゃあ、帰ってきたばかりで申し訳ないんだけれどもうひと働きして欲しいんだ」
「かしこまりました。今回はどのような?」

 そう尋ねると彼は胸元から羊皮紙を取り出してこちらに差し出す。
 受け取って眺めると、そこに並んでいるのはターゲットらしき人物の名前や住所などの情報。いつも通り、それを頭に叩き込んでいた私は、とある行を見てぴたりと固まる。

「……殿下、これはどういうことですか」
「おや。なにか気になることでもあったかな?」
 
 首を傾げる殿下に、私は羊皮紙を突きつけた。

「今回のターゲット――まだ齢二桁にもなっていない子供ですよね……?」

 おそるおそる問いかける。
 今までの標的は少なくとも全員悪事を働いている大人だった。
 そもそも彼らからの依頼は国が脅威と判断した者を始末するというものなはず。こんなに幼い子供を殺す必要はどこにあるのだろう。

「ああ。それがどうかしたか?」
「っ!」

 平然とそう聞き返す殿下。人を人と思っていないとでも言いたげなその様子に思わず息を呑んだ。
 笑顔のままなのに視線が冷たい。
 先程までは柔らかいと思っていたその表情が今では酷く無機質で機械的なものに見える。

「なぜ、この子を消す必要が?」
「その子供はつい先日、国家転覆を図った罪で断罪されたとある貴族の息子だ。同じ思想にならないとも限らないだろう? 火種は先に消し去っておかないと」
「そんな……っ!」

 思わず突っかかりそうになるが、なんとか抑える。
 小さく息を吐いて、できるだけ冷静に首を横に振った。

「私は子供は殺しません。何があっても。……火種にすらなっていないのに、消し去る必要性はないじゃないですか。行動に移すのは火種になってからでも遅くないでしょう」

 すると殿下は私の手から羊皮紙をそっと受け取って、ふぅん、と呟いた。

「僕の命令が聞けないというなら、君は国家にとっての裏切り者だ。その覚悟はできているんだろうね」

 その言葉に心臓が凍りそうになる。
 どうしてこの人は、小さな子供をこんなにも目の敵にしているんだろう。

「ちがっ……私はただ、」
「ああ、残念だよ。まさかサルビアがこんなにも愛国心がない人間だったなんて。そんな人間を育ててくれたお師匠様に、しっかりと責任を取ってもらわないとね」

 ――こいつ……!
 選択肢を取り上げるような言い方に私はぎり、と奥歯を噛む。
 一方、殿下は羊皮紙を持った手をひらひらと振った。

「僕はどっちでもいいんだよ。あのガキを消し去る方法なんていくらでもあるし。……でも、君がやってくれれば、君のお師匠さんが謂れのない罪に問われることはないんじゃないかな?」

 殿下は再び羊皮紙をこちらに差し出す。
 こんなこと、やりたくない。でもやらないと師匠の身が危ないかもしれない。
 私が唇を噛みながら震える手でそれを受け取ったのを見て、彼はにたりと笑った。今まで見たこともないほど邪悪で……悪魔のような笑みだった。

「ああ、そうそう。今回の任務もいつも通り他言無用でね。誰にも言っちゃダメだよ。……お師匠様のことが大事だったら、僕の言う事を大人しく聞いてね。可愛いサルビア?」

 要件だけ伝えるとデイヴィス殿下はひらりと手を振って、どこかへ行ってしまった。
 一人残された私はくしゃりと羊皮紙を握りしめる。

「くそ……っ」

<この続きは製品版で!>

【試し読み】君の代わりは何処にも居ない

 こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
 冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。
 ※R18作品のため全年齢部分のみ抜粋しています。

000

「兄さん、僕ね、結婚するんだ」

 ある日、離れて暮らしている弟からそう連絡が来た。

「そうか。良かったじゃないか」
「うん。それでね、兄さん。僕の結婚式、来てくれないかな」

 あいつの幸せそうな声色を聞いていると、今まで俺がやってきたことは間違いじゃなかったんだって、そう思える。
 辛い過去を経験した弟が人並みの幸せを手に入れられたことが心から嬉しくて。
 あいつのせっかくの門出を祝ってやるのが兄としての正しい姿勢なのかもしれない。
 だけどぶっきらぼうで表情が表に出ず、周囲から良く怖がられてしまう俺がそんな輝かしい場所に足を踏み入れるのはあまり好ましくないだろう。
 だから俺は、弟が努力の末にやっとこさ掴んだ幸せを邪魔してしまうことを恐れ、あいつと距離を置くことを選んだ。

「いや、やめておく。俺のようなやつが行っても迷惑をかけるだけだろうから」
「そ、そんなこと……」
「それに仕事が立て込んでるんだ。悪いな。代わりに写真だけでも送ってくれ」
「……わかったよ。絶対、絶対に送るからね!」
「ああ。ごめんな」
「? どうして兄さんが謝るの?」
「いや……なんとなくだ。気にするな。じゃあな、優。幸せになれよ」
 
 通話が切れたのを確認した俺は、自分一人しかいない四畳一間の空間に寝転がる。
 布団しか無い殺風景な空間に自分の息遣いだけが吸い込まれていった。

「いいんだ。これで」

 あいつの晴れ姿を見られないのは残念だが、仕方ない。
 とりあえずあいつから写真が送られてくるのを楽しみにしながら俺はゆっくり起き上がり職場へと向かった。
 まさかこれがあいつとの最期の会話になるだなんて、微塵も考えることなく俺は――一人きりの日常に、戻ったのだ。



001

 獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
 小学校の歴史の授業では、人間の祖先は「猿人」、獣人の祖先は「犬」という生き物だったのだと世間一般では教えられているらしいが、生憎と俺は小学校というものに通ったことがない。
 俺と双子の弟は、とある紛争地域に生まれた。
 両親は俺たちに物心がついた頃、銃弾の雨に倒れ、俺たちはずっと二人で生きていた。
 俺たちには身寄りも力もなかったが、ボロボロになりながらも必死で激動の中を生き抜くことになる。
 そして15になった頃、焼け野原になった母国から命からがら逃げ出して、この平和な国に辿り着いた。
 あれから二十年。
 路地裏で野垂れ死にそうになったり、泥水を飲んで腹痛に襲われたりしながらもなんとか生き抜いて生活が安定した今。
 俺は学歴職歴不問の日雇いバイトで朝から晩まで働いて、コンビニで安売りされた惣菜パンを食べるといった日々を送っている。
 弟は数年前、好きな人と暮らすと言って二人で住んでいた家を出ていった。
 弟を守るためだけに生きてきた俺は、弟の元に幸せが舞い込んだということが何より嬉しくて、快く送り出したのを覚えている。
 そして去年、弟から結婚の報告を受けて以来、彼からの連絡は途絶えてしまった。
 結婚式への参列は遠慮させてもらったが代わりに写真を送ってもらうという約束をして……それっきり。
 まめな弟が連絡を怠ることがあるだろうかと不思議に思いながらも、きっと幸せな過程を築くので手一杯なのだろうと納得し目の前を過ぎていく毎日をただ消費していた、そんなある日。

「優くんっ!」

 呼ばれ、腕を掴まれる。
 夜勤明けで昼の街を歩いていた俺の腕を掴んで引いたのは、俺より五十センチ近くも背の低い、スーツを着た人間の男だった。
 ……見たところ、50後半くらいか。
 男は暫し腕をつかんだまま俺の顔をじいと見て、そして一気にその表情を曇らせる。

「人違いだが」

 そう言うと男はハッとしたように肩を揺らし、慌てて俺の腕を離した。

「す、すみません! その、知り合いに……似ていたものですから」

 段々と弱々しくなっていくその口調に俺は眉を顰めた。
 このまま立ち去ってもいいが――知り合いに似ていたという言葉が引っかかる。
 カンガール種。
 俺はそういう種族に分類されるのだが、この国では俺と同じ種族の獣人はとても珍しく、少なくとも俺の行動範囲内で自分と同じ種族に遭遇したことはなかった。
 下手をしたら今この国にいるカンガール種は俺と弟だけの可能性すらある。
 そんな俺と誰を勘違いするというんだ。
 ……いや、待て。
 こいつ、先程俺を何と呼んだ?
 とぼとぼと去っていこうとするその男の腕を今度は俺が掴む。

「まさかお前、弟を知っているのか」

 くるりと振り向いた男の目元には薄っすらと涙が浮かんでいた。

「何故泣いている? なにか気に障ったか?」
「い、いえ! そうではないのです」

 男はぐいぐいと服の袖で目元を拭うと、改めて俺の顔をじいと見る。
 そして暫し沈黙の後、近くにあったカフェを指さした。

「もしよければ少しお話させて頂けませんか」
「……ああ、わかった」
 
 ゆったりとした足取りで歩き出した男の背を追ってカフェに足を踏み入れるとコーヒーの香ばしい匂いが鼻先をつつく。
 店員に飲み物を注文し、俺たちは空いていたテラス席に向かい合って腰を下ろした。

「とりあえず自己紹介をさせてもらおう。俺は赤坂静」
「申し遅れてすみません。私は星空まとばと申します」
「なんだそれ、名前なのか?」
「はは。まあ、一応。珍しい名前だと昔から言われてきました」

 給仕が席に近付いてきて、コーヒーを二つテーブルに置く。
 黒い水面に自分の顔が反射した。

「早速だが本題に入るぞ。お前が俺と間違えたのは、カンガール種の赤坂優という男で間違いないか?」

 男もとい、星空がゆっくりと頷く。

「なら、人違いにも納得だ。……優は俺の双子の弟なのだから」
「そうでしたか。あなたが、優くんの」

 俺と弟――優は見た目だけならば見分けがつかないほどに似ている。
 性格は真逆と言っても過言ではないほどだが。

「双子の兄がいるということは優くん本人から聞いていました。まさか街で偶然お会いできるとは」

 そういい、薄く微笑む男は震える手でコーヒーカップを手に取り、口に運ぶ。
 こいつが弟のことを“優くん”と呼んだことを考えるとそれなりに親しい仲であろうことは予想できた。
 が、この男と優の接点がいまいち見えてこない。

「それで、お前は優とどういう関係なんだ」

 単刀直入にそう尋ねると星空はびくりと肩を震わせた。
 その様子を不審に思いつつ返事を待っていると彼はゆっくりと口を開く。

「優くんとは……義理の親子になるはずでした」
「義理の親子?」

 言葉の真意がうまく呑み込めず首を傾げると男は小さく笑った。

「つまりですね、私の息子と婚約していたんです。優くんは」

 その言葉でやっと状況を飲み込むことが出来た。
 そうか。
 去年、優は結婚すると俺に報告してくれた。
 この星空という男はその結婚相手の父親なのだろう。
 ということはつまり、俺はこの男と一応親族に当たるということだな。

「そうか。合点がいったよ。いつも優が世話になっているな」

 まさか毎日大量の人間と獣人が行き交う往来でそんな人物と遭遇するなんてほぼ奇跡に近いだろう。
 よくこうして出会えたものだ。
 なんだか感動すら覚えてしまった俺は星空に頭を下げた。

「えっと……はい……」

 が、煮え切らない態度の彼に違和感を覚える。
 この男の正体に納得したところまではいい。
 先程から、星空の話し方にどこか引っかかるものがあった。
 遠くを懐かしむような、過去を想うような……そんな言い方と視線に胸の奥がざわつく。
 この言いようもない不安感を拭うべく俺は率直に、彼に問うた。

「それで、優は元気にしているか」

 途端、星空が固まる。
 まるで凍ってしまったかのように。

「……どうした」

 嫌な予感がして思わず答えを急かす。
 まさか、と嫌な予感が頭を擡げるがすぐに首を振ってそんな考えを振り払った。
 優はきっと結婚相手と幸せな日常を送っているはずだ。
 連絡が途絶えたのだって結婚相手と日々を過ごすのが精一杯ってだけだ。
 そうだろう?

「優、くんは」

 男が言い淀むその様子に喉の奥が焼けそうになる。
 なぜこの男は縋るように弟の名を呼びながら俺の腕を掴んだのか。
 なぜ俺の顔を見てこんなに泣きそうになっているのか。
 なぜまめな性格の弟と一切連絡が取れないのか。
 疑問が、繋がっていく。

「数ヶ月前……病で、亡くなりました……」

 男の言葉が肩に重くのしかかった。
 死んだ?
 優が?
 そんなわけがない。

「笑えない冗談だ」

 最後の抵抗とばかりに星空を睨みつけるが、彼は悔しそうに唇を噛んで俯くだけ。
 その様子は嘘を吐いているとは到底思えない。
 ……まさか、本当に?
 共に激動の中を生き、やっと幸せを手に入れた大事な俺の半身は、俺の与り知らぬところで息絶えたというのか。

「心臓の病でした。ドナーが見つからなくて……」

 その男の言葉を聞いた瞬間、俺は思わずテーブルを叩きながら立ち上がった。
 視界の端でカップが音を立てて倒れる。
 木目のテーブルにコーヒーが広がっていった。

「なぜ」

 思わず星空の胸ぐらを掴んでしまいそうなり、それはなんとか抑える。
 しかし声に乗る怒りだけは抑えられそうにない。

「なぜ俺にすぐ連絡しなかった?! 一つでも連絡をくれていたら、そうしたら俺は……っ!」

 彼に当たったところでどうしようもないということはわかっていた。
 だが、それでも。
 俺の存在を知っていたのなら一報くれたって良かったじゃないか。

「……迷いなく心臓を差し出していた。そうですよね?」

 静かに零れ落ちた男の言葉に固まる。
 それは、まさに俺が次に紡ごうと思っていた本心そのものだった。

「優くんから止められていたんです。きっとあなたはそうするだろうから絶対に連絡するなと」
「そ、んな」

 全身から力が抜けていく。
 どうして。
 結婚を目前に控えた幸せなあいつと誰もいないボロアパートと職場を往復しているだけの俺……どちらが生き残るべきかというのは一目瞭然だというのに。

「もうあなたに何も失わせたくないと、そう言っていました。……右足……義足、なのですよね」

 星空はその言葉と同時に俺の右足を見る。
 ぎしり、と足の付け根が痛んだ。

「自分を庇ったせいであなたは右足を失ったのだと、彼は悔やんでいた」
「違う! 俺が足を失ったのは、あいつのせいではない……!」

 この右足は、あいつを守り切ることができた、名誉の傷なんだ。
 だからあいつが気に病む必要はない。
 ……だが。
 思えば俺はそれを弟本人に伝えたことはなかった。
 あいつはずっと、悔やんでいたのか。
 悔やんだが故に俺に連絡しなかったのか。
 もっとあいつと多くの言葉を交わしていれば、もしかしたら結果は違ったのかもしれない。
 そう思うと口下手な自分自身がとても憎らしくて仕方がなかった。

「……声を荒げてすまなかった」
「いえ。仕方のないことかと」

 弱々しく笑う彼に釣られて、なんとなく少しだけ口元を緩める。
 溢れてしまったコーヒーを近くに備えてあったナプキンで拭きながら、ふいと気になったことを口にした。

「なあ、アンタは優の死に目に会えたか?」
「え? ええ。立ち合いました。もちろん、息子本人も」
「そうか」

 少なくとも弟が愛する人に看取られながら逝けたことに安堵しつつ、不思議そうな顔をしている星空に視線をやる。

「あいつはどんな顔をして死んだ?」
「え……」
「笑いながら、死んだか?」

 せめて。
 せめて最期を笑顔で飾れていますように。
 祈るような気持ちで男の二の句を待った。

「泣いて、おられました。最期に、あなたと一目会いたかったと。こんな死に方でなければあなたと会えたのにと」

 悔しそうな唇から溢れるその言葉に、俺は最後の希望すら打ち砕かれたような気がしてへなへなと椅子に座る。

「……そう、か」
「ですが笑ってもいられました。幸せな時間だった、と」

 ……何故。
 何故あいつが死ななければいけない?
 やっと幸せを手に入れたあいつが、どうしてこんなところで人生を終えなければいけない?
 そう叫び、泣きじゃくりたい気持ちを抑えながら、両手を握りしめ、星空に向き直った。

「なあ、頼みがあるんだが」

 そういうと彼は今にも泣き出しそうな顔のまま首を傾げた。

「もし優の墓の場所を知っているのなら、教えてくれないか。あいつの最期の望み通り……会いに行ってやりたいんだ。話したいことが山ほどあるから」
「……ええ。きっと、優くんもあなたに会いたがっていると思います」

 星空はふにゃりと笑って小さく頷く。
 かと思ったらコーヒーを飲み干して勢いよく立ち上がった。

「善は急げと言いますし、もしお時間があればこの後ご案内しますが」

 それに倣って俺も立ち上がり、深く頷く。

「では車を回してきますね。少しここで待っていてください」

 そう言って少し駆け足でどこかへ向かう彼を見送りながら、俺はこっそりと両手をきつく握りしめた。


002


 これは、弟と共に地獄を生き抜いた記憶の一部だ。

「兄さんッ‼」

 弟の、悲鳴にも似た叫び声が聞こえる。
 視界の遥か遠くで粉塵が舞い、弟の身体は俺に突き飛ばされて少し遠くへ転がっていった。
 途端、耳元で聞こえる爆音。
 一瞬世界から音が消えて……意識が戻ってきた次の瞬間、右足の太ももから先が血飛沫と共に消し飛んでいることに気がつく。
 地雷によって右の腿から下を失った――そう自覚した途端、想像を絶するほどの痛みが背筋から脳天まで駆け上がってきて思わず悲鳴を上げそうになった。
 しかし弟が涙目で駆け寄ってくるのが見えた俺は唇を噛んで、せり上がってくる痛みを必死に胃の奥へと送り返す。

「兄さんっ、兄さんの……あし、足がぁ……ッ!」

 ぼろぼろと大粒の涙を零しながら慌てふためく弟。
 俺は苦痛を悟られないよう低く唸りながら、力強く弟の首根っこを掴んで上を向かせた。
 空は、皮肉なほどに晴天だ。

「泣いている時間はない。足の一本がなんだというんだ。生きてさえいればどうとでもなる。……そうだろう?」

 正直不安はある。
 左足一本でこんな紛争地帯を生き延びられるのか。
 だが……死にたくないのなら、生きるしかない。
 痛みに泣いたって、不自由に嘆いたって、一度失くしたものは二度と帰ってこないのだから。

「ユウ。お前が俺の右足になってくれ」

 優が涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、何かを決意したような表情を浮かべたところで、ぼんやりとしていた意識が戻ってくる。
 ……どうやら、少しうたた寝をしてしまったようだ。
 まさか今更になって右足を失った時のことを夢に見るとは。

「そういえばお二人はこの国の生まれではないのですよね?」

 声を掛けられてふいと顔を上げる。
 運転席でハンドルを握っている星空とバックミラー越しに目が合い、俺はゆっくりと頷いた。

「その割には親しみやすいお名前のような気がしますね。なんというか、国外の方らしくないというか。優くんも名前を書くときは漢字で書いていましたし」
「……この国に来て間もない頃、優が名前に漢字を宛てたんだ。この国で違和感なく暮らしていけるようにと」

 そういうと星空は、なるほど、と瞬きをする。

「ところで、どこへ向かっているんだ? 随分と郊外まで来たようだが……こんなところに本当に弟の墓があるのか?」

 優の元へ案内してくれるという彼の車に揺られて、そろそろ二時間ほどが経過する。
 気がつけば窓の外は無骨なビル街から人の気配がしない森の中を映し出しており、人気の無さに少し肌寒さを感じた。

「ええ。実は、優くんの墓石は本人の希望で、我が家の敷地内にあるんです」

 そう言うと彼は、見えてきましたよ、と前方を指差す。
 示されるまま少し身を乗り出して確認すると、深い森の奥に、確かに建物の屋根のようなものがちょこんと頭を出していた。
 随分辺境の地に家を構えたものだ。
 こんなところにあって不便ではないのだろうか?
 そう思いながら更に車に揺られること更に数十分。
 屋根しか見えていなかった建物がその全容を曝け出した途端、俺は思わず息を呑む。
 この場所だけ時が止まってしまったような……幾年も前の西洋を思わせるようなレンガ造りの巨大な洋館が、森を抜けた丘の上にぽつんとそびえ立っていた。
 ミステリーものやホラー映画の舞台になっていても何ら不思議はないその建物の近くにゆっくりと車は停車する。

「到着しましたよ」

 にっこりと微笑みながら、星空が車を降りていくのを俺はどこか緊張しながら追いかけた。
 改めて目の前にすると……なんというか。
 いや、俺の貧相な語彙ではこの壮観な景色を言語化できそうもない。
 まるでタイムスリップでもしてしまったようだ。
 そういえば昔、優がそんな感じの本を読んでいたっけ、なんてぼんやり考えながら星空の後ろをひたすらついて歩く。

「墓石は裏庭にあります。こちらへどうぞ」

 そう言って彼は綺麗に手入れされた屋敷の脇道に入り、奥へと進んでいった。
 空は晴れ渡り、心地よい風に木々の踊る音がして……そのどれもが今は憎らしくて、思わず俯く。

「こちらです」

 そう言われてはっと顔をあげると、目の前には、色とりどりの花に囲まれた小さな墓石が二つ並んでちょこんと建っていた。
 恐る恐る近づき、花を少しだけ避けて……墓石に刻まれた名を見る。
 片方は知らない名だったが、もう一つの墓石には確かに弟の名と――墓碑銘が刻まれていた。

「この墓碑銘は、誰が?」

 振り向かないままそう尋ねる。

「御本人の希望です」
「……そうか」

 墓石に刻まれた墓碑銘は、“In Loving Memory”――”愛すべき思い出と共に”。
 よくある墓碑銘だが……弟が、記憶のすべてを愛おしいと思ってくれていることが、何より嬉しかった。

「優。お前の最期の望みを、叶えに来たぞ」

 もう一度、ひんやりと冷たい墓石を撫でる。
 あいつに俺の言葉は届いているだろうか?
 すぐそこで、俺の話を聞いてくれているだろうか?

「俺たちは生きるのに必死で、今日まで互いの内心を明かすことは殆どなかったな」

 この国に渡ってからも、ゆっくり話をする時間なんて無いに等しかった。
 その日あったことを報告して、互いの存在を確かめるように手を握りあって寝るのが精一杯のふれあいだった。

「本当に色々あったな。死ぬ思いをして母国から逃げてきて……こっちに渡ってきてからも死にものぐるいで言語を学んで、必死に働いて。お前は特に勉強を頑張っていたな。俺の人生はあまり褒められたもんじゃないが、俺の稼ぎでお前を大学まで行かせてやれたことは今でも誇りに思っているよ」

 生きているうちにこうして色々話していれば、結末は違っただろうか。
 死に際、あいつは俺に連絡をくれていただろうか。

「きっとお前もわかっていただろうが……俺は、本当に心の底から、お前のことを愛している」

 ……いや、あいつのことだ。
 きっと黙っていただろうな。
 昔からそういうやつだったから。
 
「俺たちはきっと来世でも兄弟で生まれられるだろう。少なくとも俺はそう信じている。次の世では俺はできるだけお前と話をすることにするよ。たくさん、飽きるほど色んな話をしたいと思っている。……だから少しの間、待っていてくれ」

 長生きしたとしてもあと百年生きられるかどうかだ。
 昼寝でもして待っていればすぐだろう?
 なあ、優。

「次死にそうになったら、ちゃんと俺に連絡をくれよ」

 目頭が熱い。
 だが、飲み込んだ。
 あいつが憧れてくれていた、格好いい兄でいるために。

「おやすみ、優。また次の世で」

 柔らかい風が吹く。
 墓に添えられていた花の弁がふわりと舞って、どこかへ飛んでいった。
 なんとなく、もうここにあいつはいないと悟った俺はそっと立ち上がり、後ろに居た星空へと向き直る。

「……星空、恩に着る。お前と出会えなかったら俺は弟に別れの言葉すら言えずに今生を終えるところだった」

 頭を下げ――上げたところでぎょっとした。
 星空は、まるで俺の代わりに泣いているとでも言うように顔面をぐちゃぐちゃにして号泣していたのだ。

「そんな……こちらこそ、来てくださってぇ……ありがとうございますぅう……!」
「お、おい。いい年をした男がそんなおいおい泣くんじゃない。まったく、しょうがないな」

 弟のために泣いてくれる人物が俺以外にもいるという事実にほっと息を吐きながら、星空の背を撫でる。
 ……きっと優はこの場所で家族として大切にしてもらえていたんだろう。
 それが知れただけでも星空と街で出会うことが出来てよかったと思える。

「じゃあ、俺はこの辺で――」
「お父様?」

 そろそろお暇しようとしたら突然、星空のでも俺のでも、ましてや優のでもない声が聞こえてきて言葉を飲んだ。
 さくさくと芝生を踏みしめる音がしてふいと視線をずらすと、杖をついた青年がこちらにゆっくりと近づいてくるのがみえる。
 何色にでも染まりそうなホワイトブロンドの長髪を肩の辺りで一纏めにし、目元を黒いレースの布で覆った彼は足元を確かめるように数歩先を杖で叩きながらこちらへと歩を進めた。
 神や天使の類に対する信仰心などとっくの昔に捨て去ってしまったが、仮に彼が目の前で純白の翼を生やし飛び立っていったとしても驚かない……そう思えるほど、繊細な空気を全身に纏った青年が、そこにはいた。

「お父様、そこにいらっしゃるのですか?」

 その問いかけに、星空はハッとしたように顔を上げてぐちゃぐちゃの顔を拭い、青年に駆け寄る。

「聖。起きていたのか」

 青年は頷きながら星空の肩に手を置くと、持っていた杖を小脇に抱えた。

「ええ。それより……お客様ですか? 知らぬお声が聞こえてきましたが」
「そうだ、お前にも紹介しよう」

 星空はそう言い、青年を連れてこちらへと近付いてくる。
 歩くたびに揺れるブロンドヘアが陽の光を反射してきらきらと輝いていた。

「静さん。この子は私の倅で、聖といいます。今年二十歳になりました」

 星空の倅ということは、彼が優の婚約者だという子か。
 思ったより若いな。

「聖。この方は、優くんの双子のお兄さん、静さんだ。街で偶然会うことができてね。お連れしたんだ」

 星空の言葉に聖と呼ばれた青年はぴくりと肩を揺らす。
 数秒の沈黙の後、彼は優雅に、まるで淑女のようにお辞儀をした。
 黒い目隠しと長い前髪のせいで感情はあまり読み取れない。

「そうでしたか。遠路はるばるようこそおいでくださいました」
「あ、ああ。こちらこそ突然お呼ばれしてしまってすまない」

 彼につられて、そっと頭を下げる。

「あなたのことは優さんからよく聞いていました。とても自慢の、格好良くて逞しい素敵な兄だと」
「……そうか」

 あいつがそんな話を。

「聖、と言ったか。……弟のことを愛してくれてありがとう。きっとあいつは幸せだったと思う。弟から結婚の話を聞いた時、もしその相手と会うことが出来たら伝えようとずっと思っていたんだ。こうして伝えられて良かった」
「僕の方こそ、彼から色々なことを教えてもらいました。お礼を言うのはこちらの方です」

 ふわりと口元に笑みを浮かべる彼。

「ところで静さん。今日はこの後、どうされるんですか?」
「どう……というと?」
「いえ、その……せっかくいらしたのでぜひお話をしたいなと。彼と長く過ごしてきたあなたはきっと、僕の知らない優さんを知っている。逆にあなたが知らない彼の一面もあるでしょう。そういったことをお話できればなと思ったんですが。こうして出会えたのもなにかの縁ですし、もしよければ一晩泊まっていきませんか?」

 そう言いながら、聖はぴっ、と空を指差す。

「どうやら嵐も近づいているようですし」

 彼に倣って空を見上げると確かに少し遠くに黒くて分厚い雲がぷかぷかと浮かんでいた。
 あの感じだと数時間も経たないうちに一雨来るだろう。
 ここまで送ってもらった上、一晩世話になるのはなんだか申し訳ない気もしたが……確かに優がここでどう過ごしていたのかを知りたいという感情もある。
 ありがたい申し出には違いない。

「ああ、それはいい。静さん、ぜひ泊まっていってください」

 近くで話を聞いていた星空がこくこくと何度も頷く。
 ここまで言われてしまっては断るほうが失礼にあたるだろう。
 そう判断した俺は静かに首を縦に振った。

「そうか。じゃあ、一晩だけ世話になる」

 すると星空も聖も顔をぱあと輝かせ、どうぞ、と言いながら俺の背を押す。
 半ば強引に屋敷の玄関へと案内されながら、似たもの親子だな……なんて思い、少し笑ってしまった。

「おかえりなさいませ、旦那様」

 招かれるまま屋敷に足を踏み入れた途端、ずらりと一列に整列した使用人と思しき者たちが一斉に頭を下げる。
 ざっと見た感じ、二十人はいるだろうか。
 こんな大勢に囲まれて頭を下げられる体験など初めてで思わず言葉を失っていると星空が一歩前に出た。

「皆、今日は大事なお客様がいらしている。最大限のおもてなしを頼むよ」
「かしこまりました、旦那様」

 声を揃えて返事をし、優雅な立ち居振る舞いでぱたぱたと捌けていく使用人たち。
 ここは本当に現代なのかと疑いたくなるほど、あまりにも見慣れない異質な光景だった。
 俺を招き入れた二人が普通にしているところを見るとこの屋敷の中では日常の光景なのだろうが……優もこんなところで生活していたのか。

「静さん、こちらへ。お部屋にご案内します」
「あ、ああ……」

 そう言って先を歩く聖の後をついていく。
 星空はというと仕事があるとかでどこかへ言ってしまった。
 まるで異国の王宮のような立派な装飾が施された静かな廊下に二人分の足音が響く。
 ときおり見かける、花瓶と共に飾られている花に気を取られながら歩いていたら、ふいに聖がこちらを見上げて小さく笑った。

「どうした。もしや、なにか作法を間違えていたか?」
「いえ、違うんです。双子でもここまで性格が変わるものなのかと少し面白くって」
「? どういうことだ」
「優さんが初めてうちに来たときのことを思い出していました。あの人はずっとおどおどソワソワしていて。……逆にあなたはどっしりと構えた感じなので、不思議なものだなと」

 確かに、この廊下を居心地悪げに歩くあいつの姿は想像に難くない。
 
「そうそう、この花瓶。実は優さんが初めてうちに来た時、割ってしまったんですよ。うちの使用人が急に後ろから声を掛けたのが悪かったんですけど……そうしたら優さん、真っ青になって、弁償するって聞かなくて。ふふ、あの時は面白かったなぁ」

 肩を震わせながらそういう聖に釣られて、少し笑う。

「この場所にはあいつの生きた証がたくさんあるんだな」
「ええ。ほら、そこにある絵画、額縁に少しだけヒビが入っているでしょう? これは優さんがぶつかってしまって、額縁が落ちた時の傷なんです」

 指された額縁の端の方に視線をやると、確かにヒビが入っていた。
 目を凝らさないと見えない程度の小さな亀裂だ。

「あいつ、人んちのもの壊し過ぎじゃないか?」
「これに関しても原因はうちの使用人が突然優さんを驚かしたからなので、おあいこですね」
「お茶目な使用人が多いんだな……」
「ええ、困ったことに」
「額縁は直してないのか」
「最初は買い替える予定だったんですが、残しておくことにしたんです。大切な思い出ですから」
「……そうか」

 どこか楽しそうな彼から視線をずらしてあいつの爪痕が残った額縁を見上げる。
 額に入れられているのは薄い紫色の、果実のような形をした不思議な花の絵だった。

「なあ、この紫色の花はなんという花なんだ?」
「紫色……?」

 首を傾げた彼を見て、はっとした。
 言われて、はっとした。
 杖をつきながらとはいえ随分しっかり歩くものだから失念していたが、彼は……。

「ええと、紫色で、花の部分が果物のように丸くて、葉が波打つようにぎざぎざしている花の絵だ」

 すると彼は、ああ、と言いながらぽんと手を叩く。

「それでしたらアツモリソウという花ですね。平安時代末期の武将が背負っていた母衣に見立てて付けられた名前なんだそうです」
「ほろ?」
「甲冑の補助武具の一つだとか。風で風船みたいに膨らませて、後に旗印のようなものになったんですって」
「ほう、ものしりだな」
「そんな大層なものではありませんよ。それに僕の知識は大体が優さんからの受け売りです」

 聖は手に持った杖をぎゅうと握りしめながら、そっと額縁に触れる。

「僕には何も見えませんから。誰かに教えてもらわないと、勉強の一つもできない」
「……やはり、見えていないのだな」
「ええ。そういえばご説明していませんでしたね。僕は生まれついての盲目でして。僕にとってはこの真っ暗な世界が生まれた時から当たり前でしたし、父も随分甘やかしてくれますから不自由だと思ったことはなかったんです。でも」

 ひんやりとした額に、彼はそっと頬を寄せた。
 感触を確かめるように。

「優さんと出会ってから僕は初めて目が見えないことを恨みました。願わくば彼と同じ景色を見て、同じ色を感じたかった」

 もう叶うことはありませんが、と小さく笑う聖。
 なんと声をかければいいかわからずぼうっと突っ立っていると、彼はやがてこちらにくるりと振り向いた。

「立ち話ばかりさせてしまってすみません。そろそろ行きましょうか」

 そう言って歩き出した彼の背を追いかけること数分。
 やがて目の前に現れたのは随分立派な装飾がされた大きなドアだった。

「こちらが静さんのお部屋です。自由にお使いくださいね」

 恐る恐るドアを開けて中に入ると、出迎えてくれたのは立派なソファ。
 どっしりと構えたローテーブルに天蓋付きの巨大なベッド、洗面台やトイレまでついていて、この空間だけで暮らしていけそうなほど立派な空間が広がっていた。
 自由に使えと言われても……。
 つい昨日までは布団しか無い四畳一間で寝泊まりしていた自分にとって、この空間で過ごすのはかなり敷居が高いような。

「こんな立派な部屋、使ってしまって良いのか……?」
「ええ。ゲストルームですし」

 ゲストルームの概念がわからなくなりそうだ。
 これだけの規模でゲストルームだなんて言われてしまうと、この家の主人達の部屋は一体どうなってるのか気になって仕方がない。
 回転するベッドでも置いてあるんだろうか。
 ……いや、それはないな。
 なんてアホなことを考えていたその時、ゲストルームのドアが小さくノックされた。
 何かと思い振り向くと、開きっぱなしだったドアの向こうに立っているメイド服を着た獣人の少女と目が合う。
 蝶のような大きな耳を持つ獣人――パピヨン種の少女が優雅に頭を下げた。

「坊っちゃん、静さま。湯浴みの用意ができてございます」
「わかった」

 聖がそう返事をすると彼女は再び頭を下げる。

「彼女はうちのメイドのシャーリィ。僕のお世話係でして、静さんの身の回りのことも彼女にお願いしてあります。何かあれば彼女に声を掛けてくださいね」
「あ、ああ。わかった」
「じゃあ僕はそろそろ勉強の時間なのでこれで。シャーリィ、お願いね」
「はい。坊っちゃん」

 こちらにぺこりと会釈をした聖は、長い廊下の先へと歩いていってしまった。
 その姿を見送っているとシャーリィと呼ばれた少女がこちらに向き直る。

「改めまして、シャーリィと申します。宜しくお願い致します、静さま」
「ああ、よろしく。……しかしなんだ、その“さま”っての、どうにかならんのか?」
「? どうにか、と申しますと?」

 こて、とシャーリィが首を傾げた。
 彼女の大きな耳がひらひらと揺れる。

「客人扱いはどうも慣れなくてな。もっとフランクに接してくれないか?」
「そう申されましても。私はメイドで、静さまは旦那様と坊っちゃんの大事なお客様ですから」
「無理を言ってるのは承知しているが、頼む。むず痒くて仕方がないんだ。敬われるほどの獣人でもないしな。せめて“さま”呼びはやめてくれないか」

 このままずっとこの呼び方をされていたら、いつかむず痒さに耐えきれなくなって暴れてしまいそうだった。
 そう思っての提案だったのだが、シャーリィは少し考え込むようにした後、ふわりと笑う。

「ゆーくんにも同じことを言われました」
「ゆーくん……?」
「ええ。優くん……崩して、ゆーくん。あの人もさま呼びは苦手だと言って、あなたと同じお願いをしてきたんですよ」

 そうか、あいつも……。
 俺と違って優は社交性があるから案外簡単に馴染んだだろうと思ったが、流石にここまでの待遇には慣れることができなかったんだろう。

「俺にもそうしてくれるか?」
「勿論、お望みなら」
「じゃあそれで頼む」
「かしこまりました、せーくん」
「……せ、せーくん……」
「静さまなので。お嫌ですか?」
「いや、大丈夫だ。それでいい」

 そもそも、“くん”呼びされることなんて殆どないから違和感があるが……まあ、じきに慣れるだろう。
 さま呼びよりかは随分しっくり来る。

「じゃあ、せーくん。浴室まで案内しますね。ついてきてください」
「ああ。……敬語はそのままなんだな」
「それはまあ、おいおいね」

 歩きながら、にひひ、と彼女はラフに笑った。
 
「それにしても俺が一番風呂をもらってもいいのか?」
「一番風呂といいますか、屋敷内には旦那様用の浴室と坊っちゃん用の浴室とお客様用の浴室がありますので長風呂してもらって大丈夫ですよ」
「な、なんだと?! 一人に一つ専用の風呂があるのか……?!」
「ええ、そうなんです。驚きますよね、普通の人は」
「驚くというか……一体どれだけ稼いだらこんな豪邸を建てられるんだ……?」

 先程も見たばかりの豪華な廊下を今度はシャーリィと並んで歩く。
 それにしても、うっかり一人で出歩こうものなら迷子になってしまいそうなほど広いな、この屋敷。

「まあ、星空グループの当主ですからねぇ。むしろお城を持っていないことにびっくりするぐらいですよ」
「星空グループ?」
「この国でも有名な大財閥なんですがご存知ありませんか? ホテル、銀行など国内外にいろんな事業を展開しています」
「すまない、社会情勢には疎くてな……。とにかく星空は会社を沢山持っていてとても金持ちってことだな?」
「まあ……ざっくり言うとそんな感じですね」

 となると聖はその御曹司ということか。
 ……優、すごいやつと結婚しようとしてたんだな……。

「せーくん、浴室到着しましたよ。タオルは中にあるのを使ってください。上がるまでに着替えをお持ちしますね」
「ああ、すまない」
「ご希望があればお背中をお流ししますけど、どうします?」
「い、いや、いらん! 年頃の娘にそんなことさせられるわけないだろう!」
「あらら。硬派なんですね」

 突飛なことを言うもんだからつい語気を荒らげてしまった。
 一方、シャーリィはというと楽しそうにくすくすと笑いながら、ごゆっくり、と言い残して浴室を出ていく。
 ……若い娘に振り回されている自分がなんだか情けなくて俺は小さく肩を落としながら服を脱ぎ――浴室に足を踏み入れた。
 広い空間には身体が大きい俺でもあと数人は入れそうなほど広いバスタブがあり、入浴剤の甘い香りを纏った柔らかそうな湯気が立ち込めている。
 とりあえず全身を念入りに洗ってから、恐る恐る、白濁とした湯に触れた。
 当たり前だが、温かい。
 やっと覚悟を決めて湯船にゆっくりと浸かると、思わず喉の奥から深くため息が漏れた。
 こうして風呂に浸かるなんて何時ぶりだろうか。
 こっちに来た頃は優と二人で銭湯に行ったりもした記憶があるが、一人になってからは職場にあるシャワーを借りるばかりだった。
 家に帰ったら、久しぶりにあの銭湯へ行ってみるのもいいかもしれない。

「本当はこの風呂だって一緒に入りたかった。……恥ずかしいかもしれんが、昔みたいに背中を流し合ったりしてな」

 聖と身を寄せ合う優が俺をこの家に招いてくれる、そんな未来を迎えられたら良かったのに。
 願ったところで、もう叶いはしないが。
 それにしても今日は怒涛の一日だった。
 星空と出会って……優の死を知って、聖と出会って、ここで一晩明かすことになって。
 こうして温かい風呂に入って。

「……ここにいるべきなのは、お前のはずなのにな、優」

 俺は優に幸せになってもらうことだけを考えて生きてきた。
 母国から逃げ出すと決めたのも、死にものぐるいで働いたのも、家を出ていくという優の背中を押したのも……全ては、痛くて苦しい思いをしてきたあいつに幸せな未来が訪れてほしかったから。
 あいつは死に際に幸せだったと零したらしいが、ほんの数年の幸福では精算しきれないほどあいつはずっと苦労してきたんだ。
 それなのに。

「なんで、お前が死ななきゃならなかったんだ」

 墓前で飲み込んだ感情が再び溢れ出てくる。
 右足の付け根がぎしりと痛んだ。

「神様ってやつは一体何をしてるんだろうな。……あれだけ願っても、祈っても俺たちを助けてくれなかったくせに、やっとの思いで地獄から這い出たあいつをあっさり連れて行ってしまった」

 やっと人並みの幸せを得られたあいつになんて仕打ちをしやがる。

「優……兄ちゃんな。お前に、幸せになってほしかったんだよ」

 俺がもっとあいつのことを気にかけていれば。
 結婚の報告を聞いた時、せめて一度でも会おうと言っていれば何か変わっていただろうか。

「兄ちゃんはお前のためなら、心臓でも、足でも、なんでも差し出せたんだぞ」

 それをわかっていたから優しいあいつは俺に連絡をしなかった。
 だが……それでも俺は、兄ちゃん助けてって、言って欲しかったんだよ。
 自己満足でも自己中でも、なんと言ってくれても構わないから、ただ頼ってほしかったんだよ。

「俺は、お前の兄ちゃんなんだから」

 あいつの痕跡を辿るたび、あいつはもうここに居ないという事実がじわじわと染み込んできて心臓の奥が痛くなる。
 ここにはあいつが生きた証と、あいつの死んだ証明がくっきりと残っていて、少しだけ息が苦しい。
 あいつがここで幸せに過ごしたんだと思えば思うたびに、やり場のない怒りと悔しさで胃がひっくり返りそうになる。
 幼き日の優の笑顔を思い浮かべながら――俺は湯船に顔を沈めて、少しだけ、ほんの少しだけ、泣いた。


 <この続きは製品版で!>

【試し読み】兄弟ができるなんて聞いてないっ!

 こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
 冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。

001

 中二の夏、母が亡くなった。
 病弱ではあったが人一倍芯が強く、心優しく、真っ白くふわふわの毛並みが美しい、自慢の母だった。
 彼女と共にどこかへ出掛けた思い出はあまりないけれど、絵本の中への冒険だったら数え切れないほどにしたし、彼女が作ってくれる料理で世界各国を旅した。
 母はいつも穏やかに微笑みながら︙︙しかし、申し訳無さそうに眉を下げながら、「ごめんね、ごめんね」と謝っていたことを思い出す。
 いつもいつも、彼女は自分とどこにも出掛けられないことを悔いていた。
 自分は共に居られるだけで満足だと何度も何度も伝えたのに、その度に彼女は泣きそうになりながら懺悔を繰り返す。
 今思えば、あの謝罪は息子である僕へ向けただけではなく、不甲斐ない自分を慰めるために言っていたのかも知れない。
 ︙︙彼女の墓石を前にして、今更真意はわからないけれど。

「母さん。今日も暑いね」

 母から受け継いだ自慢の毛並みが砂埃でへたる。
 ぴっちりと締めたネクタイを緩めながら母の墓石に水をかけた。
 途端、少しだけひんやりとする空気。
 少しだけ俯いている花を生け直し、線香に火を着けて墓前にしゃがみ込む。

「もう、七年かあ」

 彼女が居ない日常は味気なくて。
 一人で本を読んでもつまらないし料理だって母のように上手くはいかない。
 それでも彼女に心配されてはいけまいと笑みを浮かべる。

「母さんは元気でやってる? 僕は元気だよ。大学も楽しいし。︙︙父さんは、相変わらず滅多に帰らないけど」

 父は医者だ。
 有名な大学病院に勤めている。
 病院内外に名を轟かせている名医で、自慢の父。
 基本的には優しく柔和で良い父なのだけれど気が弱く頼まれたら断れない性分なのが玉に瑕。
 今日も墓参りに来る途中で勤め先の病院に呼び出され断りきれず僕を墓地に送ってとんぼ返りしてしまった。

「酷いよね。父さん、母さんが亡くなってから数回しか家に帰ってこないんだよ」

 皮肉を込めてそう笑う。
 そういえば昔は、仕事を理由に病弱な母を置いて家に帰ってこない彼のことを嫌っていたっけ。
 まだ大学生とはいえ大人になった今なら︙︙彼の苦労がわからないでもない。
 断らないということは大人として他人と付き合う時、面倒な衝突を避けられる何より便利な逃げ道だ。
 他人とぶつかる労力とイエスマンになって自分だけが苦労する労力を天秤にかけ、ついつい後者を選択してしまう。
 だけど昔から嫌いだったそんな父の”断らない”性分は裏を返せば尊敬できる部分にも当たる。

「母さん︙︙僕、父さんみたいな医者になりたいんだ。どんな病を患っている患者さんでも断らない……常に希望がある方向を指し示してくれるような医者に」

 父が名医と呼ばれる理由は幾つかあるけれど、その一つが今言った”断らない”というところにあった。
 病院側の設備の問題なんかも勿論あるんだろうが症状によってはいくつも病院をたらい回しにされるなんてことは残念ながらよくあること。
 勿論、病床や担当医の不足など色々な理由があるとは思う。
 受け入れたくても受け入れられない、断腸の思いで患者さんの受け入れを断るという状況もあるだろう。
 しかしそれでも父は絶対に断らない。
 いや……断る必要がない。
 なぜなら父は、少なくとも担当医不在を理由に断らなくてもいいように内科、外科に留まらず麻酔科医などあらゆる科を専攻しているのだ。

「父さんがなんであんなに獣人科を熱心に勉強していたのか今ならわかるよ。…………父さんは、母さんの病気を治したかったんだね。そして今も、病に苦しむ獣人を救うために病院に籠もりっきりで勉強や研究に没頭してる」

 父が名医と呼ばれる理由のうち二つ目はこれ。
 彼はまだ国内どころか世界にそう多くない、獣人を診られる医師なのだ。
 昨今、獣人と人間とが平等に過ごすようになって久しいけれど、本当に平等かと言われればまだ首を傾げざるを得ない。
 その例が、医療体制。
 つい百年ほど前までこの世界を動かしていたのは人間だった。
 身体は強いが知性では人間に劣る獣人はまるで使い捨ての駒のように人間に使役され、法は人間に都合のいいように作られていたという。
 しかし獣人の中でも知能の高い個体が徐々に社会に参入し始め、やっと世界は少しずつ獣人にも優しくなり、そうしてやっと平等が謳われるようになった。
 医療体制が遅れているのはそのせいで、そもそも獣人が社会に参入し始めるまで獣人だけが罹るような病や怪我の治療といった部分に関心のある者がそう居なかったのが何よりの原因だろう。
 だから、獣人特有の病や怪我に関して治療はまだ荒削りな部分が多い。
 獣人は平均寿命が人間より長く、また出生率も出生数も高いので人口の推移を見る限りは気付かれにくいが、死者数は人間の倍だ。
 医療体制が未熟なせいで幾つもの”不治の病”……もとい”今の技術では太刀打ちできない病”が存在し、それによって命を落とす獣人がまだ世の中には数え切れないだけいる。
 母のように。
 そんな世の中を変えたいと、母の葬儀の日に父が言っていたのを思い出す。
 そして僕も今、父と同じ方向を向いて我武者羅に勉強しているのだ。

「やることいっぱいで大変だけど……でもやりがいもあるんだ。すごく楽しいよ」

 父と共に今の世界を変えるのが僕の夢。
 獣人が病に怯えなくてもいい世界を、父と作りたい。

「もう行かなきゃ。じゃあまたね、母さん。今度は父さん、引きずってでも連れてくるから」

 墓石にそっと手を添えるとひんやりとした温度の向こうに微かなぬくもりを感じる。
 きっとそれは、ただ墓石が夏の日差しを浴びて暖かくなっていただけなのだろうけれど……僕はどこかに母の匂いを感じながら静かにその場を後にした。


002

「おーい、純~!」

 名を呼ばれて振り向くと、同じ学部の友人、朝陽がにこにこと笑いながら手を振っていた。
 それに手を振り返している間に純正コーギー種の彼は、てちてち、と効果音が付きそうなくらい可愛らしい足取りで近付いてくると僕の顔を見上げる。

「なあなあ、今日の夜って空いてるか?」

 きらきらとした瞳に見上げられて、何やら嫌な予感がした。

「実は今日合コンなんだけどさあ、一人来れなくなっちゃったんだよ! お願い、純! 来てくれない?!」
「ええ? 嫌だよ。僕、勉強しなきゃだもん」
「そう言わずに! コンパ代はボクが出すから! ねっ? ねっ?」

 まるで拝むように両手をすり合わせた友人は、神様仏様純様~なんて調子のいいことをずっと呟いている。
 
「頼むよ~! 純が来ると女の子の反応めっちゃいいんだよ! いつもの“サモエド・スマイル”で居てくれるだけでいいから! ねっ?! 一生のお願いっ!」
「僕をエンターテイメントみたいに使わないでよ︙︙」
「そ、そんなつもりはないぞ! ボクはただっ、純と一緒に美味しい飯が食いたいだけで!」
「またそんな見え透いた嘘吐いて。はあ、わかった」
「マジ?! ほんと?! やったあ! じゃ、今日講義終わったら校門前集合だぞ! 遅れるなよ!」
「はいはい」

 やっほう、とスキップしながら朝陽はどこかへ走り去っていった。
 調子のいいやつなんだから。
 小さく溜息を零して前に視線をやると、大学の窓ガラス越しに自分と目があった。
 ふわふわの真っ白い毛並み、大きな体躯、そして︙︙いつも持ち上げられた口角。
 別に意識して笑顔を浮かべているわけではないのだけれど、生まれつき笑顔を浮かべているように見えるのが僕たちサモエド種の特徴だ。
 さきほど朝陽が言っていた“サモエド・スマイル”というのもこの顔の作りから来ていて、世間からは癒やされるとか優しい顔が素敵とか褒められることが多い。
 そんな見た目だからか初対面の人にも警戒されず、道を聞かれたり観光客からカメラを渡されたりなんてことはしょっちゅうだ。
 その分、お年寄りのサモエドなんかは騙しやすそうってことで詐欺や犯罪のターゲットにされることも多いんだとか。

「はあ」

 溜息を零しても、眉を顰めても、どこか情けない表情のままの自分。
 自分のことは決して嫌いではないけれど男としてはどこか頼りなく見えてしまうのが何とももどかしかった。
 あまり興味もないが今日みたいにコンパに賑やかし要因として呼ばれる確率も高い。
 まあ人と話すのは好きだし楽しいから良いのだけれど︙︙正直、遊ぶ時間があるなら全部勉強に回したいというのが本音。

「次の講義どこだったっけ︙︙」

 夜が来るのを若干憂鬱に感じながら、僕は次の講義を受けるべく歩みを進めるのだった。


 ◆ ◇ ◆ ◇


「ういぃっく。すみぃ! にけんめいくぞぉ! まだまだよるはこれからだぁ!」
「次行ったら四軒目だし、もう皆帰ったよ朝陽」

 べろんべろんに酔っ払った朝陽を担いで、夜の街を歩く。
 ふいと時計を見ると︙︙うわ、もう四時じゃん。
 空が少し明るいのも納得。
 結局、今回の合コンでは特にカップルは成立しなかったようだけど、どうやら友人としては全員ウマが合ったらしくヒートアップして居酒屋をハシゴしたかと思ったら最後にカラオケに飛び込み、ついさっき全員で連絡先を交換して解散した。

「すみぃ︙︙きてくれて、ありがとなあ︙︙」

 僕の背中に頬を押し付けながらふにゃふにゃと喋る彼。
 少し強引で自分勝手なところもあるけど、こういうところが憎めないんだよね、こいつは。

「どういたしまして」

 しかし流石に家まで送ってあげるほど優しくはないので、適当にその辺のタクシーを捕まえて車内に友人を放り込み運転手に友人宅の住所を伝えた。
 本人が宣言した通り飲食代は彼がすべて支払ってくれたのでタクシー代くらいはくれてやろう。
 友人を乗せたタクシーが走り去るのを見送って、ゆっくりと帰路につく。
 家までそんなに距離があるわけでもないし酔い醒ましも兼ねて歩いて帰ることにした。
 煌びやかにネオンを纏っている週末の繁華街は、朝方の時間帯だと言うのにまだざわざわとした喧騒に包まれている。
 ひんやりとした空気がアルコールで火照った頬をなで上げていき、思わず身を縮こませた。
 その時大きな通りに設置されている巨大なビジョンから軽快な音楽が流れ青年の姿が映し出される。
 細い手足に白い肌、何かを射抜くような鋭い視線。
 多分ああいう子が世間一般で”イケメン”って呼ばれるんだろうな。

「名前なんだっけ、あの子」

 あまりエンタメに興味がないので名前が思い出せないけれど、確か人気のモデルさんだったような気がする。
 同じ学部の女の子数人が集まり雑誌を食い入るように見て、彼のことを格好いいとべた褒めしていた。
 ええと︙︙︙︙駄目だ、全然名前出てこない。
 でも確かまだ高校生なんだったかな。
 若いのに凄いなあ。
 なんて、そんなことを思いながら家に向かって歩くこと三十分、やっと家に帰り着く。
 廊下を抜けて洗面所に向かうと今朝家を出たときには空っぽだった洗濯カゴに洗濯物がこんもりと放り込まれていた。
 恐らく、父が帰ってきていたんだろう。
 あまり電池残量がないスマホを開くが父からなにか連絡が入った様子はなし。
 全く、家に帰ってくるなら連絡しろっていつも言っているのに。
 父のことだからどうせご飯もろくに食べず勉強にしているんだろう。
 体調崩すから家に帰ってくるときぐらいは僕が用意したご飯を食べるように言っているのに。
 溜息を零しながら乱暴に洗濯カゴに放り込まれている高そうなスーツをハンガーに掛け直す。
 寝て起きたら近所のクリーニング屋さんに持っていかなければ。
 洗濯は︙︙明日でいいかな、面倒だし。
 連絡を紅にせよ帰ってきたならメモ書きの一つでも置いていってくれればいいのに、なんてちょっと我儘を考えながら服を脱ぎ捨てる。
 普段ならあんまり気にしないのだけれど、今日は思ったより酔っているらしい。
 自分以外誰も居なくなってしまった立派な一軒家は何だか肌寒くて、少しだけ熱めのシャワーを浴びた。

「父さん、身体大丈夫かな」

 頑張っているのはわかるのだけど、些かオーバーワーク気味な気がする。
 病院に籠もって勉強するくらいならせっかく書斎もあるんだし家ですればいいのに。
 そうしたら晩御飯の一つでも食べさせてあげられるのにな。
 あ、そうだ。
 明日は大学も休みだし父さんの様子見に行こうかなあ。
 お弁当でも作ってあげて︙︙うん、そうしよう。
 そうして翌日、作り置きのおかずと卵焼き、炊き込みご飯を二段構造のお弁当箱に詰め込み、出発。
 道中でクリーニングにスーツを出して僕は父の働いている病院を訪れた。
 そういえばこうして父の職場に来るのは久しぶりだ。
 とりあえず病院に入ってすぐのところにあるナースステーションに顔を出す。
 するとこちらに気付いてくれたらしい一人の看護師さんがぱたぱたと歩いてきた。

「あのー、すみません」
「はいはい。何か御用ですか︙︙って、あら? もしかしてあなた、純くん?!」
「え? あ、はい。そうです、けど」

 ええと、誰だろう。
 一方的に名前を知られていることにぽかんとしていると彼女はにっこりと微笑む。

「覚えてないかしら? 十年くらい前、純くんがお母さんが倒れちゃったって泣きながら病院に駆け込んできたことがあったでしょう? そのときに受付にいたのよ、私」
「︙︙︙︙あっ!」

 言われて、思い出す。
 たしかまだ自分が小学校に上がってすぐぐらいの時、母が今日は調子がいいからと言って夕飯の支度をしてくれていたことがあった。
 だけど母はその支度中、無理をしていたのか或いは急な発作だったのか顔を真っ青にして倒れてしまったのだ。
 まだ小学生だった自分はパニックになって慌てて家を飛び出し、父の病院に駆け込んだんだっけ。
 家と病院は決して近くはないのにその時はあまりに必死で︙︙交通機関を使うっていう頭もなくやっとの思いで走ってたどり着いて、受付に居た綺麗な看護師さんに泣きじゃくりながら母さんを助けてくれと懇願したような記憶がある。
 よくよくその受付の女性を見ると確かにあの頃の面影があった。
 彼女は父の名前を聞くとすぐに手際よく父に取り次いで、救急車を手配してくれたんだよね。

「ふふ。思い出してくれた? 流石に十年も経ってるもんだから、年食っててわかんなかったかしら」
「そんなつもりは。昔のことなのですぐ思い出せなくて。お綺麗なのは変わっていませんよ」
「あらもう上手なんだから。そんなことより今日はどうしたの?」
「父と少し話をしたくて。今、手は空いてますか?」
「ちょっと待ってね。先生の今日の予定は︙︙と、今は大丈夫そうよ。先生の部屋の場所はわかる?」
「大丈夫です。ありがとうございます」

 帰る時は声を掛けてねえ、と手を振る看護師さんに見送られて目的地を目指して病院内を進む。
 病院に漂うちょっと癖のある薬品の匂いとどこかひんやりとした空気感は嫌いではない。
 途中ですれ違う患者さんやお見舞いに来たらしいご家族と挨拶を交わしながら、ちょっと大きめの扉の目の前にたどり着いた。
 扉を三回ノックしようと手を握って拳を作った、その瞬間のこと。

「秋鳴先生。私、先生のこと好きです」

 扉の向こうから聞こえてくる凛とした鈴の鳴るような声。
 静寂に混じって困惑したような呼吸音が聞こえる。

「返事は今じゃなくていいです。考えておいてください」

 その言葉と同時に、足音が少しずつ扉に近づいてきた。
 慌てて近くの物陰に隠れて(身体がでかいのでもしかしたら気付かれていたかもしれないけれど)父の部屋から出ていく人影を目で追う。
 第一印象を一言で言うなら、クールビューティーって感じだ。
 整った顔立ちに、すっきりと短く切りそろえられたボブときりりとした目元はまさに“できる女性”という印象。
 でも鋭い視線にどこか母性というか優しさのようなものも滲んでいて、なんだろう、思わず母さんと呼びたくなってしまうような人だ。
 僕の母も、病弱ながらその目は生気に満ち溢れてきらきらとしていてすごく誇らしかった。
 自分に厳しすぎるきらいがあるのは頂けなかったけれど。
 父の部屋から出てきた女性はそのまま姿勢良く歩き、廊下の角を曲がっていく。
 遠くなっていく足音を見送ってから恐る恐る開けっ放しになっていた父の部屋を覗き込んだ。

「と、父さん?」

 父は突然のことに脳内処理が追いついていないのか、ぽかんとしたまま椅子に座って固まっている。
 目が合うと彼は何度か瞬きをして、そして自分の頬をぺちぺちと叩いたと思ったら笑みを浮かべた。

「純、よく来てくれたね。ほら、そこに座りなさい」

 流石に告白される現場を実の息子に見られるのは恥ずかしかったのだろう、父は何事もなかったかのように僕を客人用の椅子に座るように促す︙︙が。

「父さん、無理だよ。誤魔化しきれないよ」

 見て見ぬ振りをするにはあまりにも衝撃的すぎた。
 ちょっと野次馬根性も働いてしまう。
 僕の言葉に父は、むぐ、と小さく呻いて顔を覆った。

「今の人は?」
「︙︙︙︙後輩︙︙」

 後輩ってことは、同じお医者さんなんだ。
 白衣を着ていたから何となくそうだろうなとは思ったけれど。

「かれこれ十年以上、私と一緒に医療の前線を支えてくれた優秀な後輩だ」

 彼はそう言うと、顔を覆っていた手を膝の上に置く。
 うわあ、恥ずかしさからか父さんがとんでもなく小さくなってる。
 ただでさえ人間である父は獣人である自分より小さいのに、肩を丸めてぼそぼそと喋るその姿はことさら小さく見えた。

「で、付き合うの?」

 普段仕事に夢中になっている彼への意趣返しも込めてそう尋ねると彼は、あ、だの、う、だのと零しながら目を泳がせる。
 我が父ながらキョドり方が情けない。
 僕がそんなに気が強くないのは確実に父からの遺伝だろうなあ。

「か、彼女のことは、ほんの数秒前までは優秀な後輩だとしか思っていなかったんだぞ。なのに、そんな急に︙︙」
「“ほんの数秒前までは”ってことは、今はちょっと気になってるってことかなあ?」
「す、純っ!」
「ごめんごめん」

 とりあえず父に持ってきた弁当箱を差し出すと彼はどこかバツが悪そうにそれを受け取った。

「別に新しく好きな人ができたって母さんを忘れるわけじゃないんだから、そんな深刻に考えなくてもいいと思うよ。もう七年も経つんだし」
「それはまあ︙︙そう、なんだけど」

 母の葬儀の日は色々な人が彼女を悼んでくれたが、父だけは涙もこぼさず悔しそうに拳を握りしめ唇を噛んでいたのを思い出す。
 きっとその時抱いていた思いは未だに変わっていないのだろう。

「僕だって母さんが大好きだよ。今でもね。でも、それと同じくらい父さんのことも大事だから。どうせ父さん、研究に没頭したら食事とか睡眠とか疎かになるでしょ。僕が父さんの健康管理を四六時中できたらいいんだけどそうもいかないし。父さんのことをちゃんと考えてくれてご飯作ってくれるような人がいたら、僕は安心だな。︙︙もう僕は家族を失いたくないから」
「純︙︙」
「ま、こういうのって結局本人たちの気持ち次第だから僕がどうこう言えることじゃないけど。ただ、父さんがどんな選択をしたとしても僕は反対しない。きっと母さんもね」

 そう言うと父は暫し黙り︙︙そして、何も言わず僕が持ってきた弁当箱を明けた。

「今、食べていいか?」
「もちろん」

 父は箸を手に取ると唐揚げを一口齧る。

「懐かしい、味だ」
「そりゃ母さんに教えてもらったレシピだからね。当たり前だよ」
「そうか。︙︙そうだな。ありがとう、純」
「どーいたしまして」

 顔を上げた父は小さく鼻を啜って、次のおかずにそっと箸を伸ばした。



003

 それから数ヶ月後のこと。
 大学から帰宅すると、家の玄関に父のものと思われる靴、そして女性もののパンプスがきちんと整列していた。
 お客さんだろうかとちょっとビクビクしながらリビングに足を踏み入れるとダイニングチェアに座っている父と目が合う。
 そして父の正面に座っている、僕には背を向ける形になっていた女性がゆっくりと振り向いた。

「あっ」

 記憶にあるその横顔に思わず声を漏らす。
 数ヶ月前、父に告白していたクールビューティーな女医さんだ。
 彼女の顔を見た瞬間、不思議に思っていた今の現状にぴんときた。
 なんだよ、父さんったらちゃっかりしてるなあ。

「お、おかえり、純。えっと、この人は」

 父が少しあたふたしながら僕を紹介しようとした時、女医さんがすっと立ち上がり僕の顔を見上げる。
 女性にしては背が高いな、この人。
 彼女は少しだけその場で固まったかと思うと何かを決心したように小さく息を吐いた。

「はじめまして。医師の葉島美季といいます。お父さんの後輩で、同じ病院に勤務しています。突然お邪魔してごめんなさい」

 ぺこ、と頭を下げる彼女につられ、慌てて頭を下げる。

「これはご丁寧にどうも。秋鳴純です」
「あなたのことはお父さんから聞いていました。とても優秀で素敵な息子さんだと」
「そ、そんなことは。ところで、今日はどういったご用件で?」

 彼女が次ぐであろう二の句にはなんとなく予想はついたけれど、様式美と言わんばかりにとりあえずそう尋ねてみる。
 すると彼女は先程までのクールな表情から一転、ぼっ、と音が出てしまいそうなくらい顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。

「えっと︙︙そ、それは、その︙︙」

 もじもじして次の言葉を紡げずにいる彼女、えっと、美季さんは困ったように眉を下げて父の方をちらりと見る。
 突然視線を向けられた父も同じく恥ずかしそうに頬を染め、二人は無言で見つめ合い出した。

「と、とりあえず、座りなさい。ね、純」

 はっはーん。
 これはもう結構深い仲だな?
 なんて、邪なことを考えながらとりあえず促されるまま僕は父の隣に座る。

「ごほん。えっと、実はだな。私と彼女、美季さんは︙︙その、少し前からお付き合いをしているんだ。お互い境遇も似ているから色々相談に乗って貰っていて。そうしたらまあその、そういうことだっ」

 わざとらしく咳払いをした父は一息にそう言い切り、また顔を真っ赤にして下を向いてしまった。
 我が父ながら純情すぎやしないか?
 このまま父、あるいは美季さんの言葉を待っていたら日が暮れる︙︙いや、とっくに日は暮れてるな。
 日付を越してしまいそうだったので、助け舟を出すことに。

「で、結婚を前提に付き合ってるから、家族を紹介したいってことで合ってる?」

 僕の言葉に父と美季さんはこくりと頷いた。

「そういうことなら改めまして。秋鳴純です。医大に通ってる三年生です。よろしくお願いします、美季さん」

 笑いかけると彼女はぎこちなくもう一度頭を下げる。
 うむむ、どうみてもカッチコチだ。
 僕がリビングに入ってきた時からずっと不安そうにそわそわとしている彼女の様子を見るにきっととんでもない覚悟をしてここにきたんだろう。
 そりゃ恋人の連れ子に会うんだから、並の覚悟じゃこの場にはいられないよな。
 たかが大学生でしかないやつの言葉がどれだけ彼女を安心させられるかわからないけど、とりあえずは僕の気持ちを話してみることにする。

「美季さん。前に父には言ったんですが、僕は父が恋人を作ることに反対しません。もしかしたら美季さんは僕の母に申し訳なさとかそういうものを感じているのかもしれないけれど、大丈夫ですよ。母はそんなに弱い人じゃないので。寧ろ父がいつまでも一人だったら心配していたと思います。父は︙︙こと医学以外はてんでダメな人なので」

 少しでも美季さんの緊張が解ければと思い、冗談ぽく笑いながらそういうと彼女は少し安堵したように口角を上げた。

「息子という立場でしかできないことがあるように、恋仲という立場でしかできないサポートもあると思います。だから美季さん、父をどうぞ宜しくおねがいします」

 もう一度彼女に対して深く深く頭を下げる。
 すると隣からは、ずず、と鼻を啜る音が聞こえた。

「ううぅ︙︙純は本当にいい子に育ったなあ︙︙ぐすっ」
「ああもう、ほらティッシュ」

 いい年してぼろぼろと大粒の涙をこぼす父になんだか恥ずかしくなる。

「で、父さん。今日美季さんをお招きしたのは紹介したかったってだけでいいのかな? もう話が終わったなら、夕飯作るよ。折角だし、美季さんも食べていってください」
「まっ待ってくれ純。その、もう一つ、伝えたいことがあって」

 キッチンへ向かうため立ち上がろうとした僕を父が呼び止める。
 なんだろう?

「実はな、彼女が今住んでいるアパートがちょうど契約更新の時期らしくて。それで︙︙同棲を始めたいんだ」
「うちに住むってこと? 僕は別にいいけど。部屋も余ってるし」

 ちょっと気恥ずかしいけれど。
 でも二人的にこんなでかい息子が家に常にいるっていうのは気まずくないのかなあ。

「そうじゃないんだ。その、少し離れたところにマンションを借りてな。そこで数年暮らして、入籍を済ませたらこっちに引っ越してこようと思ってる」

 ああ、なるほど。
 まあそのほうがお互いの人となりもわかるしいいかも知れない。
 相変わらず僕の暮らしは寂しいままみたいだけど。
 っていうか父さんが美季さんと住んじゃったらいよいよこの家には帰ってこなくなるのか。
 それはちょっと寂しいな。
 だけど時折目を合わせて幸せそうに笑う二人を邪魔するのは忍びないし、もう少し我慢してやるか。
 流石に結婚したら父さんも家に帰ってくるでしょ。

「僕に気を遣ってるなら大丈夫だよ。この家での一人暮らしにはもう慣れてるし。二人で仲良く暮らしなよ」
「あ、ああ。ありがとう。︙︙それでな、えっと」
「もう、なに? はっきりしないなあ」

 ちょっとイライラしてきたぞ。
 この人こんな性格でオペの時、どう切ろうかで三時間悩んだりしてないだろうな?

「実は、純には弟ができるんだ」
「︙︙︙︙︙︙は?」

 ぽ、と頬を染めながらいう父。
 え?
 ︙︙︙︙は?
 待って、え?
 思わず美季さんに視線をやると、彼女も頬を赤らめて俯く。
 えっ、嘘でしょ。
 まさかこの親父︙︙?!
 いい年こいて何してんだ?!

「そ、それでな。その弟くんと、この家で一緒に暮らしてほしいんだ」
「︙︙︙︙んん?」

 ちょっと待って。
 一緒に暮らす?
 んんん?

「そ、その弟くん? って?」
「美季さんと前の旦那さんとの子でな。いま高校二年生だ」
「連れ子かい! 紛らわしい言い方するなよ!!」

 美季さんまで顔赤くするもんだからいい年してデキ婚︙︙今は授かり婚っていうんだっけ、とりあえずそういう感じかと思ったじゃんかよ!
 コント仕掛けのスペシャリストか僕たちは?!
 っていうか、いやいや待て待て!
 そんないきなり初対面の、しかも高校二年生なんて多感な時期に母親の恋人の連れ子と二人きりで暮らすなんて絶対嫌がられるだろ!

「本人たっての希望なんだ。今日は用事があって来られなかったみたいだが」
「マジか」

 いやまあ本人が嫌じゃなければいいんだけども︙︙。
 でもよく考えたら母親が恋人と暮らしているところに一緒に居る方が多感な時期の子供からしたら嫌なのかもしれない。
 でもそれと秤にかけられるのが全く知らない大学生とひとつ屋根の下での生活とは、あまりにもその子が不憫なような気がするけど。
 できるだけ不自由ない生活をさせてあげなければ。

「私と彼女は仕事で難しいだろうから、その子の引越しを手伝ってやってくれ」
「わかったよ。それで引っ越しはいつ?」
「明日」
「明日ァ?!」

 なんで変なところ行動早いんだよ?!
 さっきまで何言うにしてもうじうじ足踏みしてたじゃん!

「だっ、ダメか?」
「いやダメっていうか︙︙もっと早く言ってよ︙︙」
「すまない︙︙」
「まあいいけどさ。じゃあ明日は家にいれば良いんだね?」
「ああ。頼む」

 それから軽く、これからよろしく、といった挨拶を交わして解散になった。
 仕事があるからと慌てて家を出ていった二人を見送ると賑やかだった家の中が一気にしんと静まり返る。
 なんだか急に家の中の温度が下がったような気がして、体を丸めてソファに横になった。

「弟、かあ」

 どんな子なんだろう。
 誰かと共同生活するなんて久しぶりなのに、いきなり初対面の、しかも高校二年生の男の子︙︙。
 ええと、高校二年生だから︙︙五歳差? 兄弟としてありえなくはない年齢差か。
 どんな日々になるかまだわからないけれど単純に誰かと生活を共に出来るというのは嬉しい。
 ただでさえ父は殆ど帰ってこなくてずっと一人暮らしだったし。

「仲良くできたら良いなあ」

 楽しみ半分、不安半分。
 ぐちゃぐちゃな内心のまま僕はそっと目を閉じた。

 ◆ ◇ ◆ ◇

 翌日、なんだかそわそわして早起きしてしまった僕はとりあえず家を隅々まで掃除し朝早くから開いている薬局で日用品を買い足して、件の”弟くん”が家に訪れるのを待っていた。
 時計を見上げると十一時四十三分。
 なにかしていないと落ち着かなくって昼食の仕込みでもしようかとソファから立ち上がった瞬間、呼び鈴が鳴る。

「は、はーい!」

 うわわ、どうしよう。
 大学の入試のときより心臓ばくばくしてる。
 ドア開けた瞬間、チェンジで、とか言われたらどうしよう。
 荒ぶる心臓を落ち着かせるために一旦深呼吸して、家の玄関を開けた。

「︙︙あ、の︙︙どうも」

 震える声でそう言いぺこりと頭を下げた影。
 その影の主は、野球部が持っているようなボストンバッグを一つぶら下げた青年だった。
 細い手足に白い肌、何かを射抜くような鋭い視線。
 きりっと細い目元は成程確かに美季さんと同じ面影がある。
 というか︙︙荷物、それだけ?
 いや流石に違うか。
 多分この後引っ越しトラックが来るんだろう。

「いらっしゃい。︙︙じゃ、ないか。ええと」
 
 バッグの肩紐をぎゅうと握りしめた彼はきつく口元を結んでいた。
 彼をできるだけ怖がらせないよう声のトーンをあげて、笑みを浮かべる。

「話は聞いてます。僕は秋鳴純。きみは?」
「︙︙︙︙葉島累︙︙」
「じゃあ、累くん、って呼んでいいのかな」
「︙︙好きに呼べば」

 ふいとそっぽを向く彼。
 ま、初対面だとこんなもんだよね。
 寧ろちゃんと名乗ってくれたことを考えると根はいい子なんだろう。

「お母さんから事情は聞いてる?」

 青年もとい累くんは小さくこくりと頷く。
 彼のためにさっき買ってきたばかりのスリッパを出して、手招きをした。

「どうぞ上がって」

 すると彼はおずおずと靴を脱いでフローリングの上にあがる。

「これからはここが君のおうちだから、好きに使ってくれていいからね」
「︙︙ん」
「ああ、それと」

 リビングに案内しながら彼に振り向く。
 ”いらっしゃい”も”どうぞ上がって”もなんだかしっくりこなかった。
 今この場で、彼を迎え入れるために最適な言葉はきっと、

「おかえりなさい、累くん。これから宜しくね」

 拝啓、母さん。
 僕にはこの日、五歳年下の弟ができました。


004

 累くんと暮らすようになってから数日。
 僕は自分以外の誰かと共存することの難しさをひしひしと感じていた。
 この家にやってきてから累くんは簡単な受け答えや挨拶くらいはしてくれるのだけれどやっぱりどこか距離を置かれているというか一線のようなものを引かれているような気がしてならない。
 例えば、一緒にこうしてご飯を食べていても︙︙。

「る、累くん? 美味しい?」

 味噌汁を啜りながら、こくり、と頷く彼。
 しかしそれ以上会話は続かず終了。
 ううん、手強いなあ。
 こんな感じで彼との距離を感じる要因の一つがあまり話してくれないこと、次が目を合わせてくれないことだ。
 数日前、初めてこの家にやってきた彼に向かっておかえりなさいと告げた僕に、ぼそりと、ただいま、と返してくれたあの瞬間に目が合ったきり。

「僕、今日大学夕方までだから。お弁当はキッチンに置いてあるから学校に行くとき持っていってね」

 また彼はこくりと頷くだけ。
 そうして訪れる沈黙。
 母が亡くなってから家の中はいつもしんとしていたけれど、誰も居ない静寂より誰かがいる静寂のほうが気まずくて随分寂しいものだ。
 気長に接していくつもりではあるけれどどこか焦っている自分もいて、もどかしさを覚えながらちらりと累くんを見る。
 スマホを何やら厳しい顔で睨みつけている彼は僕の視線には気付いていない。
 それをいいことに思わず彼のことをじいと見つめてしまった。
 彼と過ごすようになって数日、実は気になることがある。
 累くんとはどこかで会ったような気がするのだ。
 最初は美季さんに似ているからだろうかと思ったけれど違う。
 はっきりと彼のことをどこかで見たことがあると断言できるくらいには見覚えがある。
 しかし、どこで会ったのかをずっと思い出せなくて、ここのところモヤモヤしっぱなし。
 色々情けないなあ、僕。

「じゃあ、いってくるね」

 こくこくと何度か頷いた彼に見送られ、家を出る。
 律儀に玄関まで見送りまでしてくれるところをみると嫌われているわけではなさそうなんだよなあ。
 一体どうしたら彼はもっと僕に心を開いてくれるだろうか。

「よ、純。暗い顔してどうした?」

 上から降ってきた声に引っ張られるようにして顔をあげると朝陽がにんまりと楽しそうな笑みを浮かべている。
 朝一の講義、そういえば彼も同じだったか。

「まあちょっとね︙︙」
「なになに? 悩み事? 朝陽お兄さんに話してみなさいな」

 そう言うと彼は僕の隣に腰を下ろした。

「お兄さんって。学年は一緒だし、年上だけど気にせず接しろって言ったのは朝陽だったでしょ」
「そ、それは言ったけど。でも三年の差は大きいんだぞ~!」

 頬をふくらませる朝陽。
 相変わらず騒がしい。
 ちなみに彼と年齢が違うのは単純な理由で、高校卒業からストレートで医大に入学した僕と違い、朝陽は三年間一般企業のインターンなどを経て働いていたからだ。
 彼曰く、三年の間に死にものぐるいで学費を貯めていたんだそう。

「ま、冗談は兎も角さ。お前がそんな顔になっちゃうくらい悩んでんなら、友人として聞いてやりたいって思ってるわけ。︙︙話してみ?」

 に、と朝陽は優しく笑うと頬杖をついて、僕の言葉を待つ体勢を取る。

「高校生と仲良くなるにはどうしたらいいかなあって、悩んでてさ」
「︙︙︙︙ちょっと待って。悩みの内容が予想外過ぎてなんて言ったらいいかわかんないんだけど。とりあえず未成年に手出したら捕まるってことはわかってるよね?」
「えぐい誤解されてるなあ」

 どこまで話すものかと迷ったけれど、どこから話しても誤解を招きそうだったので諦めて父が再婚を考えていることからその再婚相手の子と同居していて距離感がわからず困っているということまで洗いざらい吐くことにした。
 終始朝陽は僕の話を黙って聞いてくれたけど、全て聞き終わったあと深く息を吐いて、一言。

「お前すごい人生送ってんな」
「あはは。お陰様で」

 思わず苦笑いをすると朝陽は少し眉を顰める。
 昼過ぎにやっているドラマのような展開に一番ついていけていないのは、きっと僕自身なんだろう。
 それを彼は見抜いているのかもしれない。

「なるほど。まあ話を聞く限り嫌われてるわけではないっぽいな。となると、共通の話題がないのが原因かもよ」
「共通の話題?」
「そ。人とのコミュニケーションって結局、どんな場面でも”話題”が必要になるじゃん。例えば趣味が一緒とか好きなテレビ番組が一緒とかさ。そこから”もしかしたらコイツとはウマが合うかも”って思って、一緒に過ごしていって、そーやって作った思い出がどんどん共通の話題になっていく。そんで他愛もない話で盛り上がれるようになるってのが人との関わり合いの最高点だとボクは思うわけ」
「ああ、まあ確かに」
「多分相手の子もさ、五歳も年上の相手に対してどんな話題を振っていいかわかんないんじゃない? だから会話が止まる。今の状況で、純とその弟くんとの共通の話題っていったら多分親父さんとかお母さんとかの話になるんだろうけど今はその辺の話ができるほど関係性築けてないだろ?」
「うん。まだ会って数日だからね」
「じゃあやっぱ例えばメディアとかゲームとか、誰でも知ってそうなもんで当たり障りのない共通の話題を探すのがまずは距離を縮める一歩なんじゃないか?」
「当たり障りのない共通の話題、かあ」
「そう深く考える必要ないんだよ。最近の高校生には何が流行ってんのかなとかそういうのをさらっと知っとくといいって感じ。例えばテレビ見てて話題の俳優とかが出てきたら”この人、知ってる?”って声かけるだけでも多少会話は続くと思う。ま、知らないって言われたら、そん時はそん時だな」
「なるほどねえ。じゃあ、朝陽は最近の高校生に人気そうな人知ってるの?」
「ふっふっふ。ボクはいつでも女の子との会話に困らないよう最新のトレンドを取り入れてる、朝陽さまだぞ~? ボクの最近のイチオシは、この子!」

 そう言って、がさごそと鞄を漁った彼は一冊の本を取り出して僕の目の前にそれを置いた。
 勢いよく置いたもんだからスパァンと小気味よい音がなる。

「ずばり! 高校生モデル、RUIくんだ! 彼が人気な理由は色々あるけど、何よりまず高校生は自分と同じ年代の子が芸能活動してたらそれだけで飛びつくもんなんだよ! しかもこの子は最近めっちゃ注目されてきて、モデル一本なのに知名度がその辺の芸能人とは桁違いで︙︙って、純? 聞いてるかー?」

 目の前に差し出されたのは一冊の雑誌。
 その表紙を飾っているのは、少し前、合コンの帰りに大きなビジョンで見た、名前が思い出せないモデルさん。
 まさか︙︙いや、そんなわけは。
 一度目を擦ってもう一度表紙の青年をじいと見つめる。

「おーい、純? 死んだ? おーい?」

 今朝自分を送り出してくれた累くんの顔を思い出した。
 表紙に写っている青年は化粧とか髪のセットとか色々しているから雰囲気は違うけど、きりっとした吊り目とか口元とかが引くくらい似てる。
 それに泣き黒子も︙︙。
 ︙︙︙︙い、いやいや、待て待て。
 落ち着くんだ、僕。
 そんなことあるわけないだろ。
 父が再婚を考えている相手を連れてきて?
 その再婚相手の子供と二人で暮らすことになって?
 この段階で割と一冊本が書けそうなくらい情報量が多いのに、更にその再婚相手の連れ子が超人気モデル?
 ないない。
 ありえない。
 ただ似ているだけだよね、きっと。
 ”るい”なんて名前の男の子は沢山いるし。
 でも︙︙他人の空似だとして黒子の位置まで一致するなんてことは︙︙。

「あっ、朝陽! それ今日発売したやつじゃん! ちょっと見せてよー!」
「いいよー。大事に見てよね」

 固まっている僕を他所に、近くを通りかかったらしい女子学生が雑誌を手に取る。

「そういえばこの近辺でRUIくんの目撃談あるんだって! マネージャーさんと歩いてるの見たってSNSで書き込んでる人いたの!」

 女子学生はぱらぱらと雑誌をめくりながら興奮気味にそう言った。
 すると朝陽も一緒になって「マジで?! すげ~!」なんて盛り上がっている。
 ︙︙ありえない、よね︙︙?

「ま、純! こんな感じでRUIくんは女子大生にも大人気だから、話題に出してみる価値はあると思うぜ! ファイトー!」

 僕の肩に手を置き、元気よくエールを送ってくれた朝陽の声は、少し遠くに聞こえた。

 ◆ ◇ ◆ ◇

 その日の夜。
 相変わらず会話のない食卓を囲みながら僕はそわそわしていた。
 何故かって?
 それはもう、目の前に座って静かにご飯を食べる累くんが、見れば見るほどあのモデルの子に似ていて落ち着かないからだよぉ︙︙!
 帰宅してからずっと、彼の顔をひたすらに見つめて累くんとRUIくんの違うところを必死に探したけれど、雑誌でちらっと見ただけとはいえ体格や骨格、目元とか殆ど一緒だし︙︙日中は彼も学校に行ってるんだと思っていつもお弁当を作っていたけれど、よく考えたら普通のなんでもない平日に大学生より高校生が遅く家を出るなんておかしいよね︙︙?!
 絶対に普通の高校生じゃないよね?!
 かといって「累くんてモデルさんなの?」なんて図々しく聞けるほど距離を縮められていないし!
 いやまあ彼がモデルさんだったとして接し方が変わるわけじゃないけれど、義理とはいえ弟になったわけだしちょっとくらい彼のことを知りたいなーって思うことは別に悪いことじゃないはず。
 しかし今の微妙な距離感ででずけずけとそんなことを聞いて、嫌われない自信はどこにもないし︙︙。
 くうぅ。
 せめて、せめて何か話を︙︙!

「︙︙ねえ」
「はいっ?!」

 突然声を掛けられて返事が上ずった。
 累くんの方から話しかけてくれるのなんて珍しくて、ついドキドキしてしまう。

「じろじろ見て何? 怖いんだけど」
「ごっ、ごめん︙︙! えっと、その」

 そりゃそうだ。
 至極真っ当なご意見だ。
 せっかくだしここで何か気の利いた一言を発して彼とお近づきになりたいものだけれど、あいにく自分にそんな便利な機能は備わっていない。

「︙︙み、味噌汁、味濃くない? 大丈夫?」
「大丈夫」

 会話終了。
 ううう。
 こんなんじゃいつまで経っても彼と距離を詰めるだなんて夢のまた夢だ。
 ここはいっそ思い切って︙︙!

「あっ、あの、さ! 累くん!」
「? なに」
「僕たち、折角兄弟になったんだし︙︙今度の土曜日、二人でどこか出掛けない?!」

 世の中の兄弟がいったいどんなふうに過ごしているのか全然わからないけど一緒に出かけるくらいは普通だよね?!
 口に出してから距離感を誤ってしまったかもしれないと思いながら恐る恐る様子を伺うと彼は慌てたようにそっぽを向く。

「︙︙用事あるから」

 がーん。
 彼の表情を見た瞬間に何となくわかってはいたけれど、やっぱり断られると悲しい。
 まあ累くんの立場からすればいきなり二人きりで出かけるなんて嫌だよね︙︙。

「そっ、そう、だよね。ごめんね」
「別に謝んなくていいけど。︙︙俺、部屋戻るから」

 そのまま目を合わせること無く、お皿をシンクに下げてリビングを出ていく彼の背中をただただ見送る。
 無計画なまま外出に誘ってしまったことを反省しながらいそいそと皿を洗い、僕もリビングを出た。
 勉強する前にシャワーでも浴びよう。
 そう思い、洗面所で服を脱いでいると、がらり、と洗面所の扉が突然開いた。

「わっ?!」

 敵襲か何かかと思い思わず振り返ったら、ぽかんと口を開けたまま棒立ちしている累くんと目が合う。
 立ち尽くしたままの彼は逃げることも扉を閉めることもなく、扉を開けたままの姿勢で固まっていた。
 ええと︙︙ど、どうしたんだろう。

「あ、あの︙︙累くん︙︙?」

 声をかけると彼はびくりと肩を揺らし、みるみる真っ赤になっていく。
 かと思ったら彼は声にならない悲鳴をあげながら爆音を立ててドアを閉めた。
 風圧で顔の毛が全部逆立つ。
 もしかして今︙︙に、逃げられた︙︙?

「逃げるほどだらしない身体だったかな︙︙」

 洗面所の鏡に映る自分の体を見ながら、僕は静かに溜息をこぼす。
 確かにふわっふわの毛のせいでぽっちゃり体型に見られることが多い。
 かといってバキバキかと言われればそういうわけではないけど︙︙。
 健康維持も兼ねて筋トレでも始めようかな、なんて思いながら僕は風呂場に足を踏み入れるのだった。


 <この続きは製品版で!>

【試し読み】君に地獄は似合わない

 こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
 冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。

000

 幽霊や妖怪といった類の存在を信じている人はこの世の中に一体どれぐらい居るだろう。
 少なくとも俺はこれっぽっちも信じていない。
 そもそもこの世には科学で解明できないものは存在していないはずだし……なにより、そんなものが存在するのなら、きっと俺のもとに両親が会いに来てくれるはずだから。

「いってきます」

 静まり返った玄関。
 この家の住人はあと二人、どちらもリビングにいるはずなのだけど、大荷物を持ってこの家を出ていこうとする俺に振り返りもしない。
 一人暮らしをしないといけないほど遠い大学に入学させたのもどうせ体の良い厄介払いをしたかっただけなんだろう。
 まさか厄介払いのためだけに大学費用を一括でぽんと出してくれるなんて思わなかったけど……まあ、こちらとしても世間話すら行き交うことのないあの冷たい家を飛び出せるのなら願ったり叶ったりだ。

「んーっ」

 家の敷地を出た瞬間、ずっと喉のあたりで詰まっていた息が楽になった。
 大きく伸びをして門出にもってこいの真っ青な空を見上げる。
 やっと大人の手を借りなくても生きていける年齢になれた。
 これから俺は大人の仲間入り……とまではいかなくても、自分で自分に責任を持つことができるのだ。

「やべ、早く行こ」

 がらがらと、大きなキャリーケースを引きながら駅までの道のりを急ぐ。
 ちなみに言っておくと俺を見送りもしてくれなかったあの二人は両親ではない。
 殆ど接したこともなかった遠い親戚だ。
 実の両親は……放火によって家が全焼し、それに巻き込まれて亡くなった。
 俺のせいで。
 男としてこの世に生を受けておきながら小さな体、細い手足、大きな目、小さな顔……まあ端的に言ってしまえば、俺は可愛い。
 自分で言うのもなんだけど。
 可愛い系男子みたいな感じじゃなくって、本当に女の子に間違われることが多いぐらい。
 そんな見た目だったもんだから俺は小学生の頃、厄介な変態に目をつけられ……家に火を放たれた。
 両親は逃げ遅れて寝室で焼死。
 夜中、トイレに起きていた俺だけが助かった。
 当時小学生だった俺に両親を助けることなんてできるはずもなく、ただ燃え落ちていく家を見ていることしかできなかったのを覚えている。
 だから俺は……幽霊なんてものを信じていないのだ。
 だってきっとこの世に幽霊なんてものが存在したのなら、両親が枕元に現れてこう言うだろうから。
 ”お前のせいだ”と。
 幼い頃は他人のような人たちの家を転々としながら両親が枕元に現れ恨み言を聞かされるのに怯えたりしていたものだけど、晴れてこの春から大学生になった現在までそんなことは一度も起こっていない。
 少なくとも今後、死んだ両親が会いに来たりしない限りは幽霊や妖怪といった類のものを信じることはないだろう。
 今一度、自信を持って宣言できる。
 この世に幽霊なんてものは存在しない。
 ……はずだ。



001

芦屋あしやさんは幽霊って信じてます?」

 二人分のキーボードを叩く音だけが響く室内でなんとなく零したその問いに返事は返ってこなかった。
 問いかけた相手の性格上、何かしらのアクションが返ってくるだろうという予想を裏切られた俺は顔を上げる。
 一方、問いかけられた彼はと言うと丸眼鏡の奥にある瞳をレンズよりもまん丸くしてこちらを凝視していた。
 まさか適当に零した疑問にそんな顔をされるとは思っていなかった俺は彼の瞳を見つめ返す。

「……突然どうしました?」
「あ、いや。今日、大学で肝試し行くだの騒いでるやつらがいたのを思い出して。そんで気になったんですよ」

 特に深い意味があったわけでも、深く考えたわけでもない。
 ただ何となく、彼は果たしてそんな非科学的なものを信じているのかと気になっただけだ。

「きみは信じているんですか?」

 答えではなく質問が返ってきたことに一瞬ぽかんとしてしまったけれど俺は直ぐに、まさか、と首を振った。

「いるわけないでしょ、そんなん」

 自分から聞いておきながらあんまりな答えだとは思ったけれど、信じてないもんは信じてないので仕方ない。

「芦屋さんは信じてるんですか?」

 もう一度同じ問いをしてみる。
 ここまできたら彼の答えを聞くまで終われない。
 普段の言動を見るにきっと現実主義者なのだろうと勝手に踏んでいたが、意外にも少しだけ考え込む様子を見せた彼に釣られ仕事の手が止まる。
 どこかワクワクとした気持ちで返答を待っていると、数秒の沈黙の後、少しだけ微笑んだ。

「んー……どうでしょう。信じる人がいるのなら、存在するんじゃないですかねえ」

 当たり障りのない返事につい拍子抜けしてしまう。
 だけどそれ以上なにか言ってくれる様子はなさそうだったので、俺は諦めて支給されているノートパソコンに向き直った。

「そういえば、きみと一緒に仕事をするようになってそろそろ半年経ちますね」
「ああ、そういやそうっすね」

 その言葉に半年前、彼と出会ったときのことを思い出す。
 大学に通い始めてから少し経った頃、信号無視のトラックに轢かれそうになっていたところを助けられたのが始まりだったっけ。

「まさかそのままバイトにスカウトされるなんて思ってなかったですけど。てか今まで一人で回してたのに何で急にバイト雇う気になったんですか? それも社会人経験のない大学生を」

 そう尋ねると彼はにこりと笑う。

「うーん、なんでと聞かれると直感としか言えませんねぇ。まあでも実際、半年経った今ではすっかり事務処理も板についてきていますし、その直感は当たっていたんですから結果オーライということで」
「まあ、俺としても普通のバイトするより全然時給いいんで助かってますけど」

 両親は居ない上に親戚連中とは縁切り済みな俺がバイトを掛け持ちすることなく普通に生活できているのは、彼が大学生が受け取るには多すぎるぐらいの給料を出してくれているからだ。
 つくづく彼と出会えてよかったと思う。

「ああ、そうだ。ともりくん」
「はい?」
「明日の予定ですけれど午後に変更になりました。折角ですし、一緒にお昼でもどうですか?」
「マジっすか?! 俺寿司がいいです!」
「にゃはは。素直で結構。じゃあそういうことで」

 いえーいお寿司お寿司~♪
 一人暮らしの大学生の身では寿司なんて食べ物は滅多に食べられない高級品だ。
 そんなご褒美が待っているだなんて俄然仕事のモチベーションが上がるというもの。
 俺は脳裏で回転寿司のレーンを想像しながら、キーボードを叩く。

「あ、芦屋さん。こっちの資料に写真入ってなかったんですけどそっちにあります?」
「ありますよ。どうぞ」
「あざっす」

 芦屋さんも褒めてくれたし俺ももう一人前だなんてちょっとだけいい気になったのだけれど、手渡された写真を何の気なしに見て調子に乗ったことを後悔した。
 これに関してはまだまだ慣れることができそうにない。
 今、俺の手元にあるのは所謂”不貞の証拠”。
 それも思いっきり情事中の。

「嫌そうな顔ですねえ、灯くん」
「そりゃそうっすよ……何が楽しくてこんな写真眺めなきゃいけないんですか」

 写っているのは数ヶ月前、うちに相談に来てくれたとある女性の旦那。
 残念ながらその旦那に組み敷かれているのは奥さんではない。

「ふふふ。依頼主様がとっても良い方だったのもあって尚更心が痛みますねえ。私、涙がちょちょぎれてしまいそうです」
「……これっぽっちもちょちょぎれそうには見えませんけど」

 よよよ、とわざとらしく泣いたふりをする彼に小さく溜息を零し、俺はノートパソコンの前に座り直した。

「っていうか、実際にいるんすね。何股もかけるような人って。ドラマとかマンガの中だけかと思ってましたよ」
「にゃはは。既婚者相手に五股するようなアホと戦うのは初めてですけど。こりゃ腕がなりますねぇ。カラッカラに乾くまで搾り取ってやるつもりなので書類は不備なくお願いしますよ。……といっても灯きゅんは優秀なので心配ないでしょうが」
「誰が灯きゅんですか。変な呼び方しないでください」
「あらら。つれませんねえ」

 なんとなく察しが付いてるかれもしれないけれど、この場所は弁護士事務所。
 先程からにこにこと楽しそうに笑っている丸眼鏡をかけた彼がここの主人である、芦屋あしや時雨しぐれさんだ。
 そして俺はここで事務作業のバイトをしている大学生、月白灯。
 バイトに大学にと大忙しの、まあ至って普通の大学生。

「ところで灯くん、大学の課題は大丈夫なんですか?」
「まだ期限に余裕あるんで大丈夫です」
「無理はいけませんよ。学生の本分は勉強ですからね」
「気をつけます」

 やっと書類作成をしながら芦屋さんと雑談できるくらいの余裕が出てきたのはつい最近のこと。
 実はこっそり将来は弁護士になろうかなあなんて思ってたりする。

「そういえば来週使う資料作って保存してあるんで、確認しといてください」
「お、さすが灯きゅん。仕事が速いですねえ。えらいえらい」
「その呼び方ハマったんすか?」

 実際に弁護士事務所で働くまで、弁護士と言ったら某なんちゃら裁判のような格好いい姿を思い描いていた。
 殺人事件やら凶悪犯やらを相手取り、弱気を助け悪を挫くヒーローのような存在だと。
 だが実際のところ舞い込んでくる案件は離婚調停だったり慰謝料請求だったりご近所トラブルだったり……言ってしまっては悪いが地味なものが殆どを占めている。
 ああ、これが現実ってやつか、なんて最初は思ったものだ。

「芦屋さんすいません、ここってどう書くのが良いですかね」
「うーん……今回のケースだとそうですねえ」

 そんな中でも一番多い案件は婚姻関係のトラブル。
 妻もしくは夫が不倫した、とか、婚約者に婚約破棄された、とか、配偶者からハラスメントを受けている、とか。
 ちなみに先程の写真は、奥さんがうっかり旦那の部屋で見つけてしまったものらしい。
 ……きっととても衝撃だっただろう。

「灯くん、コーヒー飲みますか?」
「え、俺が淹れますよ」
「こっち一区切りついたので。ミルクでしたよね?」
「……変なもの淹れないでくださいね?」
「にゃはは。保証はできかねます」
「マジかあ」

 まあこんな感じで不倫の証拠を思いっきり残してる人たちって探偵を使うまでもなくまんまと不倫がバレて、恥ずかしい証拠を暴露されがちなんだけどね。
 特に芦屋さんみたいな性格の悪い弁護士を敵に回すと、家族全員が見ている話し合いの場で写真をわざわざ拡大してプロジェクターに映されたり、大量に印刷した証拠写真を転んだふりして法定にばら撒かれたりされるのだ。

「灯くんがもし不倫の被害者になってしまったら呼んでくださいね☆ 社割として特別に依頼料三十パーセントオフにしときますから」

 バイトを始めてから数ヶ月ぐらいの頃にこう言われたけど、絶対にこの人の世話にだけはなるまいと固く心に誓ったきり、その誓いは今のところ破られていない。
 奥さんどころか彼女もいないから破りようもないんだけど。
 まあそんな感じで、バイト先は少し特殊だが良い経験を積みつつ、毎日これといった大きなトラブルもなく日々を平凡に過ごしていたのだけれど……。
 そんな平凡が崩されたのは、それから数日後のことだった。


◆ ◇ ◆ ◇


「本日の講義はここまで。課題は再来週までに提出するように」

 教授が雑に黒板を消して講義室を去っていく。
 その様子を横目に見ながら俺はさっさと私物を鞄にしまい込み、席を立った。
 まだ昼前だが、今日はもう受けなければいけない講義もないのでさっさとバイトに行くことにした俺は足早に正門へと向かう。
 すれ違う学生から向けられる、奇異なものを見るような視線にはもう慣れた。
 それが果たして俺の性別がわからなくて向けられるものなのか、指先まで隠れるオーバーサイズのトレーナーを常に着ていることに向けられているのかはわからないけれど。
 学内は広いうえに学部が大量にあるので、半年真面目に通い続けていても全く顔を見たことがない学生も当たり前に居る。
 で、そういうやつとすれ違ったときって大体……。

「ねえ、君どこの学部? ちょっとこの後ご飯とかどう?」

 まあ。
 うん。
 こうやって結構な確率でナンパされるんすよ。
 いや自慢じゃないんだ、マジで困ってんの本当に。

「……他当たれよ」

 俺の行く手を遮った初対面の男の脇を通り抜けてさっさと玄関へ向かう。
 いや、向かおうとしたんだけど。

「まあまあそう言わずに。行こうよ、ね?」

 腕を掴まれてそれは叶わなかった。
 そいつは何やら穏やかそうに微笑んではいるけれど、その目には明らかに自分本意な欲が見え隠れしている。
 コイツ、絶対初日でヤれると思ってるタイプの男だ。
 ……完全に憶測だけど。
 とにかくご期待には添えない旨をハッキリと伝えないと面倒なことになると思い、見上げるくらい高い位置にある男の顔を睨みつける。
 クッソ、こいつ背ェ高えな!
 腹立つわ!

「あのさあ。期待を裏切るようで悪いんだけど、俺、男なんだわ。お前とおんなじモノ付いてんの。残念でした。じゃ、そういうことで」

 やっぱりこいつも俺のことを女だと勘違いしていたんだろう、できる限り低めの声でそう告げると驚いたのか俺の腕を掴んでいた力が少しだけ緩んだ。
 その隙に振り払ってさっさと逃げる。
 
「次はちゃんと女の子をナンパしろよ、このミーハー野郎!」

 逃げながらそう叫ぶと、幾分気持ちがスカッとした。
 後ろからなんか言ってるのが聞こえたけど気にしない気にしない。
 この世には逃げるが勝ちって言葉があるんだよ、ばーか。
 生まれながらの小さな体をどうにか大きくしたくて小中高と色んな部活に勤しんだのが功を奏したのか、追いかけようとしていた男を振り切ることに成功した俺はさっさと大学敷地内を後にした。
 運動神経はそこそこあって助かった。
 まあ運動部入っても痩せるだけで全く筋肉はつかなかったけれど……。
 すばしっこくなっただけ……。
 ラグビー部に体験入部してみたら三メートルくらい吹っ飛ばされて初日で心と骨が折れたのはいい思い出。
 身体が大きいのはある種の才能なんだとそのときに痛感したものだ。

「はあ、マッチョになりてえ……」

 ……うん、男の魅力は体の大きさだけじゃないよな!
 俺、ファイト!
 と強引に気持ちを切り替え改めてバイトに向かおうとすると、平日昼間の少しざわついた街の中をゆっくりと歩く見慣れた背中を見つけた。

「あ、芦屋さーん!」

 ラッキー。
 俺ってツイてる。
 このまま芦屋さんと合流して事務所に行くついでに昼飯おごってもらおー、なんて下心満載で彼の名を呼んで大きく手を振ったのだけど、どうやら声は届かなかったようで彼の背中はそのまま曲がり角の向こうに消えていってしまった。
 慌てて追いかけ、角の向こう側を覗き込んだけれど彼が足を止めてくれる様子はなさそうだ。
 というか……そっち、事務所と逆方向、だよな?
 もしかして仕事の予定でも入ったんだろうか。
 スケジュール表には何も書いてなかったような気がするけれど。
 色々考えながらも、どちらにせよ彼が居ないと事務所に入れないので迷った末に芦屋さんの背中を追いかける。
 キビキビと歩くその背中との距離はなかなか縮まらず、自分の小さな身体が憎らしい。

「ちょ、ちょっと……待ってくださいよ、芦屋さ…………ん……?」

 ぜえはあと息をしながら何度目かわからない角を曲がって目の前に開けた景色に思わず足を止めた。
 そこはなんてことのない普通の住宅街だったのだけど、異様なほどしんと静まり返ったその空間に、どこか違和感がある。
 平日だから住宅街が静かなのはそこまで不思議ではないのだけれど、それにしたって、例えば専業主婦の方だとか幼い子供の一人や二人くらいはいてもいいだろう。
 けれど、目の前に立ち並ぶ家々からは生活音すら聞こえなくて……まるでただそこにあるだけのように見えてしまう。
 そんな人の気配がしない空間をたった一人進んでいく芦屋さんの背中が先程までよりずっと遠く感じた。

「……っ」

 思わず怖くなって後ろを振り返ったが、後方には前方と同じような住宅街がずっと広がっているだけ。
 周囲をよく観察せずただ芦屋さんの背中を追いかけることに必死になっていた俺には自分ひとりで来た道を戻ることもできそうになかった。
 ここで芦屋さんを見失ってしまったら二度と家に帰れないような気がする。
 なんとなく直感的にそう感じた俺は不安に背を押されるようにして慌てて前方に視線を戻し、再び彼の追跡を再開した。
 それから十分もしないうちに住宅街は終わり、代わりに木々が立ち並ぶ少し田舎っぽい道が姿を表す。
 そんな道をまた少しだけ歩いた後、芦屋さんの姿は唐突に脇道に入り木々の間に消えていった。
 え……あれ、道なの?
 ほんとに?
 あの人どこ行こうとしてんの……?
 ただでさえ見慣れない風景なのに更に木をかき分けて歩くなんて不安で仕方なかったが、彼とはぐれるのはもっと不安だったので恐る恐る木々の間に体を滑り込ませた。
 その瞬間、目の前に現れたのは、永遠に続いているんじゃないかと思うほど長い、苔の生えた階段。
 ひっそりと隠れるようにして存在しているそれは少し湿っぽくて、じわりと嫌な汗が首筋を伝う。
 正直逃げ出したいけれど尻込みしている俺を置いて芦屋さんはすたすたと軽やかな足取りで薄暗い階段を登っていった。
 こんなところに置いていかれるのは嫌だと思った俺は急いで彼の後に続く。
 …………が。

「はあっ、はっ、はあ……っ、あー……キッツぅ……」

 [[rb:太腿 > ふともも]]が震える。
 [[rb:脹脛 > ふくらはぎ]]もぴくぴくする。
 走って逃げるくらいならともかく、階段ダッシュなんて部活に入っていた頃以来で身体が言うことを聞かない。
 少しぼやつく視界でなんとか階段を登り続けていくと、一番上の段で芦屋さんが立ち止まっているのが見えた。
 一体どうしたんだろう、そう思っていると芦屋さんがこちらにくるりと振り向く。

「……やれやれ。いけない子ですね、灯くん」

 彼が着ているベージュのトレンチコートが風に煽られてぶわりと舞い上がった。
 眼鏡が反射して彼の目元は見えないけれど、口元にはいつもの薄い笑みを湛えている。

「途中で諦めてくれるかなと思ったんですけど、まさかここまで着いてくるとは。こうなるなら早めに追い返しておくべきでした」

 ……?
 芦屋さん、なんか怒ってる?

「だめですよ、人のことを付け回しちゃ」
「あ、えっと……すみません……。何回か声かけたんですけど」
「まあ私も悪かったです。こうなってしまった以上離れるのは危険なので、ちゃんと着いてきてくださいね」
「? はい」

 なにが危険なんだろ。
 よくわからないけれどとりあえず合流できてよかった。
 再び階段を登りだした彼に息も絶え絶えになりながら続く。

「芦屋さん、これどこに向かってるんスか?」
「……すぐにわかりますよ」

 そうしてようやっと登りきった先にあったのは、昼間なのにどこかひんやりとして薄暗い、少し風が吹いたら根本から崩れてしまいそうなほど廃れた神社と、赤黒く変色した鳥居。
 和風ホラー映画の舞台とかになっていそう。
 端的に言うと、不気味な場所だ。

「ここは?」

 そう尋ねると芦屋さんはふいと周囲を見渡し安堵したように小さく息を吐く。

「見た通り、神社ですよ。ちょっとしたお参りに来たんです」
「お参りって……見た感じ廃神社ですよね、ここ」

 わざわざこんな廃れた神社に来なくてもお参りなら他の場所もあると思うけれど。

「灯くん。先日きみがした質問、覚えていますか?」

 突然話題を変えられて思わずぽかんとしてしまう。
 質問?
 俺、なんか聞いたっけ。

「覚えていないのなら、大丈夫です。私の目的は達成しましたし帰りましょうか」

 なんだそれ。
 そんな風に言われると気になるじゃんか。
 それ以降押し黙ってしまった芦屋さんに少し不満を[[rb:懐 > いだ]]きつつ、折角来たのだから自分も挨拶ぐらいしようと思い彼より少し遅れて鳥居を潜った。
 その瞬間、強く風が吹いて目の前を木の葉が舞う。
 突然のことに驚き、思わず目を瞑って、そして。

「…………え?」

 視界が真っ暗になった。
 ……いや、違う。
 赤黒い何かが、目の前にいる。
 今まである程度は平和な人生を過ごしてきた俺にもわかる。
 今目の前にいる”それ”が、どれだけ危険で、人間が関わってはいけないものなのか。
 ああ。
 少し前に芦屋さんにした質問、思い出した。

 ”芦屋さんは幽霊って信じてます?”

 俺は全く以て信じていない。
 ……いや、信じていなかった。
 今、この瞬間までは。
 上方から刺さるような視線を感じるけれど、その視線を辿る勇気が出ない。
 ただただ、自分を見下ろしているその存在を否定するように自分の靴の紐を見つめることしかできそうになかった。

「灯くん、逃げなさい!」

 境内いっぱいに響いた声に弾かれるようにして顔を上げる。
 瞬間、目の前に居た”それ”の姿がくっきりと見えた。
 辛うじて人っぽい形はしているけれど、その体は人にしてはあまりにも大きい。
 憧れるほど逞しい体にくっついている頭はまるで牛のようで、灰色の立派な角が木々の隙間から落ちてくる細い光に照らされて光っていた。
 顔には鮮やかな和柄の布がかけられていて、感情やら表情やらそういったものは一切感じられない。

「あ、」

 喉が掠れて悲鳴すらあげることもできないまま俺は立ちすくむ。
 逃げなければいけないというのはわかっているのに膝が震えて動かない。
 ただただ脳内だけが危険信号を発して、意識だけが混乱していく。
 どうしよう。
 逃げなきゃ。
 どうしようどうしようどうしよう。

「灯くん!」

 芦屋さんの声が響くのと、その声に背中を押されるようにして走り出すのと、その赤黒い何かがゆっくりと手を伸ばすのとは殆ど同時だった。
 背中を向ける時間すら惜しいくらいなのに、何かわからないものと対峙してしまった恐怖で足がもつれて思うように進めない。
 あーもう!
 もうちょっと頑張れよ俺の足!
 階段めっちゃ登ってきて疲れてんのはわかるけどさあ!
 もどかしさを感じながら必死に両足を動かしていたら案の定、自分の足にもう片方の足を引っ掛けてしまい、派手に身体が傾いた。
 ぐらりと揺れる視界。
 ゆっくりと反転していく世界を何も出来ず眺めていると、さきほど登ってきたばかりの苔だらけの階段が目の前にどんどん迫ってくる。
 あー……死んだなあ、これ。
 そうぼんやりと思いながら迫りくる景色を見つめていたのだけれど、身体に走ったのは覚悟した痛みではなく二の腕を力強く掴まれた感覚だった。
 自分の腕をつかんだのが誰か……いや、”なにか”なんて簡単に想像がついて、背筋がひんやりと冷たくなる。
 そう、ちょうど半年前のあのときのように。



002

 目の前すれすれを巨大な貨物を積んだトラックが通り過ぎていく。
 青色に点滅する歩行者用信号をぼうっと眺めていた俺の意識を現実に引き戻してくれたのは、どこか胡散臭く、でも頼りがいのある優しげな声だった。

「大丈夫ですか?」

 恐る恐る振り向くと、スーツを少しラフに着こなした男性と目が合う。
 丸眼鏡の奥で細められている柔い目元にどこか安心して、それと同時にたった今、自分が死にかけたという事実が喉の奥に滑り落ちていって、どっと汗が吹き出した。
 大学の帰り、さっさと帰ろうと思った俺は横断歩道に飛び出して……信号が点滅して、クラクションの音が聞こえて、突然目の前が真っ白になって。
 そしたら腕を引かれたような感覚がして、視界がぐんって後ろに戻った。

「おーい。生きてますかー?」

 目の前で手をひらひらと振る男性。
 彼の持っているスマホの画面越しにきょとんとした顔をしている自分と目が合う。

「生きて、ます」
「にゃはは。それはよかった」
「えっと、ありがとうございます……」
「いーえ。お気になさらず」

 相変わらず地べたに座り込んだままの俺に目線を合わせてしゃがみこんだ彼は、薄く笑みを浮かべながらスマホの画面をこちらに向けた。
 そこに映っていたのは横断歩道を渡っている俺の後ろ姿と、それに迫ってくる大きめのトラック。
 写真を見る限りは少し遠目から撮影されているようだった。
 この人、よくこの距離から俺のこと助けられたな……。

「さっきのはどう見たって信号無視ですねえ。歩行者が居るのにブレーキを踏む様子もなし……随分と悪質な行動に私、びっくりしてしまいました。でも大丈夫。見てください、証拠もナンバーもばっちり映ってます」
「……え、えっと」
「どうです? あのトラックの運転手、訴えませんか? なあに、悪いようにはしませんよ」

 …………あれ、もしかしてこの人、やばい人?
 にんまりと笑みを深くした彼は立ち上がり、こちらにそっと手を差し出す。
 その手を取りかけて……ちょっと思い直して彼の手は借りず立ち上がった。
 うわあ、ジーパンが砂利まみれ。

「ああ、そういえば自己紹介がまだでしたね。私、こういう者です」

 差し出された名刺を受け取って、紙面を見る。
 シンプルなデザインの紙面には彼の名前と職業だけが印刷されていた。
 ……えーっと、これ、名前なんて読むんだろ。

「私は芦屋時雨。弁護士をやってます。よければ、きみのお名前を聞いても?」
「えっ、あ、……月白灯、です」
「ふむ。では、灯くん。私はああいった[[rb:手合 > てあ]]いを見ると慰謝料を請求して借金まみれにしてこの先の人生すべてを奪ってやらないと気がすまない性分なんですよ。なにゆえ正義の味方なものでねえ。にゃっはは」

 正義の味方の台詞とは到底思えなかったけれど、舌の上まで出かけたツッコミは飲み込んだ。
 いきなり下の名前をくん付けで呼ばれたことに関してもまあこの際気にしないことにする。

「それに灯くんは怪我まで負わされているわけですしね」
「え?」
「右手、切れてますよ」

 彼の言葉に右手を持ち上げると、手の側面に一直線に伸びた傷口から血が零れ落ちてコンクリートの上で弾けた。
 よく見たらトレーナーの袖口も真っ赤に染まっている。
 うわあ、と思った瞬間に、ぴりりと指すような痛みが背中から頭の後ろまで駆け上がってきて思わず顔を[[rb:顰 > しか]]めた。
 こういうのって自覚した瞬間から痛くなるんだよな。

「とりあえずは病院に行きましょう。病院での診断書も武器になりますから。親御さんは近くに居ますか?」
「……親、と呼べるような人たちは……呼んでも、来ないと思います」

 ゆっくりと首を振ると彼は、そうですか、とだけ零し、なぜか俺の頭を撫でた。

「じゃあ私が保護者代わりということで。ご両親へ連絡したいのですけれど」
「いいです。あとで俺が言っとくんで」

 そう突き放しつつ血まみれの右手を袖の中に戻そうとすると、彼はぎょっとしたような顔をして俺の右手首を握る。

「ダメですよ、そんなことしたら。服が汚れますし、傷口に雑菌が入ってしまいます」
「……離してもらえます? 大丈夫なんで」
「大丈夫なわけ無いでしょう。とりあえず急いで病院に……」

 彼の目線が俺の右手に向かい、そして、固まる。
 またこの反応だ。
 嫌になる。
 俺が指先まですっぽり隠れる服を着るのは、右の手のひらを見られないため。
 小学生の頃、家が火事になったときに負った酷い火傷の痕。
 ぐちゃぐちゃで化け物みたいなその右手を見たやつは大体、気持ち悪いものを見るような顔をしたり、異常に俺を可哀想なやつ扱いしてきたり、まあ[[rb:碌 > ろく]]な反応が返ってこない。
 できるだけ触れないでいてくれたらいいのに、無駄に干渉して来ようとするんだ、どいつもこいつも。
 ……この人も、そうなのかな。

「はい、これでどうですか?」
「……え?」

 俺の手を優しく握った彼は回想に耽っていた俺の顔を笑顔で覗き込んできた。
 なにが、と言いかけたとき、自分の視界に白い布が巻かれた右手が映り込む。

「たまたま包帯を持っていてよかったです。とりあえずこれで応急処置ってことで」

 たまたま包帯を持ち歩いてる人なんているか……?
 今回負った怪我を処置するだけなら手のひらに巻くだけで事足りるはずなのに、包帯は指先までしっかりと巻かれ火傷の痕をしっかりと覆い隠していた。

「これなら袖の中に手を隠す必要はありませんよね」
「え……ああ……そう、ですね」
「さて。じゃあ早いとこ病院行きましょうか。応急処置といっても素人が包帯巻いただけなのでね」

 そう言って、彼は俺の右手を優しく握ったまま歩き出す。
 なんだか恥ずかしかったけれど、なんとなくその手を振り払うことが出来ないまま俺は彼と病院に向かい、診察と治療をしてもらった。

「あの、ありがとうございました」

 素人ではなくプロに包帯を巻いてもらった右手を袖の奥に隠しながら、彼にそっと頭を下げる。
 すると彼はにんまりと嬉しそうに笑いながら……財布を取り出した。

「え、ちょ、あの?! もしかして治療費払おうとしてます?! 自分で払うんで大丈夫ですから!」

 慌てて自分も財布を取り出したが間に合わず払うだけ払った彼はさっさと出口に向かっていく。

「ほら灯くん、行きますよー」
「待ってくださいって! 治療費、お返しします!」
「いりませんよ。建て替えた分の治療費はあのトラックの運転手に請求するのでご安心を」

 領収書を手ににんまりと笑った彼は、こちらに向き直った。

「さて、改めてですが、灯くん。私は弁護士で、きみは事故に遭った被害者だ。……こうして会えたのも何かの縁だと思いません?」

 ざわりと風が吹いて、木の葉が舞う。

「成功報酬で三割。着手金は学生さんってことでサービスしときましょう。悪い条件ではないと思いますが?」
「ええっと……」
「私の見立てでは数百万は取れるでしょうねえ」
「すうひゃっ……?!」
「さあ、どうします?」

 正直、あんまりこの人を信用したわけじゃないけれど、今まで出逢ってきた人の中では一番好感が持てる。
 彼の話のとおりなら、俺はノーリスクハイリターンのギャンブルに参加できるってことだ。
 後から費用請求される可能性がゼロではないけれど。
 そっと横目で彼の顔を見る。
 ………………笑顔だ。
 うーん、読めない。
 右手を見つめて……改めて彼に向き直る。

「……お願い、します」
「にゃはは。そう来なくっちゃ」

 嬉しそうに微笑む彼の笑顔は、とても頼もしく見えた。


◆ ◇ ◆ ◇


 今のは走馬灯ってやつなんだろうか。
 たった半年前の出来事の走馬灯ってだいぶ近々すぎる気がするけど。
 なんてぼんやり思っていると、目の前にあった階段の角はぐんと離れていって、身体が後ろに引っ張られた。
 幸いなことに階段を転げ落ちることは避けられたようだけれど、その代わりに俺の頭くらいなら簡単に握りつぶせてしまいそうなくらい大きな手に引かれて後ろにつんのめる。
 勢いそのまま振り向かされたと思ったら視界はまた数秒前と同じように赤黒く染まった。
 改めて逃げようにも俺の胴体と同じくらい太い腕がしっかりと背中に回っていてびくともしない。
 さきほど目の前にいた謎の巨体に拘束されているという事実は考えるまでもなく明らかだった。
 なんで俺、ムッキムキの巨体に抱きしめられてんの?
 うわあ、胸板えぐい。
 このまま押しつぶされんのかな、俺。
 痛そうだなあ。
 死にたくないな。
 この状況だと押し潰されるとはちょっと違うのかな……抱き潰される?
 …………考えんのやめよ。
 なんてぐだぐだ考えながら数秒後に来るだろうと予想した痛みにぎゅうと目を瞑って構えたけれど、待てど暮らせど一向になにもない。
 それどころか、大きな手はまるで宝物でも扱うかのように優しく、恐る恐るといった様子で俺の背中を行ったり来たりしていた。

「はっ、え……?」

 目を開けると、目の前にやっぱりあの巨体と牛の形をした頭。
 うん。
 やっぱ絶体絶命だよな、状況的には。
 抜け出そうと[[rb:藻掻 > もが]]くけれど巨体の腕はびくともしなくて、相変わらず背中に回っている手はこちらの都合なんてお構いなしに、感触を確かめるように腰から背中、肩までを伝う。
 えっと……これ、なにされてんの?
 全力で暴れてみたけど、やっぱりびくともしない。
 あ、これもしかして、どこから食べるか迷ってる?!
 どうせ食うなら一思いに頭からお願いしたいんだけど!

「その子から離れなさい」

 パニックになりかけた脳に、芦屋さんの唸るような低い声が響く。
 続いて、かちり、と金属が擦れるような音。
 相変わらず目の前には赤黒い何かがいるので何も見えないけれど、声色でとりあえず芦屋さんがとんでもなく怒ってるっていうのはわかった。
 ちょっと前、慰謝料の支払いを渋った人がこのくらいドスの効いた声で恐喝ギリギリのラインを攻められていたっけ……。

「離れなさいと言っているのがわかりませんか?」

 芦屋さんが凄んだ瞬間、背中に回っていた手の力は少しだけ緩んで、でもしっかりと俺の腰を掴んだまま、視界を遮っていた巨体はゆっくりと体を捻る。
 やっと開けた視界に映ったのは黒光りする銃口を巨体に向けた芦屋さんの姿。
 ……待って、なんかめっちゃ物騒なもん持ってる。
 え、あれ銃? 本物? マジで? なんで?
 加害者の脅し方とか相手を訴えるまでの手際とかよくわからない人脈とか、確かにヤで始まってクを経由してザで終わる職業の人っぽいなあってたまに思ってはいたけど、もしや本職の人なの?
 さっき聞こえた金属の音って、もしかして撃鉄を下ろす音、ってやつ?
 芦屋さんの顔が見えたことで少し余裕が出たのか、ぐるぐるとどうでもいいことを考えていると、視界に大きな手が滑り込んできて一瞬光が遮られる。
 それは本当に一瞬のことだったのだけれど、次に光が戻ってきた時、俺は絶望した。

「……え」

 そりゃそうだろう。
 ついさっきまで目の前に居た芦屋さんの姿が消えていたんだから。
 え、ちょっと待って。
 何が起こった?
 展開が早すぎてついていけない。
 しかし混乱している俺を他所に、巨体は俺の腕を掴んでどこかへと歩き出す。

「えっ、え……? ちょ、え?!」

 まるで私有地を歩くようにまっすぐ進んでいく巨体。
 殆ど引きずられるようにして、そのまま神社の境内の奥へと連れ込まれてしまった。
 靴を脱ぐ暇すらなく土足のまま本殿に入ってしまったことに罪悪感が頭を擡げる。
 こんな綺麗な本殿を土足で歩くなんて、罰当たりも良いところだろう。
 本殿の中は檜のいい匂いがして、室内の装飾はまるで建てられて直ぐかのように煌びやかで…………って、あれ……?
 思わず振り向いて本殿の外を見た。
 鳥居は朱い輝きを放ち、手洗い場の水も飲めそうなくらい澄んでいる。
 瞬間、首の後ろを冷や汗が伝った。
 さきほどまで目にしていた神社とは明らかに様子が違う。
 俺がこの場所に足を踏み入れた瞬間に見た神社は、少しでも風が吹こうものならギシギシと鳴いて、少しでも地面が揺れようものなら跡形も無く崩れ落ちてしまいそうだったのに。
 この状況……芦屋さんがいなくなったんじゃなくて、俺がどこか別の場所につれてこられたんじゃないだろうか。
 まさか俺、さっきの一瞬で絶命した?

「ん……?」

 肩を控えめにつつかれて思わず振り向くと巨体の顔が目の前にあって思わず飛び上がる。
 ヒィ、と情けない声と一緒に肩が激しく跳ねて、恐怖で膝から崩れ落ちそうになったが背後にあった柱を支えにしてなんとか耐えた。
 いやまあ殆ど崩れ落ちたようなもんだけど。
 膝とか、ほら見て、ガックガク。
 生まれたての子鹿に笑われそうなぐらい震えてるよ。
 巨体と一対一になってしまった今、一体なにをされるんだろうと身構えたが、巨体はこちらをじっと見るばかりで動こうとしない。
 まだどこから食べるか迷ってるのかな……。

「あの、お、俺に何か用ですか」

 どうせなら足掻いてみるかと意思の疎通を図ってみるけれど残念ながら無反応。
 これが玉砕ってやつかあ。
 いまさら流暢に日本語話されても怖いけど。
 っていうかこの巨体、喋れるんだろうか。
 微動だにすることなくこちらを真っ直ぐ見つめてくる巨体。
 それにしても顔にかかっている布、装飾が綺麗だなあ。
 窓から差し込む日差しを反射してキラキラしてる。
 触り心地も良さそうだ。
 このまま死ぬならなんかもうどうでもいいやと思い、手を伸ばし触れようとして……止まった。
 相変わらず巨体は俺のことを“まっすぐ見つめてくる”。
 少し前までは遠くにある顔を見上げていたはずなのに。
 違和感に気付いて視線を下にずらすと、どうやらこの巨体、俺の目線に合わせてしゃがんでくれているようだった。
 まるで忠誠を誓う騎士か、或いはちょっとキザなプロポーズのような姿勢。
 一度伸ばした手を引っ込めることも出来ず宙に浮かせたままにしていると、自分のそれより二周り以上も大きな手が恐る恐る絡みついてくる。
 感触を確かめるように指先から手首までをなぞられてくすぐったい。

「え、あの」

 この巨体が何なのかは結局わからない。
 わからないけれど……でも、本当に何となくだけど、こうやって優しく手を握られてしまうとこいつは悪いやつではないんじゃないかと思ってしまう。
 今までの感じだと危害を加えようとしているわけではなさそうだし、もう一度意思の疎通を試して見る価値もあるかもしれない。

「あー……ええと、ここはどこです、」

 か、という声が跳ねた。
 また巨体に腕を引かれてされるがまま奥へ奥へと連れて行かれる。
 前言撤回!
 やっぱ食われるわこれ!
 丸焼き? 刺し身……いや、踊り食いが一番可能性高いか……。
 どうせ食べるなら残さず食べてほしいと祈っている間に、いくつもの襖を開けてやっと辿り着いたその部屋は殺風景な書斎のような部屋だった。
 だだっ広い空間に隙間だらけの本棚がぽつんと置いてあって、部屋の隅っこにこれまたぽつんと和風っぽい低めの机が置いてある。
 ここまで抜けてきた部屋も何もなく殺風景だったけれど、少しだけ生活感が見えるこの部屋が一番寂しくて、ひんやりと寒いような気がした。
 というかこの本殿、外から見た大きさと明らかに広さ違くないか?
 やっぱり俺がどっか変なところに連れてこられたって認識、間違ってなさそう。

「あっちょ、」

 短い人生だったなあ、なんて感慨に耽っているとこの空間に少し強引に招待してくれた巨体は急に俺の手を放した。
 かと思ったら机の前に座り込み、置いてあった紙を引っ掴むとその上に筆を滑らせていく。
 なんか書いてる?
 何がしたいのか全然わかんないけどすごい夢中になってるっぽいし、もしかしたらこの隙に逃げられるかも。
 そう思って振り向いたのだけど……先程まで全開だったはずの襖は隙間もなくぴったりと閉まっている。
 …………待って。
 え、嘘でしょ。
 嫌な予感がして襖に手をかけて力の限り引いたが、襖はうんともすんともガタとも言わない。
 やっぱそうだ!
 開かねえ!
 というか、びくともしねえ!
 ホラーゲームとかでよくあるやつだ!
 “鍵はかかっていないはずなのに何故か開かない”ってやつだ!
 これ絶望感ハンパねえな!
 暫くの間あがいてみたけれど、こりゃ無理だと諦めた俺はなんとなく未だに机に向かったままの巨体にできるだけ足音を立てないよう気をつけながら近づいた。
 俺が襖相手に奮闘している間にどうやら巨体も奮闘していたらしく、巨体の周囲には筆跡が残された紙が幾つもくしゃくしゃになって転がっている。
 好奇心は猫をも殺す。
 そんな[[rb:諺 > ことわざ]]が脳裏を過ぎったけれど、気になるもんは仕方ない。
 大きな背中越しに机の上をそおっと覗き込んだ、その時だった。

「ヒィッ?!」

 がさ、と繊維が擦れる音がしたかと思ったら、目の前に紙が差し出された。
 めっちゃビビった。
 この巨体の一挙手一投足に精神力と寿命が削られていく……。
 ってあれ、紙に書いてある文字、ちょっと下手くそだけど日本語だ。
 どれどれ。

「こ……わ、く、……な、い?」

 “怖くない”?
 怖がるなってことかな。
 ……あ、もしかして会話しようとしてくれてる?
 ちょっと質問してみよう。

「お、俺のこと、食べようとしてます?」

 そう言ってしまってから元気良く頷かれたらどうしようかと不安になったけれど、意外にも巨体は俺の問いに勢いよく首を振った。
 それから再び机に突っ伏したかと思うと筆を走らせ、またその紙を目の前に差し出してくる。
 ええと、なになに。
 “いっしょ に いたい”……?
 その文字をとりあえず飲み込むことはせず、巨体にそっと視線を向ける。
 顔は布がかかっているから見えないけれど多分目が合ったんだろう、巨体は小さく何度か頷いた。
 これ、やっぱりなんかこう、死後の世界に連れて行かれるとか、この空間に永遠に縛り付けられるとかってこと……?

 ここに いて

 次に差し出された紙にはそう書いてある。
 ……やっぱそれっぽいな。
 流石にまだ死にたくないけど、この状況を打破する策も思いつきそうにない。
 どうしよう、なんか無いかな。
 どうにかして逃げられないもんかと視線をあちこち泳がせていた時、足元に落ちていた一際くしゃくしゃにされた紙が妙に気になった。
 そんなことしている場合じゃなかったはずなのに、そっとその紙を拾い上げて何の気無しに開く。
 あれ、白紙……?
 いや違う。
 紙の端に、小さく、本当に小さな文字がか細く並んでいる。
 “さみしい”という四文字が。
 巨体はと言うと、まさか俺がこの状況で紙を拾って見るとは思っていなかったのか何やらあたふたしている。
 そういえば……俺に紙を差し出したこいつの手、震えていたような。

「……寂しい、のか?」

 俺の問いに肩を震わせた巨体はその後少し固まっていたけれど、やがてゆっくりと首を縦に振った。
 殺風景な部屋。
 鳥の声も聞こえない森。
 揺らがない水面。
 この巨体が寂しさを感じることができるということに驚いたけれど、ずっとこの空間で一人きりで過ごしてきたんだとしたらその感情は抱いて然るべきだろう。
 そう思うと急にこの存在がすごく小さく見えて……まあ早い話が同情してしまった。
 巨体のごつごつとした大きな手が指先に触れて、縋るように弱々しく握られてしまって、どうしていいかわからなくなる。

「まあ……こんなとこ、寂しいよな、そりゃ」

 それにしても、なんでこの巨体はこんなところにいるんだろう。
 いやまあ人ならざるものが登場するロケーションとしては完璧だったけど。
 とりあえずこの巨体が完全に悪いやつではないっていうのは何となく分かった。
 とはいえ要求通りずっとここに留まるというのはちょっと、いやかなり都合が悪い。
 折角ならちゃんと社会人を経験してから死にたいし……一応、将来やりたいこともあるし。

「でも俺、大学もあるし、帰らないと」

 そう言うと巨体はしゅんと項垂れてしまった。
 うう、罪悪感がすごい。
 ごめんな、俺は君と一緒にいるわけにはいかないん……だ……。
 あ、あれれ?
 いつの間にか腕に巻き付いていた大きな手のひらが徐々に食い込んでいく。
 ゆらりと立ち上がった巨体はこちらを見下ろしながら、もう片方の手をゆっくりと伸ばしてきた。
 途端、背筋に震え上がるような悪寒が走る。
 腰から力が抜けそうになって、肩に何かが乗っかっているような重みが伸し掛かった。

「っ、ぐ……」

 待って待って待って待って!
 なんかミスったっぽい!
 俺このまま殺されるかもしれない!
 どうしよう、どうしよう……!

「あ、のっ」

 無我夢中で声を張り上げ、巨体の手を握る。
 するとほんの少しだけ腕を掴んでいた力は弱まり、巨体はこてんと首を傾げた。

「俺の家っ、来ればいいんじゃないっすかね……!」

 あーもう何言ってんだ俺!
 とっさに言ってしまったそれを脳裏で反芻しては深く後悔する。
 でもこれ以外に解決策が見つからなかった。
 巨体は俺の言葉に首を傾げたまま微動だにしない。
 沈黙で心臓がぶっ壊れそうだ。
 やっぱりダメかと諦めて目を瞑った瞬間、背筋にずっとあった寒気と肩に乗っていた重みが消える。
 恐る恐る目を開けると先程までとは打って変わって、しゃんと背筋を伸ばして勢いよく何度も頷く巨体が目の前に居た。
 これは、オッケーってことか?
 なんとか死亡ルート回避できたっぽい。
 やっちまった感は否めないけど死ぬよりはマシなはず。
 …………多分。
 なにやら楽しそうにウキウキしてるっぽい巨体とは対象的に、俺の気分はずんと沈んでいく。
 気分が沈むとかのレベルじゃない気はするけどまあとりあえず生きられるっぽいから良いかあ。
 思わず肩を落として、次に顔を上げたときには、目の前に芦屋さんの姿とその背後に廃れた神社があった。
 ……。
 …………?
 ……………………!
 あっ、戻ってこられたのか!
 良かったー!
 とにかく生きてる!
 今は!

「灯くん、耳を塞いでください」
「え?」

 まだ自分が死んでいなかったことと元居た場所に戻って来られたことに幸せを感じていると、空をも劈くような音が聞こえた。
 何が起こったか分からずキンキンと鳴る耳を押さえる。

「これは効かないか」

 芦屋さんが舌を鳴らすのと同時に、かつん、と金属が砂利の上に転がる音が聞こえた。
 からからと音を立てながら足元まで転がってきたのは……うん、実際に見るのは初めてだけど多分これ、弾丸……だよ、ね……。
 彼と初対面のときに思った“この人ヤバい人かも”っていう感想は多分間違ってなかったらしい。
 っていうか警告してからもっと猶予くれよ!
 耳塞げって言いながら撃ったぞこの人!

「っちょ、」

 静かに怒りを覚えていると、隣にいたらしい巨体がずんずんと芦屋さんに近づいていった。
 どうみても仲良くしようとしている感じではない。

「ま、待って!」

 声を掛けても止まってくれない。
 ど、どうしよう、どうしよう!
 多少同情しちゃったけどまだ巨体のことは怖いし死にたくないし足は竦むし人の心配なんてしてる場合じゃなかったけれど……ああ、もうっ!
 結局何も思いつかなかった俺は、巨体の腕にしがみついた。
 その気になれば簡単に俺の身体なんて弾き飛ばせるはずだけれど、巨体は動きを止めてこっちに視線を寄越す。
 その視線を睨みつけ、声を張り上げた。

「えっと、えっと……もしその人になにかしたら、あの階段から落ちて死んでやるからっ!」

 必死だったとは言え、我ながら情けない。
 しかも(憶測でしか無いけれど)自分を殺そうとした相手に死んでやるという脅しは逆効果にも程が有るのでは……。
 真に受けられて本当に連れて行かれたら洒落にならないぞ。
 なんて、言ってしまってから思ったのだけど、俺の不安とは裏腹に巨体は慌てたようにこちらに振り返り俺の服の裾を指先でつまんだ。
 こちらに目線を合わせてしゃがみ、ゆるゆると首を振るその様子にとりあえずこの脅し文句は通用するのだと一安心する。
 っていうか死んでやるって。
 今更だけど恥ずかしい……。

「っうわ?!」

 羞恥に顔を隠していると、身体がふわりと浮遊感に襲われた。
 まるで人形でも持つように胴体を掴まれてることに気がついたのはその数秒後。
 え、ちょ、そんな簡単そうにひょいって。
 人間の身体ってそんな簡単に持ち上がるもんなの?

「待ちなさい! どこへ……っ」

 芦屋さんの制止も虚しく、俺の身体を握ったまま巨体は鳥居の下を潜った。
 途端、視界が眩んで、かと思ったら見慣れた風景が飛び込んでくる。
 愛すべき我が家……もとい、単身者向けのボロくさいアパートがそこにはあった。

「え……?」

 慌てて周囲を見渡して、唖然とする。
 幻覚かなにかの類に惑わされたんだろうかとも思ったけれど、周囲の家々からは普段とそう変わらない人の気配がするし、なんなら帰宅を急ぐサラリーマンが家の前の通路をなんてことのない顔で通っていく。
 相変わらず握られたままの俺と、遠目からも目立つはずのこの巨体にはどうやら気付いていないようだ。

「あの、下ろしてもらえます……? 逃げたりとかしないんで」

 なんか俺、誘拐事件の被害者みたい。
 …………実際そうか。

「ど、どうも」

 思ったよりもあっさりと俺の両足は母なる大地を踏みしめることに成功した。
 解決しなければいけない問題は山積みだけど、とりあえず家に帰って落ち着きたい……。
 そんな一心で自宅へと続くむきだしの階段を登り部屋の鍵を開けようとして、固まる。
 どうやら本当に俺の家に来るつもりらしい巨体と自宅のドアを見比べて、今更ながら重大なことに気がついてしまった。
 うちのドア、この巨体が通るには明らかに小さすぎる。
 幅はまあ横になってもらえれば大丈夫そうだけど、高さが明らかに足りない。
 というか、ドアもそうだけど……天井、足りなくね?
 この巨体が家の中で普通に立とうもんならご自慢の鋭い角が天井を突き破って上の階の人にこんにちはしてしまうだろう。
 上の人、めっちゃ神経質だってもっぱらの噂なのにそんなことになってしまった日にはご近所トラブルは避けられない。
 流石にサイズ感まで考慮していなかった。
 自分から誘った手前いまさら断るのも忍びないし、というか断ったら命の危機に直面しそうだし……ううむ、どうしたものか。
 とりあえずダメ元で巨体に振り返って、顔を見上げる。

「えっと……俺の家めっちゃ狭くて……多分頭とかぶつかっちゃうと思うんです……無理なお願いかもなんですけど、ちっちゃくなったりとかできない、ですかね」

 今まで起こったことを振り返るに、ワープ的なやつとか幻覚的なやつとかできそうだし、ちっちゃくなるくらいならできるんじゃないかなあって思ったんだけど……。
 む、無理かな。
 無理だったらどうしよう。
 常に身を屈めながら過ごしてもらうしかないぞ。
 小さくなってもらおう作戦が失敗に終わった場合に備え、次の策を熟考していた俺の視界を巨体が両手で塞ぐ。
 それから数秒後、目を開けると巨体の姿は消えていた。

「え、あれ? どこいった?」

 まさか消えた?
 なんて思っていると、ズボンの裾を引っ張られるような感覚。
 足元に視線を持っていくと膝くらいまでの大きさのふわふわしたものがこちらを見上げていた。

「……マジか」

 おもちゃ売り場とかでよく見る、牛の人形みたいだ。
 相変わらず顔に和柄の布がかかっているのが少し異質だけど、小さな体で短い両手をばたつかせるその姿は何とも愛くるしい。
 これがさっきまで筋肉もりもりだったあの巨体?
 ふっくらした身体、ふわふわの毛並み、ちんまりとした手足。
 しゃがんで目線を合わせ、恐る恐る小さくなった巨体の頬を人差し指で触ると高級な絨毯のような上品な柔らかさが指先を包んだ。
 巨体……じゃないな、ええっと。
 牛っぽいし名前がわかるまで牛さんと呼ぼう。
 牛さんは急に触られたことが不思議だったのか緩く首を傾げる。
 な、なんだこの生き物…………いや、生き物か?
 よくわからんけどとりあえず可愛いじゃねえか……!
 あまりの可愛さに思わず牛さんを抱き上げようとしたその瞬間、腰からなんかヤバそうな音が聞こえた。
 う、嘘だろ。
 ちょっと大きめの人形ぐらいのサイズ感なのに、中に石臼でも詰まってんじゃないかと思うくらい重たい。
 重たいっていうか、持ち上がらないし持ち上げられるビジョンが見えない。
 自分を信じて暫く頑張ってみたけれど、無理やり持ち上げようとしたら腰が粉砕してしまいそうだったので泣く泣く諦めて牛さんを家に招き入れた。

「散らかってますが」

 牛さんの後に続いて家に入り、十五畳もない部屋を見渡す。
 我ながら本当に散らかってるな。
 とりあえず置きっぱなしだった空のペットボトルは捨てよう、うん。
 牛さんはというと家の中をきょろきょろと見渡したり、部屋の中をスキップ気味に探索していた。
 はしゃいでるようにも見えるその姿に心臓がきゅんと音を立てる。
 このちっこいままで居てくれるなら一緒に暮らすのも悪くないかも。
 ああ、でも一つ懸念点が。
 ……ここのアパート、ペット禁止なんだよなあ。
 いや、こんなちっこくて二足歩行する牛なんて見たこと無いし、人形です、で通せるか。
 なんてしなくてもいい心配をしながら、狭くて少しボロいアパートの一室で大学生と牛さんとの奇妙な共同生活がスタートしたのだった。
 あれ、なんか忘れてるような気がする。
 なんだったっけ?
 まあいいか。
 そのうち思い出すだろ。


 <この続きは製品版で!>

【試し読み】今日はどっちの夢を見る?

 こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
 冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。
 ※こちらの作品はニ冊セットになっているためお試し読みもそれぞれご用意しています。

 條side

 少し遠く、セミが命をかけて生涯の番を探す音が響く。
 高く上がった入道雲を背に、俺はいつもの公園を駆け回っていた。

「あれ」

少しだけ傾いた陽が眩しい。
 放課後逃げるようにして教室を出ていってしまった彼の姿をあちこち探していると、ブランコの近くを通りかかった時どこからか噛みしめるような小さな嗚咽が聞こえてきた。
 その声と彼の匂いとを辿ってかまくらのような形をした遊具を覗き込む。

「あ、いた」

 あまり広くはない湿ったその空間の中で、彼は膝を抱えて小さく縮こまっていた。
 彼に倣って遊具の下に滑り込むと、昨日降った雨の影響か少しだけ地面が自重で沈む。

「そら」

 名を呼びながら、相変わらず膝を抱えて俯いている彼の顔を覗き込んだら、ふいと顔を逸らされてしまった。
 自分の服をぎゅうと握って離そうとしないその様子にどうしたもんかと悩んだ末、彼の正面にしゃがみこんで少しだけ膨らんでいる両頬を手のひらで包み込む。
 抵抗する彼の顔を無理やり正面に向かせて、ぐじゅぐじゅになった透き通るような瞳をじいと睨みつけた。

「なんでさきかえったんだよ」

 すると彼は気まずそうに顔を逸らす……ことはできなかったので、視線だけをずらす。
 開いては閉じてを繰り返すその口元を見ながら彼の舌の上に溜まっている言葉が聞こえるようになるのを待った。

「……った、から」
「あ?」
「さみしかった、から」

 やっと絞り出したらしいその声は震えている。
 寂しかったから?
 その言葉の意味を理解しかねた俺は首を傾げた。

「じょうが、とられちゃう、って……おもった、から」

 そう言うと、タガが外れたのか若しくは堪えきれなくなったのか彼の瞳から大粒の涙がぽろぽろと頬を伝う。

「ずっと、ふたりだったのに……っ、いろんなひと、が、いて……じょう、どこもいかないで……ぼくをおいてかないでよ……」

 俺より一回り小さい指先は震えながら俺の服の裾を弱々しく掴んだ。
 その瞬間、脇においてあったランドセルが倒れて、お揃いで買った給食袋が砂利に塗れる。

「ばーか」

 そう言うと彼は目を白黒させて数度瞬きをした。
 涙でぐちゃぐちゃになった頬を手の甲で拭ってやり、震える手を掴んで無理やり引く。
 彼の軽い体はあっさりと持ち上がり、俺はその手を掴んだまま湿っぽい遊具の下から陽の光が降り注ぐ真っ白い砂の上にほとんど引きずるようにして空の手を引いたまま飛び出した。
じりじりと照りつける日差しが心地良い。

「おれがおまえをおいていくわけないだろ!」

 まだ世界に俺とお前との二人しかいなかった頃から、この公園は二人の秘密基地だった。
 なんの変哲もないただの公園だったけれど、彼がいれば遊園地にも水族館にもお店にも、闘技場にだってなる。

「でも……じょう、がっこーだといっつもほかのともだちといる……」

 少しだけ不機嫌そうに頬を膨らませたその様子に思わず笑ってしまった。
 小学校で常に二人だけでいるということは不可能だということはわかっているのだろう、その控えめな、でも驚くほど自分勝手な独占欲に不思議と悪い気はしない。
 俺だって、お前だけがいればいいと思っているのだから。

「じゃあさ、ここで会おう」

 二人の秘密基地。
 ここにいれば、二人だけになれる。
 ここにいれば、世界に二人だけになる。
 互いの家のちょうど中心辺りに位置するこの小さな公園は、あまり人が立ち寄らない。
 少し行ったところにここより何十倍も大きな国立公園があるからだ。
 だからこそ、二人だけで過ごすにはもってこいの場所。
 静かで、ちょっぴりもの寂しくて、でも安心できる、俺たちの関係に似ている。

「さみしかったら、ここに来いよ。おれもくるから。で、ふたりだけであそぼうぜ」

 すると彼はぱあっと顔を輝かせて、何度も頷いた。

「やくそく、ね?」
「ああ。やくそくだ」

 差し出された小指に自分のそれを絡ませると、ひんやりとした体温が流れ込んでくる。
 それがなんだか心地よくて頬が緩んだ。

「ね、じょう」
「ん?」
「だいすき」
「おう。おれもだぞ」

 彼の言う”だいすき”と、俺の言う”だいすき”に多少の齟齬があったことを知るのは、もう少し先のこと。



001

「はっ」

 手元でスマートフォンが震え、飛び起きた。
 ぼうっとする頭を軽く振ってソファに沈んでいた上半身を持ち上げる。
 ふいと窓に視線を移すと外はすっかり暗くなっていて、窓越しに左側の毛だけが寝癖でぐちゃぐちゃになった自分と目が合った。
 窓の向こうの自分はぱちくりとまばたきを繰り返した後、さあっと顔が真っ青になっていく。

「えっやべっ今何時?!」

 慌てて部屋にかけてある時計を見上げると長針は五を少し過ぎた辺りだった。
 それを見た瞬間、安堵の息を吐く。
 まだ五時か……良かった。
 スマホを手に取りながら少しだけ記憶を漁る。
 夜ご飯の仕込みをした後ちょっと眠くてソファに横になった辺りで記憶が途切れているところを考えるとそのまま寝落ちてしまったんだろう。
 それにしても、と窓の外に視線をずらす。
 まだ五時過ぎだというのに外はすっかり影を浴びて街灯の光だけが煌々としていた。

「暗くなるの早くなってきたなー」

 寝落ちで凝り固まってしまった体を伸ばし、思い出したようにスマホに目を落とす。
 そっと画面に触れると表示されたのは時間と通知。
 いつも使っているスーパーの特売を教えてくれるアプリと、メッセージアプリだ。
 あっ明日あそこのスーパー卵特売なんだ。
 行かなきゃ。
 そんなことを思いながらメッセージアプリを開くと、一番上に表示されている未読メッセージの通知に目が行く。
 空からだ。
 今から帰る旨とウサギが「だいしゅきー」と叫んでいるスタンプが浮き上がっているトーク画面に、ぶっきらぼうに「了解」とだけ放り込んでスマホをソファの目に前にあるローテーブルの上に置く。

「よし、仕上げするかー」

 ダイニングの椅子にかけてあったエプロンを装着し、炊飯器が稼働していることを確認。
 前に炊飯予約をし忘れたことがあってからキッチンに入る度に炊飯器がちゃんと動いているかを確認するのが癖になった。
 よしよし、大丈夫だな。
 冷蔵庫を開けて数時間前に作ったハンバーグのタネを取り出す。
 今日の晩飯は煮込みハンバーグ。
 今朝唐突に食べたくなって作ることにした。
 デミ缶がないので即席デミグラスもどきだけど。
 熱したフライパンに軽く油を引いて、ハンバーグのタネを乗せる。
 じゅう、と美味しそうな音がなって跳ねる油を時折拭き取りながら、しめじと玉ねぎを切って寄せておく。
 ハンバーグに焼き目がついたらひっくり返し、片面にも焼き目がつくまでの間に包丁とまな板を洗ってと。

「~♪~♪」

 思わず鼻歌が漏れた。
 最近テレビでよく流れてる曲。
 なんか年末の歌番組にも出場が決まったとか。
 自分も空も年末はお笑い番組派なのであんまり見ないけど。

「あっ年末の寿司予約しないと」

 旦那である出雲空とは幼い頃からずっと一緒に年末を越してきた。
 互いの母親が親友同士だったのもあり記憶もないほど幼い頃の写真には、ほぼ確実に空も一緒に写っている。
 そういえば、と先程見たような気がするぼんやりとした夢を思い出した。
 随分懐かしい夢。
 今でこそバリバリ社会で仕事をしている上に人望を一身に集めてチームリーダーだかを任されている彼だが、幼い頃は人見知りで引っ込み思案、いつも端っこで本を読んでいるような子供だった。
 二人で遊ぶ時はきゃっきゃと楽しそうに駆け回るのに、他に誰かがいるとどうやら声が出なくなってしまうらしい。
 だからか、小学校に入ってから彼は一人でどこかに隠れて泣いていることが増えた。
 まあ高確率でいっつもの公園の遊具の中にいたから探すのは簡単だったけど。
 そういえばあの公園、しばらく行ってないな。
 まだ残ってるんだろうか。

「あっやべ」

 香ばしい匂いがしてきて我に返り、慌ててハンバーグをひっくり返す。
 危ない危ない、焦げるところだった。
 いい感じの焦げ目がついていることを確認したところでハンバーグを一旦皿に移して放置。
 一度フライパンについた油を拭き取って、そのフライパンで小麦粉を炒る。
 この手法は初めてやるのでちょっとだけ緊張していた。
 少し前にお昼の番組で紹介されていたレシピを書き留めておいたものなので作るのは初めてなのだ。
 うまくできるといいけど。
 換気扇を回して小麦粉を炒りつつ、もう一つ大きめのフライパンを出してそっちにはバターを投入。
 大きめのフライパンが温まったところでしめじと玉ねぎを入れてバターと絡める。
 おお、いい匂い。
 小麦粉も焦げないように時折混ぜつつ、きつね色になるまで我慢。
 調理中にシェフが言っていた通り焦げたような匂いがしてきて少しだけ肩が跳ねた。
 なんだろう、そうだ、花火の匂いがする。
 これご近所さんに火事と間違われないかな、大丈夫かな。
 更に合間を縫ってボウルにウスターソースとケチャップ、コンソメ、水を入れて混ぜておく。

「そろそろいいかな」

 小麦粉がちょうどよくきつね色になったところでバターで炒めていた方の大きいフライパンに炒った小麦粉を投下。
 しめじと玉ねぎに小麦粉を絡めたらボウルに混ぜておいたソースを入れて伸ばす。
 そこにさっき焼いておいたハンバーグも投入したら蓋をして弱火でコトコト二十分。
 タイマーセットしてっと。
 ちなみにうちのキッチンはIHで、タイマー機能がついてる。
 タイマーが切れたら自動で火も止まるので便利だ。
 さて、煮ている間に空になったもう一個のフライパンを洗って、やっと一息。
 手が空いたのでテーブルの上に放置していたスマホを覗き込む。
 通知はなし。
 メッセージアプリを開くが、新着の通知はなかった。

「……あれ」

 おかしいな。
 普段の彼なら速攻でスタンプやら何やらで返事が来るのに、今は既読もついていない。
 疲れてんのかな。
 折角の週末だし今日は前にご近所さんから貰ったいいワインでも開けようか。
 そう思いつつ、スマホをもう一度テーブルに置いてキッチンに戻る。
 十分経ったところでハンバーグをひっくり返してコトコト。
 ここでちょっと味見。
 うーん、ちょっと酸味が強い……煮ていくことである程度は飛ぶだろうけれどもう少し甘みが欲しい。
 というわけで砂糖を投入して少し馴染ませたらもう一度味見。
 うむ、いい感じ。
 まろやかさを出すために牛乳も一回し。
 この濃いベージュの中に白がまだらに馴染んでいく様子を見ているのが好きだったり。
 あとは残り時間煮るだけ。
 冷めちゃうから盛り付けは空が帰ってきてからだなー、なんて思いつつソースがぐつぐつと煮だっている様子を眺める。
 あ、チーズ乗っけよう。
 冷めたら固まっちゃうからこれも空が帰ってきてからだけど。
 ふいと時計を見上げると時刻は六時を回っている。
 そろそろ帰ってくるかなーなんて思いながら、スマホを手にとって一度ソファに腰掛けた。

「……?」

 あれ、まだ既読ついてない。
 その瞬間嫌な予感がぞわりと背筋を駆け上がる。
 事故? 事件?
 電話してみたほうが良いだろうか……迷惑かな。
 いま電車の中とかかもしれないし。
 いやでも電車の中だったとしても、電話が来たら気付いてメッセージくれるかもしれない。
 何かあってからでは遅いし電話かけてみよう。
 そう思ってメッセージアプリの電話のマークに触れようとしたときだった。
 チャイム音が家中に鳴り響いて肩が跳ねる。
 空が帰ってきたかと一瞬安心しかけたが、家の鍵を持っている彼がチャイムを鳴らす必要はない。
 恐る恐る、玄関に向かってスコープを覗き込むとその向こうに立っていたのはご近所さんだった。

「まことさん?」

 玄関を開ける。
 朝桐まことさん、ご近所に住む新婚さんだ。
 近くのスーパーで遭遇することが多く、それから仲良くなった。

「じ、條くんっ、ごめんねっ突然……」

 肩で息をした彼は胸元に手を当てて必死に呼吸を整えようとしている。
 その様子にただ事ではないと察し、心臓のあたりがざわついた。

「あのね、空くんがっ、なんかガラの悪い人たちに絡まれてて……っ、連れてかれちゃったの……! 僕、助けられなくって……慌てて教えに来たんだけど……っ」

 その言葉を聞いた瞬間、靴の踵を踏むことも気にしないままその辺にあったスニーカーを足に引っ掛けて玄関を飛び出す。
 スマホだけを握りしめて。

「えっ、ちょ、條くん?!」
「ありがとうまことさん!」
「まっ……鍵開けっぱ……條くーん!」





002

獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
 小学校の歴史の授業では、人間の祖先は「猿人」、獣人の祖先は「犬」という生き物だと教えられていた。
 そんな世界に産み落とされた二つの命が出会ったのは、必然でも運命でもなんでもなく、偶然であった。
 偶然にも母親が親友同士で、家が近所で、お互い結婚してからも家族ぐるみの付き合いを続けていて、それでいて同じ時期に妊娠が発覚して、同じような時期に出産をしたと言うだけの話。
工藤くどうじょうと、出雲いずもそら
 まだ自分の名前も認識していない頃から、互いを認識し、触れ合い、互いの心音を聞いた。
 母親二人の趣味だったけれど、おそろいの服を着て街を闊歩した。
 歩けるようになってから握っていたのは、母親のでもなく父親のでもなくお互いの手。
 意思表示ができるようになった頃、今までは母親に連れられて行くのが当たり前だった互いの家に自分たちの意思で行き来するようになったし、互いの家の中心あたりにある公園に植えられた巨大な植木の下、遊具の中、ブランコの上は二人の秘密基地になった。
 世界にまだ二人しかいなかった頃。
 空がいれば、それでよかった。
 遠回りをした。
 回り道をした。
 だけどそれでよかったんだ。
 これは、俺が幸せになるまでの物語。

「じょー! サッカーしよー!」
「おう!」

 クラスメイトに誘われて、俺は最後の一口を舌の上に放り込んだ。
 飲み込むより前に給食の食器を下げてまだ少し口の中に残っているカレーの風味を味わいながら校庭に出る。
 遊びたいざかりの小学生にとって貴重な昼休み。
 少しでも長く休憩時間を確保しようと殆ど噛まずに給食時間を終えて教室を飛び出していく俺に、先生がよく噛んで食べるように注意するけれど、なんのその。
 悪ガキだったなあ。

「そっち行ったぞー!」

 小学校一年生の夏。
 少しずつ学校にも慣れてきて、集団生活にも余裕が出てきた頃。
 何故かわからないが気がつけば俺の周りには人が集まるようになっていた。
 望んだわけでもなくそうなるように動いたわけでもない。
 だからこそ、小学校に入学してすぐの頃に空から可愛らしい嫉妬を受けてしまったわけなのだけれど。

「よっしゃゴール!」

 俺が蹴り上げたボールはキーパーの脇を通り抜けて白いネットに吸い込まれていった。
 ばし、と心地良い音が夏空に響く。
 と同時に同じチームだった同級生たちが駆け寄ってきて、揉みくちゃにされた。
 俺より一回りくらい小さなクラスメイトたち。
 成長期が早かったのか、はたまた種族の違いか、それとも父の遺伝か、自分の体は同級生たちに比べて大きくリーチも長い。
 幸いなことに運動神経も悪くなく、チーム決めのときに取り合いされるのは決して悪い気分じゃない。
 チームを変えて二戦目を始めようと俺以外の同級生がじゃんけんをし始めたその時、ちらりと見上げた校舎の窓越しに見慣れたブロンドが揺れる。
 ばっちりとかち合った視線に弾かれるようにして俺は駆け出した。

「わり、俺トイレ!」

 クラスメイトたちに断りを入れて、校庭側の玄関から校舎に戻る。
 途中、水道で水分補給をしつつ二階にある自分の教室に飛び込むと、数グループに分かれてお喋りを楽しむ女子たちを横目に少しだけ居心地悪そうにしている空と再び目が合った。
 窓際の席で陽を余すことなく浴びる彼の髪はきらきらと輝いていて、真っ白い肌は今にも溶けてなくなってしまいそうだ。
 俺が教室に飛び込んだことで教室を占拠していたガールズトークのボリュームは少しだけ小さくなり、空が静かに息を吐く音が聞こえる。
 俺は女子陣に目をくれることもなく教室を奥まで進み、窓際で陽を浴びている空の背中に凭れかかった。
 彼の少しだけ甘いシャンプーの匂いに混じっておひさまの匂いがする。

「條、重いよ」

 嗅ぎ慣れた匂いがして、思わず頬が緩む。
 少し困惑したような彼の声を聞きつつ、ふいと彼が持っている本を覗き込むとまだ習っていない漢字がたくさん並んでいて、殆ど読めなかった。

「空、なにそれ」
「? どれのこと?」
「それ。本」
「ああ、これ? 小説」
「おもしろいか?」
「まあまあ」

 やっと読書に集中できると言わんばかりに彼は文字を目で追う。
 一緒になってつらつらと並んでいる字を追ったけれど、やっぱり読めない漢字ばっかりで、読むのも意味を理解するのも早々に諦めた。
 ぐで、と空に更に体重を預ける。

「もう條、重いってば」

 くすくすと楽しそうに笑った空は本にしおりを挟んで机の上に置くと校庭に一度目を遣って、こちらに振り向いた。

「サッカー飽きたの?」
「うんにゃ。下からお前がこっち見てんの見えたから来た」

 そういうと空はぽかんと俺の顔を見上げた後、慌てたように顔を逸らす。
 え、なんか怒った?
 凭れかかっていた身体を起こして彼の正面に回り、机に頬を預けて彼の顔を見上げた。
 真っ白い頬が薄桃色に上気していて、俺はついと首を傾げる。
 怒っては……なさそう?

「? 空、顔赤いぞ。風邪か?」
「う、うるさいな! ばか!」
「へぶっ」

 彼の読んでいた本の表紙が顔面にめり込んだ。
 騙された。
 めっちゃ怒ってる。

「いってえ……なに怒ってんだよ」
「怒ってない」

 どこからどうみても怒ってるな。
 ひりひりと痛む鼻を擦りながら空の机の上に腰を下ろす。

「ちょ、こら降りろ」
「やだー」

 残念ながら彼の細腕では俺の身体はびくともしない。
 空の机をがっちり握って抵抗していると、古びたスピーカーからじりじりとノイズ音が聞こえた後に昼休みの終了を告げるチャイムが学校中に鳴り響いた。

「あ、終わっちった」

 サッカー一緒にやってたやつら、ほったらかしにしてたなあ、なんて思いながら空の机から退く。
 すると少し悪戯っぽく笑った空と目が合った。

「あーあ。いいのか、あいつらほったらかしにして」
「いいんだよ、あとで謝っとくから」

 仕返しのつもりだろうけれど、残念ながら俺にはノーダメージだ。
 同じように口角を持ち上げて空の目を見つめ返す。

「たった一人の幼馴染が、さみしそーにこっち見てたから。そっちをどーにかすんのが先だっただけ」

 そういうとまた、空は少し悔しそうな顔をして視線を逸らす。
 引っ込み思案の空はよくこうして教室の隅で何やら難しそうな本を呼んでいることが多かった。
 随分薄情なことにクラスメイトたちはいつも一人でいる彼を気にすることもなく自分たちの世界に入り浸っている。
 だからこそ俺はよくクラスメイトたちより彼を優先してしまうことが多く、それをよく思われていないのも薄っすらと自覚していた。
 だが冷静に考えて、いや冷静に考えなくても、生まれてからずっと並んで手をつないで同じ景色を見てきた幼馴染より、まだ会って何年も経っていないクラスメイトたちを優先するわけがないだろう。
 その態度が明らかに出てしまっていることにも、きっとクラスメイトたちはあまり良く思っていないんだろうな。
 だけど、そうしたいと思ったわけでもないのに勝手にクラスの中心に据えられていた俺としては知ったことではない。
 俺は好きなように、やりたいように、しているだけだ。


◇ ◆ ◇ ◆


「やーい、カチク! カチク!」

 クラスメイトから悪質な嫌がらせを受けるようになったのは、小学校の二年生に進級してすぐのことだ。
 異形。
 自分のような存在をそう呼ぶことを、知った。
 そして自分のような存在をそう呼んでいいことを、クラスメイトたちが知ってしまった。
 まあ授業内容自体はそういった、人間の見た目も獣人の見た目も受け継いで産まれるケースがあるけれど特に問題があるわけではなく普通の人間や獣人と同じということを説いていたから、教育者たちからすれば差別をしないようにという意思表示だったのだろうけれど、そんなのが小学二年生に伝わるはずもなく。
 まだ自分との違いを個性ではなく敵だと認識することに罪悪感を抱けない子供に燃料を投下しただけだった。
 この段階ではまだ燃料を投下されただけで終わってくれたのだけれど、問題はその次の国語の授業。
 その日の授業で取り上げられた教材は”種族の違いについて”。
 父から受け継いたウルフ種という種族。
 その名の通り狼の血を色濃く引く先祖。
 父からはいつも、誇り高く、誉れ高く、力強く、弱きを守る、そういう種族だと言い聞かされていた。
 異種婚がすっかり浸透していたのもありクラスの大半は混血ハーフだったので、クラスメイト達は自分たちの種族が紹介されるのを今か今かと待ち、どのように紹介されるのかとそわそわしていたのを覚えている。
 もちろん自分もその一人だ。
 自分が誇りを持つ、父から受け継いだ種族が世間でなんと言われているのか酷く興味があった。

 ウルフ種は、遥か昔、獣人の祖先である「犬」がまだ存在していた時代に、人間が家畜として飼っていた「犬」と狼とを交配させて作り出したウルフドッグを祖先とする種族です。

 記憶にあるのはこの一文。
 ウルフ種の紹介は他にも夜目が効くとか体力があるとか色々な特徴があげられていたけれど、学校生活に慣れて少し余裕が出てきたクラスメイトたちの目に止まったのは「家畜」という文字だったんだろう。
この一文が授業に出てきただけで、特に授業中にフォーカスを当てられたわけでもないこの一文がクラスメイトたちの目に触れてしまっただけで、俺の居場所は掻き消えた。
 いや、もしかしたらあそこに俺の居場所なんてなかったんじゃないかと思う。
 いったい何が気に障ったのか、それとも元々俺をよく思っていなかったのか……理由はわからないが、クラスの中でも体格が良いそいつの言葉がトリガーになったことだけは、確かだった。

「”カチク”は獣人サマと人間サマのいうこと黙って聞いとけよ」

 乱暴で粗野だったそいつに抗うことができなかったやつもいれば、日頃溜まった鬱憤をどこかにぶつけたかっただけのやつもいれば、人の不幸を単純に楽しめる性悪もいれば、同調することで自分を守っていたやつもいた。
 誰がターゲットになってもおかしくはなかったんだ。
 ただ、俺は運が悪かっただけ。
 もう数日目にもなる無茶苦茶な難癖にため息が漏れる。

「それだよ……お前のそういう態度! どうせ心の底でクラスのみんなを見下してたんだろ! 調子乗ってたんだろ! ”カチク”のくせに!」

 肩に走った衝撃を打ち消すことができず自分の体は壁際まで弾け飛んだ。
 教室の壁に叩きつけられたときに口を噛んでしまったのかじんわりと血の味が広がる。
 誇りを持っていた自分の鋭い牙を恨んだ。

「そ……そうだよ、そいつ、遊びにさそっても絶対来ないんだ」
「いつもえらそうにしてた……”カチク”のくせに」
「バレンタインにもらったチョコ、食べずに誰かにあげてたの私見た!」
「わ、わたし、ラブレター突き返されたことある……!」
「カチクのくせに」
「カチクのくせに!」

 完全に逆恨みだとは思うけれど、そんなこともう彼らには関係ないのだろう。
 あまりの覇気に気後れしてしまった。
 まあ多少他人に不満や嫌な感情を抱いてしまうのは仕方ないことだとは思うけれど、それにしたって言いがかりがひどい。
 あまりに横暴な言いがかりに反論もできずにいると奴らは言い返してこないことに味を占めたのか日頃の鬱憤をぶつけるようにして言いたい放題。
 教室内を罵詈雑言が支配した。
 どうしたもんかと視線をずらすと、空と目が合う。
 途端。

「や、やめようよ!」

 嘲笑と蔑みで溺れそうな教室内が、しんと静まり返る。
 呼吸音だけが響くその真中、震える声を絞り出した空に視線が集中する。
 彼の指先は力なく震えていた。

「條はみんなのこと見下したりなんかしてない! ひどいこともしないよ!」

 一生懸命、慣れない大声をあげて空はクラスメイトたちの顔をぐるりと見渡した。
 彼の必死な様子に一瞬ぽかんとしたクラスメイトたち。
 その雄姿は讃えられて然るべきだったろう。
 だが、讃えられることとその言葉の真意が受け入れられるかどうかは別の問題だ。

「あっはっは! いいんだよ、こいつは”カチク”なんだから!」
「空くんやさしい~♡」
「ホントに空はいいヤツだなあ」

 一度静まり返ったクラスは反省するどころか、まるでコメディを見ているかのようにどっと湧く。
 何が面白いのか全然わからない。
 背筋がぞっとするのがわかった。
 クラスメイト達に囲まれ、肩を組まれたり女子の甘い声や視線を浴びた空は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
 今まで散々空のことを空気のように扱っていたくせにこの掌返し。
 でも、なんとなく予想はできていた。
 種族の違いについての授業ではもちろん空が受け継いでいるゴールデンという種族についても言及されていたけれど、それを聞いているときのクラスメイト達の羨望にも尊敬にも似た眼差しを見たときから。
 そもそも、クラスの中心っていうのは俺みたいなのより空のようなカリスマ性のあるやつがなるべきなんだ。

「條、だいじょうぶ……?」

 おずおずと差し出された右手。
 優しくてお人好しで、嫌とは言えない彼の背後から降り注ぐ、突き刺さるような視線。
 その手を取ることができたら結末は変わっただろうか。
 握って、引いて、折れてしまいそうな身体を抱き込めて、こいつらを睨み返して、心の底から唸ることができたなら、また何か変わっていただろうか。
 いや、多分同じだっただろうな。
 この世は味方の少ないやつが負けるようにできている。
 いつだって甘い汁を啜れるのはずる賢く立ち回った者だけなのだということを、この瞬間に痛感した。

「触んな」

 まん丸くなった空の瞳と視線がかち合う。
 お前ならわかるだろ、空。
 俺の考えてること。
 その手を取ったところで状況が好転するわけないって。
 俺の重みで、お前も俺と同じところまで落ちてしまうのは絶対に嫌なんだよ。
 傷を負うのは俺だけでいいんだ。
 途端、一度和んだ雰囲気はぴしりと凍った。
 忘れかけていた憎悪を思い出したかのように振りかざしたクラスメイトたちは俺に詰め寄る。

「おまえ! 空がせっかくやさしくしてくれてんのに、何してんだよ!」

 手加減なく突き出された一人のつま先が鳩尾の辺りに食い込んで、思わず嘔吐えづいた。
 空気が逆流して何度も咳き込む。
 他のクラスメイトからもブーイングが飛んだ。
 そんな顔すんなよ、空。
 俺なら大丈夫だから泣くな。
 ほら、おとぎ話だと、狼っていっつも悪役だろ?

「うるせェよ」

 そう凄んでやるとクラスメイト達は後ずさった。
 父から譲り受けたこの切れ長の目元とその中で爛々と光る金眼はどうやら威圧感があるらしい。
 それと同時に、本気で狼の血を引く俺と喧嘩なんかをしようものなら勝ち目はないことを本能的に悟っているからだろう。

「俺は誰の助けもいらない」

 それだけ言って空の顔を一瞥した俺はさっさと教室を出た。
 あのときの彼の顔は今でもたまに思い出してしまう。


 <この続きは製品版で!>

 空side

001

 頰にしっとりとした温度が張り付く。
 こぼれ落ちるのを必死に抑えようと服の裾をきつく握り、膝に顔を埋めるが溢れ出す感情は留まることを知らずじわじわと足元の砂利の色を変えていった。
 きっと今頃、人気者の彼はクラス中から引っ張りだこになっているんだろう。
 それを考えるだけで、一度乾いた涙がまた目尻に溜まっていく。

「あ、いた」

 薄暗いその空間に響いた声に弾かれたように顔を持ち上げた。
 遊具の入り口にしゃがんでいたのは、今頃クラスで引っ張りだこになっているはずの彼。
 困惑しているこちらを気にすることなく彼は遊具の下に滑り込んでくると不満そうに頬をふくらませる。

「そら」

 名を呼んだ彼は僕の正面にしゃがみ込むと、ぐちゃぐちゃになったこちらの顔をじいと覗き込んできた。
 わざわざクラスメイトたちの誘いを断って来てくれたんだろうか。
 それを考えると少しだけ嬉しくなって、つい緩んだ口元を隠すためにふいと顔を逸らす。
 しかしすぐ頰に彼のぷにぷにの肉球が滑り込んできて、優しくも強引に顔を元の方向に戻されてばっちりと金色の瞳と視線がかち合った。

「なんでさきかえったんだよ」

 その言葉に思わず目を泳がせる。
 理由ならたくさんあった。
 ついこの間まで世界には二人しか、自分と彼としかいなかったのに、小学校に入学した途端に彼は持ち前の明るさとコミュニケーション能力であっという間にクラスの中心人物になってしまってとんでもなく寂しいとか。
 慣れ慣れしく條に近づいてくるやつらがウザいとか。
 だけど、まだ自分の思いを言語化することが苦手だった僕は、言葉を選んでは言い淀むを繰り返す。
 しかし、まごついている僕を急かすことはせず、彼は時折瞼の奥に金色の瞳を隠しながらじいとこちらの言葉を待ってくれていた。

「さみしかった、から」

 やっと絞り出したその声は酷く掠れていて、少しだけ咳き込む。

「じょうが、とられちゃう、って……おもった、から」

 あんなに一緒だったのに。
 自分しか居なかったのに。
 彼しか居なかったのに。
 考えれば考えるほど懐かしい記憶が蘇ってきて、もしかしたらもう彼と二人だけで過ごすなんて無理なんじゃないかと思うと、また感情がぼろぼろと目尻からこぼれ落ちていった。

「ずっと、ふたりだったのに……っ、いろんなひと、が、いて……じょう、どこもいかないで……ぼくをおいてかないでよ……」

 分かっている。
 そんなことは不可能だと。
 それでも感情は抑えきれなくて、困らせてしまっているだろうに、目を白黒させる彼の裾を掴む。
 どこもいかないで。
 僕だけを見ていて。
 ……無理、だろうけれど。

「ばーか」

 ぐい、と彼のふわふわの手の甲が頬を滑り、涙を吸ってしっとりとした指先はそのまま手首に巻き付いた。
 強引にその手を引かれて、砂利の下に根を張ってしまったんじゃないかと思われた僕の身体はいとも簡単に持ち上がる。

「おれがおまえをおいていくわけないだろ!」

 じめっとした薄暗い地面から真っ白い砂の上に飛び出した瞬間、頬を伝っていた涙は乾いて真上から降り注ぐ陽の光に目を細めた。
 眩しい。
 太陽も、彼も。

「でも……じょう、がっこーだといっつもほかのともだちといる……」

 まだ少しだけ残った不安から彼の手をぎゅうと握り返すと、彼はもっときつく僕の手を握って、にいと口角を持ち上げる。
 鋭い牙が陽の光を浴びて煌めいた。

「じゃあさ、ここで会おう」

 青空を、眩しい光を背に、彼は僕の手を握ったまま両手を広げる。
 二人だけの、いやに開けた秘密基地。
 錆びた鉄棒、ぎしぎしと鳴く弱々しいジャングルジム、滑りの良くない滑り台、殆ど砂の残っていない砂場……この古びた小さな公園には殆ど人が来ない。
 二人でいるときは、この公園から見える小さな空も、二人だけの秘密基地だ。

「さみしかったら、ここに来いよ。おれもくるから。で、ふたりだけであそぼうぜ」

 視界がちかちかする。
 眩しさにどうにかなってしまいそうだ。

「やくそく、ね?」
「ああ。やくそくだ」

 恐る恐る差し出した小指には少しの躊躇もなく彼のそれが絡みついてきて、自分より高い体温がじんわりと指先から染み込む。
 それがなんだか心地よくて頬が緩んだ。

「ね、じょう」
「ん?」
「だいすき」
「おう。おれもだぞ」

 僕の好きが含む意味をきっと彼は知らないだろうけれど、まあ、今はいいか。



001

「はあ……」

 思わずため息が漏れた。
 座りっぱなしでばきばきになった身体を伸ばしながらすっかり冷え込んだ夜道を帰路につく。
 今日も疲れた。
 腰が痛い、背中も痛い、心做しか頭も痛い……。
 かれこれ数年続けてきたエンジニアという仕事、まあ向いてるとは思う。
 波風を立てたり争い事が苦手であれよあれよといううちに断りきれずプロジェクトのリーダーとかいう役目を任されていることには心労が溜まる一方だけれど。
 どいつもこいつも僕に頼ってきやがって……自分のケツくらい自分で拭けよまったく。
 やっと開放された手で今日一日ずっと放置していたスマートフォンの画面を覗き込んだ。
 いくつか表示された通知を見ることなくメッセージアプリを開いて家で夕飯を作って待ってくれているであろう愛する旦那様とのトーク画面を開き、これから帰宅する旨を送信してまたポケットにスマートフォンを仕舞う。
 今日の夕飯はなんだろうか。
 そう考えていると視界は住宅街に差し掛かり、両脇に建ち並ぶ家々からは夕飯の匂いが漂ってきている。
 あ、あそこはカレーか。
 こっちはシチューかな? あっちは焼き魚……ああ、だめだ。

「おなかすいたあ……」

 再び息を吐きながらついと上を見上げると、濃紺の上にぽっかりと浮かんでいる月と目が合った。
 彼の瞳に似た金色……俄然彼に会いたくなってしまう。
 よし、さっさと帰ろう。
 とりあえず帰ったら彼をもふもふして二人でご飯食べて……今日は週末だしお酒でも買って帰るのも良いかもなあ。
 そういえば少し前にご近所さんからいいワインをもらったって言ってたような。
 今日の晩御飯にも寄るけどそれを飲むのもいいな。
 でもワイン以外はもう無かったような気がするしコンビニでも寄って帰ろう。
 最近忙しくてあまり彼と過ごす時間が取れていなかったし、今日はめいっぱい甘えさせてもらって、甘えてもらおう。
 彼のことを考えるだけでこんなにも幸せになる。
 気がつけば重かった足取りはスキップ気味になっていて自然と鼻歌も漏れ出した。

「~♪~♪」

 途中、コンビニに寄ろうと帰路から少し外れたその時、鬱蒼と生い茂る木々の向こうに懐かしい景色が見える。
 ふらふらと足を踏み入れると、昔より一回りも二回りも小さく感じる空間の中にブランコと滑り台だけがぽつんと残されていた。
 幼い頃、彼と約束を交わしたあの公園。
 来ようと思えばいつでも来られる距離にあるはずなのに、そういえばこの辺にある実家に帰省するときすら気にも留めていなかった。
 昨今の風潮を受けてどうやらジャングルジムやら他の危なそうな遊具は撤去されてしまっているらしく寂しいその空間に哀愁を感じる。
 過保護な世の中だなとは思う反面、たしかにジャングルジムから落ちて砂まみれになったりシーソーから飛んで頭から落ちたり一歩間違えば大怪我していたかもしれないことも日常茶飯事だったし、まあ自然な流れなんだろう。
 試しにブランコに座ってみる。
 小さなそれが大人の体重を受け止めきれるか不安になったが、さすが先人が作ったものというか少々臀部はキツキツだけれど足を離しても少し鎖が軋むくらいでしっかりと支えてくれた。
 漕いでみようかと思ったけど……ケツの脇に鎖が食い込んでそれどころじゃない。
 ブランコ断念。
 何やってんだ僕。
 良い年した大人が夜、一人で小さな公園でブランコに座ってるって下手したら通報されかねない。
 こんなことしてないでさっさと帰ろう。
 少しだけ鉄臭くなった両手を擦って温めながら、僕はそっと公園を後にした。



002

獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
 小学校の歴史の授業では、人間の祖先は「猿人」、獣人の祖先は「犬」という生き物だと教えられていた。
 そんな世界に産み落とされた二つの命が出会ったのは、必然でも運命でもなんでもなく、偶然だった。
 偶然にも母親が親友同士で、家が近所で、お互い結婚してからも家族ぐるみの付き合いを続けていて、それでいて同じ時期に妊娠が発覚して、同じような時期に出産をしたと言うだけの話。
工藤くどうじょうと、出雲いずもそら
 まだ自分の名前も認識していない頃から、互いを認識し、触れ合い、互いの心音を聞いた。
 母親二人の趣味だったけれど、おそろいの服を着て街を闊歩した。
 歩けるようになってから握っていたのは、母親のでもなく父親のでもなくお互いの手。
 意思表示ができるようになった頃、今までは母親に連れられて行くのが当たり前だった互いの家に自分たちの意思で行き来するようになったし、互いの家の中心あたりにある公園に植えられた巨大な植木の下、遊具の中、ブランコの上は二人の秘密基地になった。
 世界にまだ二人しかいなかった頃。
 條がいれば、それでよかった。
 遠回りをした。
 回り道をした。
 だけどそれでよかった。
これは、僕が幸せになるまでの物語だ。

「それでね、隣のクラスの田中くんがね」
「えーっ、うっそー」

 普段よりも静かな教室内に女子生徒の噂話が咲く。
 給食を食べ終えて迎えた昼休み、僕はそっと活字から顔を持ち上げた。
 窓の外から差し込んでくる夏の日差しはぽかぽかと暖かくて、すぐ近くで手招きしている睡魔に退場願うため、ぐいと背中を伸ばす。
 しかし彼は随分しぶとく逆に体を伸ばしたことで勢力を増してしまったみたいだ。
 せっかくの昼休みだし寝てしまおうかとも思ったけれど、そうなると今度は女子生徒の噂話の声が気になる。
 聞きたくもない会話を聞かされるほど不愉快なこともない。

「それより、じょーくんへのラブレターわたせたの? ねえねえ」
「えっ、ま、まだだよ……」
「なんでよー! 早くわたしちゃいなよー!」

 彼の名前に肩が跳ねる。
 そっと聞き耳を立ててみたけれどそれ以降はあまり周囲に聞かれたくないのか小声になってしまって聞こえなかった。
 諦めて窓の外に目を向ける。
 噂話の中心に据えられている当人は楽しそうにサッカーボールを追いかけていて呑気なものだ。
 なんとなく眺めていると、彼の蹴ったボールは真っ白いネットに吸い込まれていき、その瞬間高らかにガッツポーズをした彼をチームメイトたちが囲んで揉みくちゃにする。
 あいつ癖毛だからあんなにされたら絡まって大変だぞ。
 なんて、彼と一緒に居られない嫉妬心を宥める。
 小学校に入学して数ヶ月、やっと慣れない学校生活にも余裕が出始めた頃クラスではもうグループのようなものが形成されつつあったけれど僕はそのどこにも所属していなかった。
 というか、入学以来殆ど誰とも話していない。
 こちらから話しかけない……いや、話しかけられないというのもあるけれど、向こうから特に話しかけてくることもない。
 今日も窓際にある自席で授業を聞くか本を読むかぐらいしかしていない僕に対し、逆に彼……もとい工藤條は持ち前の太陽のような明るさと人懐っこさであっという間にクラスの中心になっていた。
 彼が学校生活に慣れていくにつれて自分はクラスというコミュニティの中で浮いていく。
 寂しくないと言えば嘘になるけれど、それでもいいと思えているのは……。

「……!」

 ばっちりと、校庭にいる彼と目が合った。
 途端、彼はチームメイトたちに何やら言って手をふると校庭から姿を消す。
 かと思ったらすぐに教室のドアが開いて再び彼とさっきよりずっと近い距離で目が合った。
 突然の彼の登場に教室内のガールズトークは鳴りを潜めるが当の本人は女子たちに目もくれず、ずんずんと窓際まで近づいてきて…………ぐぇ。

「條、重いよ」

 背中にずっしりと乗った彼の体重と体温。
 彼の匂いに混じって、少しだけ汗と土の匂いがする。

「空、なにそれ」
「? どれのこと?」
「それ。本」
「ああ、これ? 小説」
「おもしろいか?」
「まあまあ」

 條は数秒、手に持ったままになっていた本に目を落としていたけれどすぐ小さく欠伸をして目を細めると僕に殆どの体重を預けてきた。
 頰に彼のふわふわの毛が触れてくすぐったい。

「もう條、重いってば」

 本にそっとしおりを挟んで脇においた。
 條、何しに来たんだろう。
 ふいと校庭に目をやる。
 先程まで彼と一緒にサッカーをしていた男子生徒たちがまたチーム分けをしているけれど、どこかそわそわしているように見えた。
 多分だけど、いま僕の背中に凭れかかっている彼を待っているんだろう。

「サッカー飽きたの?」

 彼は凝り性でハマればずっとやり続けるような性格なのでこのくらいで飽きるとは考えられないけど。
 すると彼は僕の頭の上に顎を置いて大きく欠伸をした。
 ぽかぽかとした陽の光に当てられて眠くなったんだろうか。
 まあご飯を食べてちょうどよく運動したら、そりゃそうだろうな。

「うんにゃ。下からお前がこっち見てんの見えたから来た」

 ……。
 その言葉に固まる。
 どういう意図で言ったんだろうと恐る恐る顔を見上げるけれど、彼の表情には特別な感情なんて何も伺えず普段どおりのそれのまま。
 わざわざそれだけで教室戻ってきたのか……。

「? 空、顔赤いぞ。風邪か?」
「う、うるさいな! ばか!」
「へぶっ」

 困惑するこちらを他所に、彼は正面に回ると机に柔い頰を預けてこちらを見上げる。
 突然視界いっぱいに広がった大好きな彼の顔に驚いて手に持っていた本を彼の顔に押し付けてしまった。

「いってぇ……なに怒ってんだよ」

 彼は頰を膨らませながら赤くなった鼻先を擦ると、すっと立ち上がり僕の机の上に少し乱暴に腰を下ろす。
 流石に体重を支えるように出来ていない机はぎしぎしと苦しそうに音を立てた。

「ちょ、こら降りろ」
「やだー」

 お行儀が悪い。
 けたけたと笑う彼をなんとか机の上から下ろそうと試行錯誤していると、教室にノイズ混じりのチャイムが鳴り響いた。
 その瞬間、教室内の女子生徒たちの少しだけうんざりしたような、残念そうな吐息が聞こえる。
 ついと窓の外に視線をやると校庭にいた生徒たちは慌ててボールを回収して校内へと戻っていくのが見えた。

「あーあ。いいのか、あいつらほったらかしにして」
「いいんだよ、あとで謝っとくから」

 外からの日差しが眩しくて少しだけ目を細める。

「たった一人の幼馴染が、さみしそーにこっち見てたから。そっちをどーにかすんのが先だっただけ」

 思わず彼の顔を見上げたその時、風で舞い上がったカーテンで視界が遮られた。
 教室の景色は消えてただ白い背景と日差しを浴びた彼の姿だけが映る。
 日に焼けて少しだけ赤くなった頰に湛えられた笑みに心臓が大きく跳ねた。
人の気も知らないで……條のばか。


◇ ◆ ◇ ◆


「空くんは公立小学校に行っているんでしょう? それでうちの跡取りにちゃんとなれるんでしょうねえ?」
「一族の血に不純物を入れただけでは飽き足らず、折角出来た唯一の跡取りを凡庸な一般人と同じやつに育てるつもりなのか」
「それに異形の子と遊んでいると聞いたわよ」

 ずらりと並んだ親戚一同は俯く僕を横目でじろじろと見ながら、口々に言いたいことを手前勝手に言っている。
 これが父方の親族会のいつもの光景だった。
 ゴールデン種という種族は人間で言う医者一家とか弁護士一家とか、まあつまるところエリート一家。
 特に出雲家は代々ゴールデン種のみで子孫を繋いできた。
 その純正種族至上主義という現代では古臭い風習を打ち破ったのは、父。
 人間の両親の元に産まれた母に一目惚れした父は親族一同の反対を振り切って母と結婚した。
 父は一人っ子で「結婚を認めてくれないというのなら俺はこの一族から抜ける」と親戚たちを黙らせたらしい。
 流石に自分たちの血がここで潰えるのは避けたかった親族たちは渋々了承したのだと聞いている。
 それをよく思わない親戚たちは両親をどうにかして攻撃してあわよくば仲を引き裂こうと躍起になったようなのだけれど、父は一代にして会社を上場企業まで持ち上げた社長、さらに母は経理として父の会社を支えつつ家事や料理はプロ級、華道や茶道まで完璧なうえ柔らかい物腰と女優顔負けの美貌といった超人で突く隙がなく悔しそうに唇を噛んでいた。
 そんな中で誕生したのが僕……彼らのターゲットになるのは、必然だったと言える。
 今思えば、僕がいつも俯いて活字に目を落とすしかなく他人と話すのが苦手なのはこいつらのせいもあるだろう。
 というか、完全にこいつらのせいだ。

「空にはいろんな世界を見てほしいんですの。ほら、自分の価値観を押し付けるような方には誰もついていきたいとは思わないでしょう? 誰かさん達とは違って相手のことを思いやれる人になってほしいんです」

そう言って、僕を抱き寄せて微笑む母に親戚一同はぐっと口を噤む。

「それじゃ、そろそろ帰ろうか」
「ええ。そうね。では、私達はこれでお暇しますね。お邪魔いたしました」

 両親はできる限り僕が彼らと接触するのを避けてくれてはいたし、何かを言われることがあればフォローしてくれていたけれど、怖いものは怖いし嫌なものは嫌だ。

「全くあの人たちったら。ねえあなた、私いい加減キレそうだわ。言葉でお返しするだけじゃ全然スッキリしないもの」
「そうだなあ。思い切りやり返してやりたいところだけど、空が大きくなるまでは我慢だな。約束したろ?」
「そうだけれど……このままじゃ空の成長にも影響が出てしまいそうで心配なんです。ねえ空、あの人達の言うことなんて気にしなくていいのよ。あんな人達、いつかお母さんがぶっ飛ばしてあげるからね。だから空は自分のやりたいことをやりたいようにやっていいの」
「はっはっはっ。母さんにぶっ飛ばされたらあいつら二度と偉そうな口利かなくなるぞ。楽しみだなあ」
「うふふ。腕がなるわね」

 ……まあ、彼らに難がないかと言われればそうとも言い切れないんだけれど。
 親戚たちは知らないが母が礼儀や作法、更に華道や茶道にまで明るいのは、そういう筋の娘だからである。
 ヤで始まってクを経由してザで終わる人たちに蝶よ花よと育てられた母は見事に腕っぷしの強い才色兼備に育った。
 婚約前は部下を引き連れてカチコミやら取り立てやらに行っていたというんだから驚きだ。
 その気になれば親戚一同なんて右手一本でどうにかできるだろう。
 今でもたまに母を「お嬢」と呼ぶちょっと強面のお兄さんたちが家に遊びに来ることがある。
 悪い人たちではないので無問題だ。
 顔が悪そうな人たちということ以外は。
 彼らの出入りが一番激しいのはお正月。
 特に母方のお祖父様なんかはそれいけとばかりにすっ飛んできて、僕に分厚いポチ袋をくれる。
 聞いた話だと、僕が産まれたばかりの正月にはマッキーペンで”お年玉”と書いたアタッシェケースを持って乗り込んできたんだとか……。
 流石に今それはないけれど、僕のお年玉はいつも大盤振る舞いだ。
 お祖父様だけでなく、親族でもなんでもない黒服のお兄ちゃんたちも。
 閑話休題。
 まあそんなわけで、年に数回行われる父方の親族の会合に参加した翌日だったということでその日の僕は機嫌が悪かった。
 そんな日に起こったのは、会合のことなんて全部どうでもよくなるくらいの、僕の人生を変えた出来事。
 三時間目の社会科の授業とその次の国語の授業が終わったあとのことだった。

「おまえ、”カチク”なんだってな」

 クラスの中でも体格が大きめの男子生徒のそんな言葉が、すべての始まりだ。
 その日は珍しく昼休みだというのに條が暇そうにしていたので、二人で一つの机を挟んで談笑に勤しんでいた。
 昨日の晩ごはんの話、昨日見たテレビアニメの話、そして今日の晩ごはんの話。
 彼と休み時間を丸々共有できるなんて久しぶりで二人の時間を噛みしめるようにして過ごしていた僕の脇に立ったそいつのその言葉。

「おまけに異形だろ、お前。そんなやつがなに普通に学校来てんだよ」

 條の眉間にシワが寄っていく。
 突然放たれた彼に対する罵倒に僕はぽかんとするしかなかった。
 確かに、今日の授業でそういったようなことを言ってはいたけれど……獣人の種族毎の特徴を紹介したり、人間と獣人との要素を持つ子供を未だに差別的に「異形」呼びしている社会を変えていかなければいけない、といった前向きな内容だったはずだ。

「あァ? 急に何言ってるんだよ」

 ついと彼の方に視線をやると彼も突然のことに困惑している様子で怪訝そうに目を細めている。
 彼の喉からはぐるる、と低い唸り声が聞こえてきた。
 機嫌が悪かったり怒った時によくやる癖だ。
 本人は威圧感があるからやめたいと思っているようだけれど……カッコよくて好きなんだよなあ、これ。
 一回でいいから本気で唸られてみたい。
 絶対してくんないけど。
 本気で怒らせて嫌われるの嫌だし。

「空も大変だよなあ。こんなやつにいっつも付き纏われて」

 なんて、苛立ってる條に見惚れていた僕は突然槍玉に挙げられて肩が跳ねた。
 よくわからないままいやに熱のこもった視線に絡め取られて身体が固まる。
 なにを言われてるかわからずぽかんとしていると、男子生徒の手が伸びてきて手首に巻き付いた。

「そんなやつと遊んでないで、おれと遊ぼうぜ、空」

 いやいや。
 いきなり名前で呼ぶなよ、気持ち悪いな。
 僕、お前の名前も知らないんだけど?
 心臓の奥は随分とうるさいのに、いざ誰かを目の前にすると声が出ない。
 握られた手首が痛い……放してほしいと、たったその一言すら言えない自分に嫌気が差す。

「離せよ。嫌がってるだろ」

 そんな声が聞こえたと思ったら、手首に滑り込んできたのはいつもの慣れた体温と柔らかい感触。
 そのまま條は僕を背に隠すようにして一歩前に歩み出た。
 彼の肩越しに目が合った男子生徒は数秒だけ拳を作ってその場にいたけれど、やがて苛立ちを隠そうともしないまま教室を出ていってしまった。
 一瞬しんと静まり返った教室は、またすぐにひそひそと自分勝手な解釈披露大会が始まる。

「空、大丈夫か」
「え?」
「手首。結構、痛そうにしてたから」

 彼の言葉に視線を落とすと、確かに掴まれた手首は赤くなっていた。
 まあでもそんなに心配されるほどでもない。
 手首を振って、大丈夫だよ、というと彼はずっと眉間に寄っていた皺をやっともとに戻し、そうか、とだけ呟いて自分の席に戻っていった。




003

それから彼が休憩時間中に引っ張りだこになるようなことはなくなった。
 初めはそのおかげで彼と過ごす時間が増えたと自分勝手に喜んでいたんだけれど、段々とそう呑気に笑っていられる場合でも無くなってきた。

「おい家畜」

 初めは言葉での攻撃だけだったのでまあ我慢できていたけれど、彼を取り巻く環境はどんどんと悪質なものになっていったのを覚えている。
 いつだったかの昼休み、いつもどおり僕のもとへと歩み寄ろうとした條の行く先を塞いだのはあの男子生徒。
 自分の席から條の顔はあまり見えない。
 慌てて立ち上がるけれど、少し凄まれるだけで震えて声も出せない自分にどうにかできるはずもなかった。

「家畜は獣人サマと人間サマのいうこと黙って聞いとけよ」

 一体條の何がそんなに気に食わないんだろう。
 男子生徒は煩わしそうに溜息を零した條を指差して声を張り上げた。

「それだよ……お前のそういう態度! どうせ心の底でクラスのみんなを見下してたんだろ! 調子乗ってたんだろ! 家畜のくせに!」

 男子生徒の影になって見えなかったけれど多分押されたんだろう、條の身体は机や椅子を巻き込みながら吹き飛び、壁にぶつかってやっと止まった。
 そんな様子をクラスメイトたちはなぜか冷ややかな視線でただ見ている。
 助けたいけど助けられない、とか、逆らえない、とかじゃない……クラスメイトたちは自分たちの意思で條を助けないでいるようだった。

「そ、……そうだよ、そいつ、遊びに誘っても絶対来ないんだ」
「いつも偉そうにしてた……家畜のくせに」
「バレンタインにもらったチョコ、食べずに誰かにあげてたの、私見た!」
「わ、わたし、ラブレター突き返されたことある……!」

 よく條をサッカーに誘っていたあいつも、何かあるごとに條の周囲をうろちょろしてた腰巾着みたいなあいつも、條を好きだというクラスメイトを焚き付けていたあいつも、條を好きだと周りに言いふらしていたあいつも。
 どいつもこいつも自分勝手で、これが俗に言う掌返しってやつなんだとぼんやり思った。
 自分自身、目の前で酷い人数差の私刑リンチが繰り広げられている現実を受け入れきれなかったんだろう。
 大切な幼馴染で初恋の人がたった一人孤独に戦っているのを見ていることしか出来なかった。

「家畜のくせに!」
「家畜のくせに!」

 クラス中から彼を非難する声が上がる。
 彼は何も悪いことをしていないのに、たった一人の男子生徒のたった一言でどうしてここまで追い詰められているのか。
 囲まれている條は、言い返すことはせずやり返すこともせず、ただ金色の瞳に静かな怒りだけを湛えてクラス中を睨みつけていた。
 自分だったらきっと怖くて、ただ俯いていることしか出来ないだろうに、どうして彼はここまで強くいられるんだろうか。
 その時、金色の湖の中にぽっかりと浮いた瞳孔がこちらを向く。
 彼の目元はほんの少しだけど、揺れていた。

「や、やめようよ!」

 悲鳴にも似たその声を張り上げる。
 何してたんだよ、僕。
 当たり前だ……平気なわけ無いだろ。
 暴言ぶん投げられて平気でいられるやつなんて居るわけない!
 お前が一番良く分かっているだろ、なあ出雲空。
 いま僕が助けないで、誰が條を助けてくれるっていうんだ。

「條はみんなのこと見下したりなんかしてない! ひどいこともしないよ!」

 震えて、掠れて、弱々しくて、情けない声だったけれど、僕は初めてクラスメイトに声を荒げた。
 というか、クラスメイトに向けて話しかけるなんて初めてだった。
 嘲笑と蔑みで頭が痛くなるほど騒がしかった教室内は、しんと静まり返る。
 声だけでなく指先も震えて、なんだったら肩も膝も震えてたけど、言ってやった、という気力だけでなんとか立っている。
 まさか僕の一声でこの状況がひっくり返るとは思っていない。
 それでも、例えば僕に少しでも矛先が向いて彼の負担が減ればいい……そう、考えていたんだけれど。

「あっはっは! いいんだよ、こいつは家畜なんだから!」

 教室中から笑いが漏れて、言葉を失う。

「空くん優しい~♡」
「本当に空はいい奴だなあ」

 背筋がぞっとする。
 何が面白いのかわからない。
 なんでこんなに急に馴れ馴れしく近寄ってくるんだ。
 ついこの間まで僕のことを空気みたいに扱って、話しかけようともしてこなかった奴らが。
 気持ち悪い。
 彼らに何かを言ったところで無駄だということを悟った僕は條に向き直った。
 彼の口元には血が滲んでいる。
 恐らく牙で唇を切ってしまったんだろう。

「條、だいじょうぶ……?」

 未だにこの時どうすればよかったかわからない。
 ただ、このときの行動が決して正解ではなかったということだけはわかる。

「触んな」

 ばし、と優しい音が響いた。
 少しだけじんじんとする右手には彼の手の体温が残っている。
 自分を見上げる彼の視線に、しまった、と思った。

「おまえ! 空が折角優しくしてくれてんのに、何してんだよ!」

 自分の脇を通り抜けていった男子生徒のつま先が彼の腹部に食い込む。
 激しく咳き込む彼を見下ろしながら周りを固めているやつらは少しも助けようともしないどころか、條が抵抗しないのを良いことに言いたい放題だ。
 彼に親でも殺されたんだろうか。
 そう思ってしまうほどの憎悪が彼らの顔には宿っている。
 このままではいけない。
 どうにかして、なんとかして彼をこの状況から助け出さなければ。

「うるせェよ」

 彼の一喝に肩が震える。
 地の底から響くような低音。

「俺は誰の助けもいらない」

 なんで……なんで、安心したような顔してるんだよ。
 條のことだ、悪者になるのは自分一人で良いとか思ってるんだろう。
 なんて自分勝手で、ずるい。
 だけどそのまま教室を出ていってしまった彼を追いかけることはできなかった。


 <この続きは製品版で!>

【試し読み】今日はどっちが下になる?

 こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
 冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。
 ※R18作品のため全年齢部分のみ抜粋しています。

001

「今日はぜってえ譲らねえぞ」

ぎし、とスプリングが軋む。
 あまり広いとは言えないセミダブルのベッドの上で、向かい合う二人。
 締め切ったカーテンの向こう側からカラスの鳴き声が聞こえる。
 随分夜も更けてきた。
 今日はさっさと決着をつけてしまわないと、お互い明日の活動に支障が出てしまう。

「僕だって負けられないね。今日は絶対にこっちの気分なんだ」

 鋭い視線がかち合い、火花が散った。
 見つめ合うこと数秒……示し合わせたかのように二人はそっと拳を握る。
 ふわふわの手に覆われた獣人らしい手と、細くすっきりとした真っ白い手。

「いくぞ」
「ああ」

 喉を震わせて吠えるような声と同時に勢いよく二人は拳を突き出した。

「じゃんけんぽんっ!」

 互いの手元を見下げると、そこには同じ形をした拳が並んでいる。
 まあ、初回でこうなるのはよくあることだ。
 流石に二十年以上も一緒に居れば思考が似るのは当然なのだから。

「あいこでしょっ!」

 二回同じ手が出るのもまあ、確率的に決して低いものではない。
 たかだか九分の一の確立だ。

「あいこでしょっ!」

 ……段々イラついてきたのが目に見えてわかる。
 スピードアップしていくこの勝負、決着がつくまでに夜が明けてしまわないかだけが心配になってきた。

「あいこでしょっ!」
「あいこでしょっ!」
「あいこでしょっ!」
「あいこでしょっ!」

 濃紺の中に星が沈む静かな夜。
 向かい合って座ったのは十一時頃だったのに、気が付けば時計の短針は三を少し過ぎている。

「ぜぇっ、はあっ」
「はあっ、はっ」

 じゃんけんすること計百三十六回。
 肩で息をする二人が威勢よく突き出した手はまたもや同じ形をしていた。
 確率にして、六百十二分の一。

「……っふ、ふふふ……」

 先に笑い出したのは空だった。
 ブロンドの、本人に似て柔らかく素直な髪がさらりと頬に落ちる。
 それに釣られるようにして向かい合っている條の口元もぐにゃりと歪み、鋭い犬歯が覗いた。

「く……くくっ」

 一度逸らした視線がもう一度かち合った瞬間、二人は耐えきれなくなったように吹き出す。

「だはははははは!」
「あっはははははは!」

 たった今目の前で発生した超常現象に腹がよじれるほど笑った後、二人でベッドに転がった。
 二人分の重みでまたスプリングが悲鳴を上げる。

「なんっだあれ! あんなに被ることあんのか?!」
「すごい確率だっていうのは計算しなくてもわかるね」
「っはー、笑った笑った。つか今何時だよ……うげっ、もう三時過ぎてんじゃん。今日は寝ようぜ、明日十時から特売あるんだよ」
「僕も朝から大事な会議があるからもう寝なきゃ」

 いつの間にかぐちゃぐちゃになっていたベッドを適当に直し、二人並んで掛布団を被る。
 取り合いになるので毛布は一枚ずつ。
 几帳面な空が丁寧に布団を直すのを横目に枕に頭を預けると、シーツの上も枕も思ったよりひんやりとしていて、思わずまだ上半身を起こしたままの空の腰に身を寄せた。

「わ、ちょっと條。一回そっち寄って」
「んー」

 言われるままベッドの端まで寄ると、空っぽだった隣に体温が滑り込んできて、少しずつ布団の中が暖かくなっていく。
 温度を求め、改めて空の頬にすり寄ると、背中に彼の手の平が伸びてきた。
 触れている部分から体温が流れ込んできて、ほう、と息を吐く。

「おやすみ、條」
「ん」
「條?」
「…………おやすみ、空」
「うん。おやすみ」

 まだ冴えている視界を遮断し、ただ互いの体温に顔を埋めながら、二人はゆっくりと眠りに落ちていった。



002

 獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
 小学校の歴史の授業では、人間の祖先は「猿人」、獣人の祖先は「犬」という生き物だと教えられているのだけれど、そんなことは彼もとい工藤條はあまり覚えていないだろう。
 彼の中で、小学生時代の記憶はあまり思い出したくはない、苦いものなのだから。

「それじゃあ、行ってくるね」
「おう。気を付けろよ」

 少しだけ眠そうに時折欠伸を零しながら仕事へと向かった彼は出雲空。
 交際歴五年、結婚して三年。
 ゴールデン種の獣人である父と人間である母の間に産まれた空、ウルフ種の獣人である父と人間である母の間に産まれた條。
 幼馴染である二人は二十数年もの時を共に歩んできた。
 これまでの二十数年は、色々あったけれど、本当に色々あったのだけれど、まあ今はそれよりも愛すべき旦那様のため家事をこなさなければいけないので、今回は割愛。

「さーて。ちゃっちゃと終わらすか」

 ただ今の時刻は七時半、早速家事に取り掛からないと十時のタイムセールに間に合わなくなってしまう。
 まずは洗濯ものを洗濯機に放り込み洗剤をぶち込む。
 色物を分けるのも忘れずに。
 洗濯機を回している間に掃除機をかけ、ちょうど終わったところで洗濯物をベランダに干し、一息吐く間もなく着替えてスーパーへ。
 家から徒歩十分ほどの位置にある大型スーパー。
 自社製品が安い、美味いで文句なしの百点で買い物は殆どこのスーパーを利用している。
 さて今日のお値下げ品は、と。
 手元の献立メモと店頭に貼ってあるチラシとを軽く見比べて目星をつけ、入店。
 とりあえず野菜コーナーから全部回っていこう。
 明後日はカレーの予定だから玉ねぎと人参と……じゃがいもはご近所さんから貰ったのがあるからそれ使おう。
 えーと、卵と……あ、ケチャップもなかったな。
 あとはベーコンと、鶏肉……。

「おあっ?!」

 思わず声が漏れた。
 目の前に山の如く積み上げられたトイレットペーパー達。
 その上には自慢げに力強く書かれた”お値下げ品”の文字。
 なんだこれ、引くほどトイレットペーパーが安い!
 ダブル十二ロールで二百八十九円……?!
 いや待て!
 おひとり様二個まで……?!
 くっそ、分身してえ!
 とはいえ残念ながら今のところ自分はこの世に一人しかいないので、とりあえずトイレットペーパーを二つ確保して調味料コーナーへ。

「えーっと、調味料コーナーは、っと」

 ケチャップを探して棚を眺めていると、視界の端で灰色……?
 いや、緑……?
 わからんが、不思議な色がちらついた。
 思わず視線をずらすと、自分より三十センチくらい背の低い小柄な人が一生懸命棚の上の方に手を伸ばしている。
 確かにもう少しで届きそうな位置だけれどちょっと危なっかしいな。

「ううん、もうちょっ……と……」

 スーパーの棚は基本的に高めに設計されていて、獣人向けの食べ物は上の方、人間向けの食べ物は下の方に配置されている。
 獣人と人間との混血が増えてきたというのもあって人間の見た目でも獣人の見た目でも同じものを食べるようにはなってきたけれど、純正の獣人だと食べられない人間用の食材なんかがあったりもする。
 代表的なものだと、玉ねぎとか。
 あんなに美味しいものが食えないなんて、可哀そうに。

「うっ、ん……」

 相変わらず背伸びをしている彼の左手の薬指でシルバーの指輪が光る。
 獣人向けの食品コーナーに手を伸ばしているところを見ると、きっと結婚相手が獣人なんだろう。
 思わずハラハラしながら見守ってしまっていたら、彼の手はようやっと目的のものに手が届いたんだろう、ぱあっと明るくなった。
 と同時に、ぐらり、と棚が揺れる。
 あまり立て付けが良くなかったのか棚が一つ分丸々、小さな彼の頭上目掛けて傾いた。

「あッぶねえ!」

 握っていたカートがひっくり返るのも厭わず、思わず駆けだして、小さな身体を右手で抱きしめながら倒れかけた棚に手の平を叩きつける。
 少し大きな音がなったけれど、上にあった商品がいくつか落ちただけで済んだようで深く息を吐く。
 間に合ってよかった……。
 棚の揺れが収まったのを確認してからそっと視線を下ろすと、腕の中でぽかんとしている彼と目が合う。

「あ、ありがとうございます……」

 髪と同じ色の透き通った瞳には自分の顔が反射していて、一瞬息が止まった。
 落ち着いていて綺麗な色。
 宝石のようなその色に思わず見蕩れてしまって、数秒の沈黙の後、彼の薬指にある指輪のことを思い出し慌てて離れた。

「あ、えっと、怪我はないか?」
「大丈夫です。すみません、素直に踏み台使えばよかったですね」

 はは、と笑いながら彼は頬を掻く。
 その時に初めて彼の後ろに現れた巨大な影に気が付いた。
 巨体の持ち主はゆっくりと近づいてくると小柄な彼の顔を覗き込む。

「まこと」
「あっ、伊墨さん」

 ああ、旦那か。
 平日だからてっきり一人だと思ってたけど一緒だったのか。
 っつーか旦那でけえな。
 身長だけで言えば俺と同じくらい……いや、ちょっと高えな。
 恐らくだけど純正の獣人。
 見た感じ柴種だな。
 柴種はすっきりしてるけど筋肉量はしっかりあるうえに頭いいやつが多いから、喧嘩になるとダルいんだよな。
 ……って、いやいや待て待て、なんで喧嘩する前提なんだ。

「何かあったのかい?」
「上の商品を取ろうとしたら棚が倒れてきちゃって……この人が助けてくれたんです」
「そうだったのか。うちのが迷惑かけたね」

 穏やかな笑みを浮かべた旦那はぐいと、まことと呼ばれた彼の肩を抱き寄せる。
 と同時に向けられた視線に思わず固まった。
 なんだこいつ……にこやかだけど、目の奥が笑ってない……。
 守るためとはいえ咄嗟に抱きしめちゃったの見られたか?

「もう。今度は勝手に離れたらダメだからね。じゃあ、私たちはこれで」
「えへへ、すみません。お兄さん、ご迷惑おかけしました」
「いや……大丈夫だ。今度からは高いとこにあるやつはそこの旦那様に取って貰えよ」
「ふふ。そうします」

 少しだけ頬を染めた小さな彼に見上げられた旦那も釣られてか頬を染める。
 最後に小さく頭を下げて、二人は仲良く去っていった。
 ……なんか俺、当て馬みたいになった?

「なんだかなあ」

 まあ幸せなのはいいことだ。
 なんとなく、彼らとはこれっきりにはならない気がする……気のせいかもしれないが。
 そんなことをぼんやりと思いながら、今度こそ、タイムセールへと勇み足で向かうのだった。

◇ ◆ ◇ ◆

「っはー……」

 鬼気迫る奥様方に揉みくちゃにされながらもなんとかタイムセールを切り抜け、ぐちゃぐちゃになった毛並みを直す暇もなく帰宅。
 ふいと時計を見上げると十二時。
 戦利品たちを冷蔵庫にしまい、エプロンを外してソファに腰を下ろし、やっと一息。
真っ白い天井を見つめること数十秒、窓の外から聞こえる雀の鳴き声と、とっくに空っぽになっていた胃袋が零した悲痛な鳴き声とが重なった。

「……なんか食うか」

 空が朝食を食べないタイプなので自分の分も用意していないが本来自分は三食しっかり食べなければ活動できない生き物なので、もう腹が減って死んでしまいそうだ。
 折角なので空には内緒でちょっと奮発して買った三百円ぐらいの冷凍のラーメンをレンジ調理し、ついでに冷凍の餃子をフライパンで焼いてテーブルの上に並べる。
 うん、プチ贅沢。
 餃子にはラー油と醤油もいいけど、俺は断然、酢胡椒派。
 これがさっぱりして美味いんだ。
 皿を洗う時に面倒にならないように(という大量に塩分を摂取しているという罪の意識をどうにかするための言い訳)汁までぺろりと飲み干し、最後の一つの餃子を口に放り込んで、氷がすっかり解けて冷え切った水を喉の奥に流し込む。

「っぷはー」

 最近涼しくなってきたのでやっと首回りを包む癖の強い毛並みが愛おしくなってきたところだったのだけれど、まだ流石に暖かい室内で一味をたっぷり放り込んだ味噌ラーメンとラー油たっぷりの餃子のタレを堪能した後は暑くてしょうがない。
 空気の入れ替えもかねてちょっと窓を開けようと立ち上がったその時、ふいと意識の端に時計の針の音が入り込んでくる。

「あっ、やべ」

 食事に集中していたらいつの間にか時計の針は正午をもうとっくに数時間も過ぎていた。
 慌てて皿を洗い、お風呂とトイレを掃除して床掃除はルンバに任せつつ、少しずつ陽が落ち始めてきたところで夕食の仕込みに入る。
 今日の晩御飯は、鮭のバターホイル焼きときのこの味噌汁、里芋の煮物とたくあん。
 鼻歌交じりに今日の特売でゲットした鮭を椎茸やコーンと一緒にホイルに放り込み、下味をつけてバターを乗せてグリルに投入!
 鮭の脂が跳ねる音を聞きながら、小さな鍋にミネラルウォーターを注ぎ温めつつ、なめこ、えのき、しめじ、豆腐、油揚げを切る。
 まずは油揚げを鍋に入れて火にかけ、少し後にきのこと豆腐も満を持してダイブ。
 出汁と味噌を溶かして沸かさない様にじっくり煮込む。
 あとは基本的に待つだけだ。
 煮物は昨日の残りを温めるだけだし。
 その間にお皿を用意して、朝のうちに予約しておいた炊飯器が動き出したのを確認しつつふいと時計を見上げると、短針はもう六を少し過ぎている。
 慌ててソファの上に放置しておいたスマートフォンに駆け寄ると、トークアプリの通知が画面に浮かび上がっていた。
 もちろん、彼からの。

{ 仕事あがった。今から帰るよ )

 ベタにも自分とのツーショットのアイコンが画面に表示され、顔に熱が集中する。
 昨今は職場の人ともこういうトークアプリで業務連絡やらをする時代になっているのだから、こんな小っ恥ずかしい画像を使うのはできれば辞めてほしいものなのだけれど。
 だがまあトークアプリのアイコンなんて目を凝らさないと見えないぐらいのサイズ感だし、それはまだいい。
 もっと恥ずかしいのは彼のスマートフォンの待ち受けだ。
 いつの間にか盗撮されていた寝顔という、これまたベタに死ぬほど恥ずかしいやつ。
 幾度も変えろと懇願しているのだがどうやら彼の意思は固いらしい。
 あんまりにも硬い鋼の意思にできるだけ外でスマホを起動させないでほしいということで話は落ち着いているが、多分彼はそんな約束も覚えていないだろう。

{ 了解 )

 既読が付くのも確認せずぶっきらぼうにそれだけを送るとスマートフォンを再びソファに放り投げ、キッチンに戻る。
 バターの焦げる匂いが対面キッチンを飛び越えてリビングまで充満していて、キッチンに近付くにつれ脂が跳ねる音が耳先を撫で上げた。
 食欲をそそる魅惑的なミュージカルに思わず喉の奥がごくりと鳴る。
 我慢できずにそっとアルミホイルを開くと黄金に輝く泉がふつふつとその身を震わせていた。
 手に持っていた箸で鮭を解し、少しだけ口に含む。
 じゅわ、と舌の上でバターの塩味と脂の甘みが混ざり合い、次いで柔らかい鮭の香り。
 これだけで大盛ご飯一杯食いきれそうだ。
 米が炊けるまであと十分。
 恐らく彼が帰ってくるのはそのもうちょっと後。
 米を蒸らす時間があることを考えれば完璧な時間配分なんだけれど、先にこっちの胃袋が暴れだしてしまわないかが心配だ。
 とりあえず折角いい感じに焼けた鮭をできるだけ冷めないようにアルミホイルでもう一度包み直してグリルの中に戻しつつ、口の端から溢れた涎を手の甲で拭う。
 早く帰ってきてくれ、空……!
 そう考えながら今にも死んでしまいそうだと空腹を訴える腹部をそっと撫でた。

◇ ◆ ◇ ◆

 焦らされること数十分。
 テーブルセッティングまで終えて後は座って食べるだけ。
 そろそろ空腹が限界を訴え出した瞬間、少し遠くから聞き慣れた足音と、金属同士が擦れる音が聞こえて肩が震える。
 少し急ぎ足で玄関に顔を出したところで、錠が回って玄関のドアがゆっくりと開いた。
 外の匂いを纏って帰ってきた空は玄関で深呼吸をすると、安心したように肩を落として廊下に鞄を下ろす。
 靴を脱ぎながら顔を上げた瞬間にばっちりと目が合うとふにゃりと笑った。
 彼はいつもこうだ。
 仕事中はきっと気を張ってるんだろう、家の玄関に足を踏み入れて俺の顔を見た瞬間に安心したように笑う。
 優しくて頼まれると断れない性格から色々苦労したはずなのに、社会人になってからもチームリーダーだったりプロジェクトリーダーだったりまあ色々やらされているらしい。
 重たい荷物は下ろしていいのに、真面目なやつ。
 こいつが本当はいい加減で面倒くさがりでちょっとだけ口が悪いってこと、周りの奴らは知らないんだろうな。

「ただいまあ、條」
「おう。飯出来てるぞ」
「ありがと。すごい良い匂いする」

 上着を脱いだ空をおいて一足先にリビングを抜けてキッチンに戻り炊飯ジャーを開くと、米の甘い香りが鼻先を撫でて一度忘れていた空腹が再び頭を擡げる。
 ぐう、と不満を漏らす腹の虫を睨みつけながら真っ白い柔らかな空間にそっとしゃもじを差し込む。

「うわ、これ鮭? 美味そう」
「こら触るな。手ェ洗って着替えてこい」
「はーい」

 ぱたぱたと遠くなっていく足音を聞きながら、色違いの茶碗に米を盛りテーブルに置いた。
 味噌汁も同じく色違いの汁椀に注いでいるところで着替えまで済ませた空が戻ってくる。
 まだちょっとだけ濡れている手を振りながら戻ってきた彼は、テーブルの上を見渡して目をきらきらと輝かせたかと思うと、我先にと椅子に腰を下ろした。

「食べていい?」
「ったく。しゃーねーな。ほら味噌汁」
「ん、いただきまーす」

 行儀よく手を合わせた彼は何から食べようかと箸を空中に漂わせている。
 数分悩んだ彼はとりあえずは味噌汁を啜ることにしたようだ。

「っはあ~……なめこ美味い……」
「七味入れるか?」
「うん」

 相変わらず美味そうに食うなあ。
 主夫冥利に尽きるってものだ。

「美味いか?」
「うん。今日のも美味いよ」
「そりゃよかった」

 食事に夢中になっている空をチラ見しつつ、味噌汁を喉の奥に流し込んだ。
 その時、テレビから何やら仰々しい音楽が流れてきて思わずそちらに視線を持っていく。
 始まったのはドキュメンタリー番組で、題材は小学校や中学校での「いじめ」についてだった。
 MCと思われる人間が喋りだした瞬間、向かいに座っていた空が慌てたようにリモコンを手に取る。

「條、チャンネル変えていい?」
「……おう」

 結局、番組表を一周しても観たいものが見つからなかったのか彼は静かにテレビを消してリモコンを元あった場所に戻した。
 心配そうな顔をする空に、思わず苦笑いが漏れる。

「そんな顔すんなよ。もう十年以上前だぞ? 今更気にしてねえよ」
「……だって」
「ったく。そんなに気にされたら逆に辛いっての」

 そう。
 小学生時代、自分は「いじめ」に遭っていた。
 いや……いじめなんてぬるい言い方をするべきではない。
 大なり小なり、あれは迫害だ。
 ただ、虐められる側にも理由がある、とは言わないけれど、虐める側には確実に虐める何かしらの理由がある場合というのが殆どで、例えば生活環境の違いだったり種族の違いだったり家庭環境の違いだったり、あるいは自分の好きな人を取られただとか無視をされただとか小さなことまでその理由は多岐に渡るだろうけれど、自分の場合はまず大きな要因として、種族の違いだった。
 あらゆる書類を書くのが嫌になる、自分の種族である”ウルフ”。
 遥か昔、獣人の祖先といわれている「犬」がまだ存在していた時代、人間は自分たちの飼っていた「犬」と狼とを交配させ、ウルフドッグという種族を作り出した。
 目的がどうだったかは定かではないけれど随分迷惑な話で、そんな純正のウルフ種を父に持つ自分は祖先が確実に人間に飼われていたということから手始めに家畜だと蔑まれた。
 不幸というものは連鎖するもので、小学二年の夏、父が過去に暴力事件を起こし懲役していたという事実が学校中に知れ渡り、迫害はエスカレートした。
 さらに最悪なのは自分の容姿。
 一般的に獣人と人間との混血は外面の要素だけでいえば人間あるいは獣人に完全に寄って産まれる。
 しかし極稀に人間と獣人とのどちらもの身体的特徴をもって産まれる子供がいる。
 違うのは見た目だけなので一人でいる分には実生活には問題ないのだが、世間様というものは随分と無情で、人間でも獣人でもない見た目をしている存在を影で「異形」と呼びあらゆる面で蔑むという常識が浸透していた。
 それゆえに、クラスメイトだけではなくクラスメイト達の親にまで自分は奇異の目を向けられていた。
 家畜であったウルフ種の血を引き、更に「異形」で、父が過去に傷害事件を起こしているというトリプル役満。
 逆にこれだけの要素を持っていると、迫害を受けない方が不思議だと今となっては思えるぐらいだ。

「條? 大丈夫?」

 空の肌色の指先が頬を撫でる。
 あの柔らかな肌が、体毛の生えていない指先が、自分にもあったなら。
 種族的に優秀と称えられエリートと持て囃されるゴールデン種の血が自分にも流れていたら。
 優しく穏やかな父と母とに囲まれる生活を送れていたら。
 昔は幾度も望んだ。
 切望して、諦めた。
 だからまあ恥ずかしい話、一時期はとんでもなく荒れていたのだけれど、そんな自分が今こうしてただ旦那の帰りを待ちながら飯を作り家事をする生活を送れているのは、

「おーい、條? もしかして目開けたまま寝てる?」

 目の前にいるこいつのお陰だ。
 こいつがいてくれなかったら……自分は今頃、どうなっていたんだろうと、たまに考える。
 二十数年にもなる腐れ縁。
 その糸はきっといつ切れてもおかしくなかっただろう。
 いや、多分何度か切れてるだろう。
 俺が切ったんだから。
 ただその度に、こいつがわざわざ固く結び直しては性懲りもなく身を寄せて力なく俺の手を引くもんだから、殆ど根負けしてしまったような感じだ。
 あの時変な意地を張り続けなくてよかったと、大人になった今は心から思う。
 だからこそこいつは、自分にとっての救世主で。
 こんなに尽くしてやりたくなるのもきっとその所為だ。
 自分の手で作った料理にがっつく姿に心臓の奥がむずむずとくすぐられてしまうのも、その所為だ。

「いんや。なんでもない」
「あっ、起きてた。もし疲れてるんなら無理しないでよね、條は辛くても何にも言わないんだから心配になるんだよ」

 そう言って、困ったように笑う顔に腹が減ったような気がしてしまうのもその所為だろう。


◇ ◆ ◇ ◆


「條、なにそれ」

 頬を上気させて風呂場から戻ってきた空はソファに座ってぼうっとバラエティ番組を眺めていたこちらの手元を覗き込んだ。
 眼鏡をかけていないからか少しだけ見辛そうに目を細め、眉間に皴が寄っている。
 くしゃくしゃの眉間を思わず人差し指でぐいと押した。
 あ、戻った。

「ハーゲンダッツ。冷凍庫にもう一個あるぞ」
「やった。なんかお祝い事?」
「なんか食いたかったから買った」
「はは、素直でよろしい」

 ハーゲンダッツを取り出してきた彼はローテーブルの上に放置されていた眼鏡を装着し、鼻歌交じりに蓋を取った。

「ん、甘」
「そりゃアイスだからな」
「そっち何味?」
「キャラメルマキアート? みたいなやつ」
「甘そ。一口ちょーだい」
「ほらよ」

 半分ぐらい残っているアイスを一口掬って、彼の目の前に差し出す。
 開いた口の端から見える歯は自分とは違って鋭く尖ってはいない。
 アイスを数度味わうように口を動かしていた空は改めて、甘っ、と零す。

「こっちのも食べる? ほい」

 差し出されるままプラスチックのスプーンを口に含む。
 噛み砕いてしまわない様、慎重に。

「美味しい?」
「ん」

 その時だった。
 何となく流しているだけだったテレビから、どこかで聞いたことのある曲が流れだす。
 思わず画面に視線を向けると幼い頃に見ていた子供向けアニメが放送されていた。
 左上に映し出された「再放送」の文字と荒い作画、余っている画面の幅に時代を感じる。

「うっわ、懐かしい。これよく一緒に見てたよね」

 そういえばそうだった。
 半端ものだと馬鹿にする奴らばかりだった空間の中で、こいつだけが種族ではなく俺自身を見て、隣にいてくれて、同じ景色を見てくれていた。
 目を見て、手を握って、話をしてくれた。

「ああ」

 だけど人間のコミュニティというのは難儀なもので、何か一つ共通の敵を作ったうえで築かれた絆は皮肉にもとてつもなく硬い。
 それがたとえ生徒や先生、学校中から慕われている秀才の出雲空であったとしても、その共通の敵を同じく敵と認識していないと知られてしまったのなら迫害の対象になってしまう可能性は十二分にあった。
 だから、俺は。

「? どうした、真剣な顔して」

 視線を感じて画面から目を離す。
 目が合うと同時に指の間に温度が滑り込んできて、まるで逃がすまいとでも言うように、ぎゅうと握られた。

「昔の事、思い出してたんだ」

 不安そうな声を出しながら、空は互いの鼻先が触れてしまいそうなほどに近付いてくる
 心臓の音まで聞こえてしまいそうな距離。
 懐かしい音と、絡み合う視線だけが五感を支配した。

「そんな顔しなくても、俺はもうお前から逃げない。だから安心しろ」
「わかってる……戻ってきてくれてありがとう、條」
「当時のお前のへなちょこパンチ、随分効いたからな」
「それは何より」

 弱いくせに、力なんてないくせに、こいつはこうやって時々、力強く笑うんだ。
 そうやって迫害されていた俺のことも、荒れていた俺のことも、連れ戻そうとしてくれた。

「ん、」

 絡み合った指先に、互いを握り合う手に、もっと多くを求めるようにと自然に力が入っていく。
 どちらともなく触れた唇は吐き気がするほど甘ったるくて、癖になってしまいそうだ。
 いつ彼の肩を押してマウントを取ってしまおうかと機会を伺っていると、ぐるんと視界が反転した。
 ぺろり、と口元を舐めた空はにんまりと口角を上げ、楽しそうに笑う。
 白い光を背中に浴び、影が下りた優し気なタレ目が意地悪く細められるその瞬間が、堪らなく好きだ。
 好き、なのだけれど。

「……今の流れは逆だったろ」

 納得がいかない。
 こちとら夕飯の時からずっとお預けをくらってるんだ。
 今更大人しく抱かれるなんて出来そうにない。

「それはそれ、これはこれ」
「通用するか! お前いっつもムードがどうちゃらとか文句言うだろうが!」
「えー? 知らないよ、僕そんなこと言わないし」
「言ってんだよ! おいどけっ……ちょ、おい、やめろ固めんな固めんな! 痛てててててッ」

 数分の格闘の末に俺が10カウントを取られ(器用なことにウエイトがなくても何とかなる寝技を使ってきやがった。いつ覚えたんだこいつ)、節々が痛むなか今日は大人しく組み敷かれてやることにした。
 というか頷く他なかった。
 関節を外されるのだけは遠慮したい。
 あれめっちゃ痛いんだよ。

「さて。前座はこの辺にして」
「お前途中から楽しんでただろ……」
「何のことかな」
「ッのやろ……覚えとけよ」
「はい脱いでくださーい」
「だからもっと雰囲気どうにかしろっつーの!」


 <この続きは製品版で!>

【試し読み】部長の下で乱れたいっ!

 こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
 冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。

006


 獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
  小学生の頃、歴史の授業で人間の祖先は”猿人”、獣人の祖先は”犬”という生き物だったのだと習ったのをぼんやりと覚えていた。
 人間に地域や見た目、肌の色などによってある程度の種族の区分けがあるように獣人にも種類があり、例えば獣人である自分の母はハスキー種という種族で寒い地域に住んでいた犬の末裔なのだと聞いたことがある。
 そしてそんな母と、純正の人間の父との異種婚によって産まれたのが、自分……一之瀬まこと。
 性別は男。
 平凡に大したイベントもないまま小学校から大学までの学生生活を終え、就活にも特に苦労することもなく、あまり大きいとはいえないが同僚も上司も優しい人たちばかりの会社に就職してかれこれ二年とちょっと。
 入社時と変わらず今日も会社の営業事務を担当している。
 いや、変わらずというのは少し違う。
 つい先日のことだけれど、入社時から二年間あたためた恋に、終止符が打たれた。
 営業部部長、柴種の獣人である朝桐伊墨。
 営業事務、朝桐伊墨とハスキー種の母を持つ混血の一之瀬まこと。
 僕たちは、恋人だ。


007

「部長、頼まれていた資料、共有ファイルに保存しておきました」
「さすが早いな。ありがとう、確認しておくよ」

 さて。
 これで今日頼まれていた業務はすべて終了してしまった。
 追加の仕事は……どうやら来そうにない。
 友人に一度注意された猫背を無理やり伸ばして、背もたれに全体重を預けると節々から骨が鳴る音が聞こえた。
 ふいと静かなオフィスを見渡す。
 オフィス内には自分と、それから、部長。
 普段はざわついているだけに二人きりのオフィスにはまだ慣れなくて、気恥ずかしさを感じながら横に目を向けると、まあ当たり前なのだけれど自分が作成した資料と睨めっこする部長がいる。
 彼は視線を気取ることもないままひたすら資料の確認と週明けに控えているクライアントとの打ち合わせの内容の詰めを行っているようだ。
 いくら恋人とはいえ仕事中の彼に迷惑をかけるわけにもいかないのでそっと視線を外して再び目の前のモニターを眺める。
 フォルダをいくつか開いてみたけれど、やっぱり特に今やらなければいけない仕事もないし……ついに手持ち無沙汰になり、バッグに入れておいたスマホを覗き見た。
 通知はなし。
 トークアプリを開き、今日は体調不良で仕事を休んでいる同僚であり同期でもあり親友ともいえる、東桜花とのトーク画面を開く。
 最後のトーク履歴は昨日。
 部長との進捗状況を切り込んできた桜花にエールを貰ったところで終わっている。

{ 桜花、具合どう? )

 数秒画面を見つめて、既読が付かなかったのでスマホをそっと脇に置いた。
 ふいと顔を上げるとオフィスの窓の向こうはすっかり橙色に染まっていて東側からは少しずつ淡い光を飲み込んだ濃紺が空を飲み込まんと迫ってきている。
 もう三十分もしたら定時。
 幸いなことに今日も残業をすることなく帰ることが出来そうだ。
 会社用のグループチャットでは、営業の人たちが営業先から直帰する旨が続々と報告されている。
 そんな様子を見ていると、つくづく優良企業に入社出来たものだと自分のこれまでの行いを一人ひっそりと褒めるのだった。

「うーん……」

 横から小さな唸り声が聞こえてきて、そっと窓から視線を外し遠くの席にいる部長を盗み見る。
 相変わらず彼は真剣な顔でパソコンの画面と睨めっこをしていて、時折首を傾げたり頬を掻いたりとお困りの様子。

「部長? もしかして資料に不備でも?」
「いいや、資料に不備はない。完璧だよ。それより今さっき先方から送られてきたデータが文字化けしていてね、なんとか復元できないかと作業していたんだけれど」

 そう言って困ったように笑う彼。
 席を立って近付き、彼の画面に目をやると確かに画面に表示された資料には見たことのない字やカタカナが羅列していて、到底読めそうにはなかった。

「ちょっと見せてもらっていいですか?」
「あ、ああ」

 ちょっとだけ避けてくれた部長に頭を下げて、画面を睨みつける。
 折角の週末、部長とこのあとデートの予定が控えているのだ。
 こんな数枚しかないぺらっぺらの資料に足止めなんてされている場合じゃない。
 あれはこれはと思いつく限りの方法を試し、数十分にも及んだ手に汗握る格闘の結果、なんとかほぼ定時ぴったりにファイルを開くことができた。
 軽い仕様の変更くらいだろうから最悪来週に回そうと部長と話していたけれど、表示された資料には結構重要な変更内容が表記されていてこのまま諦めて帰っていたら週明けにえげつないシワ寄せが来るところだった。
 危ない危ない。

「おおー! さすが一之瀬くん! 助かったよ、ありがとう! やっぱり機械系は若い子に聞くのが一番だな!」
「いえ。それよりこれ結構重要な内容ですよね。無事に開けてよかった……」
「本当だよー! こんな大事な資料、メールでぽんっと送ってくるなよ、びっくりするなあもう」

 小さく悪態をついた部長。
 その様子がなんだか子供のようで思わず笑いが零れる。
 二年もあたためた片思いが実ってから二週間。
 たった二週間では大きく関係が変わることはないけれど、部長は二人きりだとちょいちょいそうした隙のある様子を見せてくれるようになった。
 桜花や他の営業の人がいる時は絶対にこんな愚痴は零さない。
 それは恐らく「上司」「部長」という立場があるから。
 ほんの二週間前までは自分の前でもそうだった。
 スマートで隙がなくて、頼りがいのある広い背中をずっと追いかけていた。
 だからこそ、ギャップが心臓に悪い。
 無意識なのかどうかはわからないが自分の前でだけは少し気が抜けている彼が本当に愛しくて。
 いそいそと帰る準備をしている彼の背中にぴったりと頬を寄せる。
 ずっと追いかけていたその背に、やっと届くようになったんだ。
 触れている頬から流れ込んでくる体温、それにタバコとコーヒーの匂いが混ざり合って、カフェラテのような優しくて甘いほろ苦さが喉の奥に流れ込む。

「い、一之瀬くん?」
「はい」
「えっと。ど、どうしたのかな、急に」
「特に意味はないです」
「ええ……」
「こうしたくなって。ダメでしたか?」
「だっ……だめ、じゃ、ないけど……えっと、その」

 しどろもどろになる彼。
 どうしたらいいのかわからないらしい両手はあたふたと宙を舞っている。
 取引先のお偉様方も他の営業の人も、多分だけど桜花も、こんなに言葉に詰まっている部長は見たことがないだろう。
 この会社の取引先割合は未だに部長が五十パーセント以上を握っている。
 いわゆる、営業部トップ。
 そんな人が、今、自分に寄り添われてこんなにも狼狽している。
 その事実を考えるだけで喉の奥がきゅんと縮んで、まるで心臓をくすぐられているような感覚を覚えた。

「けど、なんですか?」
「う、えっと、だな……」

 そっと離れて、彼の正面に回る。
 顔を覗き込むと真っ赤な顔をした彼は小さく縮こまってしまった。
 その様子が可愛らしくて、また笑みが零れる。

「わ、笑わないでくれ。付き合う前に言っただろ、こういうのは久しぶりだって……」
「ふふ。すみません」

 彼の柔くてふわふわの頬にそっと触れるとまた彼はあたふたと視線を泳がせた。
 頬に添えたままの手をゆっくりと引くと彼は不思議そうな顔をしながら少し姿勢を下げる。
 少し背伸びをすれば届くぐらいの距離になったところで、彼の額に唇を押し付けた。
 彼のまんまるい、獣人特有のいわゆる”まろ眉”が驚いたように跳ねる。
 踵が床に着くと同時に見上げた彼の顔はやっぱりというか案の定真っ赤になっていて、どうしたらいいかわからないと雄弁に物語っている。
 自分の行動ひとつがこんなにこの人を揺れ動かしている事実が本当に嬉しくて。

「そろそろ行きましょう、部長」
「あ、ああ」

こんな感じで付き合う前とちょっと関係性は変わって、彼の好きな部分を少しずつ拾い集めるような日々を楽しんでいた。


◇ ◆ ◇ ◆


 ……の、だけれど。

「はあ……」

 思わずため息が漏れた。
 部長と交際を始めてそろそろ三か月が経過する。
 あれから何度もデートや食事を繰り返してはいるものの、関係性は変わらないままだった。
 ”付き合う前と変わっていない”……つまるところ”手を出してくれない”。
 それどころかキスだって未だ軽いもの止まり。
 付き合えているだけで殆ど奇跡のようなものなのでそれ以上を望むのは贅沢かもしれないけれど、やっぱり彼のことが好きだしそういうことをしたいと思うことも一度や二度ではない。
 自分から誘うっていうのも考えたけれど、なかなかタイミングもなくて頭を抱えていた。

「……あれ?」

 そう。
 デートはしてくれるのだ。
 最初は楽しかったけれど、デートのそのあとがないことにいつもがっかりしてしまう自分がいて、それが申し訳ないやら恥ずかしいやらで最近は心からデートを楽しむことができなくなっていた。
 今日もその数ある物足りないデートの中の一日……に、なるはずだった。
 電光掲示板を見上げて首を傾げる。
 いつも乗っている、最寄り駅へと向かう最終電車の時間が表示されるはずの場所には「運転中止」の文字。
 不安なこちらの気持ちを汲み取ってか、すぐさまざわついた駅構内にアナウンスが入った。

「お客様にお知らせいたします。十一時四十三分着、〇〇方面三百二号車は現在、機材のトラブルにより運転を見合わせております。復旧の目処は現在立っておりません。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解のほどよろしくお願い致します」

 そのアナウンスと同時にタクシーを求めて駅を駆けだしていく人や不満を漏らしながら家族に迎えの要請をする人など、ざわめきは一層増す。
 そんなざわめきの中、ぽかんと電光掲示板を見上げてアナウンスを聞いていた自分は恐る恐る真横に立っていた彼に視線を向けた。

「えっと。どう、しましょう?」

 この場所からなら自分の家にタクシーを使って帰るより、動いている逆方面に乗って部長の家の最寄り駅まで行く方が断然安いし楽だ。
 それを分かったうえでの、この問い。
 自分でも狡い言い方だったと思う。
 口ではどうしよう、なんて言いながらきっと目は切望していただろう。
 でも許してほしい。
 ここしかない、とついついがっついてしまうのは仕方ないことだと思うから。
 そんな風に言われた彼はというと、ブリキの玩具のようにぎこちなく視線を持ってきて困ったように笑ったかと思うと、少しだけ視線を泳がせたあと意を決したように息を吐く。

「うちに行こうか。逆側の路線は動くみたいだし。タクシーで帰るのも勿体ないだろう?」

 そういう彼の声はいやに落ち着いていたけれど、指先が小刻みに震えていることに気付くのは難しくはなかった。
 少しだけ頼りないそれをそっと握ると彼の肩はびくりと跳ねる。
 その様子が面白くって、愛らしくって、笑みが零れた。
 少しだけじんわりと湿った手の平に指を絡めて、指の腹で肉球を撫でる。
 ざらついた感触に背筋がぞわぞわと震えた。
 恋人として彼の家にお邪魔するのは初めてで、考えるだけで心臓が過労死してしまいそうだ。
 
「……はい」

 流石は金曜日の夜。
 最終電車が来るホームは家路につく人でごった返していて、それは勿論車両の中も同等……いや、それ以上に混雑している。
 ぎゅうぎゅうの車両が揺れるたびにあまり身長の高くない自分の身体は人の波に押し流されてしまう。
 やっぱりみんな散々飲み明かした後なのか車内はアルコールの匂いが充満していて、この空間にいるだけで酔ってしまえそうだった。
 しかも時期は梅雨。
 深夜でもじっとりと張り付く湿気に充てられて、深く息を吐いた。

「大丈夫かい?」

 ざわめきの中、少しだけ聞こえにくい彼の声が降ってくる。
 彼に背中を預ける形になってしまっていたので何とか体を捩って視界に彼を入れようとするが、周囲の人はびくともしない。
 仕方なく首だけを回したけれど、彼の鼻先しか見えなかった。

「だ、大丈夫、です」
「……あまりそうは見えないけれど」

 実をいうと先程から、自分の前方にいる男性がその、なんというか、ちょっと、いやかなりふっくらしてて、その腹圧で少々苦しい。
 自分が身動きひとつ取れずにいるのはそのせいもある。
 でも当の男性は残業終わりなのかとんでもなく疲れた顔でつり革を握ったまま眠そうにうとうとしていて、声をかけるのは憚られる……。

「一之瀬くん、ちょっとだけ右に動ける?」
「? はい」

 言われるまま、本当にちょっとだけれど右に身体をずらす。
 途端、軽い衝撃と共に視界が回ったと思うと背中にひんやりとした温度、目の前には汗の所為か少しだけへたっている首元のふわふわとした毛。
 そして部長の背後に先程まで自分の目の前にいた男性の影が見えた。

「えっと……?」
「これなら少しは苦しくないかい?」
「あ、えっと、はい……」

 どうやら位置を変わってくれたらしい。
 背中がひんやりとしたのはどうやらドアにぴったりと押し付けられるようにしているからだったようだ。
 目の前にあるどアップの部長の顔には薄暗く影がかかっていて、体毛の所為で暑いのか真剣な顔で少しだけ苛立たし気にネクタイを緩めるその姿に心臓が跳ねた。
 もしかしたらこの後……なんて、妄想ばかりが脳裏を駆けて、彼の顔がまともに見られずただ足元にじいと視線を落とし続ける。
 そんな感じで彼の匂いを目の前に感じながら満員電車に揺られること十数分。
 押し出されるようにして最寄り駅に降り、やっと暑苦しさと圧苦しさから解放されたことで二人そろってホームで深く息を吐きだした。

「混んでましたね」
「ああ。混んでたね」

 苦笑いをして、先を歩きだした部長の背を追う。
 駅を出ると灰色の雲を纏った夜空が一面に広がった。
 少しぼやけた向こうにちらほらと星が輝いている。

「折角だから途中のコンビニで何か買っていこうか? 折角だしもう少し飲み直そう」
「わ、いいですね。アイスとか食べたいです」

まだ少しだけ肌寒い夜風を浴びながら帰路に就く途中、何か色々と話したような気がするけれどあまり覚えていない。
 ただ、ひんやりとした空気がアルコールで火照った頬を優しく撫で上げてくれていたことと、思わず取った彼の手がいやに熱を持っていたこと以外は。

「お邪魔します……」

 彼の家の玄関。
 一度来たことはあるけれど”恋人”として訪問するのは初めてだ。
 付き合う前、路上で倒れてしまい部長の家に運び込まれたことがあった。
 その時は甘い雰囲気になんてなる余裕もなく、勿論まだただの上司と部下の関係だったのもあって何事もなく終わったのだけれど、今回は違う。
 体調はなんだったら色々と万全だし、なによりもう自分たちは恋人同士……何かがあってもおかしくはない。
 彼の匂いが充満するその空間は本当に心地よくて、とんでもなく息苦しくて。
 今にも呼吸が止まってしまいそうだ。

「適当に座っていて。いまコップ出すよ」
「あっ、ありがとうございます……」

 適当に、とは言われたものの。
 悩んだ末にソファの上ではなく絨毯の上に腰を下ろす。
 先程までほぼ一日中誰もいなかった絨毯の上は冷やっとして、肩が跳ねた。

「こらこら、床に座らないの」

 戻ってきた部長の手には氷が入ったガラスのコップが二つ。
 それを見計らってコンビニの袋を覗き込む。
 たくさんお酒買ってきたけど、どれにしようかな……甘めのがいいから、桃かな。

「床、冷たいでしょ」

 コップをテーブルの上に置いた彼は恐る恐る手を伸ばして……少しだけ迷って、二の腕を掴む。
 支えられるようにして体を持ち上げられ、ふかふかのソファに改めて腰を下ろした。

「桃でいいですか?」
「ああ。ありがとう」

 ゆっくりとコップに酎ハイを注ぐと、炭酸の弾ける音と氷の軋む音とが喉の渇きを加速させていく。

「じゃ、改めて。お疲れ様」
「お疲れ様です」

 コップを軽くかち合わせると、たぷん、と手の平で水分が揺れた。
 ぐいと力強く煽る部長に釣られて口をつけると、つんとアルコールの匂いが鼻を突く。
 あまりお酒に強くない自分はたった数パーセントの缶酎ハイでも酔うには十分。
 そのうえ、途中夜風を浴びて幾分か醒めたとはいえ深夜の二次会……数口飲んだところで意識は少しずつぐらつき始める。

「一之瀬くん?」

 ずいと覗き込んできた彼の顔がぼやけた。
 いつの間にか自分の手に持っていたはずのコップはテーブルの上に置かれている。

「ぶちょお、」

 彼の顔がぼやけるのが勿体なくて、放っておいたらどこかに行ってしまいそうで。
 そっと手を伸ばして、確かめるようにして彼の頬に触れた。
 じんわりと熱を持ったその頬に触れた瞬間、ぼやける視界の中で彼の目が見開かれたのだけが分かる。

「すきです……」

 そっとその頬を手繰り寄せて胸元に抱き込めると、彼の体温が一気に雪崩れ込んできて蕩けてしまいそう。
 分かり切っていたことだけれど……今更改めて認識するようなことでもないけれど、やっぱり自分はこの人が好きだ。

「い、一之瀬くん……酔ってる……?」
「ふふ。酔ってます……酔ってるので、ぎゅうってしてください」

 今日はお酒の力を借りて我儘を言いたい気分だった。
 だって、おうちデートなんて初めてで。
 こんなに、彼だけを視界に入れていてもいい時間なんてきっと滅多にない。
 独り占めしなきゃ、勿体ない。

「ええっと」
「だめですか……?」
「だ、だめじゃないけど」
「もう。部長、そればっかりですね」
「う……すまない」

 頬を膨らませて見せると彼は申し訳なさそうな顔をして……恐る恐る、まるで硝子細工にでも触れるかのような手つきでそっと背中に腕が回ってきた。

「く、苦しくないかい?」
「全然。もっと強くてもいいくらいです」

 人間は、獣人ほど頑丈じゃない。
 自分はただでさえ筋肉量のない弱々しい体格だから、きっとそれを気にしてくれているんだろう。
 聊か気にしすぎだけど。

「……一之瀬くん」

 緊張していたのか少しだけ低く、唸るようにして呼ばれて心臓の奥がきゅんと鳴く。
 彼とソファの背もたれとに挟まれて、射抜くような視線に見つめられて、身動きが取れなくなった。
 少しずつ近づいてくる吐息と、アルコールの匂い。

「ん、」

 人間と違うふわふわの口元が唇に触れる。
 少しだけそのまま触れていたかと思えば、慌ただしく離れていった。
 やっとくっきり見えた彼の顔は不安そうに歪んでいる。

「えっと……ごめん、急に」
「ふふ。謝らないでくださいよ」
「で、でも。嫌じゃなかった……?」
「嫌だと思われるようなこと、したんですか?」
「意地悪だな、君は」

 あ、ちょっと不満そう。
 眉をしかめた彼はもう一度距離を詰めてきた。
 背中に回っている手が少しだけ力を増していく。
 触れるだけのキスならもう何度かしたことはあるけれど、今日は彼も酔ってるのか少しだけ強気だ。
 もしかしたらこのまま……?!
 なんて、期待したけれど。

「……今日はもう寝ようか」

 まあ。
 この人のこういう硬派なところも好きなんだけれど。
 好き……なんだけれど。
 自分は、もしかしてそういう対象だと思われていないんだろうかなんて思うけれど、キスはしてくれるし自分の行動ひとつで赤くなったり焦ったりしてくれる様子を見ると好きでいてくれてるのは事実だと思う。
 というか、そう信じたい。
 並んで歯磨きをして、シャワーまで借りてしまって、準備万端な状態で何事もなく迎えてしまった朝。
 呑気に窓の外で鳴いている雀の声を聞きながら寝ぼけたまま周囲を見渡した。
 男性の一人暮らしとは思えないほどすっきりと整理整頓された寝室。
 フローリングもピカピカ。
 前にお邪魔したときはこんなに綺麗なフローリングに嘔吐してしまったんだっけか……本当にあの時は申し訳なかった。
 こんな部屋に恥じない様、できるだけ自分が寝ていたベッドを綺麗にメイキングしてリビングに向かうとパジャマのままの部長がキッチンに立っていた。

「おや、おはよう。一之瀬くん」
「おはようございます、部長」

 目を覚ましたら大好きな人が”おはよう”と言ってくれる。
 それだけでこんなに幸せなのだから、やっぱりくよくよ悩むのはやめていつかそういう流れになったらいいな、ぐらいで気長に待つことにしよう。

「朝ご飯もうそろそろできるよ」
「すみません、何から何まで……」
「いいんだよ。君はお客人なんだから、もてなすのは当然だ」

 そういって、彼は電気ケトルを手に取ってカップにお湯を注いだ。
 苦みをふんだんに含んだ、香ばしい香りが漂ってくる。

「それに、恋人を甘やかしたいと思ってしまうのも……当然だろう?」

 昨日のお返しとばかりににやりと口角を上げた彼。
 その悪戯っぽい笑顔を見るのは初めてで、思わず顔を逸らした。

「っお、お手洗い借りますっ」
「ははは。いってらっしゃい」

 あんな顔もするんだ。
 まだまだ彼の知らない部分がある。
 これ以上先に進むのは……やっぱりもっと彼のことを知ってからでもいっか。
 勝手に持ち上がる口角を両手で押さえながら廊下に出てお手洗いへと歩いていたその時だった。
 視界の端っこで少しだけ開いたドアが目に映る。
 そういえば部長は昨日の夜、この部屋に入っていった。
 寝室が二つあるのかな……?
 なんとなく好奇心で覗いてみるとそこは思い描いていた空間とは違い、天井まで届きそうな本棚が置かれて少し煩雑な印象のある部屋だった。
 本棚にはぎっしりと本が押し込まれていて、そのどれもが窮屈そうにしている。
 どうやら書斎のようだ。
 あ、机の上にメガネある。
 垣間見えたおじさんくささに思わず笑みをこぼした次の瞬間、そのメガネの隣に写真立てが置いてあるのが見えた。
 ここからだとどんな写真までかは見えないけれど……。

「……」

 思わずリビングに振り向く。
 ドアの向こうからは、かちゃかちゃと部長が朝ご飯を用意してくれているのであろう音が漏れてきていた。
 暫く廊下に出てくることはなさそうだと判断し、恐る恐る書斎に足を踏み入れる。
 部屋の中には紙の匂いが充満していて、まるで図書館のようだった。
 見えていたのは一部だったので気付かなかったけれど足を踏み入れてみると部屋の壁四方向すべてに本棚が設置されていて、なんというか圧巻の光景だ。
 ぐるりと部屋を見まわして、改めて机の上に視線を戻し、お目当てである写真立てをそっと覗き込む。
 好奇心は猫をも殺す、とはよく言ったものだけれど、こんなにやめておけば良かったと思ったのは初めてだった。
 窓の外から差し込む光を反射するその写真立てに映っていたのは、お淑やかに微笑む獣人の女性。
 この人は一度見たことがある。
 部長の、死別した奥さんだ。
 彼が大切にしている年季の入った手帳に挟まっていたあの写真。
 付き合う前、特に意図したわけでもなくたまたま、その写真を見つけてしまったんだった。

「あの写真は妻との結婚式の写真だ。……もう、二度と会えないけれど」

 そう零す彼の笑顔がフラッシュバックする。

「死別したんだよ。五年前。末期ガンだった。腫瘍が見つかった頃にはもう間に合わなくて」

 もう、あんな顔は見たくない。
 改めて写真立てに向き直る。
 位置的に陽の光を浴びやすいのか写真はすっかり日焼けしてしまっているけれど写真立ては随分綺麗にされていた。
 きっと定期的に変えているんだろう。
 そっと指先で触れると、じんわりとした温度が返ってきた。
 そりゃこんなに暖かくなるくらい陽に当たっていたら日焼けもしてしまうだろう。

「やっぱり、そうなのかな」

 ずっとどこかにあった不安。
 もしかして自分にそういう気になれないのは、まだ奥さんのことを……。
 故人を前に不謹慎かもしれないけれど、この人がとんでもなく羨ましい。
 そして、悔しい。
 この人が居ないから、今自分は彼と一緒に居られる。
 彼の隣を歩ける。
 でももし……奥さんがまだ元気でご存命だったとしたら、きっとその間に自分が入る隙なんて少しもなかっただろう。
 流石に既婚者だと分かったうえでアプローチをかけるほど非常識ではないけれど。
 自分にはこの先も彼とずっと一緒に居られる保障なんてどこにもないのに、確証なんて得ようもないのに、この人はこの先自分と彼とがどうなろうと関係なく、ずっと彼の中で”最愛の妻”という立場を確立し続けることができるのだろうから。
 そっと手に取った写真立てを机に戻し、部屋を出てドアを後ろ手に閉める。
 悔しさに苛まれながらお手洗いを済ませて、リビングのドアを前に深く息を吐いた。
 ちゃんと笑えるだろうか。
 そんな不安を抱えたままリビングに足を踏み入れると、彼は変わらず笑顔で出迎えてくれて、その笑みが今はいやに突き刺さる。

「ご飯できてるよ」
「あ、ありがとうございます」

 テーブルの上はもうセッティングが済んでいて、綺麗なお皿の上には湯気の立ち上る目玉焼きとベーコン、艶々としたサラダが乗っていた。
 一緒の食卓を囲むことは本当に嬉しいはずなのに、ふとした瞬間に先程見た写真立ての中で柔く微笑むあの人の笑顔がちらつく。
 彼の顔をまともに見られなくて、差し出されたカップの中で揺らいでいる黒い湖越しにどこか歪な笑顔を浮かべた自分と目が合った。

「コーヒー、一之瀬くんはミルクだったよね」

 目の前に出てきた小さなミルク。
 お礼を言いながら受け取って黒い湖の中に注ぎ込むと、自分の顔は歪んで消え、その奥からゆっくりとベージュ色が浮き上がってくる。
 小さなスプーンで水面を撫でてやるとその色はじわりじわりと広がっていき、カップの中を全て飲み込んだ。
 カフェラテのふんわりとした優しい色合いをいつもは綺麗な色だと思うけれど……今は濁っているようにしか見えない。
 せっかく部長が作ってくれた朝ご飯だったのに、あまり味も分からず、コーヒーの苦みだけが鮮明に口の中に残っている。

「ごちそうさまでした」
「うん。お粗末様でした」

 手を合わせると、目の前に座る彼は満足そうに笑った。

「味は大丈夫だったかい?」
「はい。美味しかったです」
「それはよかった」

 目を逸らしかけて、やめる。
 こんなに露骨に逸らしたら何か感づかれてしまうかもしれない。

「洗い物、僕がやりますね」
「え? いいよ、私がやるから」
「ダメです。お世話になりっぱなしなんですから、これくらいはさせてください。ね?」
「……わかった。助かるよ、ありがとう」

  嬉しいはずなのに。
 今は、あまり笑わないでほしいと思ってしまう。
 嫌な奴だな、僕。
 思わず苦笑いを零しながらキッチンに立った瞬間だった。

「……っ!」

 体から力が抜けていき、床に力なく腰を下ろす。
 心臓が早鐘を打って視界はぐんにゃりと歪み、呼吸は浅くなっていく。

「一之瀬くん?!」

 彼の声が遠くで聞こえた。
 なんで……朝、薬飲んだのに……。

「なんっ……で……!」
「一之瀬君、大丈夫か?! 待ってろ、今病院に……!」
「ぶ、ちょ……そこまでは、大丈夫、です」

 呼吸が苦しくて、目尻から零れた水分が頬を伝う。
 あまりの彼の顔は見えなかったけれど、ごくり、と喉を鳴らす音が聞こえた。


 <この続きは製品版で!>

【試し読み】部長に顔を埋めたいっ!

 こちらはとらお。が運営している同人サークル「もふもふ天国!」にて刊行された同人誌のお試し読みになります。
 冊子版・PDF版ご用意しておりますのでご希望の方は以下購入ページからどうぞ。

001

 獣人と人間とが共に歩んできた年月はもうかれこれ数十世紀にもなる。
 獣人。
 文字通り、獣の形をした人。
 ”猿人”を祖先とする人間に対し、獣人は大昔に存在していた”犬”という生き物が祖先になるのだそう。
 人間に地域や見た目、肌の色などによってある程度区分けがあるように獣人にも種類があり、”犬”という生き物の種類……いわゆる”犬種”というものに帰属するのだそう。
 歴史上の記録によると、平安時代とかその辺から人間とは似ても似つかない二足歩行の文明生物が現れたのが獣人の始まりだと言われている。
 かつて、人間と獣人はいがみ合いながら暮らしていた。
 獣人は力を、人間は知能を誇示し、お互いに自分たちの方が種族的に上だと互いを見下し続けていたらしい。
 そんな殺伐とした世界に終止符が打たれたのは、数十年前、とある番が出現した頃だった。
 その番は片方が獣人、もう片方が人間という、当時では異端とされるような二人。
 しかし彼らが声を上げたことで秘めたる思いを告白する者たちが次々と現れ、やがて獣人と人間とが手を取り合い歩む世界として落ち着いていったのだった。
 そしてそんな世界で、ハスキー種の獣人である母と、純正の人間の父との異種婚によって産まれたのが、自分……一之瀬まこと。
 性別は男。
 平凡に大したイベントもないまま小学校から大学までの学生生活を終え、就活も特に苦労することもなく、あまり大きいとはいえないが同僚も上司も優しい人たちばかりの会社に就職してかれこれ二年。
 僕は、入社時と変わらず今日も会社の営業事務を担当している。


◇ ◆ ◇ ◆


「まーこと! ランチ食べに行こー!」

 鈴が跳ねるような元気な声が飛び込んできてふいと顔を上げた。
 作成中の書類が表示されたモニターの向こう、小さな耳を湛えたふわふわの彼女がぴょいと顔を出す。
 可愛らしく結わえられた三つ編みと桃色のリボンが跳ねた。
 目が合ったポメ種の彼女の目がくしゃりと可愛らしく細められる。

「桜花、ちょっと待ってね。区切りがいいところまでやっちゃうから」

 正面のデスクの彼女は同期の東桜花。
 もうかれこれ二年もの付き合いになる彼女は良い意味でパーソナルスペースが狭く、人懐こい性格だ。
 最初は距離感が近いのが少し苦手だったのだけれど、お互い唯一の同期であることもあり交流を進めていくと意外にも面倒見が良い面があったり物怖じしない芯がある姿勢だったりが見えてきて、いつしか苦手意識は消えてなくなっていた。
 今では何でも相談できる良き友人となった彼女はいつもこうしてランチに誘ってくれる。
 編集していたデータを保存してデスクを立つと、待ってましたと言わんばかりに桜花も勢いよく立ち上がった。
 まん丸い尻尾が忙しなく揺れているのが見える。
 早く早くと彼女に急かされながら、身軽に財布だけを持って桜花と共にオフィスを出た。

「今日は何にしようかな~? パスタ? ハンバーグ? ラーメン? ちょっと奮発して焼肉っていうのもいいよね~!」

 ついつい腹の虫が鳴いてしまいそうなその言葉に相槌を打ちながらふいと隣でスキップ気味に歩く彼女に視線を向ける。
 ポメ種……正式名称はポメラニアン種族。
 ポメ種は基本的に小柄で、隣にいる彼女も例にもれず身長僅か百四十七センチ。
 ふわふわの体毛とピンク色の肉球がとても愛らしい。

「まことは何か食べたいのある?」
「うーん……僕は特に」
「もー! そういうこと言ってるからまことはいつまで経ってもガリガリのもやし君なんだよ! よしっ、じゃあ今日のお昼は焼肉に決定! 桜花ちゃんが奢ったげる! いっぱい食べなさい!」
「えっ? いいよ、そんな。自分で払うよ」
「いいからいいから! ほら、レッツゴー!」

 ふわふわの綿毛のような感触が手首を包んだ。
 彼女に腕を引かれながらぼんやりと、羨ましいなあ、なんて考える。
 獣人特有の肉球と、彼女の体を覆うふわふわの可愛らしいベージュの体毛は自分にはない。
 そして、彼女のように自分に自信を持てるような武器もない。

「まこと? どしたの、ぼーっとして」
「ううん。なんでもないよ」

 彼女の大きくてまん丸い瞳に、自分の顔が反射した。
 ぼんやりとしたグレーの髪と瞳。
 母譲りのそれらを携えているのはどこか頼りなさそうな人間の男。
 自己主張が少なく、地味で、根暗。
 目の前にいる桜花とは正反対な自分に嫌気が差す。
 こんなことだから想い人に気持ちの一つも伝えられないんだなあ、と一人勝手に肩を落としつつ、桜花に手を引かれるまま焼肉ランチの店へと足を踏み入れた。

「いらっしゃいませー!」

 店員の元気な挨拶を心地よく感じながら案内された席に向かい合って座る。
 一冊しかないメニューを二人で覗き込みながら、隣の席から聞こえてくる肉が焼ける音に喉を鳴らした。

「まこと、なんにするー? 私はこの、色んなお肉が乗ってる”満足セット”ってやつにしようかな!」
「ええと…じゃあこの”食べ比べセット”にするよ」
「オッケー! どっちも美味しそうだし、交換しながら食べよー♪」

 きらきらとした瞳で桜花が呼び鈴のボタンを押す。
 数秒待った後、額に汗を光らせた店員さんがぱたぱたと駆け寄ってきた。
 さくっと注文を済ませ、これまた忙しそうに厨房へと戻っていく店員さんを見送りながら桜花と目を合わせる。

「焼肉久しぶりかも~♪ 超テンション上がるね!」
「だね。あっちこっちからいい匂いがしてきて、お腹鳴りそう……」
「あたしもヨダレ出そう……」

 なんて、二人で笑っているとさっきの店員さんがお皿をいくつも抱えて戻ってきた。
 テーブルの上に所狭しと並べられるお肉やらサラダやら白いご飯やらをついつい凝視してしまう。
 店員さんがテーブルを離れるが早いか、二人揃ってトングを手に持ち焼き網の上にお肉を並べていく。
 途端、油が網の上で踊る音が鼓膜を揺らし、香ばしい匂いが鼻孔を撫でた。
 やはり肉食動物として産まれた以上、目の前で肉が美味しく調理されていく様子を眺めている瞬間は心躍るものだ。
 セットの卵スープを啜りながら食欲をそそる赤みがゆっくりとその身を焦がしていくのを今か今かと待っていると、正面に座って同じくお肉と睨めっこをしていた桜花が我慢ならないとでもいうように肉を持ち上げ、口にぽいと放り込んだ。

「え、ちょ、まだ赤いよそれ?」
「だいじょーぶ、だいじょーぶ!」

 肉をゆっくりと味わうように噛みながら、恍惚の表情を浮かべる桜花。
 くそう、羨ましい。
 獣人は本人たちが自負する通り生命力が強い。
 ちゃんと処理をすれば火の通っていない生肉でも食べられるらしく、居酒屋なんかにいくと真っ赤な生肉を食いちぎってビールを流し込んでいる中年の獣人男性なんかを見かけることもままある。

「まこと、そのお肉、もういいんじゃない?」

 桜花に言われて視線を落とすと、程よく焦げ目のついた香ばしい匂いを放つお肉が自分を見上げていることに気が付いた。
 零れ落ちる肉汁が勿体ない。
 少し焦りながらしっかり焼けたそれを箸で摘んで甘めのタレにダイブ。
 タレを絡めたらご飯の上でちょっとタレを落として、と。

「いただきます」

 甘い肉汁が舌の上でじわりと溶け出してタレと絡む。
 すかさず白いご飯も投入。
 濃いめのタレのおかげでご飯の甘みが際立ち、なんともいえない幸福感に包まれていく。
 ううん、生きてるって感じ。
 焼肉最高。

「あ、ところでさ」

 雑談もそこそこにデザートのアイスまでぺろりと平らげ食後の煎茶で一息ついていたとき、桜花がふと顔を上げた。
 食後だからか少し眠そうだ。
 かくいう自分も、この後の業務のことを考えると溜息が漏れる。
 ああ、このまま帰りたい……。

「いつ部長に告白するの?」

 突然の爆弾投下に啜っていた煎茶を吹き出す。
 飲み下しかけていた煎茶は急に進路を変えて気管に飛び込んでいった。
 激しく咽る自分を尻目に、桜花は呆れたように小さく息を吐いて目を細める。

「まことから部長が好きだって聞いてからもう二年近く経つよ? いつまでウジウジしてるの」
「う、……だ、だって……」
「もう。まこと、いつも”でもでもだって”しか言わないじゃない。部長みたいなタイプは言わないと気付いてくれないよ? あの人、鈍そうだもの。まことのこと、きっと可愛い後輩ぐらいにしか思ってないよ」
「それは、そうなんだけど。でもまだ自信が……」
「いつもそればっかり。言っとくけど、まこと、レベル高い方なんだからね! 顔可愛いし華奢だし。でも歩くときも座るときも猫背気味だからそれは直した方がいいと思う」

 からん、と解けた氷がグラスの中で崩れた。
 薄い烏龍茶が少しだけ残ったそこには弱々しい自分の姿が映っている。

「兎に角、あの手のタイプはガンガン攻めてこそよ! ってことで、どうせこのままじゃ進展なんてしないだろうから、部長と飲み会セッティングしといてあげたからねっ♪」
「…………え?」

 いつもと変わらない可愛らしくて懐っこい笑みを浮かべる彼女が、今回ばかりは悪魔のように見えた。


◇ ◆ ◇ ◆


 営業部部長、朝桐伊墨。
 齢四十後半。
 柴種の獣人である彼からはいつもコーヒーとタバコの匂いがする。
 物腰が柔らかく、穏やかで落ち着いた大人な姿勢に十年来の顧客も少なくはない。
 それでいて時折、営業事務担当である自分や桜花に営業先で買ったお土産を差し入れしてくれたり労いの言葉をかけてくれたりといった姿勢から彼に憧れるようになるのに時間はそうかからなかった。
 というか今思えば、配属されて初めて挨拶をしたときの彼のくしゃっとした笑顔にもう惚れていたような気さえする。

「戻りましたー」

 元気に片手を上げて営業部オフィスに飛び込んだ桜花に続いて、入り口で頭を下げてから自分の席に腰を下ろす。
 座りなれたオフィスチェアから伝わってくる優しい揺れが、甘たるく睡魔を誘った。
 ストレッチも兼ねて体を伸ばし眠気に退場を願うが、逆効果だったらしい。
 あー、ぼんやりしてきた。
 やばい。
 パソコンのモニターの向こう側で桜花が大きく口を開けて欠伸をしているのにつられて自分も小さく欠伸を零した。

「眠そうなところ申し訳ないけれど、急ぎの案件をお願いしてもいいかな?」

 視界の端から優しい声が滑り込んできて肩が跳ねる。
 心臓が口から飛び出てしまうかと思った。
 振り返ると優しく見下ろしてくる円らな瞳と視線がかち合う。

「あ、す、すみません……」
「はは。大丈夫だよ。この時間は眠くなってしまうよな。私もこの後の会議で寝ないか不安だよ」

 部長はからからと笑いながら、よいしょ、とこちらに視線を合わせてしゃがみ込んだ。
 ふわりとタバコとコーヒーの香りがする。
 次いで、あまり飾り気のない石鹸の匂いも。

「それで急ぎの案件なんだけれど、共有フォルダに入れてあるのを開いてもらえるかい? 今日付けのフォルダ」
「はい。えっと、……これですか?」
「そうそう。一緒に資料を入れてるから、過去十年分のデータをグラフ化しておいてほしいんだ。今日十七時に約束してるクライアントから急な要望変更があってね……十六時半までにお願いできるかな? 今日の他の業務はアポにまだ期間があるものばかりだから月曜日以降でも大丈夫だし」
「わかりました。このくらいなら間に合うと思います」
「本当かい? ありがとう、頼むよ」

 安心したように小さく息を吐いた彼は姿勢を戻す。
 ぽき、と膝から音が聞こえた。
 運動不足かな。

「急な変更だったからさ。すまないね、手間をかけて」
「いえ。大丈夫です。すぐやりますね」

 どうせもう週末だし、あと数時間仕事に真剣に打ち込むくらいなんてことない。
 それに部長に声をかけられたことで眠気も吹き飛んだし、想い人から直々にお願いを受けたとあっては頑張らない他もないだろう。
 よし、と資料を開いたところで背中にぽんと軽い衝撃を感じた。
 柔らかい感触と人間より少し高めの体温がじんわりと染み込んでくる。

「それじゃ、よろしく頼むよ」

 どうやら背を軽く叩かれたらしい。
 恐らく彼としては部下を激励するためのなんてことのないアクションだったのだろうけれど、こっちは正直突然の触れ合いに気が気でなかった。
 彼の手が触れた背中がじゅくじゅくと熱を持つような感覚に思わず縮こまる。
 ふと視線を感じて顔をあげると向かいのデスクに座っている桜花がにやにやと楽しそうな笑みを浮かべているのが見えた。
 いけない、仕事に集中しないと。
 感情を振り払うように首を振り、デスク脇に置いていた飲み物を飲んでクールダウンしてから改めて画面に視線を戻す。
 しかし急な要望変更とは、随分と迷惑な話だ。
 これが週末じゃなければ内心はイライラしていたに違いない、なんて思考を切り替えながら資料と睨めっこしていると、オフィスを離れようとした部長がふいに振り向いた。

「おっと、そうだ。東くん、一之瀬くん。今日の夜だけど、私は営業先から直接向かうから駅で待ち合わせにしないか?」

 今日の夜?
 首を傾げていると、桜花が花の咲くような笑顔を浮かべて元気よく立ち上がった。

「はーい! 了解です!」

 なんだなんだ。
 自分のあずかり知らぬところで一体何の約束がされているというんだ。
 ぽかんとしている間に彼は名前が書かれたマグネットを”会議”の欄に移動させ、何やら色々資料を抱えて営業部オフィスを出ていった。
 今は他の営業の人もご飯だったり営業だったりに出ていて不在。
 自分と桜花の二人だけが残されたオフィス内はがらんとしていて、静寂が頬を撫でる。

「えっと……桜花?」
「んー?」
「今日の夜って」
「言ったじゃん、飲み会セッティングしといたって」
「いや、言ってたけど……まさか今日なの?!」
「今日だよ? あ、ちなみに、あたし今日仕事終わりそうになくて残業の予定だから二人で行ってきてね!」

 …………んん?!


◇ ◆ ◇ ◆


 急展開だ。
 予想だにしていない急展開だ。
 まさか何の心構えもないままいきなり部長と二人きりだなんて。
 桜花のお節介には今まで何度も助けられてきたけれど……今回のは有難いようなそうでもないような……。

「まこと、ファイトー!」

 とかなんとか言いながら急ぎでない資料をのんびり作りつつお菓子をつまんでいる桜花をオフィスに残し、恐る恐るいつもの帰り道とは逆方向の電車に乗った。
 仕事終わりのサラリーマンで賑わう車内がガタゴトと揺れるたびに心臓の鼓動が大きくなっていく。
 待ち合わせの駅に近付くにつれて現実味が増していき、同時に不安が背筋を駆けた。
 少しでも気を紛らわせようとイヤホンで音楽を聞いているとそれに紛れてチャットアプリの通知音が鳴る。
 ふとスマホを見ると、通知欄には桜花の名前が表示されていた。

{ やっほー! 守備はどう? )

 可愛らしいスタンプと一緒に送られてきた一文に思わず笑みが溢れる。

{ まだ電車だよ )
{ ありゃ? まだそんな時間? )
{ 桜花、仕事終わったの? )
{ うん。今会社出たとこー )
{ お疲れ様 )
{ ありがとー! まこともお疲れ! )

 本当は今からでも合流してほしかったが、それを伝えるのは留まった。
 今からでも、まで入力したメッセージを消し、代わりに普段使っている”お疲れ様”のスタンプを送る。
 彼女はきっと呼べば来てくれるだろうけれど……今それをしてしまったら自分が抱えている想いは心の内で燻ったままになるだろう。
 多少荒治療でも、折角彼女が機会を用意してくれたんだ。
 彼と少しでも距離を縮められるよう、あがいてみることにする。

{ じゃあ頑張ってねー! 月曜日、成果聞かせてね )

 ハート形のスタンプが送られてきたのを最後に、彼女からのメッセージは途絶える。
 小さく息を吐いた次の瞬間、次の停車駅のアナウンスが流れた。
 部長との、待ち合わせの駅だ。
 慌てて持っていた鞄を抱え直してドアの近くに寄る。
 つい先程まで窓の外にはビルが立ち並ぶ無骨なオフィス街が広がっていたのに、気がつけばオフィス街は賑わいのある夜の街並みにお色直しをしていた。
 煌々と輝くネオンが眩しい。
 あまり縁のない華やかな景色に見惚れていると、これからそんな場所に飛び込もうとしているとは思えないほど不安げな顔をしている自分と窓ガラス越しに目が合った。
 あがいてみるとは言ったものの、実際彼と何を話せばいいんだろう。
 ただでさえ普段は仕事でしか交流がないのに。
 どうしよう、大丈夫かな……。
 不安で押しつぶされそうになっていると、再び手に握ったままのスマホが震えた。
 画面に映し出されたのはメッセージアプリの通知。
 その送り主は……、

「ぶ、部長……?!」

 思わず出てしまった声に、はっとして口を塞ぐ。
 視線が気になってふいに顔を上げるとぽかんとした顔をしたサラリーマンと目が合い、慌てて目を逸らした。
 今にも口から出ていってしまいそうなほど暴れている心臓を宥めつつスマホの画面と向き合う。
 配属時、緊急連絡用にと登録した部長のアカウント……基本的に仕事関係は社内メールあるいは社内電話で連絡をくれていたからトーク画面は真っ白だった。
 ……つい数秒前までは。

{ すみません。商談が長引いて、少し遅れます )

 恐る恐る開いた真っ白なトーク画面に浮かんだメッセージに拍子抜けする。
 なんで敬語なんだろう。

{ わかりました。僕はもう着くので、駅で待っていますね )
{ 了解。どこか入っていていいよ )

 目の前で電車のドアが開く。
 人の波に少しだけびくびくしながら改札を抜けた。
 流石、華の金曜日。
 繁華街の最寄り駅だということもあり人通りが多い。
 とりあえず邪魔にならないよう脇に避けたが、さてどうしたものか……。
 部長の言う通りどこかに入っていたほうがいいのかな、なんて思いながらとりあえず駅を出てすぐのところに設置されている少し高めの花壇の淵に腰を下ろした。
 土と葉との青臭さに交じって花の蜜の優しい匂いがする。

「日没の時間も遅くなってきたなあ……」

 時刻は十九時半。
 紺色と橙色とのグラデーションを背景に、喧騒がネオンの海を漂っている様子をただぼうっと見つめる。
 仕事終わりに繁華街なんて、まだ新人の頃に参加した歓迎会以来かもしれない。
 桜花と遊ぶ時は、仕事終わりは基本的に職場付近だし、休みの日にもショッピングセンターやお店とかが多い方に行くし。
 アフターファイブを数時間過ぎた今の時間帯、どうやら既に一次会を終えた人たちも少なくないようで時折前を通り過ぎる騒がしい集団からアルコールの匂いが漂ってくる。
 ここにいると空気だけで酔えてしまいそうで、あまりお酒を飲まない自分には少し場違い感があるけれど足音や笑い声が入り混じったちょっとだけ下品な雑音はすごく心地いい。
 聞き入るように少しだけ目を伏せたその時、ネオンの光を遮って視界に大きな影が落ちてきた。
 肩で息をするその影は、頬を伝う汗をぐいと拭う。

「一之瀬くん! すまない、待たせたね」

 ジャケットを鞄と一緒に脇に抱えた彼、もとい部長は少しだけ煩わしそうにネクタイを緩めた。
 妙に艶めかしいその様子に心臓が跳ねる。
 と同時に、行儀よく締められていた襟元から零れ落ちるようにふわふわの毛が飛び出したのが見えた。
 うわ……あそこ、顔埋めたい。
 大人らしさが滲み出る姿に見蕩れてぽかんとしているとネクタイを緩めた手がそのままゆっくりと近づいてきた。
 すり、と彼の手の甲が頬を滑る。
 少しだけ固めのしっかりした毛質が柴種の特徴だと聞いたことがあるけれど……全然違うじゃん。
 ふわっふわで触り心地最高。
 おばあちゃんの家に敷いてあるちょっと高い絨毯みたい。
 わー、気持ちいいー。
 ………えーっと。
 今、これ何されてるの?
 どういう状況?

「こんなに冷たくなって。どこかに入っていてと言ったのに」

 予想外の出来事にフリーズしている自分を置いてけぼりにして、彼の体温はゆっくりと離れていった。
 触れていた温度に名残惜しさを感じていると、部長は耳をぴくぴくと動かしながら周囲を見渡す。

「あれ? 東くんは?」
「ああ、えっと。どうやら残業になっちゃったらしくて」
「? そうなのか。珍しいな、東くんが残業だなんて」
「そうですね……あはは」
「まあでもそういうことなら仕方ないな。じゃあ今日は二人で飲もうか」
「は、はいっ」

 良かった。
 今日は解散にしようとか言われなくて。
 部長の性格からしてそんなことをいう人ではないとは分かっているんだけれど、そこはまあ恋する故の弊害ともいえるもの。
 相手を信じたいと思う反面もし相手にこんなことを言われたら、されたらどうしようと考えてしまうのは正常な思考回路だろう。
 多分。

「それで、どこに行こうか」
「……へ?」
「東くんに誘われただけでどこに行くのかとかは何も聞いていないんだ。一之瀬くんは何か聞いているかい?」
「僕も何も聞いてませんね……いつも二人で飲む時も行き当たりばったりなので」
「そうなのか。若いのになかなかチャレンジャーだね」

 部長と二人で並んで繁華街を歩く。
 時折すれ違うカップルや仲睦まじそうな夫婦を見ると今の自分たちはどう見えているんだろう、なんて思ってしまう。

「君たちのいつも通りに従って適当にどこかに飛び込んでもいいけれど、今日は金曜日だからね。目につくところはどこも混んでそうだし、私の行きつけでもいいかい? 君のような若い子を連れていけるようなお洒落な店ではないんだけれど……」
「そ、そんなっ、全然大丈夫です! それに部長の行きつけのお店、行ってみたい、です」

 後半は声が徐々に小さくなってしまったけれど、気持ちはきちんと届いてくれたみたいで、彼は嬉しそうに頬を緩めた。

「じゃあ、行こうか」

 先を歩き出した部長の広い背中を追いかけていくと、景色は煌びやかな大通りから徐々に提灯や小さな看板が立ち並ぶ静かな裏道に変わっていく。
 十数分ほど歩いた頃だろうか、部長が指したのは赤提灯と青い暖簾を引っさげた木造の建物。
 店名すら書かれていない質素な店構え……と思ったら、足元にある電飾スタンド看板に”だるま”と書かれているのを見つけた。
 なるほど確かに、桜花とは絶対に入らないタイプの店だ。
 ガラス張りのドアの向こうから煌々とした明かりと野太い笑い声が漏れている。
 こちらが尻込みしていることに気付いたのか、視界の端にひょいと部長の顔が滑り込んできた。
 不安げに眉が垂れている。

「やっぱり店、変えようか?」
「い、いえっ! 大丈夫です!」

 飛び込むにはなかなか勇気のいる店構えだけど隣に部長がいるだけで大分心強い。
 少しだけ申し訳なさそうな部長に続いて恐る恐るお店に足を踏み入れた。
 途端、ぶわりとタバコの匂いがして、次いで母親を彷彿とさせるような、優しい声色の”いらっしゃいませ”が耳を撫でる。
 カウンターの向こう、静かに佇んでいるのは割烹着に身を包んだ綺麗な人間の女性。
 奥にあったボックス席に部長が腰を下ろしたのに倣って、自分も正面に腰を下ろすとタイミングよく水の入ったグラスとおしぼりが目の前に置かれた。

「なんにします?」

 差し出されたおしぼりは温かくて、思わずほう、と息を吐く。

「うーん、そうだな。じゃあとりあえず瓶ビールと……一之瀬くんは?」
「あ、ええと」

 慌ててメニューを手に取って開く。
 お酒のページは……あった、最後だ。
 うーんと、ビール、日本酒、焼酎、ハイボール、ワイン……。
 えっとカクテルは……もしかして、ない……?
 どうしよう困った。
 カクテルしか飲めないのだけど。

「メニューにないものでも仰って下されば作れますよ」

 メニューと睨めっこして困っていたこちらを察してか、女将さんがそう声を掛けてくれた。

「ほ、本当ですか? じゃあえっと、カシスオレンジ……とか、できますか?」
「はい。大丈夫です」

 にこにこしながら頷いてくれた彼女にお礼を伝えつつ、ほっと息を吐く。

「すぐお出ししますから、ちょっと待っててくださいね」

 優雅に頭を下げてカウンターに戻っていった彼女を見送っていると部長と不意に目が合った。
 彼の真っ黒い瞳に店内の暖色の照明が反射して、きらきらと光っている。
 綺麗だなあ、なんて見惚れていたら彼は不思議そうに首を傾げた。

「どうかしたかい?」
「い、いえ! なんでもないです!」

 すると彼は小さく困ったように笑う。

「そんなに片肘張らなくていいんだよ。ここは会社の外なんだから。……といっても、上司と二人きりの飲みで緊張するなという方が難しいか」
「そ、そんなことは……!」

 あなたが好きだから緊張しているんです、なんて到底言えるはずもないけれど、かといって上手い言い訳も思いつかない。
 なんと言うのが正解なのかはわからない。
 でも……。

「僕、今日、部長とこうして飲みに来られて、すごく嬉しいんです。……ガチガチで、そうは見えないかもしれないけど、でも、これは嘘偽りない僕の本心です……っ!」

 思わず身を乗り出しながらそう告げる。
 すると彼は少し目を見開き、ぽかんとした表情を浮かべた。
 ……しまった、勢いに乗ってやりすぎた。
 こんな言い方じゃまるで……。

「はは、それは嬉しいな」
「え?」

 予想だにしていなかった返答に思わず固まっていると彼は頬を掻きながら笑う。

「いやあ、ほら、私は見ての通りおじさんだろう? 流行もよくわからないし、若い子たちから煙たがられていないかなといつも心配だったんだよ」

 ああ、そういうことか……。
 ちょっと……いや、結構期待してしまった。
 やはり彼から見て自分はただの部下なんだなということを悲しくも再確認しつつ、とりあえずそれなりに気をかけたい部下としての地位は確立していることに安堵する。

「そういえば、飲み物以外何も頼んでいなかったね。何か食べたいものはあるかい? 好きなのを頼むといい」
 
 そう言われ、手に持ったままだったメニューに視線を落とす。
 年季の入った色褪せた紙面には昔ながらのスピンが垂れ下がっていて、後から少しずつ増えたのか手書きのメニューが数枚挟まっていた。
 えっとお刺身、てんぷら、串、……わ、グラタン?
 それにオムレツまで。
 どうやら和食に限らず、洋食、中華も取り扱っているようだ。
 居酒屋というよりは家庭料理って感じらしい。
 あの女将さんが作るグラタンは間違いなく美味しいだろうなんて考えながら、腹の虫と相談する。
 悩んだ結果、枝豆に卵焼き、お刺身といった当たり障りのないラインナップになってしまったけれど、まあいいか。

「そういえば、今日はどうして誘ってくれたんだい?」

 女将さんの出してくれた料理に舌鼓を打っているとふと気がついたように部長が零した。
 どうしてと言われてもなあ……。

「僕も桜花から誘われただけなので、なんとも……」
「そうなのか。突然誘われたときはびっくりしたけれど、交流を図ろうとしてくれるのはとても嬉しいよ。今度は是非東くんも一緒に行きたいな」
「そ、そうですね……」

 多分、桜花が一緒に来ることは滅多なことがない限りないだろうなあと思いつつ、カクテルを口に含む。
 そもそもお酒に強くないということもあって普段はあまり飲まないのだけれど女将さんが作ってくれる料理もどれも美味しくて自然とお酒が進んでしまい、数十分も経つ頃には体がぽかぽかと火照ってしまっていた。
 意識がぼんやりとして、珍しく随分酔ってるなー、なんて呑気に考えていると不安そうな部長の顔が飛び込んでくる。

「一之瀬くん、顔が赤いけれど大丈夫かい?」
「うーん……へへ、ちょっと酔ってます。いつもはこんなに飲まないから」

 部長との飲み会は最初こそ緊張していたけれど、美味しいお酒とご飯とに背中を押されるように意外と話は弾んだ。
 部長が聞き上手なのもあって随分と自分ばかり話をしてしまったような気もするけれど。

「あまり無理してはいけないよ。酒は呑んでも飲まれるな、だからね」
「ふふ、わかってます」

 彼のおじさんくささに思わず笑みが零れる。
 こんなに格好良くて、スマートで、年齢を感じさせないのにやっぱり言動には年相応な感じが出るんだ。
 まあ、そこも含めて彼のことが好きなんだけれど……。

「部長」
「ん? どうしたんだい?」
「部長って、お付き合いしている方とかいないんですか?」

 はっきりとしない意識の中で、正面に座る彼が困ったように笑ったのだけがわかった。
 いつもは自信ありげにぴんと立ったままの耳が少しだけ傾いている。

「はは。恋人なんてもう暫くいないよ。それに、もう、諦めている」
「……え?」
「私もいい年だしね。これから誰かとどうこう、っていうのは考えていない」

 ぐい、と御猪口を煽った彼。
 困らせてしまっただろうか……前後の話に全然絡んでなかったし、きっと不躾だっただろう。
 でも……。

「そ、そうなんですか。でも、部長すごく素敵ですし……ほら、告白とか、されないんですか?」

 止められなかった。
 お酒の力を借りた今しか無いと、ここを逃したらもう彼に近付くことはできないかもしれないと、なんとなくそう思ってしまった。
 恐る恐る発した言葉に、彼は数秒の沈黙。
 やはり失礼だっただろうか。
 何か気に障っただろうか。
 このお店に入ってから初めて訪れた静寂に思わず青くなり、訂正をしようと口を開いた瞬間、目の前に座った彼の口が先に開いた。

「告白かあ。そんなの、いつが最後だろう。学生の時とかだろうなあ。もう三十年も前の話だ」

 大口を開けて笑う彼。
 きらりと鋭い牙がお店の暖色の照明を浴びて光った。
 少しだけ目を細めた彼は徳利を覗き込み、最後の一杯を御猪口に注ぎ込んで軽い音のするそれをテーブルに置く。

「私のことは兎も角、一之瀬くんはどうなんだい? まだ若いんだから、浮ついた話の一つや二つあるだろう?」

 ぐい、と一息で御猪口を空にした彼はカウンターの向こうで何やら調理をしていた女将さんに熱燗を注文した。
 それにしてもすごい飲みっぷりだ。
 もう清酒を何杯も飲み干しているというのに表情一つ変わらない。

「……ああ、最近はこういうのもセクハラになってしまうんだったかな。すまない、忘れてくれ」
「い、いえ、その、大丈夫です」

 女将さんがテーブル脇にやってきて、目の前に湯気の上る徳利が置かれる。
 途端、気化したアルコールの匂いが鼻先を突き上げて、脳裏がぐらりと揺れた。

「好きな人は、います。……でも、多分相手は僕の気持ちには気付いていなくって。いつも僕が勝手に見てるだけなんです」

 酔いのせいか、いつもは喉の奥に押し込める弱音が、ぽろぽろと零れ落ちる。

「僕、鈍くさくて頼りがいもないし……仮に、こんな僕に告白なんてされても、きっと相手は、迷惑だろうって」

 湯飲みに入った柔らかい千草色の水面ごしに今にも泣きだしてしまいそうになっている自分と目が合った。
 その顔には今吐き出した弱音を否定してほしいとありありと書いている。

「そんなことはないさ」

 彼の声にはっとして顔を上げる。
 言わせてしまった。
 彼にこんな面倒くさいことを言ってしまって、しかもそれを慰めさせてしまった。
 上司という立場上、”そんなことはない”という返答以外の選択肢は殆どないに等しいだろう。
 当たり障りのない、社交辞令。
 慌てて茶化そうとしたが、見上げた先にあった彼の顔は真剣そのもので、思わず言葉を呑む。

「君はよく周りを見ている。フォローも上手だ。相手を思いやるが故に自分の気持ちを飲み込んでしまうのが玉に瑕だが、君はとても優秀な人だよ。迷惑だなんて思うはずないさ」
「……そう、でしょうか」
「ああ。君の直属の上司である私が言うんだ。間違いない。だから自信を持ちなさい。ね?」

 にこり、と細められた彼の目は相変わらずきらきらと輝いていて。
 思わず真っ赤になった顔を見られない様に下を向く。
 やっぱり僕は、この人のことが好きだ。


◇ ◆ ◇ ◆


 お店を出ると冷たい風が頬を撫でた。
 火照った頬から少しずつ体温が攫われていって、それに引きずられるように酔いも少しずつ抜けていく。
 ふと横に視線を移すと、部長が大きく伸びをしているのが見えた。

「すみません。奢ってもらっちゃって……次は僕が」
「いいんだ。私は上司だからね。部下は黙って奢られていなさい」

 力強く微笑む部長の口元から八重歯が覗く。
 思わず心臓がきゅんと縮んだ。
 ほんの少し残ったアルコールのせいでふわついた視界の中、彼の顔だけがくっきりと見える。
 優しく皴を刻んだ目元、タバコの匂いが染みついたシャツ、時折ぴくぴくと動くふわふわの耳に少しだけ乾燥した肉球。
 そのすべてが。

「好きです……」
「……え?」

 ………………え。
 首を傾げる彼とぱっちりと目が合う。
 もしかして今、声に出てた?
 その瞬間に酔いは少しも残らず吹き飛び、街征く人の足音も喧噪も、周囲の視線も、くっきりと意識の中に滑り込んできた。

「あっ、えっと……! その、こういう、お酒飲んだ後の風って、好きだなあって……! あ、あはは……!」

 ビルの隙間から零れ落ちている星の少ない夜空を指しながら彼の顔を恐る恐る盗み見ると、指した方に視線を向けて納得したように、ああ、と呟く。

「わかるよ。ひんやりして気持ちいいよね」
「そ、そうですよねー!」

 誤魔化せた、かな……?
 できればもう少し一緒に居たかったけれど勿論そんな可愛らしいおねだりなんてできるわけもなく、今日のところはそのまま解散。
 遠くなっていくネオン街がなんだか恋しい。
 たった数時間居ただけなのだけれど。
 なんとか家に帰りつき上着を脱いでそのままベッドに飛び込む。
 自分の家ってこんな匂いだったっけ、なんて思いながら大きく息を吸い込むとどこからかタバコの匂いがする。
 シャツだろうか、それとも上着?
 微睡んでいく視界に慌てて体を起こし、シャツを脱いだ。
 寝巻に着替えて改めてベッドに飛び込み直す。
 本当はシャワーでも入りたかったけれど残念ながら意識が持ちそうにない。
 それに、もう少しだけ彼と同じ匂いを纏っていたいと思うことぐらい、きっと許されるだろう。
 ほんの数時間、正面に座っていた想い人の色んな表情を思い出しながら、そっと目を閉じた。


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